1960年代生まれの音楽メモ。

あの時観た映像や好きな音楽をクリップしておくブログ。

ファクトチェック。

2017-07-21 21:43:51 | その他
今週、「ファクトチェック」という言葉について、続けて読みました。

  ・「大多数が同意できる『事実』というのが、もはや存在していない」。 → “広がっている情報の状況” としての「事実」。
     「『フェイクニュース』という言葉は、いまでは敵対する相手へのレッテル張りのツールになりつつあるようだ」
     「あなたの言う『フェイクニュース』は、『オルトファクト』の間違いかもしれない」
  ・「私はジャーナリストだ、だから何でも知っている、あなたはただの読者だという風に考えるべきではない」
  ・「新聞やテレビの記者のみが事実を確認するという時代は終わりを告げていて、ファクトチェックの活動そのものが広く一般の人が参加するものになっている」

↑続けて読むことになって、ふと考えたこと↓。

たとえばニュースで、「東京ガールズコレクション」の観客席が映った映像を観たら、ああ、これを支持しているのは若い女性がほとんどなんだな、と一目でわかる。たとえばテレビで、綾小路きみまろの公演の客席が映っている映像を見たら、楽しんで集まっているファンは中高年が(ほぼ)全てなんだな、と納得できる。

でも最近、報道やニュースで、 老若男女が入り乱れて意見や主張をしている集まりの群衆の映像 をバックに、あるいはその映像のなかで取材者が、「男性が支持しています/女性が支持しています」と述べるのを目にすることがあります。現地の映像は、どう見ても老若男女が入り乱れているのにです。 あとで/じっくり 統計を探したり分析すれば、どういう人たちがどういうふうに多い少ないという(想定外の/想定内の/細かい)事態状況がみえてくるかもしれない/みえてくるだろう。でもパッと見、その場では、その現場では、多様な人たちが入り乱れているのに、絵と違うことを 「言う」 。これって、話し手は自分がいま目の当たりにしている事実を伝えようと喋っているのではなくて、自分の先入観、偏見、そして、どうかしたら自分の希望や願望を述べている(←多様性と反対の心理?)。※

報道やニュースは、事実は事実としてつかまえ伝えなければダメです。そこに、偏見や願いを込めたらダメだ。事実とは別に、解釈や意見・主張は解釈・意見・主張として述べるのはいい。いいというか、どんどん述べたほうがいい。段落を区切って、コーナーを変えて、意見・主張として。でも、目の前で起こっている事実に見ないふりをして、目にしていることと違うことを言っては(伝えては)ダメだ。科学や哲学や報道は、前提となるのは事実だ。そのうえで、目の前に現れたこの事実をどう解釈するか、そこから/これから 私たちはどうしていったらいいかを議論するのは、その後のステップとして大事。

キーワードは、フェイクニュース、オルトファクト、ファクトチェック、不都合な真実。

と、そう思った。

※都合のいい(※※)部分だけ切り取ろうとするカメラワークや編集を垣間見ることもある。
※※偏見、先入観、希望や願望。付け加えるなら、処世術や保身ということも。

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