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Ⅲ-② 原理本体論 Ⅲ後編 第1章 復帰原理(p 491~499)

2020年01月13日 17時23分10秒 | 原理本体論

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Ⅲ. 後編

 第一章 復帰原理(p 491~499)

 参考 1

 堕落と復帰摂理

 すでに説明した内容をもう一度、要約 整理するなら、本来、アダムとエバは蘇生期・長成期・完成期を経て完成するようになっています。その期間に神様が下さったみ言(創世記 2章17節)を信じ、実践するのが信仰基台です。アダムとエバが信仰基台を立てれば、天使長を含め、すべての被造物を主管する資格を得るようになります。

 ところがアダムとエバが長成期完成級で堕落して、み言の実体になることができませんでした。それによって信仰基台を失ってしまいました。その次に、実体基台を成せなかったので、サタンが占領してしまいました。堕落した人間には堕落性が入り、原罪が入ってきました。それで人間は善悪の母体になったのです。

 原罪はメシヤが来なければ脱ぐことができません。メシヤに出会うためには、信仰基台と実体基台を立てなければなりません。信仰基台は神様のみ言を信じて実践し、神様と一つになる基台であり、実体基台は堕落性を脱ぐための基台です。

 信仰基台を立てるためには、中心人物・条件物・期間がなければならず、実体基台を立てようとすれば、善の側と悪の側に分立して、善の側は悪の側の人間を主管し、悪の側の人間は善の側の人間に 従順屈服しなければなりません。悪の側の人物は長子であり、善の側の人物は次子ですが、長子が次子に「愛仲屈通」することが実体基台において堕落性を脱ぐための蕩減条件です。

 堕落性を脱いで原罪を清算すれば、よりいっそうメシヤに侍って仕え、従いながら心情一体となって、完成された姿で神様の前に出ていくようになります。

 真の父母様が、今まで生きてこられた全生涯路程は、一言で言うと、私たちに下さった教材であり教本になります。教材と教本を立てたということは「真の父母様がみ旨をすべて成した」という意味です。真の父母様が人類が永遠に、神様の子女として生きられるように、教材と教本をつくってくださったのです。

 神様の子女となって永遠に神様に侍って暮らす道を築いてくださるために、一生の間、血と汗と涙で勝利してこられたすべてのものを、相続してくださったのです。

 今や、人類は真の父母様が伝授してくださる すべてのものをそのまま受けて、天地人真の父母様が 勝利されたように勝利することで、天地人真の父母様の伝統と血統に似た真の子女となって、天地人真の父母様に侍り、天一国で栄光と喜びを帰し、永遠に幸せに暮らせるようになることでしょう。


 参考 2

 縦的8段階の復帰摂理


 堕落人間を復帰する神様の摂理が復帰摂理ですが、その復帰摂理は一度に成されるのではなく、8段階を経て成されるようになっています。

 本来、神様は天の父、すなわち父親であり、アダムは天の子、すなわち息子です。そして天使長は僕(しもべ)です。

 ところがアダムとエバが天使長によって堕落しました。それによって人間は万物よりも劣る立場に落ちたのです。万物は神様が直接創造されましたが、人間は神様と関係のない 僕の僕の立場に落ちたのです。ここから復帰摂理が始まりました。人間が堕落以前の立場を取り戻すのが復帰です。

 ここから分立の歴史が始まります。堕落によってアダムはサタンにも相対することができ、神様にも相対することができる 善悪の母体となりました。したがって、善の本体であられる神様は、堕落したアダムに直接相対することができなくなったのです。それでアダムの二人の息子であるカインとアベルを分立して、長子であるカインはサタン側に立て、次子であるアベルは神側に立てました。神側のアベルがカイン圏に入っていき、神様に侍る 絶対的心情と「絶対性」を守り、主管権を取り戻してこなければならないのです。

 僕の僕の立場にある人間が復帰の道を行くためには、まず万物を先に立てて天使長の立場、すなわち僕の立場にまで上がっていかなければなりません。

 僕の僕には主人がいません。僕(しもべ)は主人のみ言を受けることができますが、僕の僕は主人のみ言を受けることができません。そのような立場でサタン側の僕の僕を訪ねて屈服させ、連れてこなければなりません。強制的に屈服させるのではなく、真の愛で自然屈服させなければなりません。このように自然屈服させれば、彼の僕の僕となるので僕の立場に上がるようになるのです。

 真のお父様は本来、蕩減の道を行かなくてもいいのですが、蕩減の道を行くようになったのは、人間が責任を、果たせなかったからです。それで真のお父様は僕の僕の立場から出発されました。僕の僕の立場は本来なかった立場であり、人間の堕落で生じた立場なのです。

 神様は親であり、アダムは子女であり、天使は僕(しもべ)です。どこでもこの三つの関係しかないです。その下には万物があるだけでした。ところが人間が天使によって堕落したことで、人間は神様がつくられた万物よりも劣る位置に落ちました。ですから堕落した人間が神様の前に出ていくためには、万物を先に立たせるしかないのです。

 僕の僕の立場でみ言の代わりに万物を先に立たせ、象徴的な献祭をささげて神様の前に行く期間が、アダム家庭からアブラハム家庭までの2000年でした。真のお父様は堕落によってできた 僕の僕の立場から出発して、堕落した人間を収拾する摂理を展開してこられました。

 天使は本来、僕(しもべ)としてつくられましたが、アダムがみ言を不信して、天使長の主管下に落ちたので、天使長の僕となりました。したがって、堕落したアダムは僕の僕になったのです。神様は堕落したアダムを神側とサタン側に分立して、摂理するようになります。

 それで神側の僕の僕の立場で、サタン側の僕の僕の立場を訪ね、勝利して帰ってこなければなりません。アダムが堕落によって僕の僕の立場に落ちたので、真のお父様はその立場から収拾していかなければならないのです。

 真のお父様は歴史時代において、今まで僕が仕えてきたものをすべて合わせたよりも、もっと困難な立場で神様に侍って暮らす道を築いてこられました。真のお父様は心は父母の心情をもち、体は僕(しもべ)の体をまとい、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流されました。僕の僕の立場にまで降りて、カイン圏の人々のために生き、彼らを愛し、彼らを救うために身悶えしました。カイン圏の僕の僕の立場で彼らがいくら逼迫し、迫害しても、真のお父様の心は変わりませんでした。彼らを自然屈服させたあと、勝利してこられたのです。

 僕の僕の立場で勝利した真のお父様は、次の段階である僕の立場に上がりました。僕の立場は天使長圏です。真のお父様は、カイン圏の僕の立場に進まれて、再び彼らから迫害を受け、嘲笑され、監獄に引かれていって死地で死の拷問を受け、罪人として扱われましたが、彼らを憎まず、神様のような心で愛して、彼らを自然屈服させました。いくら彼らが憎んで殺そうと思っても、真のお父様の心の中は彼らを憎むとか、恨むとか、呪う気持ちは少しもありませんでした。

 次には僕の立場から養子の立場に上がるようになります。僕の立場は旧約時代であり、僕(しもべ)から養子に進むときは新約時代です。養子は息子という名前はもっていても、血統が違います。真のお父様はそのような立場を経て、サタン側の世界の養子を訪ねていきます。養子が親に侍り仕える 忠孝の基準よりも高い基準で神様に侍り仕えながら、サタン側の養子圏で勝利して 帰ってこられました。

 養子の立場を復帰した真のお父様は、再び庶子の立場に上がるようになります。それがまさに心情的復帰です。養子は僕の立場で忠誠を尽くして上がりましたが、庶子は違います。庶子は血統が同じです。母親が違うだけです。

 本来、神様の原理には庶子や養子という概念はありません。堕落して僕の僕の立場に落ちたので、一度に息子の立場に上がることができません。それで飛び石のように段階を登るので、養子や庶子という言葉が出てくるのです。

 サタン側の世界のカイン圏の庶子を探して勝利した土台の上に、神側の世界のアベル圏の庶子を取り戻します。やはり多くの苦難と迫害と、獄中生活をしながら蕩減復帰してくるのですが、行けば行くほどいっそう難しい闘いを繰り広げるようになります。いくら難しく大変だとしても、サタン側の世界のカイン圏の庶子が父母を愛し、侍る以上に神様に侍り、愛する心情をもち、蕩減復帰の原則を通して、彼らを憎まず、その立場でもみ言を与えて蕩減復帰するのです。

 庶子の立場で勝利したあとには、再び息子の立場に進みます。本来、アダムが神様の前に忠孝の道理を尽くし、神様の心情と真の愛に似た実体になるためには、善悪を知る木の果を取って食べずに、「絶対性」の本体に似た立場に進まなければなりません。

 真のお父様は息子の立場でサタン側のカイン圏の息子をお訪ねになりました。息子の立場に立って、カイン圏の息子のすべてのものを相続するためです。真のお父様は神様の息子(メシヤ)として、サタン側の世界、カイン圏がその父母に、忠孝の道理を尽くした すべての基準を合わせた以上に忠誠を尽くしました。その時、サタン側の息子たちが屈服したのです。

 僕の僕から僕に、僕(しもべ)から養子に、養子から庶子に、庶子から息子に、息子から母(新婦)を取り戻され、母から父に、父を中心とした真の父母になって、真の父母様であられる神様の立場を取り戻すのが縦的8段階の復帰摂理です。復帰摂理は8段階を取り戻してきながら、神様の心情圏を失わず、絶対的に神様と一つになった立場で怨讐を憎まず、愛することによって成されるのです。

 息子の立場を復帰したあとには、母の立場を取り戻さなければなりません。言い換えれば、アダムをつくったなら、エバもつくらなければならないという話です。母を取り戻すためには、再びカイン圏の母の所に行って、蕩減復帰しなければなりません。


 縦的8段階の中で、六番目である母の段階で、真のお父様はカイン圏の母の立場で蕩減復帰の道を行かなければなりません。なぜなら、真のお母様は真のお父様のようにサタン側の世界に行って蕩減の道を行くことができません。ですから、真のお父様が勝利圏をもって真のお母様を立てるための条件を立てなければならないのです。

 真のお母様の代わりにその道を探し立て、真のお母様を立てるまで、真のお父様がそのような準備をしてこられたのです。そのときは真のお父様が先頭に立たれ、真のお母様は後ろに影のようにして従いました。真のお母様が蕩減を払うことができないので、真のお父様が真のお母様に代わって、一人でその闘いをしてこられたのです。

 縦的8段階の復帰摂理という言葉は、すごく重要です。神様はこの原則に従って摂理してこられました。僕の僕の立場で僕の立場を復帰し、僕の立場で養子の立場を復帰し、養子の立場で庶子の立場を復帰し、庶子の立場で息子の立場を復帰し、息子の立場で母の立場を復帰し、母の立場で父に侍ることで父の立場を復帰し、真の父母の立場で神様の立場を復帰しなければなりません。 そうして、無形の真の父母であられる神様を、天地人真の父母が解放・釈放して、創造本然の真の父母様として侍って暮らすのが、復帰摂理の目的です。


 参考 3

 横的8段階の復帰摂理


 アダムとエバが真の父母とならなければならないのに、堕落によって偽りの父母となり、それが地上と天上でそのまま展開されたのです。「地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう」(マタイ 16章18節)。それが個人の立場から 家庭・氏族・民族・国家・世界・天宙・神様まですべて該当するのです。

 縦的な8段階路程は全体を代表した個人の路程です。その縦的な路程を経て横的な8段階路程を行かなければなりません。

 個人的な路程も家庭を中心として行かなければなりません。どのような立場であっても、サタンに神様の心情基準を奪われず、「絶対性」を守った家庭を探し立てなければなりません。

 氏族も同じです。民族・国家・世界も同じです。結局、天宙まで本然の心情基準をもって神様に侍らなければなりません。言い換えれば、霊界を解放させ、神様がすべての霊界を従えて、この地上に、来られるようにするのです。

 真の父母様が世界的なメシヤとなり、神様が霊界を従えて来られれば、世界的カナン復帰路程を完遂し、実体天一国時代を迎えるようになります。その時を迎えることのできる一点が必要なのです。それが国家です。ですから、真のお父様は「島でも一つ買って神様の国をつくろう」とも言われたのです。そのような立場から見たとき、私たち 祝福家庭が氏族的メシヤとして自分の一族をすべて祝福して、み言を訓読する家庭教会を建て、その基盤の上で祖国光復を実現すべき時が、今です。縦的・横的8段階の復帰路程を成さなければならない時になったのです。

コメント

Ⅲ-① 原理本体論 Ⅲ後編 第1章 復帰原理(p 464~490)

2020年01月06日 13時20分01秒 | 原理本体論

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もし今、あなたが人生や人間関係などでお悩みなら、もう一度「統一原理」を一緒に学び、体験してみませんか?

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Ⅲ. 後編

 第一章 復帰原理(p 464~490)

 神様は創造の設計図である創造原理によって被造万物を創造されました。
しかし人間は堕落によって原理の生活を実践することができず、また原理的な人間になることができませんでした。そのため、堕落した人間を創造本然の人間として復帰する神様の歴史が、すなわち復帰摂理歴史なのです。

 序論

 人類歴史は復帰摂理歴史です。復帰摂理は創造目的を再び探し立てようとする神様の再創造摂理であり、原理によって摂理されるので、復帰原理といいます。

 神様は創造の設計図である創造原理によって被造万物を創造されました。しかし人間は堕落によって原理の生活を実践することができず、また原理的な人間になることができませんでした。そのため、堕落した人間を創造本然の人間として復帰する神様の歴史が、すなわち復帰摂理歴史なのです。

 復帰原理は、神様が堕落した人間を導いてこられた神様の軌跡でもあります。

 堕落した人間が本然の人間に帰るためには、復帰原理を知らなければなりません。復帰原理を知らなくては、決して生命の道を探し出すことはできないのです。


 1. 復帰摂理とメシヤのための基台


 今までの歴史学者は、人類歴史を自分なりの考えで規定しました。特に共産主義の歴史学者は人類歴史は階級闘争史であるといい、歴史学者であるアーノルド・トインビー(ArnoldJosephToynbee:1889~1975)は人類歴史は螺旋形の同時性を帯びた歴史であるといいました。

 これらとは違い、「統一原理」の歴史観は「人類歴史は神様の復帰摂理歴史」であるとします。復帰摂理は神様によって導かれます。無形の本体であられる神様は、アダムの堕落以降、人類を救うために実体の息子として地上にメシヤを送られますが、そのお方が後のアダムとして来られたイエス・キリストなのです。


 1)復帰摂理

 本来、人間は、蘇生期・長成期・完成期の三段階を通して完成するようになっています。ところが人間は成長期間である長成期完成級で堕落しました。堕落した人間が再び本然の人間に帰ろうとすれば、創造原理によって復帰して行かなければなりません。

 (1)創造本然の人間と堕落人間の位置

 完成した人間の位置は、神様と一体となった立場です。完成した人間は 神様の心情と「絶対性」に似て、神様と一体となり、神様の神性に似て神聖なる神様の聖殿となります。したがって、完成した人間は 神様の心情と真の愛を所有する神様の実体の子女として、神様と同じように考え、その考えによって行動するようになるのです。

 完成した人間は、何よりも「絶対性」の価値をもった「絶対性」の人間となります。ここでの「絶対性」とは、相対性に対する概念ではなく、生殖器官を中心とした「性」の概念です。

 人間は「絶対性」を守らなければならないので、神様は「取って食べてはならない」という戒めを下さいました。アダムとエバが完成すれば、「絶対性」を完成した人間になるので、神様のみ旨も完成することになります。「夕となり、また朝となった。第一日である」というみ言はそのような意味なのです。

 ところが人間は、堕落によって原理と関係ない無原理圏に落ち、善悪の母体となりました。善悪の母体という言葉は、人間の中に善の性稟と悪の性稟、二つを同時にもっているという意味です。善なる性稟とは、神様に似た善の要素です。その善の要素が成長期を通して完成しなければならないのですが、完成することができずに堕落することによって、サタンの要素である悪なる性稟が人間に入ってきました。

 堕落した人間はサタンと一体となり、サタンの悪性に似ることでサタンの住み家となりました。したがって、堕落した人間はサタンの子女となり、サタンと同じように考え、その考えによって行動するようになったのです。

 天使長が堕落した時、偶発的に生じた性稟がまさに堕落性です。妬み・嫉妬・血気・驕慢・固執などが堕落性に該当し、その堕落性が子孫にそのまま伝わったのです。

 人間がサタンの偽りの血統を受け継いだものが、すなわち原罪です。ですから、あらゆる罪の根にあたる原罪を切り捨て、枝も切り捨て、再び接ぎ木をして創造本然の神様の息子・娘として帰らなければなりません。

 けれども、人間が原罪をもっているかぎり、堕落性を脱ぐことは、簡単ではありません。堕落した人間は信仰生活を通して堕落性を脱いだり、サタンとの関係を切ったりすることはできますが、偽りの血統を受け継いだ原罪は、自ら清算することができません。なぜなら、天使長を中心として、アダムとエバの中に原罪が入ったからです。

 原罪の清算は、神様が送ってくださるメシヤを通してのみ可能です。

 堕落した人間は万物よりも低い位置に落ちました。堕落した人間を創造本然の人間に戻すために神様は復帰摂理をされますが、人間が落ちるときは瞬間であっても、復帰するときは瞬間では復帰することができず、時間をおいて神様の摂理に従って復帰の形を整え、復帰しなければなりません。

 「復帰の形を整える」という言葉は、サタンを分立し、堕落性も脱いだが、原罪はまだもっているということです。言い換えれば、創造本然の人間として完全に復帰されたのではなく、原罪をもったまま長成期完成級まで成長したということです。ところが原罪を清算しなくては、完成期に進むことができません。堕落した人間は、原罪を脱ぐために必ずメシヤが必要であり、メシヤを通して重生しなければなりません。

 メシヤを通して重生した人間は、原理を通して成長しながら神様の心情を体恤し、その心情を完成させていくのです。ところが堕落することによって、誰もその立場にまで行くことができなくなりました。それでメシヤが来られて、蘇生期と長成期の道を開拓し、人間たちを連れていくのですが、私たち人間はメシヤに従ってその道を注意深く行かなければなりません。

 ですから、長成期完成級から完成期以前の成長期間は、復帰の道であり、蕩減の道であり、取り戻していく道なのです。長成期を歩んでいる人は復帰の道を歩んでいる途中なので、蕩減を払って行かなければなりません。

 完成期は原理の道ですが、神様の心情を完成した心情の実体となるために歩む道です。蘇生期と長成期を経て、完成期に入ると、その道は一度も行ったことがない道なので、メシヤに従って歩んでいく道だというのです。ですから、神様の心情を求め、神様の事情を知って、神様と一体となった生活の中で、内なる人が成熟し、完成するのです。

 (2)善悪の母体

 堕落した人間は善悪の母体となりました。善の要素は神様から来るのですが、悪の要素は人間が堕落した瞬間にサタンから入ってきたのです。善と悪は、人間の中で相反した作用をします。堕落した人間には善と悪が共に入っているので、善と悪の二つの要素がそれぞれ異なる作用をするのです。本来、人間には悪の要素はありませんでした。ところが堕落した瞬間、悪が完結的・決定的要素となったのです。ですから常に悪が先に発動し、現れるようになるのです。

 一方、善の要素は神様が下さった創造の本性ですが、未完成状態で堕落したので、常に善を完成させるためには、意識的に絶え間のない努力が必要です。誠意を尽くしながら善なる要素を育て、悪なる心が 現れないように努力しなければなりません。それが信仰の道なのです。

 悪は堕落の完結的・決定的な要素であるので、常に先に簡単に発動し、簡単に現れます。ですから、人間が心の中で善の要素を育てることは決して簡単ではありません。善の要素は未完成なので、常に意識的に努力して完熟させていかなければならないのです。

 (3)堕落人間の復帰

 堕落するとともに人間にサタンが入ってきました。長成期完成級までの成長期間は、サタンを分立しなければならない復帰の道であり、蕩減の道であり、取り戻していく道なのです。したがって、復帰の道はサタン分立路程です。

 サタン分立路程を通して長成期完成級まで復帰した形を備え、その上にメシヤを迎えて重生(原罪清算)し、堕落する前の立場に復帰しなければなりません。そうなれば、サタンも分立され、堕落性もない本然の人間となるのです。 そしてメシヤである真の父母様に侍り、さらに成長・完成(心情完成)して、完成実体となるのです。堕落した人間の復帰路程は、 堕落性を脱ぎ、サタンを分立して復帰した形を備えたのち、メシヤを通して原罪を脱いで完成した人間に帰るというものです。

(4)善悪闘争の立体的な役事

 堕落した人間は一人の主人にのみ仕えることができず、二人の主人に仕えるようになりました。原理的存在は一人の主人にだけ相対しなければならないのですが、堕落した人間は非原理的存在となり、二人の主人に相対するようになりました。堕落人間は善悪の母体になることによって、神様にも相対し、サタンにも相対するようになったのです。人間が二人の主人に相対するようになったことで、個人も神側とサタン側に分かれ、家庭、国家、世界も神側とサタン側とに分かれるようになりました。

 堕落した人間がもっている財物も「神側として使うのか、 サタン側として使うのか」に分けられます。 土地も「天の側として使うのか、サタン側として使うのか」、また人間も「天の側で働くのか、サタン側で働くのか」 に分かれます。理念も同じです。「天の側の理念をもっているのか、サタン側の理念をもっているのか」に分かれるのです。

 堕落した人間によって、すべてのものが二つに分かれました。堕落の結果、個人から天宙に至るまで、すべてが二つに分かれたのです。堕落した世界では、このように善と悪に分かれ、善悪闘争の立体的な役事が展開されてきたのです。

(5)摂理歴史の発展要因

 復帰摂理歴史は、人間の堕落によって成されなかった神様のみ旨を、再び成すために延長されてきた摂理の足跡です。

 なぜ神様が立てられたみ旨が成されずに延長されてきたのでしょうか。その理由を知るためには、まず摂理歴史の発展要因が何であるのかを知らなければなりません。

 神様のみ旨は、神様の責任分担と人間の責任分担が合わさって成されます。神様のみ旨完成が100パーセントだとすれば、神様の責任分担は95 パーセントであり、人間の責任分担は5パーセントです。人間が5パーセントの責任分担を果たすことによって、神様の責任分担の95パーセントも完成され、神様のみ旨も100パーセント完成されるのです。

 人間が責任分担を果たせなければ、神様の責任分担も完成されず、神様のみ旨も完成されません。アダムとエバが責任分担を完成して神様の息子・娘になれば、親なる神様も完成し、神様の願いも成就されるのです。

 したがって摂理歴史の発展の可否は、人間の責任分担の遂行にかかっています。人間が責任分担を果たせば、 歴史の中に神様のみ旨が現れ、失敗すればサタンの思惑が現れるようになるのです。


 2)蕩減復帰摂理

 (1)堕落人間は中間位置

 神様はアダムを創造した創造主なので、アダムと相対することができます。ところがアダムは成長期間に堕落してサタンと血縁関係を結びました。堕落した人間は神様とサタンの中間位置に落ちたのです。

 神様は創造主としてアダムと相対できますが、サタンは堕落したアダムと血縁関係を結んでいるので、サタンも堕落したアダムと関係を続けようとします。したがって、堕落したアダムは神様にも相対することができ、サタンにも相対することができるので、中間位置に落ちたと表現するのです。

 堕落した人間が「天の側に行くのか、サタンの側に行くのか」 ということは、神様も決めることができず、サタンも決めることができません。人間の過ちによってそのようになったので、堕落した人間がいかなる条件を立てるのかによって、神側にもなり、サタン側にもなり得るのです。善なることを考えれば、それが条件になって神側に立ち、悪なることを考えれば、それが条件となってサタン側に立つのです。財物も神側で使うことができなければ、サタン側で使われるので、悪を発展させる条件になるのです。

 (2)蕩減条件

 本然の位置と状態を失ったとき、その位置に復帰するために支払う代価を「蕩減」といいます。堕落した人間にとって蕩減という言葉は、恵みの言葉です。蕩減がなければ、堕落した人間は創造本然の立場に帰る道がありません。

 本然の位置と状態から落ちた人間が蕩減を払って本然の位置に復帰するためには、そこにある条件を立てなければなりません。堕落人間が本然の立場に帰るために、その必要を埋めるに足る条件を立てることを蕩減条件といいます。
蕩減条件は蕩減復帰のために立てる条件をいいます。

 蕩減条件は神様のみ旨に従って立てられます。堕落した人間が蕩減条件を立てて創造本然の人間に復帰していくようにする神様の摂理を、蕩減復帰摂理といいます。神様も人間が間違いを犯せば、そのまま連れていくことはできません。蕩減条件を立てないかぎり、神様は彼に手を出すことができないのです。

 蕩減条件の種類

 蕩減条件の種類には、次の三つがあります。
 第一に、同一なる価値の蕩減条件があります。旧約聖書の出エジプト記21章23節から25節を見ると、「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足……をもって 償わなければならない」と書かれています。旧約時代には目が罪を犯せば目を抜き、手が誤ったことをすれば手を切りました。これが同一なる価値の蕩減条件です。

 第二に、より小さな価値の蕩減条件があります。旧約時代を経て新約時代に入って、より小さな価値の蕩減条件を立てるようになりました。

 イエス様が来られる前のユダヤ民族は、ヨルダン川で水に浸る洗礼を受けていました。ところが今日(こんにち)のキリスト教では、ある程度の信仰を経た信徒を立てて問答したあと、数滴の水を頭の上から注いで洗礼を与えます。こうして水の中に浸って洗礼を受けたのと同じ条件を立てるのです。言い換えれば、小さな価値で蕩減条件を立てるのです。

 またイエス様は十字架に架かる前、弟子たちにパンと葡萄酒を与えながら、これは私の血と肉だと言われました。キリストの血と肉の代わりにパンと葡萄酒で食べたという条件を立てたのです。

 今日(こんにち)のカトリック教会では、聖餐式でパンと葡萄酒を与えながら、イエス様の血と肉を食べたという条件を立てます。それは単なる条件だけです。イエス様の血と肉を食べたからといって、サタンの血統が消えることはありません。しかしキリスト教徒たちは、キリストの血と肉の代わりに聖餐式のパンと葡萄酒を食べると、原罪も清算されると信じています。しかし、それはただの条件だけで、原罪が清算されたことになりません。

 韓国の諺に「千両の借りも一言で返す」という言葉があります。多くの借金があるのですが、相手を言葉で感動させて借金を返すというものです。言葉で千両の借金を帳消しにするということです。これがより小さな価値の蕩減条件です。

 第三に、より大きな価値の蕩減条件があります。犯した罪より大きな蕩減条件を立てるものです。より小さな価値の蕩減条件を立て、それに失敗すれば加重された より大きな価値の蕩減条件を立てるようになります。

 その例が、聖書の創世記に出てくるイサク献祭です。神様がアブラハムに、鳩・羊・雌牛の、三つの供え物を裂いて献祭するようにと言われたのですが、アブラハムが蘇生的象徴である 鳩を裂かなかったことで、より大きな価値の蕩減を 払うようになります。

 アブラハムが 100 歳の時に生まれたイサクを、モリア山で献祭するようになったのです。ですから、鳩を裂かなければならないのに、それをしなかったことで、100歳で得た自分の息子をモリア山に行って献祭しなければならないとてつもない蕩減条件を払うようになったのです。

 それだけではなく、イスラエルの子孫がエジプトに行って400年も苦役を経験するようになります。そのことを見ると、一度条件に引っかかれば蕩減を払わなければならず、そこで誤るとさらに重い蕩減を払わなければならないことが分かります。一代で蕩減を払うことができなければ、二代、三代まで延長してでも払わなければならないのです。

 民数記 14章を見ると、イスラエル民族がエジプトを出て、シナイ山を経てカナンに入っていく路程の中で、加重された蕩減条件が出てきます。イスラエル民族がカナンの地に行く途中、モーセが氏族を代表した支派長の12人を40日間エリコ城に偵察として送ります。

 支派長たちが偵察を終えてモーセに報告した時、二つの支派長以外の 10支派長が不信仰な報告をします。これにより、10支派長が再び不信したので、ユダヤ民族が不信した路程を 蕩減復帰することができませんでした。ですから一日(いちにち)を1年と換算して40日が40年となって荒野を流浪したのです。結局、エジプトから出てきた一世はカナンに入ることができずにすべて死に、シンの荒野で生まれた二世たちを中心としてカナンの地に入っていきます。この内容は、より大きな価値の蕩減条件を意味するものです。


 蕩減条件を立てる方法

 蕩減条件は反対の経路をたどって立てるものです。
 マタイによる福音書 27章46節には「イエスは大声で叫んで、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言われた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」という内容があります。神様はこの地に後のアダムとして送られたイエス様を見捨てました。心情的蕩減復帰のために反対の経路をたどらなければならないからです。アダムが神様を捨てたので、神様も後のアダムであるイエス様を捨てるのです。

 しかし、イエス様は神様を捨てませんでした。マタイによる福音書26章39節を見ると、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈られたイエス様のみ言が出てきます。エデンの園でアダムは神様の愛を受けていたにもかかわらず、神様を捨てました。そのような心情的過ちを蕩減するためには、神様がイエス様を捨てても、イエス様は神様を捨てないで絶対的に信じて従うことが必要だったのです。

 イスラエル民族を一度よく見てみましょう。イスラエル民族はイエス様を憎んで十字架に差し出しました。したがって蕩減復帰は、その反対にイスラエル民族がイエス様を死ぬほど愛し、十字架を代わりに負わなければならないのです。アダムは神様のみ旨に背き、神様を悲しませました。ですから、人類は神様のみ旨を愛し、神様を慰めなければならないのです。このように、蕩減条件は必ず反対の経路をたどって立てるのです。

 アダムは神様のみ旨を不信し、神様を悲しませました。けれども、アダムの子孫である全人類は神様のみ旨を愛し、神様を慰めてあげなければなりません。反対の経路をたどってこそ、帰ることができるのです。

 またアダムが神様に背いて堕落したので、人類はサタンの懐に抱かれるようになりました。サタンの懐にいる人類を取り戻し、神様の懐に送ろうとすれば、後のアダムとして来られるイエス様が、神様に捨てられた立場において、むしろ神様に従い、仕えなければならないのです。

 蕩減路程が私たちに与える教訓は、絶対に神様を恨んではならないということであり、誰も恨んではならないということです。

 旧約聖書のヨブ記2章を見ると、ヨブは過ちを犯したことがない義人でしたが、神様がヨブをサタンに差し出して迫害を受け、試練を経るようにされました。それはサタンが讒訴するからです。サタンの讒訴条件に引っかかるようになれば、神様もどうすることもできずに 差し出さなければならないのです。

 ですから、神様を絶対に恨んではいけません。どんなに難しくても、そこには必ず理由があります。私が責任を果たせば恨みの声は消えますが、責任を果たせなければ、結局、蕩減条件はそのまま残ります。試練は試練としてぶつかりながら、蕩減条件も立てられなかったということになります。ですから私たちは、困難があったとしても恨んではいけません。ヨブのように生きなければならないのです。

 ヨブ記の教訓は、万民が神様に帰るためには、罪がなくてもサタンの讒訴に勝利したという立場を 通過しなければならないということです。サタンに讒訴されず、サタンの公認を受けなければなりません。したがって、神様の子女になる道は蕩減を払う道です。形容できないような困難な立場にあっても、神様を恨んではならないのです。

 次に、蕩減条件を立てて行く道にあって、どこの誰を立てるか分からないので、私たちは、いつ、誰に出会っても恨んではいけません。相手が私を憎んだとしても、私はその人を憎んではいけないというのです。彼が私を嫌い、私が行こうとする道を妨げたとしても、絶対にそれを恨み、憎んではいけないのです。

 その中で、背後の先祖たちが犯した罪を 蕩減させようとする現象が起こったならば、それを喜び感謝する気持ちをもって、それを越えなければなりません。そうすれば、その次には自分に喜びが来て、栄光が来るのです。憎むのではなく、そのようなことを準備し、私にその道を越えさせてくださったことを、ありがたく思わなければなりません。

 私たちの中には堕落性がたくさんあります。ところが本人は、それがよく分かりません。他人の行動が憎くて「あの人はどうしてああなのだろうか。なぜ指導者がそのように考えるのだろうか」などと思います。そのようなことが起こってくれば、自分勝手に判断せずに「あの人のようにしてはいけないな。私の中にもあのような要素がある。ほかの人が私を見たときも、このように感じ、このように考えただろうな」と思わなければなりません。

 私にその人がそのように映ったということは、自分の中にも同じような要素があるということを見せてくれる、一つの見本を示してくれたのです。そのようなときは、その人を見て批判し、恨んではいけません。「私の中にそのような要素がないか、今まで私は 他人を傷つけたり、心情的に苦痛を与えたりしていないか」をまず考えてみなければなりません。ですから、先に恨むのではなく、蕩減条件は反対の経路をたどって立てられるということを考えなければなりません。


 蕩減条件を立てる人物

 蕩減条件は堕落した人間自身が立てるものです。蕩減条件は親が代わりに立ててあげることはできず、子が親に代わって立ててあげることもできません。また兄が弟の代わりに、弟が兄の代わりに蕩減条件を立ててあげることもできません。

 堕落した人間が創造本然の人間に帰ろうとすれば、四つの条件が必要です。

 第一に、堕落性を脱ぐための蕩減条件を立てなければなりません。蕩減条件を立てなければ、創造本然の人間に絶対に帰ることはできません。

 第二に、蕩減条件は三つあります。それは、同一の価値の蕩減条件、より小さな価値の蕩減条件、より大きな価値の蕩減条件です。その中で、必ず一つを立てなければなりません。

 第三に、蕩減条件は必ず反対の経路で立てなければなりません。

 第四に、蕩減条件は堕落人間自身が立てなければなりません。


 堕落人間が立てなければならない蕩減条件

 堕落人間が立てなければならない蕩減条件が何であるかを知るためには、まずアダムとエバが立てるべき本来の条件が何であるかを知らなければなりません。なぜならば、蕩減条件は反対の経路をたどって立てられるからです。アダムとエバが堕落しなかったならば、蕩減条件は必要ありませんでした。堕落したので、蕩減条件を立てて帰らなければならなくなったのです。

 本来、アダムとエバが立てるべき条件が二つありました。
 まず第一の条件は、縦的な信仰基台です。アダムとエバは神様のみ旨を絶対に信じて実践し、み言の実体にならなければなりませんでした。み言の実体になった人格完成者は、真の愛を実践することができる心情の完成者です。人格の完成者と心情の完成者になる条件は、神様の「取って食べてはならない」という「絶対性」を守ることでした。神様の下さったみ言を信じ、実践して、み言の実体、すなわち人格の完成者になることが縦的な信仰の基台です。

 縦的な絶対信仰の基台を立てたあと、次に立てなければならない第二の条件は横的な実体基台です。信仰基台は神様のみ言を信じて実践することで立てられます。それでアダムとエバはみ言の実体となり、人格の完成者となります。人格完成者という言葉は、人格が真の愛の実践によって現れる実(み)なので、真の愛の実体だという意味であり、真の愛とは心情の根から出てくるので心情の完成者だという意味です。

 心情は神様の本質的な属性です。ですから、「絶対性」の上に立てられたアダムとエバが神様を中心として夫婦となり、神様がその中に入って実体をもった愛で一つになれば、僕である天使長がいくら誘惑しようとしても誘惑されないのです。

 しかし、アダムとエバが完成する前に、偽りの天使長が入ってアダムとエバを堕落させました。天使長はアダムを愛さなければならず(愛)、アダムを仲保として立てなければならず(仲)、アダムに従順に屈服して (屈)、アダムを通して (通)、神様の前に出ていき、従順にならなければならなかったのですが、むしろ妬み、嫉妬し、血気に走り、驕慢になって、結局は悪を繁殖する存在になったので、実体基台が立てられませんでした。

 アダムが神様のみ言を信じて実践し、み言の実体になることで人格の完成者になることが縦的な信仰基台だとすれば、人格完成者として万物と天使を主管し、被造世界の秩序を立てるのが横的な実体基台です。

 アダムが信仰基台と実体基台を立てたならば、彼は天宙の中心人物になったはずです。ところがアダムは、神様のみ言を守りながら生きることができませんでした。本来、アダムとエバが立てるべき蕩減条件は、縦的に神様のみ言を信じて実践する信仰基台を立て、横的に人格の完成者として天使と万物を主管することができる実体基台を立てることでした。ですから、天使長はアダムに「愛仲屈通」しなければならないのです。その立場を立てるのが、本来、神様の秩序であり、み旨であり、理想だったのです。


 堕落性を脱ぐための蕩減条件

 堕落性は天使長・アダム・エバが堕落した時に、天使長から偶発的に人間に入ってきた悪なる性稟です。堕落性を脱ぐための蕩減条件は、信仰基台を立て、実体基台を立てることです。

 本来、神様は親なのでアダムとエバを子女として愛しました。神様はアダムとエバに「取って食べてはならない」というみ言を下さり、アダムとエバはそのみ言を守らなければなりませんでした。アダムとエバの成長期間の間は、神様も干渉することができないので、自己の責任分担で自ら成長し、完成しなければならないのです。

 天使長は僕の立場でしたが、神様の立場で愛し、アダムとエバが成長し、完成するように助けなければなりませんでした。ところが天使長は神様の立場で愛し、アダムとエバを助けるどころか、むしろ妬み、嫉妬しました。そしてアダムを仲保として立ててアダムの前に従順・屈服しなければならないのに、血気に走って自分の存在位置を離れたので、サタンになりました。

 その上、天使長は、アダムの主管を受けなければならないのに、むしろ逆に主管しました。逆主管とは、天使長がエバを主管し、エバがアダムを主管したことです。それによって天使長に驕慢心が生じ、原理的な神様の立つ位置がなくなってしまいました。

 堕落した人間が堕落性を脱ぐためには蕩減条件を立てなければなりません。天使長はアダムを愛さなければならず、アダムを仲保として立てなければならず、アダムに従順・屈服し、アダムを通して神様の前に出ていき、アダムを通して神様の善なるみ旨を受けなければなりません。

 アダムの立場に立っている人と、天使長の側にいる人が関係を結ぶとき、必ずこのように蕩減条件を立てなければなりません。堕落性を脱ぐ蕩減条件は、アダムを愛し、彼を仲保として立て、従順・屈服し、彼を通して神様の前に出ていくという条件を立てて、サタンの要素を取り除き、サタンを分立しなければならないのです。一言で言うと、天使長の立場に立った人間は、アダムの立場に立った人間に、「愛仲屈通」をしなければならないということです。

 

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Ⅱ-㊷ 原理本体論 Ⅱ前編 第7章 キリスト論(p 443~460)

2019年12月18日 10時52分31秒 | 原理本体論

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 原理本体論 Ⅱ.前編


 第7章 キリスト論 (p 443~460)


 序論

 イエス・キリストに関する神学理論をキリスト論と言います。キリスト論はキリスト教の綱領です。政治家が属する 各政党にも綱領があります。どの団体にも綱領があってそれを重要視します。

 キリスト論はキリスト教の綱領であるにもかかわらず、キリスト教徒の中でキリスト論をはっきり知り、説明できる人はそれほど多くありません。そのため、キリスト教の教理研究と信仰生活に少なからず混乱を引き起こしてきたのです。

 救いに向かっていく人間には解決すべき問題がたくさんあります。その中でも重要なのは、神様を中心としたイエス様と聖霊の関係、イエス様と聖霊と堕落した人間との関係、重生(新生)と三位一体などに関するものです。それらがキリスト論で扱うべき問題です。


 1. 創造目的を完成した人間の価値


 イエス・キリストは神なのか、それとも人間なのか。また、イエス様はどんな価値をもっているのか。それらをまず糾明しなくては、イエス様と聖霊の関係、イエス様と聖霊と重生の問題を解決することはできません。

 イエス様が誰なのかを知るためには、まず創造目的を完成した人間の価値がいかなるものなのかを知らなければなりません。


 1)神様と完成した人間の二性性相的関係

 人間始祖であるアダムは堕落しなかったならば、創造理想を完成した人間になっていたはずです。

 しかし、アダムは堕落して神様が立てられた創造目的を完成することができませんでした。神様が望まれた創造目的を完成した 人間の価値を喪失してしまったのです。ですから、人間の価値は一握りの土にも及ばない存在に落ちてしまいました。

 神様は本性相と本形状の二性性相として存在されます。人間に置き換えてみれば、本性相は心のようなものであり、本形状は体のようなものです。心は見えませんが主体の立場に、体は見えますが対象の立場にあります。見える体は見えない心に似た 第二の心です。

 手相や観相・骨相など、姿を見ながら見えない心の世界を予測し、測量するように、体はまさに見えない心を展開した実体なのです。だからと言って、私たちは 体を心だとは言いません。体は心と同じ価値をもっているのです。

 完成した人間と神様の関係はちょうど体と心の関係のようなものです。完全な神様のように、人間も完成すれば完全なものになるのです。人間が完成すれば神様の神性に似て、神様の神聖な聖殿になります。神人一体となるのです。そのようになったとき、人間は神的価値をもつようになり、永遠の価値をもつようになります。だからと言って、人間がすなわち神様なのではありません。


 2)創造目的から見た 人間の価値

 神様の性相の中には内的性相があり、内的形状があります。内的形状は神様の多様な個別相です。その個別相の中で独特な一つの個別相をもって現れた実体がまさに人間です。ですから、人には各自の個性があります。

 ある人は神様の中にある Aという個別相を現し、ある人は Bという神様の個別相を現します。彼らはそれぞれ、神様の前に 唯一なる個性真理体です。完成した人間は神様がもっていらっしゃる無数の属性の中から、独特な一つの個別相をもって生まれた唯一の個性体なのです。

 ですから、唯一無二の価値を有します。個人は過去にもおらず、これからやってくる未来にもいない、唯一 人しか存在しない個性真理体です。それは、神様の中にある 唯一の個性体をそのまま受け継いだからです。


 3)人間と被造世界との関係

 神様はご自分の形状どおりに人間をつくりました。そして人間を見本としてあらゆる被造物を創造しました。

 人間は、本性相と本形状の二性性相として存在される神様に似て霊人体と肉身をもっていますが、霊人体は見えず、肉身は見えます。ですから、見えない霊人体は無形実体世界と関係を結び、見える肉身は有形実体世界と関係を結ぶようになっています。無形実体世界と有形実体世界、この二つの世界を天宙と言います。

 無形実体世界と有形実体世界は人間を中心として互いに和動し、人間が中心となって二つの世界を主管するようになっています。したがって、人間は天宙の総合実体相であり、完成した人間は天宙的な価値を有するのです。


 2. 創造目的を完成した人間とイエス様

 創造目的を完成した人間とは、神様の中から分立されて現れた心と体が完成して神様と一体となった人間であり、その人間は神的な価値・永遠の価値・唯一無二の価値・天宙的な価値をもつのです。それがまさに完成した人間の価値です。

 イエス様は神様ではなく、神様の中から分立された心と体をもった、神様と一体になったお方です。ですから、イエス様は神的な価値・永遠の価値・唯一無二の価値・天宙的な価値をもっていました。イエス様は、神様がこの上なく望んでこられた 創造目的を完成した人間の価値をもったお方なのです。

 イエス様は私たちと同じ形状をもっていますが、価値から見たときには 私たち 堕落した人間とは全く異なります。イエス様は創造目的を完成した人間であり、後のアダムとして来られたお方なのです。イエス様はアダムが堕落せずに完成しなければならなかったその基準を満たしたお方です。イエス様はアダムが望んだ生命の木であり、創造理想を完成した男性です。

 創造目的を完成した人間の価値は、神的価値,永遠の価値・唯一無二の価値・天宙的な価値、この四つの価値を超えることはできません。どれほど価値を付与したとしても、創造目的を完成した人間の価値以上に価値の基準を高めることはできないということです。私たちが イエス様の価値をどれほど高めても、神的な価値・永遠の価値・唯一無二の価値・天宙的な価値以上に高めることはできません。

 イエス様は価値から見ると、神的な価値をもっていますが、だからと言ってイエス様がすなわち神様ご自身ではありません。ここにおいて、今までのイエス様が神様ご自身なのか、それとも人間なのか、という論争は終結します。イエス様はまさに、創造目的を完成した人間であり、神的な価値をもたれたお方だからです。


 1)生命の木の復帰から見た完成したアダムとイエス様

 「生命の木」に関する記録は聖書に何度か出てきますが、最初は旧約の創世記2章9節に出てきて、最後に新約のヨハネの黙示録22章19節に出てきます。

 エデンの園の生命の木は、「創造原理」でお話ししたとおり、完成したアダムを象徴します。創造理想を完成した男性を指して生命の木に例えたものです。ところが、アダムは堕落して生命の木になることができませんでした。そのため、後のアダムが来られることになるのです。

 イエス様は後のアダムであり、生命の木の実体として来られました。イエス様は創造理想を完成した男性として来られたのです。生命の木の復帰から見るとき、完成したアダムとイエス様の価値は同じです。


 2)イエス様はすなわち神様なのか

 今まで多くのキリスト教徒は イエス様を 神様だと信じてきました。聖書では イエス様を 神様と見ざるを得ない記録があります。

 なぜキリスト教徒は イエス様を 神様だと信じているのか、そのように信じさせる聖書の句を一つずつ見てみましょう。

 (1)ヨハネによる福音書14章9節

 ヨハネによる福音書14章を見ると、ピリポがイエス様に「主よ、わたしたちに父を示して下さい」(8節)と要請します。その時、イエス様がピリポに「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか」(9節)とおっしゃいました。このみ言を文字どおりに見ると、イエス様はまさに神様となります。多くの人がこのみ言を根拠として、イエス様を 神様だと信じているのです。

 しかしこの聖句は、人間の心と体の関係に比較してみれば簡単に理解することができます。心が主体であり第一の心だと言うならば、その対象である体は心に似た第二の心です。だからと言って、体が心それ自体ではありません。

 同様に、神様とイエス様の関係に置き換えて見ると、神様は第一創造主としての神様であり、イエス様は神的な価値をもつ 第二創造主です。イエス様が責任分担として自分の人格を創造することによって、神様の創造性をもたれたからです。価値から見たとき、イエス様は神的な価値をもってはいますが、神様そのものではありません。

 ローマ人への手紙8章34節を見ると、「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは死んで、否、よみがえって、神様の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」 というみ言があります。このみ言を見れば、イエス様は神様ではなく、神様の右にいらっしゃるお方です。

 マタイによる福音書27章46節を見ると、「『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言われた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」と十字架の上(うえ)で言われたイエス様の祈りが引用されています。

 また、ヨハネによる福音書17章1節を見ると、「これらのことを語り終えると、イエスは天を見あげて言われた、『父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい」」というイエス様の祈りの場面も描写されています。

 天を見上げて父と呼んだという言葉は、神様は父であり、イエス様は息子だという事実を教えてくれるものです。

 イエス様は40日断食を行ったあと、サタンの試練を受けました。そして、のちに十字架で亡くなられました。もしイエス様がキリスト教徒が信じているように神様そのものであったなら、神様が40日断食を行いながらサタンに試されたという話になり、イエス様は十字架で死んだので神様は死んだと見ることができるのです。

 もしイエス様を 神様と見るならば、神様は死んだという途轍もない結果を招くことになります。したがって、イエス様は神的な価値をもってはいても 神様ではありません。

 (2)ヨハネによる福音書1章10節

 ヨハネによる福音書1章10節には「彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた」 というみ言があります。この世が彼によってできたという言葉を 文字どおり解釈すれば、イエス様はまさに 神様だと見ることができます。しかし、このみ言もそのような意味ではありません。

 ヨハネによる福音書1章3節を見ると、み言によって被造万物は創造されています。初めに神様がみ言とともにあり、み言によって世がつくられることになりました。み言がすなわち神様であり、み言の受肉者として来られたお方がイエス様です。

 ヨハネによる福音書1章14節を見ると、「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」というフレーズがあります。

 言い換えると、イエス様はみ言が受肉されたお方です。イエス様はみ言の実体として来られたお方です。イエス様は創造目的を完成したお方であり、天宙の総合実体相であり、創造性をもってあらゆるものをつかさどり主管できる、創造主の立場にあられるお方です。

 アダムの堕落によって万物も本然の主人を失って嘆いています(ロマ書8章22節)。イエス様は、アダムが完成できなかった 本然のみ旨を完成した 後のアダムとして来られたので、イエス様によってあらゆる被造物は本然の創造の価値を表すようになったのです。そのような意味から見て、イエス様によって被造物がつくられたと表現されたのです。完成した人間によって創造の価値が実現されたと見ると、イエス様は創造主の資格をもつお方だと言うことができます。しかし、イエス様がすなわち神様ではありません。

 (3)ヨハネによる福音書8章58節

 ヨハネによる福音書8章58節を見ると、「イエスは彼らに言われた、『よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである』」というみ言があります。イエス様は血統的に見るときにはアブラハムの子孫ですが、復帰摂理歴史から見るときには人間の祖先です。

 イエス様は全人類の原罪を清算するために来られたお方です。人間始祖アダムでさえも原罪を清算し、本然の人間に戻っていけるようにしなければなりません。イエス様は血統的に見ればアブラハムの子孫ですが、復帰摂理から見るときにはアブラハムの祖先になるのです。

 ですから、イエス様は「アブラハムの生れる前から わたしはいるのである」と言われたのであり、イエス様がすなわち神様であるから、アブラハムよりも先にいたと 言われたのでは決してありません。結論は、イエス様は神様ではなく、神様の第一祝福を完成した人間だということです。


 3. 堕落人間とイエス様


 イエス様は完成した人間であり、被造世界の主管主であり、原罪たいじゅつのないお方です。また、神様の心情を体恤されたお方であり、真の愛の実体として来られたお方です。そして世を救う救い主として来られたお方です。

 堕落した人間は、完成した人間の価値を喪失しました。それによって人間は、被造世界を主管する資格を喪失し、むしろ悪(あく)の主管を受けるようになりました。万物も嘆く人間となり、原罪をもつ人間になりました。真の愛の実体にもなれず、神様の心情を体恤することもできなくなりました。したがって、堕落した人間はイエス様を通して救いを受けなければなりません。

 堕落した人間とイエス様の関係について見ると、イエス様は人間を救う救い主であり、堕落した人間はイエス様によって救われなければならない対象です。堕落した人間がイエス様を通して重生することが救いです。イエス様を通して重生すれば、復帰した人間になるのです。

 イエス様と復帰された人間はどう異なるのでしょうか。
 イエス様は教会のかしらです。復帰された人間は体であり、肢体です。ヘブル人への手紙1章6節で、神様はイエス様を 長子だと言いました。

 イエス様が本神殿であるなら、復帰された人間は 分神殿です。
 イエス様がぶどうの木ならば、復帰された人間はその枝です。枝はぶどうの木についていてこそ、実(み)を結ぶことができます。

 イエス様が最初に熟した実(み)ならば、復帰された人間は次に熟した実(み)なのです。
 イエス様が真の父母ならば、復帰された人間は真の子女です。


 4. 重生論と三位一体論


 堕落した人間が重生を得ると、ようやく本然の姿に復帰した人間となります。このキリスト論で言う重生とは、メシヤを中心として成される堕落人間の復帰を言います。

 キリスト論を十分に理解しようとするならば、重生と共に三位一体が何なのかを知らなければなりません。


 1)重生論

 重生(新生)はほかの言葉では「生まれ変わること」を言います。原罪のために死んでいた霊が、イエス様を信じることによって新しい人として生まれ変わることを、キリスト教の言葉で重生と言います。重生という言葉は、メシヤを通して救われ、本然の人間に戻るという意味です。

 (1)重生の使命から見た イエス様と聖霊

 堕落した人間を 生まれ変わらせるために来られたお方が、まさに後のアダムであられるイエス様です。

 では、イエス様お一人でこの堕落した人間を生まれ変わらせることができるのでしょうか。

 そうではありません。父一人では子どもを生むことはできません。母がいてはじめて子どもを生むことができるのです。堕落人間の重生も同じです。後のアダムが来たならば、後のエバが来なければなりません。重生の使命から見たイエス様と聖霊という言葉がここから出てくるのです。

 神様を中心としてイエス様と聖霊がいます。イエス様は実体として来られた後のアダムです。そうすると、後のエバの実体も来なければなりませんが、イエス様は後のエバの実体を見い出すことができませんでした。

 伝道の書7章28節を見ると、「わたしはなおこれを求めたけれども、得なかった。わたしは千人のうちにひとりの男子を得たけれども、そのすべてのうちに、ひとりの女子をも得なかった」とあります。千人の男のうち一人の男を得たが、千人の女のうち一人の女も得ることができなかったことが、神様の悲しみであり嘆きです。つまり、イエス様は探し求めたのに、イエス様の実体の相対を得ることができなかったという話です。

 ここで言う聖霊とは真の母であり、後のエバです。聖霊とは神様の中にある「絶対性」、すなわち真の母の性をそのままもって現れたお方です。聖霊は慰労の神であり、感動の役事を繰り広げる神です。また、地上で罪を洗う役事を行います。ですから、聖霊の役事を受けなければ感動の涙もなく、イエス様を信じることのできる強力な愛の力も誘発されません。

 反面、イエス様は霊界で役事をされます。イエス様は肉身を失ってしまったので、聖霊を実体として迎えることができずに霊界に行かれ、霊的な父となりました。ですから、霊的な母として迎えることになったお方が聖霊です。イエス様は霊界で真の父として役事され、聖霊は実体として迎えられなかったとしても神様の中にいた女性の実体として、地上で霊的な真の母の役事をされるのです。

 「統一原理」では、聖霊をイエス様の新婦と見ます。新婦は新郎のために生きます。また、新郎の愛を受けて生き、新郎を尊敬します。それと同様に、聖霊は、聖徒たちがイエス様を愛し、イエス様のために自分の全生命までささげながらも 感謝できるように役事します。聖霊は地上においてイエス様を 尊敬し、愛そうとしていた心を 聖徒らがもって生きることができるように役事するのです。

 キリスト教の指導者は聖霊の役事をもたなければ、聖徒たちを正しく指導することができず、聖徒たちは正しい信仰の道を行くことが困難です。聖霊は慰労と感動の役事と共に涙の役事、罪を洗う役事を行います。聖霊の役事は地上で起こる母の役事なので温かいものです。聖霊の役事を受ければ、感動が大きくなり、主のためにさらに熱心に働く聖徒となり、信仰者になるのです。


 重生の意味を知るためには、まず神様の「絶対性」を知り、イエス様と聖霊の関係を知らなければなりません。

 神様は本陽性という真の父の「絶対性」と、本陰性という真の母の「絶対性」の本体として存在されます。「絶対性」の本体としての存在される神様の中から、真の父の「絶対性」の精子をもって来られたお方が、まさに真の愛の種をもった実体の真の父です。そして神様の「絶対性」の本体に似て、真の母の「絶対性」の卵子である生命の体をもって顕現されたお方が実体の真の母です。

 真の父と真の母の実体となるために、最初にこの地に来た人がアダムとエバです。ところがアダムとエバが堕落して、その立場に立つことができませんでした。そのため、イエス様が神様の中から実体をもって後のアダムとして来られたのです。

 神様がアダムを創造し、アダムの肋骨でエバを創造したように、後のアダムとして来られたイエス様も、イエス様に似たそのような女性を探し求めて完成させなければなりません。ところが、イエス様は十字架で亡くなられたことで、その女性を見い出すことができませんでした。神様が準備してくださったのに、環境が伴わなかったために、イエス様はその立場に進むことはできませんでした。ですから、イエス様は実体の真の父になることができず、霊的な真の母を迎えるしかなかったのです。

 聖霊として来られる真の母の卵子は、赤ん坊の種を受けて種(たね)を完成させる風呂敷のようなものです。その種(たね)は完成すれば父のような実体になります。実体は父の精子、種(たね)の中にあります。その種(たね)を風呂敷のような卵子で保護して、育てあげなければならないのが母親です。

 ところが、聖霊は実体の体をもつことができない母となりました。ですから、イエス様と聖霊、すなわち霊的父と霊的母の役事を受けて重生すると、原罪が脱げて実体的な息子・娘になるのではなく、霊的救いのみを受けた聖徒になります。霊的救いとは、一種の養子になるための手順だと言うことができます。養子には肉的救いが残っているのです。

 実体的な息子・娘になるためには、実体の真の父と真の母を通して生まれ変わらなければなりません。実体を通してこそ、霊的重生だけでなく霊肉共の重生が成されるのです。

 ですから、神様は後のイエスとして三番目のアダムである再臨主を送られます。再臨主は霊肉をもって来られ、この地上で再臨の聖霊として霊肉をもつ女性を準備されます。その二人のお方が小羊の婚宴によって夫婦になれば、霊的に重生していた養子がその夫婦の実体の愛に感化,感動して、霊肉共の重生をするようになります。そうしてはじめて、原罪を脱いだ実体的な息子・娘になるのです。養子から実子になるのが、霊肉共の重生です。

 (2)ロゴスの二性性相から見たイエス様と聖霊

 神様の中からロゴス(logos:み言)の実体として来られたお方がアダムとエバです。ところが、アダムとエバが堕落して死人となりました。ですから、イエス様は堕落した人間を再び生むために後のアダム、人類の真の父として来られたのです。

 ここには当然、後のエバ、すなわち人類の真の母が存在されなければなりません。そのお方がまさに聖霊です。後のアダムとして来られるイエス様は真の父であり、後のエバとして来られる聖霊は真の母です。

 しかし、イエス様が聖霊を迎えることができずに十字架で亡くなられたので、聖霊は実体のない霊になりました。実体のない霊なので、聖霊と呼ぶのです。

 (3)イエス様と聖霊による霊的重生

 本来、神様は、アダムとエバが個性を完成したのちに夫婦となり、子女を生んで四位基台を成すことを望みました。そのようになれば、アダムとエバは真の先祖となり、真の夫婦となり、真の父母となります。またアダムとエバの息子・娘は、真の子女となります。アダムとエバは霊肉を完成した人間となるのです。その家庭で子女を繁殖すれば、真の家庭の血統がそのまま氏族・民族・国家・世界へと拡大されます。

 ところが、アダムとエバの堕落によってサタンが主人となりました。アダムとエバは偽りの先祖となり、偽りの夫婦となり、偽りの父母となりました。そしてサタンの血統を受け継いだ 偽りの子女を生むようになりました。人類の先祖が偽りの血統を受け継いだので救いの摂理によって 血統を整理しなければなりません。

 神様はサタンの子どもを神様の真なる子女として復帰するために、救いの摂理を行ってこられました。神様の創造理想の中には堕落はありません。人間を堕落していない創造本然の人間として復帰することが救援摂理であり、復帰摂理です。

 救援摂理、すなわち復帰摂理のためには、神様を中心として後のアダムがいて、後のエバがいなくてはなりません。神様はこの地に後のアダムとしてイエス様を送られました。そのイエス様が十字架で亡くなられたために、実体の後のエバを迎えることができませんでした。それゆえ、聖書に「千人のうちにひとりの男子を得たけれども、そのすべてのうちに、ひとりの女子をも得なかった」(伝7章28節)とあるのです。

 聖霊は実体をもたない母の霊です。イエス様と聖霊は実体がないので、霊的に愛を分かち合うほかありません。その愛の感動によってこの地で再び生まれた人が聖徒であり、それが重生した霊的な子女です。彼らは霊的にのみ重生したので、養子になるのです。肉身がないので、いまだに肉的に重生ができていない状態です。ですから、子どもは子どもでも、血統が異なる霊的な子どもだということです。

 養子は血統は異なりますが、法的に認められた子女です。それがキリスト教の養子圏です。ですから、聖書で見ると、「心の内でうめきながら、子たる身分を授けられることを待ち望んでいる」(ロマ書8章23節)とあるのです。

 嫡子になれず、霊的な養子になるだけでは、原罪を脱ぐことができません。人間にまだ原罪が残っているとすれば、肉的な重生を成してくれる父と母がいなければなりません。ですから、神様はこの地に再臨主と再臨の聖霊を送ってくださるのです。再臨主は再臨の父となり、再臨の聖霊は再臨の母となります。

 ヨハネの黙示録19章7節を見ると、小羊の婚宴を行うとあります。21章9節にも「…七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、『さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう』」という聖句があります。再臨主が女性と出会って結婚することが小羊の婚宴です。再臨主と再臨の聖霊の愛に感動・感化すれば、霊肉で復活・重生した子女になります。

 イエス様と聖霊による重生は霊的重生であり、真の父と再び来られる真の母を中心とした重生は、霊肉共の重生です。霊肉の重生とは、実体の子女、すなわち霊肉が完成した子女として再び生まれるものです。

 再臨主がこの地に来られれば、救いの摂理は完成されますが、その時に堕落圏の人間と養子圏のキリスト教徒はみな、再臨主の中に再び入っていき、出てこなければなりません。人間は霊肉実体をもった真の父母様の血肉の中に入っていって、出てくる時、霊肉が重生して実体の子女となります。サタン圏にいる人間が真の父の子女として生まれ変わって、神様の善主管圏に復帰されるのです。


 2)三位一体論

 重生によって神様の創造目的を成すために、イエス様と聖霊は神様を中心とした四位基台を成さなければなりません。そのとき、イエス様と聖霊は神様を中心として一体となります。それが、すなわち三位一体です。

 三位一体とは、三つの位置にいる存在が一つの体を成しているという言葉です。父・み子・み霊の三位神を、今までは三位一体だと見ていました。しかし、個体はどこまでも個体であり、神様は父です。イエス様は神様の息子であり、聖霊はイエス様の夫人です。

 またアダムは神様の息子であり、エバは神様の娘であり、将来、アダムの夫人になる人です。ですから、神様・アダム・エバ、神様・イエス様・聖霊、これらは各自がどこまでも個体です。しかし、み旨から見ると、この三つの存在は一体です。


 み旨から見た三位一体

 「統一原理」で見る三位一体は、個体として見る三位一体ではなく、み旨から見た三位一体です。

 神様は二性性相の神様です。また二性性相の実体としてアダムをつくりました。神様はアダムを神様の息子であるとともに、神様の体としてつくりました。またアダムの肋骨でエバをつくりました。ですから、エバがアダムと一体となれば、神様の中からアダムが出てきたので、結局、エバも神様と一つになるのです。したがって、三つの存在はみ旨から見たときは一体です。神様のみ旨がアダムのみ旨であり、アダムのみ旨がエバのみ旨であり、エバのみ旨が神様のみ旨なのです。

 本然の三位一体は神様を中心としたアダムとエバの霊肉としての三位一体です。しかし堕落した三位一体は、サタンを中心としたアダムとエバの三位一体です。

 アダムとエバは霊と肉で堕落しました。したがって、復帰された三位一体は、神様を中心としたイエス様と聖霊の霊的な三位一体、または再臨のイエス様と再臨の聖霊の霊肉を備えた三位一体、言い換えれば、神様の実体として訪ねてこられた真の父と真の母の三位一体です。神様・父・母は個体として見るときには異なりますが、み旨から見るときには一つです。

 絶対的なみ旨を成すために、神様とアダムは真の父であり、エバは真の母です。ですから「統一原理」では個体として見た三位一体ではなく、み旨から見た三位一体だといいます。

 神様・アダム・エバは本然の三位一体とならなければなりませんが、堕落によって堕落した三位一体になったのです。

 

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Ⅱ-㊶ 原理本体論 Ⅱ前編 第6章 予定論(p 431~441)

2019年12月08日 10時08分54秒 | 原理本体論

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 原理本体論 Ⅱ.前編

 第6章 予定論(p 431~441)

 
 序論

 予定論とは、人間個人の運命や国家の興亡盛衰が人間の行為や努力により成されるものではなく、神様の意思によりあらかじめ定められているという学説です。

 特にキリスト教では予定論を中心として「堕落人間の救いと滅亡はあらかじめ定められている、定められていない」という論争が絶えることがなく、信仰生活に大きな混乱を与えています。

 このような論争は聖書を見る視点の違いから来るものです。聖書には、予定論を肯定する側面と否定する側面の 相反する預言が出てきます。

 肯定的な預言を見てみると、ローマ人への手紙8章29節と30節には「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」というみ言があります。

 ローマ人への手紙9章15節と16節には、「神はモーセに言われた、『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』…ただ 神のあわれみによるのである」とあります。すなわち、神様はいつくしもうとする人、あわれもうとする人をあらかじめすべて定めておられたということなのです。

 また、ローマ人への手紙9章21節には「陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか」という記録があります。このように、神様も人の貴賎を予定なさるというのです。

 ローマ人への手紙9章11節から13節を見ると「まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、わざによらず、召したかたによって行われるために、『兄は弟に仕えるであろう』と、彼女に仰せられたのである。『わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ』と書いてあるとおりである」とあります。

 神様はイサクとリベカの双子の息子、エサウとヤコブのうちエサウは憎み、ヤコブは愛したというのです。まだこの世に生まれてもいないのに、兄が弟に仕えるということは 予定されていると見ることができます。

 反面、予定説を否定する聖句もあります。
 マタイによる福音書7章7節を見ると、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」とあります。求め捜すことは私たち人間の責任です。人間の努力によってみ旨が成就されるかどうかが決定されるということなのです。

 ヤコブの手紙5章14節を見ると、「あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい」とあります。

 病んでいる兄弟がいたなら、信仰のある長老と一緒に行き、心を一つにして祈れというみ言です。もし彼が病気であることが予定されていたならば、なぜ長老と一緒に行って祈れと言ったのでしょうか。それは予定されたことではなく、人間の努力如何によって成されることもあれば、成されないこともあるという意味です。

 創世記2章17節を見ると、「善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」という記録があります。善悪の果を取って食べれば死に、取って食べなければ死なないということです。これもやはり、善悪の果を取って食べる、食べないは、予定されたことではなく、アダムとエバの行動(責任)にかかっているという意味です。

 創世記6章6節に「主は 地の上に人(ひと)を造ったのを悔いて、心を痛め……」という聖句も同様です。アダムの堕落ののち、人間が多くの罪悪を犯したため、神様は人をつくったことを悔いたというのです。

 アダムの堕落は予定されたものではありません。神様は創造理想によって人間を善なるものとしてつくりましたが、人間が堕落して多くの罪を犯し、原罪をもつ子孫を繁殖したために神様が嘆かれたのであり、嘆くために神様が人間を 創造されたのではありません。人間自身の責任分担如何によって堕落することもあり、堕落せずに完成することもあるのですが、責任を果たせずに堕落し、罪を犯したのです。

 上記で見たとおり、絶対的に予定を後押しする聖句の記録もあるし、それを否定する聖句もあるのです。


 1. み旨に対する予定

 統一原理では神様が予定されることはされますが、み旨に対してのみ絶対的に予定されると見ます。み旨を成すにおいては、予定されたとおりにのみなるのでなく、自分自身の努力如何によって預言が成就することもあるし、成就しないこともあります。

 神様が立てられたみ旨は唯一であり、永遠・不変であり、絶対的です。神様は絶対・唯一・不変・永遠なので、神様が立てられたみ旨も絶対・唯一・不変・永遠だというのです。神様の予定とは、人間の生死、地獄や天国に行くというような 予定ではありません。

 神様のみ旨に対する予定は絶対的です。復帰摂理の目的が創造目的を絶対的に成すことであるように、神様の絶対・唯一・不変・永遠なるそのみ旨は完成させなければなりません。ですから、神様のみ旨に対する予定は絶対的です。


 2. み旨成就に対する予定

 神様の絶対的な予定を成就するにおいては、神様だけでなく人間が絶対に必要です。ですから、神様はみ旨成就に対する予定、すなわち、み旨を成すための予定を立てました。神様のみ旨は創造目的を実現することですが、それは絶対的です。神様が復帰摂理を行われてきたのも、絶対的な創造目的を実現するためです。

 創造目的を実現するというみ旨の成就は、神様の責任分担に人間の責任分担が加担されて成されます。神様の責任分担95パーセントはあらかじめあるものなので、人間の責任分担5パーセントのみを果たせば、100パーセントの絶対的なみ旨が成就しますが、人間の責任分担5パーセントがなければみ旨は成就しません。ですから、人間の責任分担が重要なのです。

 既に申し上げたとおり、アダムとエバが完成すれば、神様の子女が完成します。完成した子女は父母を完成させます。父母が完成すれば、最初に計画された神様のみ旨が成就されます。神様によってみ旨が成されるのではなく、人間に与えられた責任分担を成し遂げることによって、み旨が成されるのです。

 マタイによる福音書7章7節の「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」というみ言は、人間に果たすべき責任があるために下さったみ言です。

 神様のみ旨に対する予定は絶対的ですが、み旨成就に対する予定は相対的です。人間が責任分担を果たせばみ旨は成されますが、責任分担を果たせなければ、み旨は成されないということです。

 人間が責任を果たすか、果たせないかによって、み旨が成就するか、成就しないかが左右されるので、み旨の成就は絶対的ではなく、相対的です。み旨全体は絶対的ですが、み旨の成就に関しては相対的に予定されたという話です。


 3. 人間に対する予定

 神様のみ旨を成すためには、人間の役割が絶対的です。神様はみ旨成就のために、どのように 人間に対する予定をされたのでしょうか。

 神様のみ旨とは救いの摂理全体を成すことですが、その救いの摂理全体は 一からスタートします。神様の救いの摂理は一からスタートし、全体を完成・完結させなければなりません。

 全体を成就するための神様の救いの摂理は一から出発するのでその一が重要です。救いの摂理が出発し得る一というのは、中心人物のことを言います。ですから、神様は一人の中心人物を立てるのです。その中心人物を選ぶためには条件があります。

 中心人物が備えるべき条件は、次の五つです。

 第一に、中心人物は必ず選民でなければなりません。神様は、選んだ民族の中から中心人物を選ぶということです。

 第二に、先祖の善なる功績が多くなければなりません。選民の中でも先祖の功績が多い人を優先して選択します。

 第三に、個人の先天的性稟、すなわち天稟が良くなければなりません。
 先祖の功績がたくさんあっても、み旨を成すことのできる個人の天稟が良くなければならないということです。

 第四に、み旨を成すための後天的条件が良くなければなりません。周りの環境が良くなければならないということです。先祖の功績も多く、天稟も良いのに、周りの環境が悪くてみ旨を成すにおいて妨害になるなら、その人を中心人物として立てることができないということです。ですから、中心人物は天稟が良くなければなりませんが、後天的条件も良くなければならないのです。

 第五に、必ず神様が必要とする時機と場所に生まれていなければなりません。前述した条件をすべて備えているとしても、もし別の場所で生まれていたり、適した時機に生まれることができなかったとすれば、その人は中心人物になることができません。

 列挙した備えるべき五つの条件を備えた中心人物を神様が召したとしても、彼が立てられたみ旨を果たせなければ、予定された人物としての使命を果たすことができなくなり、み旨も成就しません。

 しかし、その責任を成し遂げれば予定された使命も完成し、神様のみ旨も成されることになります。ですから、条件をすべて備え、中心人物が立てられたとしても、彼が責任を果たせなければ何にもならないのです。

 マタイによる福音書27章3節から10節を見ると、イエス様の弟子のうちイスカリオテのユダが、イエス様を 銀貨30枚で大祭司長に売りました。イスカリオテのユダはイエス様の弟子となり得る時機と場所に生まれました。おそらく彼は、ほかの人よりも個人の天稟が良かったのだろうと思われます。

 しかしながら、結局、彼にサタンが入り、イエス様を売りました。ですから、イスカリオテのユダは神様から予定された人物として召命されましたが、予定された使命を果たすことができませんでした。イスカリオテのユダが責任を果たせずに12弟子の中から脱落することにより、神様はイスカリオテのユダの代わりにマッテヤを選びました(使徒行伝1章15~26節)。このように、み旨は絶対的なものとして予定されますが、み旨の成就は相対的に成されるのです。人間が責任を果たせばみ旨が成され、責任を果たせなければ成されないという話です。

 また、ある人物がみ旨を成すことができなかったために、代わりにほかの人物を立てるとき、その人をどのように決めるのでしょうか。やはり上記の五つの条件を備えなければなりませんが、その中でも最も重要なのは、選民、善なる功績、天的性稟の三つです。そのうち三つだけを満たせば、神様が立てて仕事を任せられる人物となります。ただし、メシヤは上記の五つの条件をすべて備えなければなりません。

 神様のみ旨に対する予定は絶対的ですが、人間は相対的に予定されます。今日までキリスト教徒たちが、神様が全部予定したと言うのは、み旨も、み旨成就も、人間に対する予定も100パーセントだと見るからです。しかし統一原理では、み旨は絶対的なものとして予定されますが、み旨成就とみ旨を成すための人間は相対的に予定されていると見ています。


 4. 予定説を立てる聖句の解明

 予定説を裏付ける聖句としては、次の四つを挙げることができます


 1)ローマ人への手紙8章29節と30節

 ローマ人への手紙8章29節と30節には「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」とあります。

 神様は復帰摂理の目的を成すためにあらかじめ人物を予定なさり、召命されますが、神様の責任分担である召命ということだけで彼が義とされ、栄光まで与えられるのではありません。人間が責任分担を果たすときに義とされ、そののちに、神様は彼に栄光を享受させることができるのです。

 ですから、神様が下さる栄光も、人間が責任分担を果たすことによってのみ 享受することができます。

 神様が予定されたとしても、人間が責任分担を果たすことによって、予定されたすべてのプログラムが成されるのです。


 2)ローマ人への手紙9章15節と16節

 ローマ人への手紙9章15節と16節には「神はモーセに言われた『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』。ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである」とあります。この聖句は神様の権能と恩寵を強調するために語られたみ言です。

 またローマ人への手紙9章21節には「陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか」とあります。陶器をつくる人が土くれ一固まりから尊い陶磁器のような器をつくったり、卑しい器をつくったりするのと同様に、神様は堕落した人間を、ご自身の思いどおりになさることができるという意味です。


 3)ローマ人への手紙9章11節から13節

 ローマ人への手紙9章11節から13節には「まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、わざによらず、召したかたによって行われるために、『兄は弟に仕えるであろう』と、彼女に仰せられたのである『わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ』と書いてあるとおりである」とありますが、そのみ言のように神様は腹中からエサウは憎み、ヤコブは愛されました。

 これは、腹中から既に予定されていたからではなく、復帰摂理路程のプログラムに合わせるためだったのです。そのようないきさつは、「後編復帰原理」で詳しく説明します。

 アダムは堕落することによって、善と悪が共存する中間位置に落ちました。ですから、善と悪に裂かなければならないアダムですが、人を裂けば死んでしまうので、実体の息子であるカインとアベルを善の側と悪の側に分立しました。

 またアブラハム家庭では、イサクを中心としてエサウとヤコブを善の側と悪の側に分立しました。アダム家庭でカインはサタン側に立てられ、アベルは天の側に立てられたように、アブラハム家庭でも長子であるエサウはサタン側に立てられ、次子であるヤコブは神側に立てられたのです。

 エサウとヤコブは腹中にいましたが、神様がエサウを憎んだ理由は、長子であるエサウを、ヤコブと分立してサタン側に立てたからです。反面、ヤコブは分立された次子として天の側に立てられたため、神様が愛しました。予定されていたからエサウを憎み、ヤコブを愛したのではありません。

 エサウはたとえ腹中で憎まれたとしても、生まれてから責任を果たし、すべてのことを神様のみ旨に合わせて実践すれば、神様の愛を受けるようになっているのです。ヤコブは腹中で神様の愛を受けましたが、地上に生まれて責任を果たせなければ、神様は彼を愛することができないのです。

 このように、腹中から憎まれたり愛を受けたりというのは、摂理のプログラムに合わせるためであり、腹中からあらかじめ予定されていたからではありません。「統一原理」では、神様は予定されるにおいて、み旨は絶対的なものとして予定されますが、そのみ旨を成就するために必要な人間に対する予定は相対的なものと見ます。

 

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Ⅱ-㊵ 原理本体論 Ⅱ前編 第5章 復活論(p 422~429)

2019年11月06日 23時29分25秒 | 原理本体論

 

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 原理本体論 Ⅱ.前編

 第5章 復活論(p 422~429)

 3) 霊人に対する復活摂理

 霊人体は肉身を通して成長・完成します。霊人体は肉身なしには復活することができないのです。

 すでに霊界に行った肉身のない霊人体は、地上人の霊的活動を通して相対基準を造成し、地上人の霊人体が成長して完成するとき、共に成長して完成し、復活します。地上人が精誠を尽くすことで心霊が復活し、ある心霊の基準に達すれば、霊人はその人と一体となって相対基準を造成するようになります。

 例えば、地上で50の精誠を尽くして霊界に行った霊人がいたとすると、その霊人は地上で50という精誠の基準の人と相対基準を造成することができます。自分と同じ霊人体の水準に合わせて、相対基準を造成することができるのです。

 水準の低い霊界の霊人は、水準の低い地上人と相対基準を造成しやすいのです。一方で水準の高い霊界の霊人は、地上の人間と相対基準を造成することが簡単ではありません。彼らは地上に降りてきても、長く役事することができないのです。

 霊人たちの復活摂理は、地上人の活動を通して、霊人がその人物と相対基準を造成して成立するのです。

 霊人の中には神様を信じていた霊人もいるし、神様を信じないで善良に生きた霊人もいます。善良に生きた霊人たちは、たとえ善良に暮らしたといっても神様を信じなかったので、神様も連れていくことができず、サタンも連れていくことができないのです。そのような霊人は、中間霊界に行きます。中間霊界にいる霊人を、楽園以外の霊人と言ったりもします。もちろん地上で邪悪に生きた霊人たちが行く霊界もあります。

 霊界に行っている霊人は三つに分けて復活摂理をします。一つは神様を信じていた霊人、その次に善良に生きたが神様を信じなかった中間霊界の霊人、そして最後に、悪なる行いをしながら生きた悪霊人に分け、霊人たちの復活摂理が行われます。

 (1) 神を信じて他界した霊人たちの復活

 神様を信じて霊界に行った霊人たちの復活は、大きくは三段階あります。旧約時代には神様のみ言を行うことで霊形体級の霊人体となり、霊形体級の霊界に行きました。ところがイエス様がこの地上に来られたことで、新約時代が開かれました。

 イエス様を中心とした新約時代には、イエス様のみ言、すなわち福音を信奉することで霊人体が生命体級まで成長します。その時、霊形体級霊界の蘇生期の霊人たちは地上に再臨し、イエス様に従う弟子たちがみ旨のために、より熱心に生きるように協助します。

 マタイによる福音書17章3節にはエリヤが登場します。エリヤは旧約時代の人物なので霊形体級の霊界にとどまっていました。ところがマタイによる福音書17章13節以下を見てみれば、エリヤが洗礼ヨハネに再臨したので、イエス様は洗礼ヨハネをエリヤだと言いました。エリヤが洗礼ヨハネに協助して洗礼ヨハネの霊人体が肉身でもって成長・完成した時、エリヤの霊人体も成長・完成するようになるのです。

 同様に、イエス様が生命体級の霊界に行けば、その弟子たちも生命体級の霊界に行くようになり、その時に協助した霊人たちも生命体級の霊界に行くようになります。

 再臨主の時も同じです。再臨主が来られれば、イエス様に従っていた弟子たちと共に、旧約時代に生きていた霊人体たちのうちで、イエス様の時に再臨して肉身をまとった地上人に協助することで、楽園に行っていた 霊人たちも再臨して、地上人と相対基準を造成するようになります。彼らが地上人に協助して地上人が成長して完成すれば、天国に行くようになるのです。

 例えば、ある霊人体が15歳の子どもに再臨したと仮定しましょう。もし彼が80歳で死んだとすれば、その霊人は15歳の子どもに65年間憑いていなければなりません。自分の肉身をもつて生活するのも大変なのに、他人の肉身を使って65年間つきまといながら成長し、完成させるというのは、簡単なことではありません。だからこそ、地上で肉身を持っている時の生活がとても重要なのです。

 聖書のヘブル人への手紙11章39節と40節を見ると、「これらの人々はみな、信仰によってあかされたが、約束のものは受けなかった。神様はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない」とあります。霊界の霊人たちは地上の人間を通さなければ、よりよい所に行くことができないという意味です。

 イエス様は「あなたがたが地でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは天でもみな解かれるであろう」(マタイ18章18節)とおっしゃいました。それで天国の門の鍵を地上のペテロに授けたのです(マタイ16章19節)。ですから霊界の問題は、すべて地上で解かれなければならないのです。

 (2) 楽園以外の霊人たちの再臨

 復活楽園以外の霊人たちの再臨復活について見てみましょう。
 この地上で良心を守りながら善良に生きたならば、地獄には行かず中間霊界にとどまるようになります。神様を信じなかったので、神様が連れていくことはできず、悪なる生活もしなかったのでサタンも連れていくことができないのです。

 この地で善良に生きたBという人が死に、肉身を脱いで霊界に行ったのですが、霊界に入って自分の霊人体を見ると、まだ行くべき所が残っているという事実を悟るようになります。ところが霊人体を完成してくれる肉身がありません。それで肉身を持っているAという地上人に再臨し、協助しようとします。Bという霊人体はAという地上人に再臨し、Aの霊人体が成長・完成するように協助することで、Aが肉身を脱いで神様の前に行くとき、Bも共に神様の前に行くことができるようになるのです。

 霊界の霊人体は素質や個性や能力など、すべての面で自分と相対基準が合う人に出会ったとき、地上に降り、協助することができます。そこにおいて一番近い人は同じ血統をもった人です。血統が同じであるならば、似ている遺伝子が多いからです。ですから、自分の血統を尋ねます。それができなければ、自分と同じような使命をもった人物を探すのです。エリヤ預言者が果たせなかった使命を果たすために、地上の洗礼ヨハネに再臨したのがそれです。

 楽園以外の霊界にいる霊人たちは、必ず肉身をもった地上の人間に協助しなければなりません。啓示を与えるとか、神霊的な感動を与えるとか、夢を通してこれから起こることを見せたりするなどです。また火の役事を行うとか、解怨の役事をするとか、治癒の能力を与えてそのような権勢をもって生きさせることによって、地上人をして「もっと熱心に働かなければならない。神様のみ旨のためにもっと力を尽くさなければ」と考えさせ、み旨の道から外れないようにしてくれているのです。

 (3) 悪霊人の再臨復活

 悪人たちは罪を犯して霊界に行ったので、善の本体である神様に直接接することができません。ところが神様は悪霊人さえもすべて救わなければなりません。霊界では悪霊人が地上で犯した罪を免ずる蕩減方法がありません。それで地上で蕩減条件を立てて、その罪を脱ぐようにさせるのです。

 地上人が犯した罪に対する罰として、蕩減条件を立てさせるのです。その条件は、すなわち地上の人間が見るときには罰となるのです。地上人が犯した罪を清算できるある蕩減条件を立てたとき、彼らもその場で解放されるようになるのです。

 しかし、それを神様が直接なさるのではなく、悪霊人たちが神様に代わって役事します。悪霊人が役事し、地上人が罪を蕩減したという条件が立てられたとき、その悪霊人が恩恵を受けられるようになるのです。神様がしようとすることを、悪霊人が代わりに条件を立てて処理した結果になるので、悪霊人は復活の恩恵を受けることができるのです。

 悪霊人の再臨復活の役事には二つあります。
 そのうちの一つは、直接的な方法です。神様は罪を犯した地上人に直接対することができません。そうかといって、そのまま放っておけば、その地上人は地獄に行くようになります。神様は罪を犯したその地上人に罰を与えて悔い改めさせ、地獄に行かないようにしようとしますが、直接そうすることができません。ですから、悪霊人が地上に実体をもった悪人に直接再臨して役事させるのです。その結果、地上の悪人がその罰を甘受して悔い改めることで、代価を支払って、罪を蕩減したという条件が立てられます。それによって、神様がなさるべきことを代わりに成したという結果になるので、悪霊人は救いの恵みを受けるのです。

 もう一つは間接的方法です。間接再臨の方法は悪霊人が実体をもった地上の悪人に再臨し、その地上人をして、ほかの地上人に悪事を働き、その人が甘受し、悔い改めるというものです。第三者を経由して罪を蕩減するので、それを間接再臨といいます。このように第三者を通した方法で、その地上人がこの悪霊人の役事を甘受して悔い改めれば蕩減条件が立てられたことになるので、その地上人はもちろん、悪霊人も恵みを受けられるようになるのです。

 今日(こんにち)、私たちが生きていく中で、いかなる立場であっても、疑ったり、不平を言ったりしてはいけません。人を憎んでもいけません。自分ではよく分からないかもしれませんが、ある人を通して背後の先祖の過ちまでも蕩減することができるのです。そうだとすれば、感謝する心で歩んでこそ、それが整理されます。

 不平不満をもてば整理されません。不平を言い、不満をもっているといって、それから逃れることはできません。その苦痛は避ける道がありません。ですから不平を言ったり、不満をもたないようにしなければなりません。「ために生きる生活」だけが、創造本然の人間に帰れる道なのです。


 4) 再臨復活から見た輪廻説

 今まで仏教では、輪回説を根拠として、地上で善良に生きれば、再び 人として生まれ変わり、過ちを犯せば動物として生まれ変わると信じてきました。それは間違った信仰です。人間は神様の子として創造されたのであり、霊人体は人間だけがもっているものです。過ちを犯して死んだからといって、その霊人体が人ではなく、猿や動物に生まれ変わるのではないのです。

 霊界は光の世界です。闇の世界である地獄は一番下にあり、光の世界である天国は一番上にあります。また、地獄にいる霊人たちは体の形がはっきりしていません。ですから、形によっては動物に見えたりするのです。それを見て人間が動物に輪廻していると考えたのです。

 原理から見ると、輪廻は再臨復活のようなものです。
 地上で自分の使命を果たせずに死んだ霊人体たちは、それぞれ地上で自分に任されたのと同様の使命をもった地上人に再臨し、そのみ旨が成されるように協助するのです。人間は自分自身の使命も成さなければならないのと同時に、その時、協助された地上の自分に協助している霊人の使命までも代わりに成さなければならないので、使命を中心として見たとき、その地上人の肉身は彼を協助する霊人の肉身にもなるのです。このような立場から見たとき、それが再臨復活だというのです。罪を犯したからといって、ほかの動物に生まれ変わるのではありません。

 ある人を見ると、考えや行動が死んだ知人とそっくりだと感じるときがあります。かといって、その人が生まれ変わったのではありません。自分が地上で果たせなかった使命を成すために肉身をもった人間に協助しようとするので、そのように見えるのです。

 エリヤは洗礼ヨハネに再臨しました。洗礼ヨハネはイエス様の前に本人の使命を果たさなければならず、再臨したエリヤも同じように、イエス様の前に自らの使命を果たさなければなりませんでした。再臨主が来られるときにも彼らは同じように地上に再臨し、肉身をまとった人間たちが行くべき方向を示してくれるのです。


 3. 再臨復活による宗教統一

 霊界では、地上で宗教を信じていた人たちは各自が信仰していた宗教の教祖や道主のもとにいます。

 キリスト教徒はイエス様を通して霊界に行くようになります。彼らは霊界でイエス様を中心として楽園にとどまり、再臨主が来られたならばイエス様に従って地上のキリスト教徒たちに再臨し、再臨主に繋げようと協助するのです。

 霊界にいる仏教信者たちも釈迦と共に信徒たちに再臨し、この地の信徒たちを再臨主の前に繋げようとします。

 儒教も同じです。霊界にいる儒者たちの霊人体も孔子と共に再臨し、地上の儒者たちが再臨主に従うように協助するのです。

 ほかの宗教も同様に、霊界で自分が信奉した教主、または道主を中心として、各自に合ったレベルの霊界にとどまり、この地に再臨主が来られたならば再臨して、自分の信仰レベルに合った人を尋ね、再臨主に繋げようと協助するのです。

 信仰生活をせずに霊界に行った霊人たちも、それぞれが相対基準の合う地上人を探して再臨します。善良な人は善良な霊人が再臨し、良心的に生きてきた人には良心的に生きてきた霊人が再臨し、再臨主に繋げるように役事するのです。

 神様は再臨主の地上降臨に合わせて、あらゆるレベルの霊界で指導者と個々の霊人たちを教育し、地上の再臨を準備しようとされます。霊界でも神様のみ旨を知らせ、霊人たちが地上の摂理に協助するように教育されるのです。そうしてこそ、霊界の統一が成されるのです。

 霊界が統一されれば、神様は霊界を従えて地上に登場されます。神様はただ来られるのではなく、霊界を統一し、霊界を従えて栄光のうちに、この地上に登場されるのです。そのようにして直接主管圏を広げられるのです。

 そこにおいて宗教の統一が成されるようになります。このような霊界の活動によって、宗教の統一はもちろん、再臨主を中心とした地上と霊界の統一が成されるのです。

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