月末の支払いで取引先を数件まわる。
午後3時過ぎ。
腹が減るが飲食店は中休みの時間帯。
こういう時の、下の橋「やまや」。
いや、こういう時でなくても、毎日でも通いたい蕎麦屋だ。
今日のテーマは車中、決めていた。
「冷やがけ」。
これを「更級」一本で行こうと決めていた。
何が一本かというと、「大盛り」は二色、「徳盛り」(だったかな)は三色までいいよってことになっている。
「やまや」は「挽きぐるみ」「更級」「ダッタン」の三種のそばがあり、だから「徳盛り」なら三種盛りもOKで、いつもは「もり」の三色を頼む。
今日は厳しく更級で攻めようと決めていたから、その大きな盆様の皿に盛りつけられた三食分の細い更級が現れた時、心の中で「やったー」と叫んだわけです。
まあ、ここまではいい。
店内は妙齢のご婦人、常連さんらしき婦人があとから一人で、窓際には高齢のご婦人が二名。
男はこう喰うんだいと見せたがる心も少しあって、まあ、食い意地本性が張ってというのが本当のところなのだが、がばがばっと「蕎麦を呑んで」いった。
最初はそのままなにもいれず、そして三分の一ほど(一食分だな)進んだところで付いてきたたくさんのネギと天かすをがばりと入れた。
この「がばり」が男の醍醐味と微笑んだのが、後々の失敗、いや失態の元だった。
しばらく食べ進んだ時、あれっ、あやっ、ホニャララっ、ほがほがっ・・・・・
口腔に、蕎麦の一杯詰まったおちょぼ口の中に大きな異変が・・・・・
嗚呼、口腔から鼻に・・・、いや鼻だけでは抜ききれない香り、いや凶暴な刺激が・・・
さっきのたくさんのネギと天かすの中にワサビの固まりが潜んでいたのである・・・・・
フガッ
ゴボゴボッ
セルフだから水はない・・・
くしゅん・・・
鼻の穴を目一杯開けて、くしゃみをこらえて息をするが、蕎麦は呑み込めず口腔内にあるから、無理だ。
たくさんのご婦人の中で失態は見せれないと心に決めるが、その奇妙な格好で喉をうならせるたいそう恰幅のおよろしい男性に、たぶん皆さん注視していただろう。
しかし、そこは中年婦人。
見て見ぬふりという大人の技が可能で、厨房の姉さん達もあららと思いながら、以外に見慣れた風景なのか。
地獄の数分、いや時間にすればほんの一分に見たぬかも知れないが、なんとか切り抜け、何もなかったかのようにまた蕎麦をずるると吸ったのだが・・・・・
そう辺りを気にしながら。
その日の「やまや」のボクは、いつもらしくなく、蕎麦湯もおかわりせず、さっと店をでた。
シャツは、残暑の暑さではなく、あの時のワサビの辛さにもだえた汗と、ご婦人方に見守られた、いや蔑視されただろう冷汗が、ぐったりと肌を濡らしていた。
想い出すのは、バブルの頃。
あるスパイスメーカーの東京本部につとめていたころ。
普段は事務所のある日本橋付近で老舗の蕎麦屋や天ぷら屋などでランチグルメを楽しんでいたが、クリスマスのこの日は「ウワサ」を聞きつけ、珍しく社員食堂に。
いつもは暇な社員食堂が、クリスマスのランチにローストビーフがメインで出ると聴いた社員で混み合っていて、なんとワタシは秘書室のご令嬢二人と相席。
ナイフとフォークなんかつきやがって、にこやかに話しかけてくるお二人と緊張して食事していたのだが、その時・・・・・
そう、「やまや」状態!!
口の中に刺激的な辛さが充満し、我慢しきれない。
咳は出るは、むせるは、涙も出て、そりゃごまかせるもんではない。
秘書お二人も最初はにこやかに見ていたが、やっぱりこのひと、ウワサどおり変なおじさんなんだと、冷やかな目に。
嗚呼、ホースラディッシュ。
馬の大根だ。
西洋ワサビともいうらしい。
日本のメーカーはカナダなどから原料を仕入れるが、北海道では栽培されていて、かの大地ではおおいに愛用されているという、そのホースラディッシュが固まりで襲ってきたのだったのよ。
というような、辛い(つらい)、いや辛い(からい)記憶。
ねっ、ねっ、きっとアンタにもあるよね!!