八咫烏の声

神社の行事、社務などの日記です。

いにしえの岡田神社について

2012年05月04日 15時48分33秒 | 神社豆知識

本日は「みどりの日」。

みどりの日・・・。ちょっと前までは「国民の休日」という名前でしたね。

こんにちはI権禰宜です。


さて。先日、当社はもともと3つの独立した神社(岡田宮・熊手宮・八所宮)であった事をお伝えしましたが、それについて少し深く述べようかと思います。

参考するのは岡田宮の事を誰よりも深く知っている昔々の岡田宮宮司の古記録から。


元禄5年(1692)の当社大宮司・波多野内記直治の書上帳に曰く、



「岡田神社。筑前国遠賀郡宗像郷熊手村岡田里に在り。祭る所の神は3座」


と記されています。3座は岡田神社・熊手神社・八所神社ですね。


さらに岡田神社の祭神は



神日本磐余彦尊(神武天皇)・彦五瀬命・稲飯命・三毛入野命


の4柱となっています。ちなみにこの4柱は御兄弟(神武天皇は概ね末弟とされます)です。

現在ではなぜか神武天皇以外の兄神達は祭神から外されております。


次に熊手神社の祭神は



大国主尊・少彦名命・県神(熊鰐)


の3柱と記してあります。これは以前紹介した通りですね。


元々、岡田神社は現在の一宮神社(山寺地区)のある地にあり・・・

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↑一宮神社に現存する神武天皇縁の磐座。


熊手神社は現在の熊西地区に在ったといいます。

24_417

↑熊手神社跡地に建つ岡田宮旧跡の碑。


直治の父祖である波多野刑部大輔兼政の時代(天正年間)、既に岡田大神・熊手大神の両神は同殿に祀られていたとの事です。理由は「回禄(火災)」という事ですので恐らく兵火に遭ったのでしょう。


直治の書上帳にも



「天文年中豊後の大友入道の為に兵火に罹り、諸殿烏有(焼けて)となり仮殿なり」


とあります。この天文期の兵難後に両社が再建されたかどうかは詳らかではありませんが、当時の岡田・熊手の両社が北部九州という諸大名の争奪地に在った以上、戦火に晒され易く、衰退著しい状況にあったのは想像がつきます。


さて残りの1社である八所神社は、



「八所神社。熊手村黒崎駅家離方に在り。祭る所の神は鎮魂の八神なり


と記されています。


この場所は現在の八幡西区役所の隣にある御手洗公園ということです。

24_414

公園の端にある池に多少の名残がある・・・ようです。今でも神水が湧いています。

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↑大歳宮・諏訪宮旧跡地案内板


慶長8年(1603)八所神社が岡田・熊手の両社と合併し現在の岡田町に遷座した後、ここには先ず諏訪神社が遷座。さらに大正6年(1917)に大歳神社が諏訪神社の隣に遷座されました。


直治の書上帳に曰く、元々大歳宮は貞元地区に。諏訪宮は諏訪山(現在地不詳)に在ったとの事です。

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↑一宮神社(山寺地区)


昭和25年(1950)、大歳・諏訪の両社は岡田神社の跡地に創建された王子宮と合併し、現在の一宮神社という社名になりました。


八所神社の祭神は

鎮魂の八神。即ち・・・



高皇産霊・神皇産霊・玉留産霊・生産霊・足産霊・大宮比売・御気津神・事代主神


の8柱です。


直治の書上帳に曰く



「永禄年中、藤原朝臣元重(麻生元重)公再興し給う」


とありますが、実はこの時の棟札が現存しています。

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↑当時の棟札


現物は博物館に保管していますので赤外線のコピーになりますが・・・

永禄8年(1565)当時の宮司は波多野民部大輔直重(兼重)。天正期の兼政の祖父にあたる人物です。


この岡田・熊手の両社と八所神社が併存している時期は、前者が熊手上社、後者が熊手下社と称されていたようです。


結局この3座の神社は江戸時代初期に黒崎宿が整備されるによって慶長8年(1603)現在地(岡田町)に遷座されます。

Photo

↑黒崎宿図


少し分かり辛いかもしれませんが、こちらの絵図の一番右端あるのが岡田宮。

だいたい江戸時代中頃の黒崎宿の絵です。


岡田宮の歴史・・・結構複雑でしょ?


I権禰宜

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