「純粋直覚」についての簡単な「覚え書き」
~あたらしい道学への歩みへの一歩として、
2024年11月
「純粋直覚」というわたしなりの用語法、概念枠は、
おもに中国の宋明道学に強く刺激されて生まれたものだ。
「みちのまなびの変遷史」のようなものを考えながら学んでいて、
以前、「朱子学と陽明学」を読んだ。
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「朱子学と陽明学」
島田虔次、著
岩波新書、1967年
定価、本体780円+税、
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わたしの「純粋直覚」は、
ベルクソンのいう「直観」や「形而上学」、また「純粋経験」と、
ことばとしてよく似ていて、いったいどういう関係があるのかと思う人もいると思う。
原語ではどうなっているのか、わたしにはわからなくて、
また、コンテキストや生まれた背景がまったく違っていると思う。
結果として、「ベルクソン哲学」や、また「西田哲学」とわたしの「純粋直覚」がどういう関係を持つか、
わたしもたしかに強く興味があるが、
これをいちいち検討する能力はいま、わたしにはない。
そうなると、まずはわたしなりの「コンテキスト」や「由来」というものをはっきり明確にさせた方がおそらく建設的だろう。
「純粋直覚」は、わたしとしては、かなり思い入れがある「概念装置」で
ここにちょっとしたメモをしておきたい。
「朱子学入門」を読み、
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「朱子学入門」
垣内景子、著
ミネルヴァ書房、2015年
2,500円+税
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ここに書いてある、
「世界はひとつのジグゾーパズル」という用語に強い照明を受けた。
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わたしが「純粋直覚」と呼ぶもの
わたしはわかりやすくするために、「學禪」とか「理心」
という言葉をここに添えることが多いが、
これは、東洋道学の潮流に強く影響を受けた概念であり
わたしなりに「道学」「みち」を理解し、また稽古、修得してゆくための「方法論」としての概念構成となっている。
わたしは中国の「北宋道学」や「朱子学」、「禅」や、またわが国の本居宣長の「国学」への「みち」の学問史、
いわば道学の「変遷史」、「変貌史」は、
ある「形而上」のものを具体的な意味で我がものとしてゆく稽古や学の世界の系譜だと
いまのところ考えている。
そして、微力ながらわたしもこれを受け継いでいる。
ある「原理」、ないしは「みち」をさとるための「アプローチ」として、
その「原理」は道学では「理」と呼ばれているが、
おおよそ、「心即理」と「性即理」の二大潮流がある。
そのひとつ目の、
程明道の系統「陸王学」は「心即理」と呼ばれ、
感覚、体験、実感、直観、を通して真実や理想を追求する方法論であり、
大きく考えて禅の方法論もこれに属すると言ってよい。
わたしは坐禅はきちんとしたことがないが、それは一種の「稽古体験」ではないかと思う。
また程伊川の系統「程朱学」は、「性即理」の方法論で、
いわゆる「分析的、論理的、学問的」なアプローチ、
「居敬」と「格物窮理」を方法として用いていて、
具体的には
「読書」と「考察」、「分析」が要求されている。
○
この「心即理」の方法論と「性即理」の方法論は
相補的なもの、「相補的方法論」であり、
禅の修行においても、厳密には
「性即理」の方法と「心即理」の方法が両方ともあるようである。
そしてこれらふたつの稽古法、脩養法は、
さきほど述べた「世界はひとつのジグゾーパズル」という言葉に象徴されるように、
「みち」を悟る、つまりいわば「ジグゾーパズルを完成させる」ための方法論として
絡み合い、混ざりあって、相互補完、相互補足的な存在となっている。
そして、この「みちを学ぶ」ことには「ジグゾーパズル」とははっきり大きく違う部分があり、
それが「終わりなき探求」であるということだ。
さまざまな稽古体験を通じて、
それぞれの人々がさまざまな「度合い」、「深さ」、「水準」において
いろいろなかたちでさまざまに、
それぞれの「みち」を深めて、また窮めてゆく「運動」が「學」であり、また「稽古、脩養」だ。
つまり「小悟」や「気づき」を何度も重ねながら、「経験」を深めてゆくプロセスで、
これはいわゆる「自己実現」と言ってもいいだろう。
本居宣長において、わたしは「紫文要領」を読み、強く刺激を受けたが、
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「紫文要領」
本居宣長、著
子安宣邦、校注、
岩波文庫、2010年、
定価、本体660円+税、
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その「みち」はここでは「もののあはれをしる心」ということとなっていて
人生そのものを知ることの「度合い」となっている。
これはどう考えても「完成」する筋合いではないだろう。
わたしなりの「稽古法体系」において、わたしは、
まず、感覚的な「稽古」を使って「心即理」の感覚的、直観的な方法を行なっている。
直観的にことばや画面を書き出し、その「記録」を通して学んでいる。
いろいろな「気づき」や「展開」を経験している。
「イメージだし」の作業とわたしが呼んでいるものだ。
また、「勉強」を通して「性即理」の分析的な方法を実践していて
こういう散文を考えて書くのも「稽古」の重要な一部分だ。
その2つが相補的になって、「イマジネーション・トレーニング法」の
「稽古法体系」となっている。
「記録」という「方法」はわたしの場合、決定的な重みがあると思う。
具体的なはっきりした「方法論」がないと、深淵な「哲学」もなんの意味もないと考えている。
大まかにいってこのような「方法」の体系が
わたしなりの「純粋直覚」の説明になっていると思う。
わかりづらかっただろうか?
つまり結論として要約すると、
「純粋直覚」とは、わたしなりの稽古法「イマジネーション・トレーニング法」
をべつの言い方で説明しているものと言えるだろう。
そしてその「具体的な方法論体系」を指しているだろう。
( つづく )
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