フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

1月30日(水) 晴れ

2019-02-01 17:54:53 | Weblog

9時、起床。

サラダ、牛乳、紅茶の朝食。 

今日の『まんぷく』。「承認」三連発。福子の夢枕に立った咲。 

真一の再婚を祝福した。 

真一が好美を連れて今井の家を訪問。 

福子らの母親鈴が真一の再婚を祝福した。

同じ席で萬平の試作した即席ラーメンのスープの試飲が行われた。

なかなか「美味しい」と言わなかった鈴が「本当に美味しい」と言った。 

 鈴は「武士の娘」で明治生まれ。もうかなりの歳と思われるが、最終回まで生き続けるのだろうか。私の予想では、さすがにそれはなくて、どこかで亡くなる。そして咲と一緒に福子の夢枕に立つことになるだろう。 

午後から大学へ。

馬場下の交差点にある鯛焼き屋はこのところ大繁盛だ。向かいの穴八幡にやってくる人たちが買って行っているように見える。とすると、節分までのここ数日がピークだろうか。編集作業おお八つに鯛焼きを買っていく。

「ミルクホール」でコーヒーとお茶を買っていく。 

 昼食はまい泉のカツサンドとコーヒー。

ゼミ論集編集作業は今日で3日目。今日はSSさん(左)とIMさんの2人。 

7時前に大学を出る。 

「文禄堂」(旧あゆみブックス)で、ゲーテ『ファウスト』第一部を購入。気まぐれに読みたくなったのである。 

清水幾太郎が『ファウスト』の原書を日本橋の「丸善」で購入したのは中学(旧制)1年生の一学期のことだった。彼の入学した中学(独逸学協会学校中学)ではドイツ語が第一外国語であった。英語ではなくドイツ語を勉強することになった彼に或る人が「それなら『ファウスト』を読まなければ駄目だ」と言った。『ファウスト』が何であるかもわからないまま、清水は丸善に駆け付けてこれを購入したのである。そして辞書で「faust」を引き、「拳骨」という意味であることを知った。

「私にとっての『ファウスト』の意味はむしろ象徴的なものであったあった」と彼は自伝『私の読書と人生』の中で語っている。「焦燥と粗忽とは何時になっても私から離れない。考えてみると、あわてて『ファウスト』を買った流儀は、その後の私が幾度となく繰り返して来たものにほかならぬ。」

「文禄堂」で買ったばかりの岩波文庫版『ファウスト』を電車の中で読みながら、私はびっくりした。第一部が始まる前の「舞台の前曲」のところで座長と座付詩人と道化役の3人が語り合っている内容は、まさに「大衆社会論」そのものではないか。

座長曰く「私も、大衆を喜ばせる手は心得ているつもりだが、今度ほど、途方に暮れたことはないんです。連中は別に傑作を見慣れているというわけではないが、なにしろ恐ろしくいろんなものを読んでいるんでね。すべてが清新溌剌として、しかも興味ふかく、そのうえ大衆の気に入るには、どうやったらいいものだろう。」

詩人曰く「おお、あの一人一人毛色の違った群衆のことは止してください。あんなものを見ると、詩人の魂が逃げてしまいます。われわれを無理矢理、渦巻の中にまきこんでいく。ああした人波の雑踏は見せないでください。それより私を静かな天上の片隅につれて行ってください。そこでだけ、詩人の浄らかな喜びの花は咲くのです。そこでだけ、愛と友情とが神々のような手で、われわれのところに祝福を造り、また育ててくれるのです。」

道化役曰く「人をよろこばせる芸を心得えている人間は、見物衆のむら気で気を悪くしたりしませんよ。なんでも見物人は多い方が望ましいんで、その方が確実に感動させることができますからね。だからあなたも腕達者に、大家ぶりを発揮なさいよ。空想という奴に、あらゆる合唱を添えて聴かせるんですな。理性、悟性、感情、情熱というような奴をね。但し、道化という役を落としちゃいけませんぜ。」

『ファウスト』の原書を「丸善」で購入した清水少年は、そのとき、その後の彼の人生の予告編を垣間見たことになる。『ファウスト』は清水幾太郎ににとって二重の意味で象徴的なものであったということになる。

夕食は鯖の干物、玉子豆腐、サラダ、味噌汁、ご飯(明太子と栗きんとんがのっている)。

2時、就寝。 

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