ホルモン屋徒然草~珍しホルブロだ

新米ホルモン屋の親爺の日々。ホルモンのこと、店の出来事、周辺の自然や話題。

絶対と相対の狭間で

2009-03-21 10:58:45 | 第1紀 生きる
昨日、少し肌が良くなった話を書いた。
アトピー患者にとって年中、状態が変わる肌が少しでも良くなるのはありがたい事だ。
直ったわけではない。
いつかまた少し、あるいはひどくなる時がやってくるのは長い経験でわかる。
だからこそ、ほんの少しだけでも小康状態が続いてほしいと願うのは誰しもかな。

しかしながら昨夜、「ありがたいことに」ワタシのこのとりとめもないブログの愛読者の一人である相方に言わせれば、「あんた、肌が良くなったと書いてあるけど、全然だめじゃない。」ときた。

まあ、その通り。
常に身体のどこかにぶつぶつだったり、ガサガサだったりする箇所はある。
あなたのような健常者からみれば確かにワタシは肌の悪い人なのだ。

でもよ彼女(相方サン)。
ワタシはワタシという杓子で、ちょっと前よりという時間軸をたてて、「相対的」に少し前より良くなったといって喜んでいるのだ。
貴女の言っているのは一般的な人間の状態を基準として、「絶対的」には肌の悪い人だと言っているのだよ。

相対的なニュアンスで話をしているのに対し、さもありなん常識ぶって、あるいは正義感ぶって絶対的な、あるいは常識人を装った杓子で話を返す方が多いが、それはちょいと違うのではないだろうか。

「ああ、日差しがあったかくなってきたね」と話しかけたのに対し、
「なに言ってんのよ。まだ気温は5℃よ。山には雪が残っているし、海で泳げるわけじゃない。」
なんて言うのはおかしいわけで、春の兆しを感じて暖かくなってきたというのに対し、数値で図る気温という杓子で話を返すのでは、やはり会話が成り立たないのである。

会話が成り立たないというのは、相対する人間関係が成り立たないということなので、このどちらかというと意地悪的な反論はお止めになった方がよろしい。
どうもこのような話の違いには、前述した「ワタシの方が当たり前」的に自分を正当化できるような数字とか歴史とか正義感とかいうのが混ざったりするので要注意である。
余計な正義感なんかで話を折るのが得意な方もあちらこちらや、新聞やテレビや巷なんかに多いと思うし、まあこんな人には関わらない方がいいと思ってまわりも逃げるからすぐおちょうしに乗る。
かくいうワタシもその気がおおいにあるのである。

少し話はそれたが、あんなそんなを感じる今日この頃である。

相手と杓子を揃えて話すことの難しさは、年をとっても、いや歳を重ねる毎に感じることなのかもしれない。

そして、その事を感じながらできない「損」をしているワタシのような方も、多いのだろうか。