Ⅱ-⑰ 原理本体論 Ⅱ前編 第1章 創造原理(p 245~253)

2019年04月27日 08時19分55秒 | 原理本体論

https://unification-principle.com/
『UPMC』(統一原理マスタークラブ )← 管理人推薦ブログ
もし今、あなたが人生や人間関係などでお悩みなら、もう一度「統一原理」を一緒に学び、体験してみませんか?

Ⅱ-⑰ 原理本体論 Ⅱ前編 第1章 創造原理(p 245~253)


 原理本体論 Ⅱ.前編

 第1章 創造原理


 6. 創造本然の価値の決定とその価値の基準 ②
               (p 245~253)


 4) 創造本然の知情意と真美善

 人間の心は、「知・情・意」の三つの機能を発揮します。人間の肉身はその心、すなわち「知・情・意」の感応体として、「真・美・善」の価値を行動で現します。

 神様は人間に対して心の主体であられるので、「知・情・意」の主体でもあります。したがって、人間は創造本然の価値実現欲によって、心で神様の「知・情・意」に感応し、それが体で行動を通して創造本然の「真・美・善」の価値として現れるようになります。「知」が先か、「情」が先かについて論議もあり得ますが、本体には「知」と「情」が別々にあるのではありません。「知」の中にも「情」と「意」があり、その中心が「知」です。「情」の中にも「知」と「意」が入っていて、その中心が「情」です。「意」の中にも「知」と「情」が入っていますが、その中心が「意」です。

 このように区分して説明しますが、神様の本体の中には「知・情・意」が、統一体としてすべて一緒に存在します。神様の心の中にある「知・情・意」に感応して、人間の心に「知・情・意」として現れるようになるのです。

 ですから、ある人が「知的」な人ならば、その人は「知的」な要素が中心ですが、その中には「情的」な要素もあり、「意的」な要素もあるのです。ある人は「情」が豊かで、ある人は「知的」なので調べることが好きです。ある人は「意的」なので行動するのが好きですが、「情的」な面では弱気な面を見せたりもします。

 人間は普遍的にそのような面を持っていますが、強いかによって、知的な人、情的な人、意的な人として区分されます。どの中心要素がそのような心が体を通して行動として現れるとき、その価値が「真・美・善」に区分されるのです。

 その中で「知」は 真を追求し、「情」は美を追求し、「意」は 善を追求しますが、その中心は心情です。心情を根源とした「知的」な分野は、真を追求しますが、心情を土台としない「知」は、それ自体が偽りの理論になりかねません。共産主義はその理論が科学的であり、論理的な真理を追求しますが、それは真理ではありません。

 共産主義理論は、革命をするための道具に過ぎません。心情を土台にして真理を追求する理論ではないので、そうなのです。

 神様の心情圏で一体にならない人間は偽りの人間であり、偽りの人間が立てた理論は偽りの理論です。ですから、私たちのあらゆる人生の動機が心情でなければならず、あらゆる創作の動機も心情でなければなりません。

 神様の「知・情・意」が愛によって感応し、私たちの心に現れますが、私たちの心に「知・情・意」が愛を通して感応して、行動として現れるのが「真・美・善」です。それで「真・美・善」に対する価値も存在するようになるのです。


 5) 愛と美、善と悪、義と不義

 「愛と美」、「善と悪」、「義と不義」は、すべてがある価値の評価に対する表現です。人々はよく「これは愛だ」「これは美だ」と、「愛」と「美」を別々に区分して評価します。しかし、愛の中にも「美」があり、「美」の中にも愛が入っています。

「善と悪」の場合は、「愛と美」とは同じではありません。「愛と美」が同質性をもっているのとは異なり、「善と悪」は、指向する方向と目的が異なります。けれども、私たちがここで善と悪を取り扱うのは、堕落世界の人間たちが悪を追求しながらも、それを善だと誤って判断するからです。「善と悪」を正確に規定することができなければなりません。何が真であり、何が偽りか、何が善であり、何が悪かということをきちんと判断することが、正しい価値評価です。「義と不義」も同様です。いかなることが正しいことで、いかなることが不義なことか、いかなる人(ひと)が義人であり、いかなる人(ひと)が不義な人間かを区分できず、自分が気に入ればよい人だとし、気に入らなければ正しい話をしてもそれを聞こうとせず、その言葉は正しくないと判断します。創造本然の価値を中心として見るとき、そのような評価基準はすべて整理されなければならないのです。

 (1) 愛と美

 神様から分立した二性の実体が性相と形状、または陽性と陰性です。それが各々主体と対象になります。その主体と対象が相対基準を造成して授受作用をすれば、合性一体化した神様の第三対象が現れますが、そのとき、神様を中心とした四位基台が完成します。三対象が現れなければ、四位基台は完成しません。

 四位基台を完成する前に、神様の第三対象として 合性一体化するために、主体が対象に与える情的な力を愛と言い、対象が主体に返す情的な力を美と言います。ですから、授受作用は主体と対象が 愛と美を授け受けするのです。

 愛の力は動的であり、美の刺激は静的です。男性が主体であり、女性が対象である場合、一般的に男性が女性に与える愛は動的です。そのとき、女性が表す反応は 美となりますが、その反応は静的です。男性の愛の表現は積極的な反面、女性の愛の表現は消極的です。

 しかし人によって、時によって女性が男性よりも積極的な場合もあります。それは愛の中にも美があり、美の中にも愛があるからです。ですから、一方だけに固執するのは誤りです。愛と美は、授受作用をするための要素であり、二つの要素は調和をしなければなりません。

 神様の創造理想を中心とした愛には三種類あります。父母の愛・夫婦の愛・子女の愛がそれです。その三つの愛を 三大愛だと表現しますが、子女の愛には兄弟の愛が含まれているので、実際には四大愛です。父母の愛・夫婦の愛・兄弟の愛・子女の愛、このように四大愛です。その愛の根源がまさに心情です。四大愛は神様の中にある心情から出てきたものです。四大心情圏から真の愛が出てくるのです。

 神様は自体の中に四大心情圏をもっていますが、実体を通さなくては真の愛を実現できません。実体がなければ真の愛を実感できず成就欲も充足できないのです。そのため、神様も四大心情圏の本体として成長してきたし、その心情を実感するために直接アダムとエバを創造したのです。

 アダムとエバが完成するという話は、すなわち四大心情圏の完成を意味します。アダムとエバが四大心情圏を完成すれば、神様も完成した立場に立つようになります。四大心情圏を成就するためのものが、「取って食べるな」というみ言であり、そのみ言は「絶対性」を守るものでした。「絶対性」の愛は三種類に分類できます。父母の愛・夫婦の愛・子女の愛です。その愛を実現するための基台が四位基台、すなわち家庭です。家庭の構成員は父母・夫婦・子女です。ですから、家庭は六人を基本として構成されます。

 最初、子女は父母によって存在します。その子女が夫婦の立場を経て 子女を生めば、最初の父母はおじいさん・おばあさんの立場に立つようになります。最初の父母がいなかったとすれば、おじいさん・おばあさんもいません。父母も同様です。夫婦の立場を経て父母になるのであって、夫婦の立場を経ずに父母になる方法はありません。夫婦も同様です。子女の立場を経て夫婦になるのであって、子女の立場を経なくては夫婦になることができません。

 結局、父母がいてこそ子女が存在し、子女がいてこそ父母も完成します。それがまさに、愛と美によって帰結する授受作用の関係です。授受作用の関係が確立されなければ、完成という話も成立しません。創造理想の完成のためには、授受作用が必須要件なのです。

 授受作用の結果、対象が主体に返す「美」が現れますが、美は三つに区分できます。「忠」「孝」「烈」がそれです。すでに明らかにしたように、「忠」は心に中心を立てることです。心の中心がまさに父母です。

 私は、父母から出発しました。父母によって生まれ、父母によって心情と愛と人格を感じて学びます。そこから社会・国家・世界へと、より高い次元に向かって心情の生活環境を広めていかなければなりません。それで私の心の中心は、父母になるのです。

 私の心の中心は父母ですが、その父母の根源は心情の本体であられる神様です。ですから神様を征服することが、まさに忠です。私の心の中心に神様を迎え、神様の心に従って、神様のみ旨が私のみ旨だという信念で生きることが、忠だというのです。

 私を生んでくれた父母は二人ですが、その父母から父母へと遡れば、結局、人類は最初の先祖である一人の男性、一人の女性を父母として生まれたのです。その最初の先祖は、根源が神様です。最初の先祖は私の肉身の根源になりますが、神様は私の永遠なる霊人体の根源になるお方です。万民共通の父母は神様です。ですから、神様は人類の真の父母なのです。

 すべての人間は心の中心が父母ですが、その父母の根源であられるお方が神様です。それで忠は神様を征服することだと言ったのです。心から神様のために生きれば、神様の心を征服することになります。

 広い意味で、忠が神様を征服することならば、「孝」は私を生んでくれた父母を征服することです。神様のために生きるように、私の心と思いと精神を尽くして父母のために生き、愛することが孝です。そのような心を持った人が父母を征服するのです。「わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか」(ヨハネ14章10節)というイエス様のみ言のように、父母の中心が神様なので、「忠」は神様を征服することであり、「孝」は父母を征服することなのです。

 また「烈」は相対を征服することです。忠(ちゅう)と孝は縦的な関係であり、烈は横的な関係です。烈は相対的概念から出てきた言葉です。ですから、烈男・烈女が必要なのです。神様の立場から男性と女性は子女であり、縦的な関係ですが、その男性と女性は横的な関係です。相対的な関係で「烈」を立てなければならないのです。

 横的に見るとき、「絶対性」の本体である父の前に、実体的な「絶対性」の中心である生殖器の主人は、相対です。ですから「烈」というものは、相対を絶対的に信じて愛し、相対に服従するものです。

 男性の場合、夫人を絶対的に信じて愛し、彼女に服従すれば烈男になり、女性の場合、夫を絶対に信じて絶対に服従したとき、烈女になるのです。その烈男・烈女の本体は、神様であられます。神様が「絶対性」を中心として父となり、母になるので、実体として現れた相対圏にいる男性や女性は、「絶対性」を中心とした烈男・烈女にならなければならないのです。

 ところが、堕落した世界には忠臣はいますが、忠女はいません。女性が神様を中心とした 国の理想を持てなかったという意味です。「孝と烈」も同様です。孝子・孝女がいて、烈女がいますが、烈男はいません。

 本然の世界では忠・孝・烈の価値を正しく立てるために、忠臣がいるように忠女もいなければならず、孝子・孝女がいて、烈女がいるように烈男もいなければならないのです。その価値は「絶対性」の上に立てられるのです。その「絶対性」を失えば、すべて失うようになります。「忠」もなくなり、「孝」もなくなり、「烈」もなくなるのです。

 上記において、神様の創造理想を中心として分立した主体と対象が、互いに授け受けするにおいて、主体が対象に与える情的な力を愛と言い、対象が主体に返す情的な力を美と言いました。また愛の中にも「美」が入っていて、「美」の中にも愛が入っていると言いました。

 愛と美は、授受すれば授受するほど大きくなるのです。ですから、主体の愛がなければ、対象からも美が現れません。そうかといって、対象が持つ「美」の価値がなくなるのではありません。対象の価値はそのままです。

 人はいくら醜かったとしても、神様から与えられた本性があります。各々の個別相があります。ですから、個性真理体というのです。だとすれば、人に対して「気に入らない、憎い、嫌いだ」と判断してはいけません。いくら憎くて嫌いだとしても、その人がもっている価値は絶対的なのです。

 それをむやみに、判断してはいけないという話です。それは神様を無視する結果になります。結局、美の価値は愛を通して現れますが、それが忠・孝・烈として現れるのです。

 (2) 善と悪

 主体と対象が愛と美をよく授け受けて 合性一体化することによって、神様の三対象になって四位基台を造成します。ですから、神様の三対象にならなければ、四位基台も成されません。三対象が成されるためには、神様の中から分立した主体と対象がよく授け、よく受けなければなりません。主体と対象が授受作用をして合性一体化すれば、神様の三対象として現れます。その三対象が互いに授受作用をすれば、四位基台が造成されて、神様の創造目的が成就するのです。そのような神様の創造目的を成就する行為やその行為の結果を、善と言います。

 反面、サタンを中心として四位基台を造成することによって、サタンの目的を成就する行為やその行為の結果を、悪と言います。神様を中心とすれば善になり、サタンを中心とすれば悪になるという話です。

 下記、堕落論で詳しく説明しますが、もともとは悪は存在しませんでした。ところが、人間の堕落によって悪が生じたのです。悪の主体はサタンです。サタンは神様の侍従であると同時に、人間の僕でした。その僕が神様の子女を堕落させ、自分の子女をつくりました。自分の存在位置を離れたので、サタンになったのです。神様の原則を中心として見ると、それは原理が無視されたのです。それが悪です。

 善と悪の概念をはっきり立てなければなりません。「善があるから悪があり、悪があるから善がある」 という 相対概念は成立しません。善と悪は相対的概念ではなく、相反的概念です。善と悪は一点から出発しましたが、二つは動機と目的が異なり、方向も異なります。ですから二つが遭遇すれば、葛藤し、闘争を繰り広げるのです。

 (3) 義と不義

 目的を成就する過程において、善のための生活的な要素を義といい、悪の目的、言い換えれば、サタンの目的を成就する過程において、その悪のための生活的な要素を不義といいます。ですから、善のための生活は義となり、悪のための生活は不義になるという話です。

 「私が正しい立場にあるか、正しくない立場にあるか」というのも、やはり「私自身が神様を中心として生きているか、神様を中心として生きていないか、自分の考えが神様のみ旨を中心とした 善の目的と方向に従っているか、そうでないか」 によって決定されます。

 ですから義と不義は、ある学問的単語によって説明されるものではありません。そこには、生活的に表現される 実践要素が入っています。それは、常に「中心が神様か、そうでないか」という問題がついてきます。常に神様が動機でなければならないのです。それでこそ、神様が私の中に入ってきて一体になります。生活を通して義の人と義に徹することのできない人が区分されるのです。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« Ⅱ-⑯ 原理本体論 Ⅱ前編 第1章 ... | トップ | 文鮮明先生「自分を信じよ!... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿