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中村獅童さん、がんで休演

2017年05月25日 13時13分55秒 | ガン
中村獅童さん、がんで休演
017年5月19日 (金)配信朝日新聞

 歌舞伎俳優の中村獅童さん(44)が初期の肺腺がんと診断され、出演予定だった福岡・博多座「六月博多座大歌舞伎」と東京・歌舞伎座「七月大歌舞伎」を休演することになった。松竹が18日発表した。
 松竹によると、獅童さんは定期的な健康診断を受け、11日に初期の肺腺がんと診断された。獅童さんは入院し、6月上旬に手術を受ける予定。8月以降の活動は今後、医師と相談して決めるという。
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難病の乳児殺人未遂認める 「楽にしてあげたい」被告

2017年05月25日 13時12分44秒 | 事故事件訴訟
難病の乳児殺人未遂認める 「楽にしてあげたい」被告
2017年5月19日 (金)配信共同通信社

 昨年11月、遺伝性の難病を患う当時1歳の三男を殺害しようとしたとして、殺人未遂罪に問われた無職十倍佐知子(とべ・さちこ)被告(42)の裁判員裁判初公判が18日、仙台地裁(小池健治(こいけ・けんじ)裁判長)であり、十倍被告は「間違いありません」と起訴内容を認めた。被告人質問では「産んだ私が早く楽にしてあげたいと思った」と動機を語った。
 検察側は冒頭陳述で「三男が、死亡した次男と同じ難病であることを思い悩んでいた。『この先何年も痛がるのを見るのはつらい』と犯行を決意した」と述べた。
 十倍被告は三男について「(病気の影響で)顔を真っ赤にして泣き、もがいていた。次男のつらい記憶が頭に浮かんだ」と話した。弁護側は「事件当時PTSD(心的外傷後ストレス障害)だった可能性は否定できない」として責任能力を争うと主張した。
 病気は厚生労働省指定の難病。目や耳の機能が衰え、のみ込む力がなくなり、3~4歳までに死に至る病で根本的な治療方法がない。
 起訴状によると、昨年11月17日、仙台市青葉区の宮城県立こども病院で、入院していた三男の鼻と口を両手でふさぎ殺害しようとしたとしている。十倍被告が自らナースコールをし、医師の救命措置で一命を取り留めた。
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「総理のご意向」私だって気にする 前川氏の一問一答

2017年05月25日 13時10分29秒 | 行政
「総理のご意向」私だって気にする 前川氏の一問一答
2017年5月25日05時02分

取材に答える前川喜平・前文部科学事務次官=23日、東京都内

 学校法人「加計(かけ)学園」(岡山市)の獣医学部新設をめぐり、文部科学省の事務次官だった前川喜平氏(62)が朝日新聞の取材に応じた。内閣府から「総理のご意向」と言われたなどと記録した文科省の文書について、前川氏は次官在任中、担当課から説明を受ける中で示されたと証言。官僚トップの次官として「筋を通すべきだった」とも語った。主なやり取りは次の通り。
「総理の意向」文書、担当課が提示 前文科次官が証言
特集:加計学園問題
 ――文科省が内閣府から「総理のご意向だと聞いている」と言われたなどとする文書8枚を、民進党が国会で示し、文科省に調査を求めたが。
 いずれも獣医学部の新設について、担当の専門教育課の職員から、自分が説明を受けた際に示された。昨年9月9日~10月31日に計6回、課長や課長補佐らと事務次官室で獣医学部の新設について打ち合わせをした。9月28日には「獣医学部新設に係る内閣府からの伝達事項」という文書を、10月4日には「大臣ご指示事項」の文書を示されたと記憶している。
 ――一連の文書には「総理のご意向」「官邸の最高レベル」という言葉がある。どう思ったか。
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「障害ネタで勝負する」 日本初の寝たきり芸人 「夢追い人は...」「私を見て」

2017年05月25日 00時14分46秒 | アート美術演劇等
「障害ネタで勝負する」 日本初の寝たきり芸人 「夢追い人は...」「私を見て」
2017年5月24日 (水)配信共同通信社

 「寝たきりあるある」。横たわったストレッチャーの足もとに置かれた画用紙の1枚目にそう書かれている。話芸に合わせ紙をめくっていくいわゆる「フリップ芸」だ。何枚も重なっている画用紙を、動かない体でどうやってめくるのだろうか。注目する観客に向け言い放った。「フリップが、めくれない~。これ、あるあるです」
 舞台に上がっているのは、日本初の寝たきり障害者芸人を自称し、熊本県合志市に暮らすあそどっぐ(38)。定番のつかみネタに大笑いする人もいるが、あまりの自虐的な内容に微妙な表情を浮かべる観客も。すると「笑っていいんですよ。ていうか、笑ってよ。障害者には優しくしなさいといわれているでしょ!」と続けて場を温めた。
 佐賀県出身で、生まれながら徐々に全身の筋力が低下する脊髄性筋萎縮症だった。小中等部は自宅近くの特別支援学校に通ったが、高等部に進学すると「当時、障害者はおとなしく生きていけばいいという雰囲気の先生がいて、嫌だった」と福岡県内の特別支援学校へ転校を望んだ。
 「怖い先輩から、面白いことをやれと言われた」。初めて漫才をしたのは高1だった1994年3月。高3の卒業パーティーで筋ジストロフィーの友人と内容を考え、「笑いをとったことが快感になった」。卒業後は自立支援施設に通いながら、芸人になりたいと願うようになっていた。
 まだ上半身が動かせたため、パソコンの前に座って必死にアイデアを書きためた。脚本作りも通信講座で学んだ。「相方」と呼べるようになっていた友人と練習を重ねる日々。人前にも出られる手応えを感じたとき、相方が亡くなった。23歳。「あいつと一緒にできないなら...」とあまりに大きな喪失感に、芸人への思いも消えていた。
 間もなく、両親の海外転勤で1人暮らしを始めた。「僕は残ってペットの犬と亀の世話をしなければならなかった」と説明するが、病状は進行して動かせる部分は顔と左手ぐらい。24時間体制で介護ヘルパーが付く生活に「ずっともやもやしていた」と振り返る。
 そんなときに知ったのがインターネットの動画配信サイトだった。「かわいい女の子も出てくる」と聞いて試しにのぞくと、誰でも簡単に映像を見せられることに驚き、心に浮かんだのは、一度は諦めたお笑いの世界。「もう後悔はしたくない」。全てさらけ出そうと、自分の障害をネタにすると決めた。
 32歳での再出発。サイトに1人コントを配信しても視聴者は数人だった。毎日30分程度、思ったことを話す生中継も試みたが、こちらも数えられるほど。「キモい」「税金で生かされているのに何やっているのか」。厳しい感想が寄せられた。
 それでも「見てくれている時点で勝ったと思っている」と自分を奮い立たせた。同じ障害がある人から「もっと激しいことをやれ」と応援してもらうことができ、迷いがなくなった。「自分にしかできない芸がある」。今はこう信じ、前だけを見ている。(敬称略、共同=柿崎靖)
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