21万祭壇 超宗教世界聖殿 完成期天福宮 奪還勝利は UPMC(心身統一)から

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【セミナーのご案内】2016年11月 『終末の預言と聖所の真理』ソンケムン牧師

2016年09月03日 16時05分01秒 | SOSTV



【セミナーのご案内】2016年11月 『終末の預言と聖所の真理』

当ブログで紹介させて頂いていますSOSTV JAPAN さんのセミナーが11月に東京で開かれるそうですので関心のある方は申し込みましょう。参加費宿泊費無料との事です。

サンライズミニストリーと同じくプロテスタント教会を先導する使命のある教会であると当人は感じています。ソンケムン牧師の説教動画を聞いた方はお分かりと思いますが、たいへん天的であり、地に足が付いた実際的な説教でサタンの全体像を明確に表し、終わりの時にどう対応すべきかを教えてくれます。(再臨のキリストに出会うこと)

終わりの時に真のキリストに繋がる事を望まれるクリスチャンの方々や、闇の勢力の人類奴隷化計画に恐怖を感じておられる方には是非お勧めです。サンクチュアリの方にとっても得るものは多いと思います。垣根を越えて反キリスト(教皇権)に対抗する神側勢力は連帯意識を持って繋がって行くべき時代と思っています。

(最終的に三代王権に繋がることは万民の理想です。)
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隠された反キリスト論の真相(反キリストに備える)

2016年08月27日 10時33分16秒 | SOSTV


聖書の預言『偽キリストと教皇が支配する新世界秩序』

SOSTVのホームページより「隠された反キリスト論の真相」の説明を下記に貼りました。

内的反キリスト(家庭連合)の出現によって外的反キリスト(教皇権)の顕現が許されて新世界秩序(世界政府)が始まる時(2017年)教皇と大統領(UN)が一体化して人類家畜化計画が現実となります。最初は博愛主義、平和主義的に誘導しますが最終的には反キリストを拝むことを力ずくで強制するようになり、従わない者には国家権力、世界権力で警察と軍隊で追跡、逮捕、尋問、拷問をして死ぬまで執拗に責め続けます。こうなると殉教するしかありません。自由と責任で霊肉の準備をしないと手遅れになります。(捕まったら拷問の果て殉教です)


以下が本文です。


2.隠された反キリスト論の真相

中世期の宗教改革者たちは、ローマカトリック教会が、反キリストである事実を明らかにしました。その事実は、当時、大きな改革と共に信仰復興の原動力となりました。しかし、今日、それらの事実がほとんど秘められてしまいました。

当時、数百万のクリスチャンたちが、宗教改革の運動へ参加しました。そこで、ローマカトリック教会は、宗教改革者たちを異端者として、彼らを排除するために、千年以上にわたって成功してきた様々な弾圧の道具を使いはじめました。その結果、アルプスなどの深い自然の要塞のような奥地へ隠れていた、少数の忠実なクリスチャン団体以外は、ローマカトリック教会の迫害によって打撃をうけました。こうした弾圧には、国家の強力な軍隊が用いられました。ローマカトリック教会の権威に服従していない、数百万の人たちは軍隊によって無慈悲に殺されました。歴史家たちは、純粋な聖書の真理を守るために、拷問されたり、殉教した人々の数字がどの位なのかについて見解を異にしていますが、おおよそ5千万人から1億人ぐらいだと推定しています。教皇権が支配していた中世期において、男性はもちろんのこと、女性や子供たちまで、聖書に従って異端者を排除するという名目で殺されていきました。こうした出来事はほとんど、教皇権に追従する、世俗的な国家権力によって行われました。

 16世紀後半に入ってからは、その様相が変わりました。教皇権の腐敗と蛮行に嫌気がさしていた多くの君主や王たちは、宗教改革者たちの宣言を受け入れ、教皇権の命令に服従しなくなりました。そして、ローマカトリック教会の絶対権に追随して軍事力を行使するヨーロッパ各国の軍隊が少なくなってきました。このような状況は、ローマカトリック教会にとって非常に驚くべきことでした。これまで長い間、ヨーロッパ諸国の首長として君臨してきたカトリック教会は、こうした状況に慣れていませんでした。それゆえ、ヨーロッパ中を席巻していった宗教改革の迅速な拡散に対抗するために、新しい方策が考案されなければならなかったのでした。

 この新しい方策の発展を理解するためには、14世紀の事件から遡って探る必要があります。そのころは、各地に宗教的な闘争がありました。新しい教皇ウルバヌス6世が、フランスのアビ二ョンにおける7年間の亡命生活を終え、教皇の地位を回復してローマへ帰ってきました。ところが、枢機卿たちの中で多くの者が、ウルバヌスの強硬な統治に対して反乱を起こしました。彼らはアビ二ョンに戻っていき、ジュネーブの司教であったケンバレイのロバートを教皇クレメンス7世として推戴しました。こうして、その当時、二人の教皇が存在するようになりました。それが、1378年のことでした。その後31年の間、ローマとアビ二ョンは、お互いに自分たちの教皇は絶対無誤であり、ペテロの継承者であり、キリストの代理者だと主張しながら、相手の教皇が反キリストであると宣言しました。英国のラタワース教区の有力な聖職者であったジョン・ウィクリフは、彼らお互いの主張に対してこう言いました。

 「サタンはこれ以上、一人の教皇の中に君臨できない。今は、二人の教皇の中で働いているゆえに、人々がもっとたやすくキリストの御名によって彼らに勝つようになった。今は、反キリストは分けられ、一人の教皇は、異なる教皇に対抗して戦っている。”(Emma.H. Adams, john Wycliffe: Pacific Publishing Association, Oakland,1890)

教皇の課税に反対したことにより、ウィクリフは査問にかけられ危険に会いそうになりましたが、友人の貴族たちや英国の王家と親密な関係を持っていたため逃れることができました。ところが、40年後、ボへミアの偉大な改革者であったジョン・フス、プラハのジェロームは、教皇権に対抗した結果、火刑にされました。彼らはウィクリフから大きな影響を受けていました。
教皇権が、反キリストであるという事実の立証は、宗教改革の変わらない主題になりました。マルチン・ルターは、教皇個人に限るのではなく、教皇権の全体が反キリストであると信じました。ツウィングリ、カルヴァン、ノックス、そして他の宗教改革者たちも、マルチン・ルターと同じ意見を持っていました。次にあげるのは、幾人かの宗教改革者たちの教皇権に対する言及です。彼らの意見は驚くほど一致しています。


反キリストに対する宗教改革者たちの立場

1) マルチン・ルター
「パウロは第二テサロニケ2章3、4節に『まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する』と記しているが、その存在がここにいる。『不法の者、すなわち、滅びの子』とあるが、・・・彼は神の戒めを廃して、神の戒めの上に、自分が作った戒めを高めた。我らはここで教皇権が本当に反キリストの座に就いている事実を確信するのである」(LeRoy Froom,The Prophetic Faith of Our Fathers,Volume2,page28)

2) ジョン・カルヴァン
「私は、教皇がキリストの代理者になることを否認する。…彼は、偽キリストである。・・・私は彼が教会の頭になることを否定する」(John Calvin Tractc,Volume1,page219,220)

3) ジョン・ノックス
「何代にもわたって教会の頭として君臨してきた教皇が、まさしく、使徒パウロが言った反キリストであり滅びの子である」(The Zurich Letters,page199)

4) フリップ・メランヒトン
「ローマ教皇権が、巨大な組織と王国を持っている反キリストであることは、全然疑う余地のない明白な真理である。・・・第二テサロケ2章の2節で、パウロは「不法の者が、神と呼ばれたり、拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座って支配することになる」と、はっきり言ったのである。”(LeRoy Froom, The Prophetic Faith of Our Fathers, Volume 2 page 296-299)

5) アイザック・ニュートン
「教皇権は、残りの十の角と異なる種類の王国であった。・・・ローマ教会は預言に現れた、先の者と異なる王である」(Sir Isaac Newton, Observations of the Prophecies, page 75)
6) ジョン・ウェスレー
「ローマ教皇権が、すなわち、不法の者であることを強調する」(John Wesley, Antichrist and His Ten Kingdoms, page 110)
7) サムエル・リー(17世紀の有名な聖職者)
「ローマ教皇権が、反キリストである事実は、英国のすべての主要教団の間で共通に受け入れられている教えである」(Samuel Lee, The Cutting Off of Antichrist, page1)

長老教会で採択されている、「ウエストミンスター信仰告白」(Westminster Confession of Faith)から引用した次の内容は実に重要な資料です。

「イエス・キリスト以外に異なる人が、教会の頭になることはできない。特にローマ教皇はどのような面からも、教会の頭にはなれない。教皇はまさに、不法の者であり、滅びの子として、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするもの、すなわち、神とイエス・キリストの上に自分を高めた反キリストなのである。”(The Westminster Confession of Faith, Section6, Chapter 24)

スイスにおいても、教皇権が、聖書に預言されている反キリストであると言及しました。『スマルカルド(Smalcald)条項』はルター派教会の声明書で、そこでは、教皇は自分を高めキリストに反抗する、まさしく反キリストであると言及しています。
1680年の『ニューイングランド信仰告白』では、教会の頭はイエス・キリストであって、滅亡の子であり、偽キリストであるローマ教皇ではないと言いました。

「教皇権を反キリストと同一視することは、宗教改革の中心をなす思想であった。この見解は、ルターや、他の宗教改革者たちが教皇権と対抗することが出来た大きな原動力となった」(Encyclopedia Britannica, 1962 edition, Volume 2, page 61)

このような信念に従って推し進められていった宗教改革の運動は、徐々に弱まっていきました。しかし、少なくとも19世紀末までは、ほとんどすべてのプロテスタントの教団では、依然として教皇権と反キリストを同一視していました。
ところが、今日、世界的に成し遂げられつつある教会(宗教)合同運動の結果、そこで醸成された雰囲気の中からは、教皇権と反キリストとを同一視する見解は、非常に起きにくくなりました。幾人もの福音主義のクリスチャンたちが、カトリック教会を反キリストとする立場は、現代社会において特に重視するような問題ではないと言って、このことを無視してきました。


反キリストに対する様々な誤解

 反キリストの概念は、預言者ダニエルが、「小さい角」と呼んだ背教の勢力に対して預言したB.C6世紀まで逆のぼらなければなりません。(ダニエル書7:8~11,24~26;8:9~12、23~25)。イエス・キリストが誕生する前の時代に生きたユダヤ人たちは、この勢力を反キリストの出現として適用していました。B.C2世紀では、セレウコス朝シリアの王、アンティオコス・エピファネスが、エルサエムの聖殿を汚し、神聖を冒瀆した事件がありました。この時、ユダ族のひとつの部族であったマカビ家は、この事件によってダニエル書の小さい角(偽キリスト)の預言が、成就したと誤解しました。
同じように、初期のクリスチャンたちは、ローマにいた多くのクリスチャンたちを無慈悲に殺したネロ皇帝(A.D68年没)が、このダニエル書の預言にある小さい角ではないかと誤解しました。しかし、使徒ヨハネの言葉を見るならば、アンティオコス・エピファネスやネロ皇帝を反キリストとして見ることは不適合であることが立証されます。 紀元1世紀の終わり頃に書かれた使徒ヨハネの言葉は、反キリストがひとりだけではなく、多くの人々であり、また、その中のあるものは、使徒ヨハネの時代にすでに存在していたことを伝えています。

「子供たちよ。今は終りの時である。あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時であることを知る」(1ヨハネ2:18)

反キリストという呼び方は、聖書では5回だけ言及されています。しかもこの言葉は、使徒ヨハネの手紙にだけ記載されていることもあり、多くの人がその実体を知ろうとしてきました。この反キリストが、イエス・キリストの十字架と救いと真理に対して最も強力な敵であることは分かっています。これまで各時代に渡って、反キリストを、目前の何かに適用しようとする考え方が常にありました。
大規模で非常に過酷であった第二次世界大戦争当時、ある人たちはアドルフ・ヒトラーが反キリストであると主張しました。また他の人々は、強力なイスラムの勢力がそれであると言い、またある人は、無神論共産主義の勢力が反キリストだと主張しました。“反キリスト”という言葉は聖書には頻繁に使われていませんが、“背教の勢力”という言葉は多く使われています。また使徒パウロは“不法の者”“滅亡の子”と言う用語を使っています。彼は、反キリストの出現がキリストの再臨の直前にあることを指摘しています。

「だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する」(2テサロニケ2:3,4)

『ヨハネの黙示録』で、使徒ヨハネは、大淫婦バビロンが、赤い獣に乗っている光景を見せられますが、それは反キリストを現しています。その他にも、多くの象徴を用いて反キリストを表現しています。

「そして、先の獣の持つすべての権力をその前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷がいやされた先の獣を拝ませた」(黙示録13:12)「大いなる都は三つに裂かれ、諸国民の町々は倒れた。神は大いなるバビロンを思い起し、これに神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた」(黙示録16:19)「御使はわたしを御霊に感じたまま、荒野へ連れて行った。わたしは、そこでひとりの女が赤い獣に乗っているのを見た。その獣は神を汚すかずかずの名でおおわれ、また、それに七つの頭と十の角とがあった。この女は紫と赤の衣をまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものと自分の姦淫の汚れとで満ちている金の杯を手に持ち、その額には、一つの名がしるされていた。それは奥義であって『大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母』というのであった」(黙示録17:3~5)

先に言及している通り、旧約の預言者ダニエルは、反キリストを小さい角という象徴で描写しています。

「彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法とを変えようと望む。聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる」(ダニエル書7:25)

はたして反キリストとは誰であって、またどのような者なのかという質問は、幾世紀にも渡って投げかけられてきました。これは一人の人物なのか? そうでなければ一つの国家、または、ある勢力なのか? 反キリストは、過去においてすでに現れたのか? それとも、今現在、存在しているのか? あるいはまた、これから、未来に現れるものなのか? 福音主義教会の多くの人々は、世の終わりのすぐ直前に、エルサレムで再び立てられた神殿に座して、神殿を汚し、冒瀆し、無慈悲で迫害を実行する悪魔のような存在として、反キリストが現れると信じています。
しかし、そのような解釈は宗教改革主義の、全体的な福音の理解を無視していることになります。すでに1841年、長老教会の協議会の出版所から出版された“The Church of Rome, The Apostasy”と言う本の中で、ウィリアム・ケ二ンへムは、教皇権を不法の者であり、反キリストであると、明示しています。彼はローマカトリック教会が、サタンと、神像崇拝、マリア崇拝、偶像崇拝の罪に対する責任があると指摘します。彼はまたロ-マカトリック教会によって行われた、数知れないほどたくさんの神聖冒瀆の実例を指摘しています。彼は、「バビロンから出て来なさい」との叫び(黙示録18:4,5)をローマカトリック教会から出なさいとの叫びと同一視しています。
ヴァージ二アのノルポルークにある長老教会の牧師であったサムエル・ジェイ・カーソルスは、1846年『キリストと反キリスト』という本を書きました。この本は、ローマカトリック教会が反キリストであることを理解し易く証明した本の中の一つです。この本はその当時、長老教会、メソジスト教会、バプテスマ教会の指導者たちに完全に承認されました。 

 
的はずれの起こり

しかし、19世紀末になって、教皇権が反キリストであるとの主張は次第に影をひそめていきました。サムエル・アンドリューは彼の著書である“Christianity and Anti-Christianity in Their Final Conflict”において、黙示録13章に描写されている獣を、圧制的な世俗的な政府である明言しています。それ以前のすべての時代において、新教徒たちがこの獣を、教皇権であるとしていたのとは違って、彼らはこの獣を教皇権と見なさなくなりました。20世紀の前半になって、未来主義的な預言の解釈が、ほとんどすべての新教徒たちによって受け入れられました。
しかし、少数の新教徒たちは、相変わらず教皇権と反キリストを同一視しました。1920年頃“The Present Antichrist”という本を書いた、フレード・ジェイ・ピータースが、その中の一人です。彼は、ワルドー派の人々や、フス、ジェローム、ルター、カルヴァン、アイザック・ニュートン、ラティマー、ボーンヤン、ムーディ、スポルジョンなど、献身的なプロテスタントたち全員が、不法の者とはすなわち教皇であると認識しており、そのことを自分も受け入れていると表明しました。またピータースは、ダニエル書9章にある70週の預言が、神の選びを受けた民としてのユダヤ人に残された490年の期間であること、その期間はA.D34年に終わったことを正確に解釈しました。

 しかし、多くの新教徒たちが、ローマ教皇権が聖書に預言されている反キリストであるとの事実を立証しなくなったために、現在では保守的なプロテスタント教徒たちまでが、カトリック教会と、手と手を取り合って連合するようなことが生じてきたのです。もし宗教改革者たちが、今日のこのような場面を目にするなら、大きく嘆き悲しむことに違いありません。
そのような中、パット・ロバートソンとチョク・コルソンに指導されたプロテスタントの福音主義者たちが、ローマカトリックの指導者たちと共に、世界で最も大きく、政治的に影響力のある宗教の団体を作り上げて連合することに成功しました。
彼らは、カトリック教徒たちとプロテスタントの福音主義の信徒たちへ、妊娠中絶とポルノを禁止することに努力を傾けて、価値ある教育を行うことに力を注ぐよう促しました。反面、プロテスタント教会同士が、教理的に対立することを避けて、他教派の人々に対して積極的な改宗の勧誘を禁じるように促しました。アメリカ、東ヨーロッパ、南米にあるカトリック教徒たちと、プロテスタントの福音主義の信徒たちの間にある緊張関係の主な原因について言及しなから、その宣言文では、お互いに違ったキリスト教団体の中にいる信徒たちを、自分の団体に改宗させる行為は、教理的に合法的なことではなく、知恵のある行動とは言えないと明示しました。(The San Bernardino Sun, March 30, 1994, page 42)


未来主義の預言を考案して成功したカトリック教会の企図

ローマカトリック教会は、教皇権が反キリストの勢力であるとの明白な聖書的証拠を無くすと決心しています。彼らは、反キリストとは、世の終わりのとき現れる個人であって、彼は実際的な期間である3年半の間キリスト教会へ災難をもたらす人物であると主張します。

今日、ローマカトリック教会のイエズス会(Jesuit)によって作られた未来主義の思想が多くのプロテスタント教徒たちによって受け入れられています。“His Apocalypse”(1924)という本の中で、ジョン・クインシー・アダムスは、反キリストが、世の終わりのとき現れる悪魔的な勢力であるという未来主義の見解を提示しました。この誤った概念は、同じく、“The Coming Superman”(1928)という本を書いたF.Mメシンジャーによって支持されました。さらに近年、この未来的見解は、ムーディ出版社から1969年に発行されたヘルマン・ホルトの本“The End Time”によって支持されています。
反キリストに対する使徒ヨハネの描写は、反キリストが一人の人物である可能性を排除しています。しかし、少しずつ時間をかけて、イエズス会(Jesuit)は教皇権が反キリストであるとの説を覆し、いまやほとんど成功しているように見えます。
1545年から、1563年の間開かれたトレントの会議で、ローマカトリック教会の司教たちが持っていた最も重い課題の一つが、まさに、反キリストを教皇権と同一視するプロテスタントの影響力を破壊することでした。結局その課題は、厳選された知識人たちとして新しく構成されたイエズス会(The Jesuit)へと託されました。
フランシスコ・リベラは、未来主義的な預言の解釈を1585年に考案して発表しました。反キリストは未来に出現するものとして、世の終わりに神の権威へ挑戦して、神の民たちに大きな迫害をもたらす個人であるというのが彼の理論でありました。
その後、19世紀初頭に、英国の国教会の中に、カトリックの復興(リバイバル)運動が起きました。オックスフォード大学の教授であったS.R・マイトレンド、ジェームス・トド、そしてウィリアム・ボルらは、ローマカトリック教会との再連合に反対する忠実な英国国教会の会員たちの抗議をもみ消すため、リベラの未来主義の思想を受け入れて教えました。

宗教改革の先駆者たちは、単に報復のためにローマ教皇権を反キリストの勢力として指摘していたのではありませんでした。彼らは神様の霊感の言葉によって、何が正しいかを見極める目を持っていたのです。では、反キリストが何であるかを立証することが、なぜ最終時代を過ごす神の民にとって重要であるか、次にその理由を挙げます。


反キリストを正確に指摘しなければならない三つの理由

1、 反キリストを立証することによって、この反キリストの勢力が自分たちの旗のもとへ人々を誘導しようとするとき、その欺瞞に私たちが騙されないようにするためです。「地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣をおがむであろう」(黙示録13:8)

2、 黙示録18章4,5節には、「わたしの民よ、彼女から離れ去って、その罪に巻き込まれないようにし、その災害にあずからないようにせよ。彼女の罪は積り積って天に達しており、神はその不義の行いを覚えておられる」と記されています。真の神様の民は、背教の勢力から離れて、真理の中に出て来るようにというメッセージを真剣に受けとめる必要があります。真実な福音主義のプロテスタントたちは、教皇権が反キリストである事実を立証することを、憎悪心や復讐心では行いません。むしろ人類を愛する心で、この真理を伝えます。反キリストから離れ去って、その罪にあずからないようにせよ、というこのメッセージは、それを受け入れる男女を、真の救いに導き、罪の欺瞞と束縛から自由にさせます。地球歴史のどの時代よりも、まさに、この時代に、反キリストの正体を確認する事と、バビロンから出て来るようにというメッセージを人々に伝えなければなりません。

3、 ヨハネの黙示録14章8~12節にある、第二、第三の御使いのメッセ-ジは、反キリストの勢力とそれに従う人々に下る滅亡と没落にその焦点を当てています。全世界にこの警告を宣布するために、このバビロンの正体を明らかにするのは重要なことです。もし福音主義のプロテスタントたちが、イエス様が再臨なさる直前に、人々にこの重要な警告のメッセージを伝える責任を委託されていると信じているならば、彼らは過ぎた数十年の間、反キリストの正体を明らかにする事をなおざりにしてきた態度を改めなければなりません。神様は、反キリストであるローマ教皇権と彼の蛮行に対して警告する事を要求なさいます。この働きをするためには、福音主義のプロテスタントたちは、現在の方針を完全に改定しなければなりません。彼らが今歩んでいる道から引き返すならば、彼らはルターや16世紀の宗教改革者たちによって成された本来の福音主義の立場に戻ることができるのです。
反キリストの正体を教える聖書の箇所

ダニエル書7:1~7 天の四方からの風が大海をかきたてると、四つの大きな獣が出現する。

ヨハネの黙示録17:15 預言において水は民(多くの人々)を意味していて、同じく、エレミヤ49:36,37によって海は大きな群れ、戦いと戦争をあらわす。

ダニエル書7:17,23 四つの獣 = 四つの国、四つの王(バビロ二ア、メディア・ぺルシャ、ギリシア、ローマ)

ダニエル書7:7、8 第四の獣が十の角を持っておりその中から一つの小さい角(反キリストの勢力)が出て来る。

ダニエル書7:24 十の角 = 第四の国(ローマ)から出る十人の王(十の国)。小さい角 = 十の国の時代に強力な勢力として現れたローマ教皇権

ダニエル書7:8,20,24 小さい角が、前に出た十の角の中から、三つの角を抜きさる。教皇権の影響力によって三つの国(ヘルーリ、バンダル、オストロゴス)が、滅ぼされる。              

ダニエル書7:25 小さい角の行動
① いと高き神に敵し、自ら神の代理者だと主張する。
② 聖徒を悩まし多くの聖徒を殺す。
③ 時と律法とを変えて神が制定なさった十戒を変更する。

第二テサロニケ2:3,4 使徒パウロが、時と律法とを変更する不法の者(教皇権)の出現を預言する。

ダニエル書7:25(下句) 小さい角の活動の期間である、ひと時と、ふた時と、半時、すなわち、3年半(1260日)の預言的期間は、エゼキエル書4:6によって1260年として換算することができる。

ヨハネの黙示録13:3 中世の宗教暗黒時代の最後に致命的な傷を受けた教皇権が再び回復する預言。現在ほとんど回復されている。

ダニエル書7:27 結局、神の民は勝利をおさめる。

マタイによる福音書7:22,23 不法を行う者たちは、すべて追放される。
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SOSTVとは?(プロテスタント改革派)

2016年08月25日 10時02分34秒 | SOSTV
SOSTVとは?

当ブログで取り上げているキリスト教プロテスタント改革派の中のSOSTVとサンライズミニストリーについて研究して見たいと思います。
先ずSOSTVですが、アメリカから派生した超教派宣教運動の一つであり、宗教改革を完成させるための運動として、1989年に始まりました。と説明されています。プロテスタントがカトリック化する最近の傾向に憂慮し聖書の御言葉を中心に信仰生活を立てて行くべきとし、しっかりとした再臨思想と終末論における対サタン勢力(反キリスト)に対抗する姿勢がはっきりとしています。プロテスタントの中でのアベル的立場であると感じています。

以下はホームページのSOSTVについての案内です。
http://sostvjp.net/about-us/

SOSTVは、超教派宣教運動の一つであり、宗教改革を完成させるための運動として、 1989年に始まりました。毎月5万部以上発行されている月刊誌『Survivors 生き残る人々』は、多くの人々に愛される信仰専門誌として、 キリスト教信仰の大きな活力源となっています。過去、20年以上にわたって、この月刊誌を通して、多くの方々が聖書の真理を悟り、 本当の信仰とは何かを真剣に求めてきた人々が、心の渇きをいやされ、信仰の喜びを経験しておられます。 また、プロテスタント教会の牧師を対象とした「聖書研究セミナ-」が、各地で、20回以上続けられており、参加された牧師の方々は、 それぞれ自分の教会を牧会しながら、真理のメッセ-ジを伝えておられます。

私たちは、教会を拡張するために存在しているわけではなく、また新しい教理を主張しているわけでもありません。 世俗と誤謬が教会の中に押し寄せるこの時代、聖書の真理という垣根で信仰の純粋性を保ち、初代教会が持ち、 宗教の改革者たちが命がけで守った、その純潔な福音に立ちかえるよう叫ぶ、ひとつの波、ひとつの運動です。

ところで、ワルドー派(Waldenses)をご存知ですか?“教皇権の真昼は、世界の真夜中であった”という歴史家 J.A.Wylieの表現のように、ロ-マカトリック教会が至上権を握っていた約千年の期間は、実に霊的に「真夜中」でありました。 ワルドー派は、ロ-マカトリック教会の非聖書的教理(煉獄、化体説、教皇無謬説、マリア崇拝、霊魂不滅説、告解制度など)を否認して、 聖書のみを人生の指針としました。彼らはカトリック教会の残虐な迫害によって多くの犠牲者を出しましたが、 ヨーロッパの22カ国に広がりました。彼らこそが宗教改革の種をまいた人々であり、イタリアに残る最初のプロテスタント教会です。 SOSTVは、このようなワルドー派の純粋な信仰を受け継ぎ、保持している宣教センタ-です。

私たちは、カルヴァンの改革の遺産である「行ないによる義認ではなく、信仰のみによって救われる」や、 絶対的な「神の主権」を聖書的な真理として認めると同時に、メソジスト派のジョン・ウェスレーが、 カルヴァンの予定説に対抗して築いた「自由意志」と「聖化-キリスト者の清い生活」を尊重します。 また、ルタ-派の「万人祭司」(ロ-マ5:17)、すなわち、カトリックの告解制度は誤謬であり、 全ての人は、直接神にイエス・キリストの御名によって祈ることが出来るものと信じています。「水に沈むバプテスマ」と、 会衆派清教徒が主張した「政治と教会は、分離すべきである」とに同意します。 また、再洗礼派の改革の遺産である「人は死後直ぐに天国と地獄に行くのではなく、無意識の状態にいて、 キリストの再臨のときに復活する」という「復活信仰」を持ち、メノナイト再洗礼派の健康節制生活に従って、酒、タバコ、肉食などを避けています。

ご存知ですか? これまで、聖書の真理を唱えた多くの人々が、教派と教権の争いによって血を流して来た過去の歴史のことを。 ジョン・ウェスレーは、イギリス国教会から追放され、結果としてメソジスト派の創始者になりました。 彼らは律法主義者、方法論者(Methodist)と酷評されましたが、それがまさにメソジスト派(Methodist)の名称になりました。 しかし宗教改革者たちの継承者と言われる人々は、メソジスト派の信者たちをむごたらしく虐殺しました。カトリック教会からの迫害ではなく、 同じプロテスタントである兄弟たちから、教理的な相違によって刀を向けられたのです。

私たちはこのような教派と教権の壁を壊したいと思っています。“ただ、聖書が何を語るのか。  ”それだけに耳を傾けて、それが真理であるならば“アーメン”として受け入れ、偏見や利己心から離れ、聖書の真理を回復させようという運動です。 そうです。聖書は、全てのキリスト者がそこで一つとなり、そこに帰らなければならない、いのちの最初であり最後である指針なのです。 キリスト教はみ言葉の宗教です。天の父なる神様は、み言葉によって天と地とをお創りになりました。 そしてみ言葉をもって私たちをお救いになります。聖書にあるように、イエス様は“肉体をとられたみ言葉”であり、 説教は“宣べ伝えられるみ言葉”であり、聖書は“記録されたみ言葉”であります。 「言葉は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」。”(ヨハネによる福音書1:14)、これが福音です。 そして、私たちは「聖書の中に永遠の命があると思って調べている」。(ヨハネによる福音書5:39)のであります。 キリスト教は、すなわち、聖書宗教なのです。

SOSTVは、宗教改革と異なる働きではありません。それは、一言で言うと、‘聖書、ただ聖書に帰ろう(Sola Scriptura)’という運動です。 人間の言説や伝統で織り交ぜられた全ての教義を除外して、純粋な聖書の言葉に立ち帰ろうというのが宗教改革でした。

宗教改革の歴史を注意深く調べてみて下さい。ルタ-、カルヴァン、ツウィングリ、ジェロムなどは、カトリック教会を、偽キリスト、 バビロンであると宣言し、命がけで宗教の改革を訴え続けました。ところが、今日のプロテスタントの姿はどのようなものでしょうか? ‘Protestantism’です。すなわち、プロテスタントという名前自体が、本来‘Protestant(対抗者)’の意味を含んでいます。しかし今日、 プロテスタントはその名を失いました。火刑や拷問など、大きな犠牲を払いながら守ってきた改革信仰の貴い志を忘れ、 聖書的に明白な誤謬と悟りながらも、それを改革しようとする意志を喪失したままではないでしょうか。 信仰的良心に何の負い目も感じず、改革のための犠牲よりも、自分たちが手に入れた平穏な生活を楽しむ、今日の大部分のプロテスタント信者は、 真実に宗教改革の継承者たちなのでしょうか?今日、誰が本当に、宗教改革者たちが引き起こした真理の脈拍を、 受け継いでいこうとして立ち上がる事でしょうか?これからは、皆様が見聞きされる全ての物事を、 神のみ言葉で確認されるよう、心からお願いいたします。

今日、キリスト教には、多くの教派が存在します。しかし、聖書のいくつかの教えを重要視して、 それに見合った宗派を創り上げ、その教派にとどまることは神のみ心ではありません。宗教改革は現在進行形です。 宗教改革者たちが始めた真理の回復運動は、その継承者たちのところまで来て中断してしまいました。 しかし、ルタ-の時代に完全に回復できなかった真理の光は、改革運動を通して、今後もっと継続していかなければなりません。 自分たちの教団の教理と、相手方の教団の教理と、相手方の教団の教理が異なっているから異端なのか、 それとも、聖書の原則に背いているから異端なのか、異端を判別する基準は、聖書という絶対的基準を用いるべきであります。 そのため、私たちSOSTVは、各教団が持っている真理、いわば見いだされた真珠を、一つの糸に通して、 聖書の全体系を明らかにするために努力している、超教派的独立宣教センタ-なのです。

昨今、‘エキュメニカル(教会合同)’という名目で、数多くのプロテスタント教派、ルタ-派教会でさえも、和解と連合という美名のもと、 カトリック教会と宗教連合を結んでいます。しかし、カトリッ教会は彼らの教理を全く変えてはおらず、むしろいっそう強化しているのです。 教皇ベネディクト16世は“唯一カトリックのみが正統なキリスト教会である、カトリック以外は教会ではない。”との宣言もしました(2007.7.12)。 今後カトリック教会は、政治の力を後ろ盾にして、より強力な態度で、中世紀の栄光を取り戻そうとすることでとしょう。 これが終末へと向かうシナリオです。

SOSTVの宣教的使命は、キリストが再び来られるときに、生きて主を迎えする、真のキリスト者たちを備えさせることにあります。 人類歴史の終着駅が近づいているにもかかわらず、自らキリスト者と名乗る人々が、依然として、世と自我に執着したまま過ごしている姿は、 不憫としかいいようがありません。私たちは、キリスト者の姿がどうあるべきかを証しながら、 バプテスマのヨハネのように悔い改めの福音を宣べ伝える使命を持っていると信じています。 そして、“主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下って”(第1テサロニケ4:16)こられるときに、 空中で、主と、よみかえった人たちにお会いすることが、私たちの喜びなのです。

私たちSOSTVは皆様が聖書を学ばれるとき、聖霊のお助けをいただかれるよう願い、 「隠された宝」を多く見つけ出して、より豊かに実を結ぶキリスト者となられることを願っています。 イエス・キリストの恵みと、神様の御助けと、聖霊の導きとが、常にあなたと共にありますように祈りつつ、 1620年、清教徒たちの父であるロビンソン牧師の説教からのひとことを伝えながら終わります。 “宗教改革はいまだに、終わっていない。”


강병국 목사 カンピョングク牧師(代表責任者)
강병국牧師は SOSTV 宣教センターの責任者であり、アメリカで TVとラジオ放送牧師で活動しながら聖書どおりを信じる真の信仰、妥協しない純潔な信仰に帰らなければならないという主義を持ってアメリカと韓国だけではなくヨーロッパ、南米、中国、アフリカなど多くの国々を巡回して真の救援の福音を講義している。 初代教会の信仰を回復しようという宗教改革の精神で 1989年に SOSTV 宣教センターを創設して月刊誌 "生き残る人々"と, "聖書に帰る道案内 32シリーズ", "ダニエル/ヨハネ啓示録講釈", "聖所-救援の青写真" などさまざまな聖書研究教材を出版してインターネットサイト(www.sostv.net)を運営している。
アメリカで就学をした後、 20余年間神様の御言のみを中心に取り組みながら過ごし、特定教派に属さずに、むしろ自己中心的な各教派の障壁を破り、人間が作ったた学説を削除して神様の御言、ただ聖書自体が教えている御言その通りに充実に生きて行くように促す事を自論としている。

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