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鎮魂歌。日米開戦を計画していた第一委員会。


日米諒解案の交渉中に、日本が南部フランス領インドシナ(南部仏印)に進駐したことが、日米開戦の間接的な理由です。
なぜあの時期、日本が南部仏印に進駐したのでしょうか。


一つのヒントが「海軍国防政策委員会第一委員会」という組織です。
この組織は当時海軍の中で戦略立案を行う中枢といってよいグループでした。
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高田利種大佐がのちに『この委員会が発足した後の海軍の政策は、ほとんどこの委員会によって動いたとみてよい。海軍省内でも、重要な書類が回ってくると、上司から、この書類は第一委員会をパスしたものかどうかを聞かれ、パスしたものはよろしいと捺印するといったぐあいに、相当重要視されていた』と語っていました。

http://enaka.cocolog-nifty.com/soon/2009/08/nhk400-3058.html
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さて海軍の中枢ブレーンである彼等が機密で配布したといわれる「現情勢下において帝国海軍の執るべき態度」が今でも残っています。この文書の内容は次のようなものです。


現在の日本の時勢は、和平の道を進むか、戦争の道を進むかという分岐点である。
その分岐点のどちらに進むかを決定するのは我々海軍である。
対米戦争に臨むために、我々は政府と陸軍に働きかけ、戦争の決意へと誘導しなければならない。
陸軍が南方に侵攻すれば、アメリカは必ず石油を禁輸するであろう。
そうなれば日本はアメリカと戦争をせざるを得ない状況となる。


陸軍が南部仏印に進駐した背景には、彼等海軍第一委員会の強力なプッシュがあったと言われています。
そして彼等の目論見どおり、「陸軍南方侵出 → アメリカ対日石油禁輸 → 日米開戦」というシナリオで進んでいきます。


一つ疑問なことがあります。
なぜ海軍第一委員会は、日米開戦を望んだのでしょうか。
海軍には「アメリカとの戦争など勝てるわけがない」と強硬に反対したグループもおりました。
尋常に考えると、軍事のプロであればこの国力差でアメリカに戦争を挑むというのは無謀の極みと言ってよいでしょう。



さて国際的な勢力分布をもう一度見てみましょう。
日本が南方侵略してアメリカと対立することを望んでいるのは誰でしょう。



第一にスターリンです。
彼は日本が北方に侵攻することを一番恐れていました。
だから日本陸軍は南方に侵攻して欲しいと考えていました。
それでアメリカと対立してくれるなら更に望ましいです。
松岡がスターリンと「日ソ中立条約」を締結した時に、「これで安心して南方に進められますね」と耳打ちしたと言われています。
それほどスターリンは日本陸軍を恐れ、南方へとどけて欲しいと考えていました。


ソ連がドイツと開戦すると、何と日本陸軍は満州とソ連の国境線に2万の軍隊を配備しました。
スターリンにとってはもっとも嫌な配置であったことでしょう。
私がスターリンなら、どんな手を使ってでも、この北方の陸軍を南方へと配置転換させたいと思います。
それによって日本がアメリカと対立したり開戦になるなら更に良いです。



第二に日本の左翼(コミンテルン)です。
彼等の中には尾崎元朝日記者のようにスターリンの指示を忠実に守るものも少なからずいたことでしょう。
日本に共産革命を起こすことが、日本のためだと信じていた人間たちです。
優柔不断の近衛首相のブレインは、朝日新聞関係者など左派と呼ばれる人たちで固められておりました。
当時の左派は、(偶然にも?スターリンの指示どおり?)陸軍への南方侵出をさかんに煽りました。
二・二六事件でもわかりますが、正義感の強いインテリほど、共産主義に感染しやすい傾向があります。



第三に国際資本ユダヤ親共産主義グループです。
彼等とソ連の共通の敵はナチスです。
したがって日本軍が背後からソ連を攻めこむことは阻止しなければなりません。
スターリンの希望どおり、陸軍が南方に侵攻することを望んでいたと推測されます。
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しかしイギリスはこの時点で(日本軍の)仏印進駐の情報をつかんでおり、7月5日には駐日イギリス大使ロバート・クレイギーが日本の南進について外務省に懸念を申し入れている。日本側は情報漏洩に驚き、進駐の延期を行ったが、イギリス側も日本を刺激することを怖れ、これ以上の警告を行わなかった。
(Wikipedia「仏印侵攻」より)
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彼等の中には、コーデル・ハル国務長官のように、日本の南方侵攻を本当に警告しているグループもありましたが、日本が南方侵攻の罠にはまるのを虎視眈々と観察していたグループもあったのではないでしょうか。



さてそんな国際情勢の中、日本は海軍第一委員会の筋書きどおり、南方に侵攻してアメリカと開戦することになります。
彼等の活動は、陸軍の岩黒大佐の活動とは正反対真逆でした。




おひさま、ありがとうございます。


下記は静止衛星軌道上で観測される太陽からの電子密度グラフです。急な変動がある場合は地震や事故に備えて防災意識を心掛けましょう。特に注意が必要な期間は、メールやTwitterで防災意識リマインダーを受け取ることができます。詳しくはこちら

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鎮魂歌。「破滅因子」に引かれる日本。



1940年9月 北部フランス領インドシナ進駐。


1941年7月 南部フランス領インドシナ進駐。


7月下旬、日本軍はフランス領インドシナ南部に侵攻をしました。
侵攻といっても当時のフランス本国はナチスに占領されていたため、日本軍が南部に侵攻したといってもフランスの傀儡政権との交渉の結果ですから、表面的には平和的外交の結果と言えます。


ただインドシナ南部は戦略的要所でありますから、ここを日本軍が占拠することに対して、アメリカは非常な警戒をします。
日本軍がどうもインドシナ南部に侵攻しそうだという情報が、アメリカやイギリスに渡ります。
当時はまだ日本とアメリカが日米諒解案で交渉をしていた真っ最中でした。
しかもドイツの対ソ連開戦で、日本の立場が不利になってきたところでした。
(無理に日本に妥協する必要がないという空気がアメリカ指導者層に蔓延し始めていました)


この時期、もし日本がインドシナ南部という要所に軍事的侵攻を行うのであれば、経済制裁を行わざるを得ない。そのようにアメリカ政府は日本に対して警告をします。
特にコーデル・ハル国務長官は、日米諒解案を成立させたいと思っていたグループでしたから、「この時期インドシナ侵攻は行わないように」と野村大使に述べていました。
もし日本軍が侵攻をしたら、政府内でも対日強硬派を抑えることができなくなる。ということであったと思います。


しかし日本軍は7月25日にインドシナ南部に侵攻してしまい、3日後にアメリカ政府から「在米日本資産を凍結」し、さらにその4日後に「対日石油全面禁輸」を行ないます。
資産を凍結されただけでも厳しい措置であったのに、石油を止められるとほぼ日本の産業は止まってしまいます。当時の石油はほぼアメリカからの輸入に頼っていたからです。
石油を止められてしまったために、日本軍はアメリカとの開戦に大きく傾きます。



さてではなぜ日本軍がこの時期インドシナ南部に侵攻を行ったのでしょうか。うむ。
侵攻すればアメリカは石油を禁輸する可能性がある。という警告は日本には伝わっていました。
そして石油を止められたら日本の産業は1~2年で止まってしまうことも当然日本は知っていました。
しかしそれにも関わらず日本軍は南下してしまいます。


一時が万事。
日本がアメリカとの戦争をした原因の縮図がここにもあります。
「実際に軍事行動に出れば、結局相手は引っ込むだろう」
「アメリカは口だけで、本当に石油は禁輸しないだろう」
「たとえ国力10倍差のアメリカと戦争になっても、何とかなるだろう。根拠ないけど」
この読みの甘さが全てです。


当時の日本は「戦争することのリスク」「敗戦したあと国がなくなるリスク」には全く無頓着でありました。
これは一部の軍人の傲慢さではなく、日本人全体に覆っていた当時の空気のように思います。
そりゃ開国以来、日清戦争、日露戦争、満州事変、と大国を相手に一度も負けたことがありませんから。
近代戦の前半を「信義なき戦争」の連戦連勝であったことの、代償です。
表面的には日本は大陸の権益をどんどん拡大していっているように見えますが、それと呼応する陰の因子としては同じだけ破滅の因子を増大させているように思えます。
生きている私達人間は、時間の軸の錯覚があるだけで、信義なく奪った行為は信義なく奪われる縁を「同時に」生成するように思います。


日米開戦を避けるべき忠告やチャンスは何度もあったにも関わらず、結局それらが無視されて堕ちてしまう様に見えます。自ら生成した「破滅の因子」に引き寄せられるように。
その「破滅の因子」の現れ方としては、この日本全体を覆っていた「見通しの甘さ」「傲慢さ」という空気という形であったかもしれません。




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鎮魂歌。ハルとイワクロの友情。


当時のアメリカは実はすでに間接的に日本と戦争していました。
中国国民党を助けるという名目でフライングタイガーとよばれる300人ほどの航空部隊が日本軍と戦っていました。


つまりアメリカ国内自体には「日本に対して強行で臨むべし」という派閥と「戦争はさけて和平を」というグループにわかれていたと考えられます。
岩畔にコンタクトした「経済重視主義」ユダヤグループは「和平派」が多かったと私は考えております。


日本国内もまた「アメリカと戦争するべきではない」派閥と、「アメリカと戦争やむなし」という派閥に分かれておりました。
この4つのグループの駆け引きによって、未来の白紙の歴史が日々創られていく最中であるのが、1941年の春から夏にかけての出来事でありました。



しかしドイツがソ連に宣戦布告したことにより形勢が大きく変化しました。
まずアメリカ自身が「ドイツはすぐにはイギリスやアメリカを攻撃する可能性はなくなったので、焦る必要はない」という空気になったことです。


ドイツがイギリスと戦争になったときは、アメリカ影の政府と呼ばれる国際資本ユダヤは全面的にドイツと戦争をする腹積もりであったことでしょう。
その時にそなえての日米諒解案という日本との交渉でした。
しかしもうそこまで日本に譲歩しなくていいんじゃね?という空気が影の政府の大多数を占めるようになったと思われます。



国務長官であったコーデル・ハルは、少なくとも岩畔大佐に対しては息子のような親愛の情をもって彼に接していたと伝えらえられます。(ちょうど二人は親子ほどの年の差がありました)
岩畔、野村、井沢の3名がハル国務長官との会談の多くが、夕刻彼の私邸に招かれて行われたことから、彼等の間には友情と呼べる信頼関係があったと思われます。



日米諒解案のオーラルステートメントではハルはこう述べています。
「「国務長官は、日米両国のより良き理解をもたらし、太平洋の平和の確立のために、日本大使とそのアソシエイツ(井川と岩畔)によって成された真剣な努力を高く評価し、会談全体を通じて彼らを特徴づけた正直さをも評価する次第である」



コーデル・ハルというと日本つきつけた最後通牒「ハル・ノート」が有名ですが、そのほんの半年前はハルは日本に対する和平の礎を呼びかけた責任者であったのでした。
アメリカ影の政府の中では、実は「温厚派」「和平派」であったようです。



しかしドイツの参戦で「日本との和平派」は旗色が悪くなります。
日米諒解案のようにそこまで譲歩する必要があるのかという論調が多勢を占めるようになってきたのではと推測されます。
極めつけは日本がフランス領のインドシナ南部に侵攻したことでした。
これによって決定的に「対日強硬派」が勢いづいたと思われます。


アメリカにしてみれば、(ドイツがソ連に宣戦布告した)今となっては大幅譲歩の日米諒解案をこちらが提示しているのに、身の程知らずの高慢な(松岡の)返答しか返さない上に、まだ交渉中であるのに日本軍を南進させるとは何事か。
本当に我がアメリカが譲歩してまで日本と和平条約を進める必要性はあるのか?


目には目を。日本に対してはやはり強硬策を打つべきだ。
そうしてアメリカは日本に対して石油の輸出禁止を決定します。
これはアメリカ政府の中で、「和平派」が負けて「強硬派」が主流になったという狼煙であったということです。


真珠湾攻撃まであと4ヶ月のことでした。
日米は急速に戦争に向かって転げ落ちていきます。




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鎮魂歌。日米和平。時間切れ。


ドイツとソ連を訪問した松岡は人生の得意の絶頂だったことでしょう。
ヨーロッパを制したあのヒトラー閣下と個人的な信頼関係を結び、そしてあの優秀なゲルマンの臣民たちから熱烈な歓迎を受けました。

日独枢軸・松岡洋右外相の訪独を大歓迎するベルリン市民(Japan-Deutschland)



またその後ソ連に向かい、日本とソ連の間の不可侵条約を結びました。



これでユーラシアは、「ヒトラー閣下のナチス」「スターリンのソビエト」「我が日本が統率する大東亜共栄圏」によって統治されるということになります。


この構造が松岡の描いた幼稚な落書きであったことは、数カ月後彼自身が知ることとなります。
世界を託されるということは本来は謙虚で畏れ多いことであるはずですが、松岡は自分の小賢しい知恵で、ヒトラーやスターリンと対等に世界を牛耳れると思っていました。
私の個人的主観では、ヒトラーもスターリンも悪魔に魂を売ったホンマモンですから、松岡程度の小役人が自分が対等と思っている姿は本当に滑稽です。


しかしまだこの段階では自分が世界の覇者になった気分であったことでしょう。
松岡が(見かけの)凱旋から帰国すると、なんと反乱分子たちがアメリカとの和平を工作しているといいます。
よりによって近衛首相までもがその日米和平に乗ろうとしています。
なんということでしょうか。あの優柔不断の軟弱野郎。
ヒトラー閣下を裏切ることはできません。
そうおもって松岡は外務大臣の権限でこの日米諒解案を潰しました。


しかしそのひと月後、なんとヒトラーのナチスがソ連に侵攻を始めました。
松岡が描いた、ユーラシアを「ナチス」「ソビエト」「大東亜共栄圏」の2大勢で治めるという小賢しい夢は消え飛びました。
何よりヒトラーはそれを知っていてあえて松岡には何も知らせませんでした。
松岡はドイツ訪問の後、ソ連に向かい不可侵条約を締結することを述べたことでしょう。
しかしヒトラーはまもなく自分たちがソ連に攻め込むことは秘密にしていました。
ソ連を油断させるために松岡を利用したということです。


さてヒトラーに裏切られた松岡はどうしたでしょうか。
「ちくしょ~、ヒトラー。裏切りやがったな」
とは言いませんでした。
「あのヒトラー閣下がソ連と戦争を始めたのなら、我々日本も閣下をお守りしなければならない。日本もソ連にただちに宣戦布告をして大日本帝国陸軍をソ連に向かわせなければならない!」


悲しいことに当時の日本の外務大臣はヒトラーの操り人形でありました。
悲しいことに当時の日本の首相は自称リベラル(ブレインは朝日新聞社員などの左翼)の優柔不断人物でした。


松岡はソ連参戦を昭和天皇に直訴します。
昭和天皇は当然承諾することなく、近衛首相に松岡を何とかしろとお命じになります。
昭和天皇からすると松岡こそ国賊と見えたかもしれません。
国際連盟を脱退し、反対していたドイツとの同盟を進め、逆に結びつきを強めよといっていたイギリスとアメリカに喧嘩を売り始めています。
近衛内閣の時も松岡の外相就任は本当のお気持ちでは反対であったといいます。
しかし近衛が選んだのでありますから承認せざるを得ません。
本当に近衛は大丈夫なのかしらん、と思っていると案の定このざまです。
日米諒解案は握りつぶし、ヒトラーを守るためにソ連に参戦せよと直訴に来ます。


近衛は昭和天皇のお言葉を受け迷いました。
一言松岡を罷免すると言えばいいと、私なら思いますが、近衛は松岡を心底恐れていたようです。(アホダナ~)
松岡を罷免するために、内閣そのものを総辞職して、自分も総理大臣を辞めてしまいました。
そこまで相打ちにしないと近衛は松岡を辞めさせることができなかったのです。情けない首相です。
この優柔不断リベラル首相が日米開戦のお膳立てをしたといって過言ではないです。と私は個人的に思います。


さてドイツがソ連に侵攻したことで、アメリカは一息つきました。
ドイツがすぐにイギリスに攻め込む可能性がなくなったからでした。
逆にこれによりソ連からアメリカに同盟の呼びかけがあったと推測されます。


アメリカはもう急いで日本と和平案を締結する理由がなくなりました。
ドイツはイギリスではなくソ連と戦い出したからです。
しかもコミンテルンからアメリカ政府にかなり強力な交渉が開始されたと推測されます。
ソ連もまたドイツから自国を守るために必死であったことでしょう。
アメリカの国際資本もソ連の共産党も元をたどると同じユダヤです。
「ユダヤ民族を守るため」という大義では、日本と手をつなぐよりソ連の方がずっと親和性が高いです。


ヒトラーは「アメリカとソ連が手を結ばない限りは」と予言してますが、自分たちが負ける唯一の条件が進みだしていました。これから4年間、ルーズベルトとスターリンの蜜月の時代が続きます。


こうして岩畔たちが心血を注いだ日米諒解案が両国の俎上に上がるチャンスは事実上消えてしまいました。




おひさま、ありがとうございます。


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鎮魂歌。国難を小難・無難にする妙法。


ひょっとしたら太平洋戦争は開戦しなくても済んだかもしれない。
そのような歴史の妄想を考察しております。
過去のあの時点では、歴史の未来もまた白紙でありますから、真珠湾攻撃がなかった未来も充分可能性があったことだと思います。


ただし日本が当時持っていた信義的負債(日清戦争、日露戦争、満州事変)は残ったままでありましたから、これらの代償を私達日本人は払っていかなければならなかったことは変わりのない事実ではあったことでしょう。


ただし大難が小難になるかの如く、できるだけ小さい犠牲で負債を昇華させることは、できたのではないかと思うのです。
2発の原子爆弾で国土と人命が蒸発したり、10万人の人が一晩で焼死したり、東南アジアの島々で日本兵が地獄を体験することのない、負債の昇華の選択があったはずです。


満州の権益と朝鮮半島は遅かれ早かれ手放すことになったことでしょう。
これは信義の振り子の揺り返しの現象とみることもできると私は考えます。
信義なく手に入れたものは、手に入れた瞬間に「自分も信義なく奪われる」という縁を同時に生成するものでありますから。


ただそのような「奪われるという悪縁」も、自分から積極的に「与える」という行為を起こせば小難や無難で昇華していくのではないかと思います。
これは私の個人的な人生経験の教訓からそう思います。


逆に「勝ち負けのプライドの執着」が強ければ強いほど、「奪われる悪縁」は強烈にその人(その国)に作用するように思います。


でありますからこの時の日本においては、中国だけでなく、満州をアメリカやイギリスなどと共同管理するのは非常に良い施策であったと思います。
満州が生み出す「富」だけでなく、日本がもっていた「悪縁」もまた彼等と割り勘することとなります。


この悪縁を戦後日本から引き継いだ例が朝鮮であると私は考えています。
当時の朝鮮人は日本人でありました。
彼等は日本人として日中戦争や太平洋戦争を戦いました。
しかし日本が戦争に負けた直後から、自分たちは「被害者である」、自分たちは「戦勝国である」と言い出しました。
そしてまた日本人が彼等の地に生み出した多くの工場やインフラは朝鮮人のものとなりました。ふむ。
さて見かけ上は彼等は得をしました。
日本人として戦ったことはすっかり無かったこととして、自分たちは被害者、あるいは戦勝国側の人間として彼等の歴史を塗り替えたからです。
そして日本が35年間投資してきた富も全てそっくりただで彼等のものとなったからです。
しかしまた日本が本来受けなければならない「悪縁」も朝鮮半島は引き受けました。
朝鮮戦争が勃発し、太平洋戦争などとは比べ物にならない残虐な行為が国に溢れて、最終的に国は二つに分断してしまいました。
本来なら日本が分断されるべき「縁」を彼等が自分で引き受けたように、私は個人的に感じます。


現代でもまたそうかもしれません。
彼の国が日本を貶めようとすればするほど、実際捏造像を世界中に拡散さえればさせるほど、彼等は日本の悪縁を吸着してくれているのかもしれません。
私達は、自分と自分の家族と自分の国を守ることは淡々と主張を続けながらも、全ての国際行動は「相手国への信義」に基づくものであるべきです。


相手が卑劣な国であっても、日本の立場として「信義」を尽くすことは、馬鹿正直が損をするように見えるかもしれません。なんであんな国々に信義を尽くすのかと腹を立てる日本国民もいらっしゃるかもしれません。
しかしそれこそが、日本を守る最大の「武器」であると思います。
たとえ日本が「悪縁」を生じさせていたとしても、国を滅ぼさず、大難を小難や無難に変えていくことができる唯一つの方法であると思います。
場合によっては、卑劣国が自分で日本の悪縁を吸着してくれているのかもしれません。


日本の近代戦の歴史は、後世の私達日本人に貴重な教訓を教えてくれているように思います。
そして得意の絶頂であった松岡洋右はどん底に落ちることになります。
あれほど信頼していたヒトラーに裏切られたからでした。
そして日本そのものもどん底へと落ちていく、潮目が変わった瞬間でありました。
アメリカと対等に交渉できる時期が終了したという合図でありました。




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鎮魂歌。バスに乗り遅れるな詐欺。




当時の日本で流行した言葉が「バスに乗り遅れるな」でした。
これはヨーロッパを次々に征服していくドイツの潮流に乗り遅れてはならないという国民の意識でした。



それまでの世界観では「欧州=世界」でした。
短期間に世界である「欧州」を征服したナチスの勢いは近代史上屈指のものでした。
この勢いを目の当たりにすると、私達日本人が「バスに乗り遅れるな」と焦る気持ちが出たことも仕方ないかもしれません。


しかしここに罠がありました。
ナチスがヨーロッパを征服していく戦争には「信義」も「大義」もありませんでした。
ユダヤに対する迫害に象徴されるように、彼等の戦争の動機は我よし民族主義でした。


さてここで私達日本人に大きな試験問題が提示されました。
表面的な物質しか見えない世界観では、ナチスは当時世界最強でした。
内面的な誠意と思いやりいう世界観では、ナチスは当時世界最悪の国でした。
私達はナチスをどちらの世界観で見るでしょうか。
それが当時の日本人に課せられた試験問題と仮定しましょう。


この試験で私達が選んだ結果が、振り子となって私達国民が体験することとなります。
「バスに乗り遅れるな」とは表面の物質的世界観への標語でした。
焦らせて、物事の本質を考えさせない心理状態にさせる標語でした。
オレオレ詐欺の手口と同じです。相手を焦らせて考えさせないことなのです。


だいたい私の人生経験でも、急かされた決断にろくな結果はありません。
「バスに乗り遅れるな」が正しかったことは一度もありません。
「せかされたバスはあえて一本見送れ」ぐらいで丁度良いですね。


私達の人生でも、信用のおけない人物や企業が、見かけ上大儲けしていて、それに一口のらないか、と誘われたとしましょう。今のらないともう二度とこんなチャンスはありませんよ。と誘われたとしましょう。
もし私達の欲の皮が突っ張っていたならば、簡単にその詐欺に引っかかるでしょう。
もし私達が誠意と信義を軸にしていたならば、いくら大金が動いていても、胡散臭い相手とは距離をあけるでしょう。


日独伊三国同盟を結んだ松岡ひきいる私たち日本人は、欲の皮が突っ張って詐欺に引っかかった愚か者であったかもしれません。
「バスに乗り遅れるな」この標語が私達の浅ましさの全てを物語っているように思います。
日清戦争・日露戦争・満州事変と大義ない戦争で領土を拡大していった当時の私達日本人のにおいが、この詐欺のカモとして惹きつけられたのではないでしょうか。類友。


さて私達がヒトラーの詐欺にかかったとわかるのは、この1ヶ月後でした。
松岡が日米諒解案を握りつぶしてからホンの1か月後でした。
真珠湾攻撃まであと5ヶ月ちょっとという時期のことです。



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侵略戦争。アメリカをとるか。ドイツをとるか。





ヒトラーと蜜月の松岡外相


ヒトラー・ユーゲントとダンスを興じる近衛首相



近衛首相も昭和天皇も、ドイツから帰国した松岡は人が変わったようだと述べたといいます。
彼はヒトラーの魔力に魅入られたのかもしれません。
逆を言えばそういう人物がその時期、日本の外務大臣になったということが、かなり日本の運の貯金が枯渇し始めていたとも見えるかもしれません。
類は類を呼ぶように、国家が破滅する時節には、国家を破滅させる人物が要職に付くということが世界の歴史が示しています。


責任感があり謙虚な人物あっちが国家の要職につけば、その国家は強力に守られるであろうことはどなたにも理解されることでしょう。
しかしこの時期、日本国民の大多数が指示した指導者は、優柔不断の首相と、傲慢権力の外務大臣でありました。


かたやアメリカの外務大臣ともいえる国務長官は、日米諒解案を早く締結したいと日本にはたらきかけています。
我が国の外務大臣は、日米諒解案について早速ヒトラーに相談したと記録にあります。
松岡は回答を一ヶ月以上引き伸ばしたあげく、骨抜きにした案をアメリカに返答させます。


つまり三国同盟は絶対に破棄しない。
「もしアメリカがドイツを攻撃することがあれば、日本はアメリカを攻撃する。」
簡単に要約するとそういう内容の返答でした。


日米諒解案とは「アメリカがドイツを攻撃しても、日本は干渉しない。」という約束でした。
それを守るならアメリカは、「日中の和解交渉」「満州権益承認」「石油資源輸出」「借款」を手助けしますよ。という内容だったからです。


日本が、ドイツを取るか、アメリカを取るか。どちらを取るかを選択できた非常に短い期間の好機でありました。後世の歴史家が知るにそのタイムリミットは実はたった2ヶ月しかなかったのです。その2ヶ月で日本は自分たちの将来の運命を選択することになります。



しかしなぜ私達日本は、アメリカではなくドイツを選んだのでしょうか。
それはやはり国家の大きな振り子の振り返しという圧力を感じざるを得ません。
日本は明治維新後、日清戦争、日露戦争という戦争を勝ってきました。
この大義なき戦争に(今までの日本の運の貯金が大きかったために)勝ってしまったことが、同時に日本の破滅の目となっていたのでした。


当時日本がドイツを同盟を結んだこと、アメリカに宣戦布告したこと、いずれも日本国民の大きな支持を得ていたのです。
清やロシアという当時の大国に対して「絶対勝てるわけない」という戦争を私達は勝ってきました。
今回のアメリカであっても(たとえ国力差が10倍であっても)今度も勝てるに違いないという根拠のない奢りがあったのではないでしょうか。


そして松岡に限らず当時の日本人がナチスに惹かれた「類友」の部分もあったのかもしれません。
その「類友」をたどっていくと、やはり大義なく満州の権益を武力で占領したという日本に刻み込まれた「におい」が、お互い惹きつけあったのかもしれません。
「類友」とは同じにおいのものどうしが惹かれ合うということでしょうから。


日本の近代戦争の前半戦(日清戦争、日露戦争、満州事変)の信義の有無が、日本の運の貯金借金を決定し、後半戦(日中戦争、太平洋戦争)の日本の苦境を決定していきました。と私は妄想しています。
日米諒解案を日本人自身で潰していくさまを検証していくにつれ、その思いを強くします。




ヒトラー・ユーゲント訪日記念。神戸オリエントホテルにて。




おひさま、ありがとうございます。


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侵略戦争。ヒトラーに魅入られた男。



岩畔、井沢、ドラウトの3名が渾身の力で練り上げた「日米諒解案」を手にした、ハル国務長官は、野村駐米大使に「この諒解案を元に私達両国の和平の枠組みを検討したい」そのように持ちかけたということになっています。
民間人による草案が公の場にお披露目になった瞬間でした。1941年4月16日です。
真珠湾攻撃まで8ヶ月を切ったギリギリのタイミングでした。


ただハルは野村にこう念を押しました。
残された時間はあまりないことを充分留意して欲しい。
魚が腐らない前に料理してください。


結論からいうと日本はこの新鮮な魚を自らの手で腐らせてしまうことになります。
実はこれは日本が有利にアメリカと交渉ができた最初で最後のチャンスでした。
ナチスやソ連が大きく動いている当時の情勢の中で、日本はこのチャンスを流してしまうことになるのです。
現代人の我々日本人は、特攻隊の方々の手記を読んだり、広島長崎の原爆の映像を見るにつけ、なぜこの最後の「日米諒解案」を私達がつぶしたのか。ということを様々な視点で思い起こすことが大切であると思います。


本当に軍部の暴走に私達国民が騙されたのでしょうか?と。
本当の理由は私達国民にあるのかもしれません。と。


野村大使から正式に「日米諒解案」が日本政府に届けられました。
この内容について陸軍も海軍も「原則了承」という結論を下しました。
陸軍の影の実力者である岩畔が日本と連絡を取りながら2週間かけて練った条約案でありますから、軍部が反対する理由はあるはずはありません。
この調整力と交渉力が岩畔が一目おかれている理由であります。


近衛首相もこの条約がいかに日本にとって有利かよくわかっていました。
三国同盟の顔はたてつつ、泥沼の日中戦争を終わらせ、満州の検疫はアメリカに認めてもらい、経済制裁を解いてもらい、資本の融資も受けられる。
ただでさえ日中戦争で国力が疲弊している状態で、国力10倍のアメリカと戦争をして勝てる見込みは万に一つもありません。


しかし近衛は決断できませんでした。優柔不断首相の名前の通りです。
彼は外務大臣である松岡を恐れたと言われています。
松岡はその時期、ドイツとソ連にいました。
岩畔と全く逆の同盟を強化しようとしていました。
ヒトラーとの個人的関係を深め、スターリンとの不戦条約を締結し、アメリカとの敵対姿勢を強めるよう画策していた真っ最中だったのです。


ハルが「時間がないので急ぐように」といった理由です。
彼は日本の外相がドイツとソ連との関係を深め、反米網を築こうとしている動きを知っていたのでしょう。
日本がアメリカ側につくのか、ドイツ・ソ連の側につくのか。
日本がアメリカに有利に交渉できる最初で最後の好機であった背景でありました。


さて松岡が帰国します。
近衛はわざわざご機嫌をとりに空港まで出迎えましたが、松岡は近衛の手をふりほどいて一人車に乗り込んだと言われています。


松岡は日本を国際連盟から脱退させ、ナチスとの同盟関係を築いた立役者です。
私の個人的な妄想でありますが、松岡はヒトラーとの個人的信頼関係に酔っていて、まるで彼に憑依されたロボットのような状態だったかもしれません。
権力が好きで傲慢な人間ほど、簡単にヒトラーの術にはまる気がいたします。


日本とアメリカが同盟を結ぶなど、松岡やヒトラーにとっては決して容認できることではなかったことでしょう。



おひさま、ありがとうございます。


下記は静止衛星軌道上で観測される太陽からの電子密度グラフです。急な変動がある場合は地震や事故に備えて防災意識を心掛けましょう。特に注意が必要な期間は、メールやTwitterで防災意識リマインダーを受け取ることができます。詳しくはこちら
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侵略戦争。未来の歴史は白紙。



私達は現在を生きています。
この瞬間の私達の選択の総意が次の瞬間歴史として刻まれていきます。
未来の歴史は白紙であるというのはそういうことです。


現在は過去の私達の言動の振り子の影響を受けます。
人に誠意を尽くしたのか、人を裏切ったのか。
私達は過去の言動の反動を常に受け続けています。


しかしその反動をどういうように受けるかは、私達の選択によっていかようにでも変化するのです。


というような「歴史の原理」はやはり本当にあるのでしょうか。
今回日米開戦の経緯を考察していくと、本当に未来の歴史は白紙だったのだなあ。と感じざるを得ません。


ルーズベルトは親共産主義であったことは知られています。
彼のブレインの多くはコミンテルン(国際共産主義者)でした。
スターリンとの会談で東ヨーロッパやアジアを赤化することに協力しました。
終戦後の日本も共産化する計画をOSS(今のCIA)に実行させていました。


だから太平洋戦争はルーズベルトとコミンテルンの陰謀であった。
そういう説も巷ではいくつも言われています。
当然これらの話のある部分は事実であろうと思います。
ルーズベルトやチャーチルが日本に真珠湾攻撃をさせたがって挑発したのは事実であろうと思います。


しかしそれでも、当時のその時点ではやはり未来の歴史は白紙であったのでした。
日本をアメリカと戦争をさせたいという人たちは間違いなくおりました。
同様に何としても日本とアメリカの戦争を回避したいという人たちもおりました。
結局人類の総意として「日本とアメリカを戦争させたい」意識が勝ったのでした。


陰謀論の陥りやすい罠は、それが決定された運命である思い込みを招くということです。
本当はどんな時であっても、「現在の瞬間」は未来の歴史は常に白紙であり、人類の想念の天秤で方向が決まっているということです。(過去の振り子の影響を受けながら)


真珠湾攻撃まであと8ヶ月の時点です。
岩畔、井川、ドラウトの3名によって日米諒解案が作成されました。
驚くことに、この時には、まだアメリカはソ連共産主義をは密約同盟の仲ではなかったということです。
もし日本がドイツとの同盟を破棄するのであれば、アメリカは日本のためにソ連と戦うという同盟を結んんで良いという条項があるからです。


これからたった数ヶ月で世界の情勢は大きく変わり、ルーズベルトはスターリンと組んで、ヒトラーと日本を叩くという図式に決定されてしまいます。
しかしこの時点ではまだアメリカの国債資本ユダヤは日本につくのかソ連につくのか大きく揺れていて、どちらにも転ぶ可能性があった状態でした。
まさにこの瞬間の「現在」では未来の歴史は白紙であったのです。


ヒトラーの予言では、自分たちはソ連にもアメリカにも勝つだろう。
そういって戦線を拡大していきました。
しかし唯一負ける条件として、アメリカとソ連が手を組むということだと述べていました。
つまりその時点でも、アメリカがソ連と手を組む確率は低いと見ていたのです。





これが当時のヨーロッパの地図です。
ほとんどがすでにナチスドイツの支配下でした。
しかもこのナチス領土ではユダヤ人が徹底的に迫害を受けていました。
アメリカ国債資本ユダヤの人たちはこのヨーロッパほぼ全土に染まったナチスの色を取り除かなければならないと考えていたことでしょう。
これは「ユダヤ民族」の本能ともいえるべき正義感であったかもしれません。


上記の地図を見て頂くとわかりますが、国際ユダヤ資本の主要本拠地(の一つ)であるイギリスのロンドンがナチス色に染まるのは、もう時間の問題でした。


アメリカ国債資本ユダヤは、ナチスを抹殺するために、万全の布石を準備し始めていました。
その一つがドラウト神父に託した「日米諒解案」でした。
アメリカをドイツとの戦争に参加させ必ず勝たなければなりません。
そのためにはドイツの同盟国であり軍事大国である日本が後ろから襲ってくる体制は排除しなければなりません。


私達日本人が知らなかったことであり、重要なことだと私には思えるのですが、真珠湾攻撃の8ヶ月前までは、アメリカ国際資本ユダヤの大勢は、日本と平和同盟を結びたかった。ということなのです。


もちろんアメリカ国債資本ユダヤの中にも、日本に対して快く思わないグループもあったでしょうし、親共産主義のグループもあったでしょうが、もうそんなことを言ってはいられない切羽つまった状況でした。それほどナチスの急進撃は国債資本ユダヤにとって緊急事態であったと言えます。
(少なくとも日本人はユダヤ人を迫害した歴史は一度もありませんでした)



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侵略戦争。外交の芸術作品。


早速、岩畔と井沢とドラウト神父の3人はで日米諒解案をまとめます。
岩畔は陸軍省の政治スタッフで日本の国益を知り尽くしていました。
ドラウト神父もまたアメリカ国際資本ユダヤの「経済重視主義(親日)」の重要なパイプラインでありました。
非公式ながらもこの3人の折衝は日本とアメリカの政府の交渉のひな形でありました。


3日間ほぼ不眠不休で仕上げた第一次案は早速日米双方の政府に送られます。
両国から伝えられたコメントを再び反映させるために知恵を絞ります。
そしてそういったやりとりが3回繰り返され、1941年4月16日に、ようやく両方の政府が納得できる和平案がまとまりました。


真珠湾攻撃まであと8ヶ月をきった時点のことでした。
外交交渉というのは、両者の代表者による「落とし所の芸術」であるといえましょう。
普通なら9分9厘まとまらないものを、絶妙のバランスでまとめるからこそ「芸術」と言えます。
それゆえ外交はまず代表者が個人的に信頼を置く関係であることが重要であるのです。


国と国の付き合いとは、人と人の個人の信頼感がひな形になることを、私達生き残った日本人は忘れてはならないと思います。



さて2週間でまとめられた日米諒解案とは次のようなものでした。


1,三国同盟か日米同盟か
アメリカはドイツと戦争することがすでに決まっていました。
(ただしどういう名目で参戦するかがルーズベルトの思案の真っ最中でした)
そのためアメリカはドイツと開戦したとしても、日本とは戦わないという条約を結びたがっておりました。
このため集団的自衛権として、イギリスが攻撃された時点でイギリスを守るのはアメリカの自衛権であるとして日本が認める。というように落とし所が決まりました。


さすがに三国同盟を締結して半年しかたっていないので、これを反故にすることはできない。というのが岩畔(日本政府)の立場でした。
しかしもし日本が三国同盟を破棄するのなら、もし日本がソ連に攻撃された時にアメリカは日本を守ってもいい。とさえアメリカから申し出がありました。


返す返すも三国同盟が日本を滅亡に追い込んだ国際体制でありました。
もしこの時アメリカと組んでいたらソ連に攻め込まれることもなかったでしょう。
しかしそれでもアメリカではなくナチスを選んだ時点で、日本の国運の限界であったといえるかもしれません。



2,中国の独立と主権
4年にもわたる泥沼の日中戦争でした。
長引いている理由は、もちろん広大な国土に日本軍が引き釣り出されているということもありますが、イギリスとアメリカが蒋介石国民党のバックにいることでした。
彼等が潤沢に武器を支援していることがありました。


この日中戦争においても、日本が軍を撤退するならば、日中戦争の和睦の交渉をアメリカが行うことが盛り込まれました。
日本としては元々満州の権益が確保されれば良かったのです。
もともとは日中戦争はスターリンや中国共産党による作戦に、日本軍と国民党軍がはまって戦い始めた面があります。
もしアメリカが仲裁するのであれば日本軍も満州に戻ることができるでしょう。


アメリカ国際資本ユダヤも、もう満州よりも中国本土で経済活動ができるならそれで充分手を打てると考えたようです。
少なくとも現在のように、日本軍が中国の主要な都市を進駐している状態を解決したい。というのが彼等の落とし所でした。


3,借款と資源
これは日本が喉から手が出るほど欲しかった条件です。
この条約が締結されれば、日本はアメリカ(=国際資本ユダヤ)から20億ドルの援助を受け、また石油やゴムやニッケルなどの輸入の保証も取り付けました。
資源さえアメリカから確保されれば、日本は軍を南下させる必要はありません。


4,日系人の人権
そして岩畔はこの条約に日系人の差別撤廃も盛り込みました。
日露戦争以降、アメリカでは日系人に対して差別が強まっていました。
両国が平和を約束するのなら、日系人差別も撤廃するべきであるという項目が追加されました。


こうして練に練られた芸術品ともいえる「日米諒解案」は完成しました。



つづく



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侵略戦争。外交=個人の繋がりの延長線。


日米諒解案についてとても詳しいサイトがあります。
イワクロ.com
http://www.iwakuro.com/

このサイトを書かれている方は岩畔豪雄の子孫です。
祖母から岩畔豪雄から聞かされた体験がこのサイトの元になっています。
私もこの日米諒解案についてはこちらのサイトを大きく参考にさせて頂きました。


この日米諒解案のエピソードを調べれば調べるほど、国と国の交渉は人と人の交渉に大きく由来することがわかります。
今での世界中で様々な国が対立しています。
これらの対立を解く鍵は、まずは国を代表する者どうしの個人的な信頼関係が最初に築けるかどうかです。
それが私達はこの日米諒解案のエピソードで学ぶことができます。


しかしどうしても国のトップどうしが個人的な信頼関係を築けないことも多いです。
残念ながら。
なぜそれが起きるのか。
それこそがその国の「運」であるように思います。


今の国のあり方は、過去のそれまでのその国のあり方の集大成です。
(未来のその国のあり方は、今のその国のあり方が作成中であります)
そして似た縁の者が必然的に集まるという「類は友を呼ぶ」法則もあります。
いくらある国を平和外交を結ぼうとしても、トップどうしが個人的な信頼関係を結ぶことが、どうしてもできないことがあるとするならば、それはその国の振り子の反作用として類友の法則が起きているのであろうと思います。


当時の日本は日米開戦を避けようとアメリカとの距離を縮めようと努力しても努力しても、結局ナチスドイツとの距離が近くなって、必然的にアメリカと対立します。
昭和天皇が直感的な外交勘でドイツを離れて、アメリカと近づくべきと、切に切に思いを強くなさっていても、どうしても止められなかった経緯(いきさつ)を、私達日本人は一人でも多く知るべきであろうと思います。



さてこの岩畔は1941年3月に日本をたってアメリカに渡ります。
このままではアメリカと戦争することは必至の国際状況です。
しかしアメリカと戦争をして勝てる見込みは万に一つもありません。
私達庶民はピンときていませんでしたが、軍事の専門家は知っていました。


さて陸軍の左遷人事と言われる岩畔の渡米でありますが、当のアメリカでは重要な出来事であると捉えられていたようです。
岩畔がアメリカに滞在している間はFBIが監視しておりました。
しかし国務省はFBIに対して「岩畔は日本陸軍の重要人物であり、決してアメリカ政府とトラブルが起きないように、充分注意して思慮と礼儀をわきまえるように」という通達が出されたとあります。
国務省は岩畔を「日本陸軍の代表者」として出迎えていたことがわかります。



つづく



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侵略戦争。民間人による和平交渉。


アメリカ国際資本ユダヤでも比較的親日であった「経済重視主義」のグループと親交の厚かった井川ですが、二人の神父から「至急こちらに来て欲しい」という電報をもらいます。
あちら側の準備は整ったということです。
とにかく「経済重視主義」ユダヤグループは、日本との開戦を回避したいと考えていました。


早速井川は渡米しようとします。
ところが外務省が許可を出しません。
「日米国交調整」などは民間人のやることではない。というのが理由です。
最終的には「米国産業組合調査並びに米同胞信用組合事業指導」という案で許可されたようです。


渡米してからも近衛首相との連絡には外務省の電報はおそらく使わせてもらえないでしょう。
井川は古巣の大蔵省を訪問して、ニューヨークの財務事務次官の通信設備を使わせてもらうよう段取りを整えておきました。
井川の読み通り、渡米してからの日本との連絡はこの大蔵省の暗号通信が役に立つことになります。


こうして何とか渡米はできる算段はつきましたが、その巨額な渡航費用の工面も一苦労でした。当時は今のように簡単にアメリカに行ける時代ではありません。
自腹では足らず、日米商会社長など何人かの財界人に資金援助を頼んだと言います。


このような経緯をへて、ついに井川はワシントンに到着します。
早速日本大使館の野村大使に会いに行きます。
ところが着任したばかりの野村ですが、孤立無縁でした。
松岡外務省からすると野村はお飾りであって、余計なことはするなということです。
昭和天皇から直々に、日米和平を頼むと依頼を受けて渡米してきたのに、全く何もできない状態でありました。


野村は日米和平を交渉するにあたって、自分と国務長官であるハルと個人的な繋がりを持つべきだと考えていました。
国と国の平和は、個人と個人の友情が必ず核として必要なのです。
しかし残念ながら、野村にはハルにつながる人脈はありませんでした。
また大使館の職員も協力的ではありませんでした。


そんな話を井川にしたところ、後日井川から連絡がありました。
3月8日の午後7時、カールトンホテルの裏口の非常階段からあがって部屋まで来てください。鍵はかかっていないので、そのまま入って結構です。


野村はその話を大使館職員にすると、職員らは一様に反対しました。
しかしダメで元々です。野村は約束通り夜になってから指定の裏口から非常階段をあがって部屋に入りました。
そこには約束通り、国務長官であるハルその人が野村を待っていました。


この井川という人物はどれほど広い人脈をアメリカに持っているのでしょうか。
特命を受けた二人の神父が、わざわざ日本の井川を訪問して相談した理由が伺いしれます。
アメリカ国際資本ユダヤの「経済重視主義」グループの中で、数少ない信頼できる日本人の一人が、間違いなくこの井川忠雄であったのは間違いないようです。
そして野村大使はその日から真珠湾攻撃までの9ヶ月間、40回以上の会談をハル長官と行ったと記録されています。


日米戦争はハル・ノートと呼ばれる最後通牒でいきなり始まったわけではありませんでした。
今や多くの日本人もアメリカ人も忘れてしまっていますが、何とか日米開戦を避けようと熱意を持って働いていた人たちが両方の国にいたのでした。
特に「経済重視主義」グループのアメリカユダヤ資本の人たちです。


アメリカ国際資本ユダヤ「経済重視主義」の人たちの目的は2つでした。
一つはナチスを叩いて同胞のユダヤ人たちを救いたいということです。
このため日本が三国同盟でドイツに加担してほしくないということです。


そしてもう一つは中国市場の開放でした。
現在日本は中国と泥沼の戦争に陥っています。
日本が中国から軍隊を引き上げて、自分たちが中国で経済活動を広げられるようにしたいということでした。


元々日本は中国への領土の野心はありませんでした。
本音は泥沼の日中戦争を終わらせる落とし所に苦慮していたのです。
アメリカが仲介してくれて、また経済制裁を解いてくれるのであれば、中国撤退は日本にとっても願ってもいないことでした。


こうして両国の落とし所が、井川と盟友ドラウト神父の二人によって草案としてまとめられました。

 1.三国同盟からの日本の脱退
 2.太平洋の平和の保障
 3.支那の門戸開放
 4.支那における政治的安定
 5.軍事的・政治的侵略の不可
 6.経済的・財政的協定の締結
 7.日本郵船の使用
 8.ドイツへの全ての物資の供給停止
 9.共産主義の拡大阻止
 10.ルーズベルト大統領とハル国務長官とによって確認された原則に基づく日本との協定締結

この検討中の草案は3月15日にハル長官に報告されました。
どちらの政府も公式とは認めていない民間人による和平案でした。


真珠湾攻撃まで9ヶ月をきった時期のことです。



つづく



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侵略戦争。日本の開戦派=外務省。


アメリカの国際資本ユダヤには大きく二つのグループがあったのであろう。というのが私の推測です。彼等は常に多重層でありますから。


同じように日本もまた大きく二つのグループに分かれておりました。
一つは「開戦派」であり、もう一つは「非戦派」であります。


開戦派の最右翼は外務省でありました。
正確には松岡洋右の率いる外務省であります。
この松岡は近衛文麿の第二次内閣で外務大臣に選出されました。
松岡は日本を国際連盟から脱退させた時の全権大使でありました。


近衛首相が第二次組閣時にこの松岡を外相に選出した時に、昭和天皇は反対されたと伝えられます。
昭和天皇の「国を守る勘」の通り、この松岡外相により、日本は戦争への道まっしぐらに舵を切ることになります。
そして優柔不断と称される近衛首相には、松岡をコントロールするすべもなく、近衛内閣は松岡外相に振り回されます。あげくの果てには彼のためにわずか1年で内閣解散となります。


松岡は近衛内閣に入閣するときに「自分が入るからには、外交は自分の思うとおりにさせてもらう」と近衛に宣言しました。
近衛は始めから松岡に頭が上がらない子分のように思えます。


その公約どおり、松岡は外務省の親英親米の職員を300人を粛清しました。
これ以降、外務省は反英反米の開戦派の最有力組織となります。
このような傲慢な人物に外務大臣として日本の外交を預けなければならないとは、この時点で日本の国としての「国運」もだいぶ摩耗していたのではないかと思います。


さて「開戦派」は松岡外務省でありますが、「非戦派」の筆頭は昭和天皇であり宮内庁でありました。しかし残念ながら立憲君主制という日本の仕組み上、昭和天皇には国を動かす権力は何もありませんでした。政府や国会の決めたことを承諾するだけで、否認する権利はありませんでした。


意外なのはこの当時の陸軍も海軍も日米開戦については否定的なことでした。
彼等は軍事のプロでした。
今日本がアメリカと戦って勝てる確率はほとんどゼロであることを知っていました。
軍部が開戦派になびくのは、アメリカから石油を止められて、軍隊の寿命が2年を切ったという状況に陥ってからです。


私達は日本の開戦派とは軍部であると思い込んでいました。
しかし日米戦争の後戻りができるこの時点では、開戦派の最右翼は松岡外務省でした。


彼等は日米諒解案に対して、徹底的に妨害に走ります。



つづく



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侵略戦争。二つのアメリカ国際資本ユダヤ。


真珠湾攻撃まであと1年です。
日本はアメリカとの戦争を回避できるのでしょうか。


ここでアメリカと日本の状況を整理してみましょう。
アメリカ社会の指導者はほとんどCFRやビルダーバーグ会議など影の政府と呼ばれるグループのメンバーでありました。ここからさまざな陰謀論が生まれるわけでありますが。


さてこのアメリカ影の政府グループですが、こちらも大きく分けて二つのグループに分かれます。
一つは経済重視主義ユダヤです。
もう一つは親共産主義ユダヤです。
多くの日本人学者はアメリカ国際資本ユダヤを一つのグループと考えておりますから、いろいろと誤解が生じてしまうと私は考えています。
ユダヤとは多重層であり、一筋縄の解釈では物事の本質を見失います。
当時のアメリカ国際資本ユダヤもまた「経済重視主義」と「親共産主義」に別れています。


「経済重視主義」とはクーンレープ商会のようなユダヤグループです。
宗教や人種やイデオロギーよりも「儲かるかどうか」「お金儲けが民族を守る」という主義です。
守銭奴のように思われるかもしれませんが、実は親日的です。
基本的に日本人は策を弄するのが苦手な純情馬鹿正直路線でありますから、実は彼等と相性が良いという意外な面があります。
日露戦争で日本をバックアップしたのも、アメリカの「経済重視主義」ユダヤグループでした。


今回の日米開戦においても、戦争は避けられるのなら避けて、その変わり中国や満州の市場で商売をしたい。というのが彼等の行動の基準となります。
この当時では、ハル国務長官や、前大統領のフーバーなどは「経済重視主義」ユダヤグループと考えられます。



これに対して「親共産主義」とはソ連に対して距離が近いグループやコミンテルンのメンバーです。
いわずと知れたルーズベルト大統領はこの筆頭でありました。
また当時のアメリカ政府には300名ほどのコミンテルンのメンバーがいたことがわかっています。


共産主義とはユダヤ民族を守るためのユダヤ人の発明です。
ですからアメリカ国際資本ユダヤの中でも共産主義にシンパシーを感じる人は多かったことでしょう。


スターリンは中国・満州・東南アジア・日本を共産化することが目的でありました。
ヤルタ会談でルーズベルトはこれらをスターリンに密約したと言われています。
これからわかるように「親共産主義」ユダヤは必然的に反日となります。
日本の国体をつぶして共産国家とすることが、スターリンとともに彼等の共通の目的です。


親共産主義ユダヤのルーズベルトが、中国や満州をソ連に差し出したことを、のちのハミルトン・フィッシュ議員などが告発していますが、これは「経済重視主義(親日)ユダヤ」と「親共産主義(反日)ユダヤ」の隠れた戦いと言えます。


書籍画像


さてヒトラーは自分たちはアメリカにもソ連にも勝つ。しかしもし両国が手を結べば自分たちは負ける。と予言していました。
第二次世界大戦でドイツが負けた理由は、アメリカの「親共産主義ユダヤ(ルーズベルト大統領など)」の存在によることが多いでしょう。


しかしルーズベルトの急死後、第二次世界大戦のあとの冷戦により、アメリカにもレッド・パージ(赤狩り)がふきあれ、親共産主義ユダヤは影を潜めてしまいます。
戦後アメリカ国際資本ユダヤに、「親中派」と「親日派」に別れるのにその片鱗が残っているかもしれません。


さてアメリカ国際資本ユダヤの二つのグループでありますが、対ドイツについてはスタンスは共通でした。
「ナチスを潰して迫害されているユダヤ人たちを救わなければならない。」でした。
当然といえば当然であります。彼等は日本に対しては二つの意見に分かれていましたが、ドイツに対しては共通の見解でありました。



この時期1941年1月15日、CFRは「アメリカの極東政策」を提案しています。
  ①日本の部隊を釘付けにするため、支那に可能な限りの援助、とくに戦争資材を与える。
  ②東南アジアの防衛は、海軍と空軍の派遣と、イギリス・オランダとの協定締結により強化すべき。
  ③日本への戦争資材の供給を削除して、日本を弱めるべき。



このようにアメリカの「経済主義ユダヤ」も「親共産主義ユダヤ」も共に日本に対して警戒を強めていく時代の中で、無名の3人の日本人が日米諒解案という難題に挑みます。
何としても日米の開戦を避けなければならない。それが彼等に与えられて使命でした。



つづく



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侵略戦争。影の立役者3人。


日米戦争回避の最後の希望となった日本人は次の3人です。
日本政府の本流からはずれた彼等がどうやって険悪な日米二つの国を結ぼうとしたのでしょうか。


一人目の名前は井川忠雄氏です。
当時48歳で産業中央金庫という民間の金融機関の理事でしたが、元大蔵官僚でアメリカ駐在の経験がありました。
その時の人脈でアメリカのユダヤ国際資本家たちのパイプが太かったようです。
ユダヤのクーンレープ商会の後押しで日米和平の密命を受けた二人の神父はまずこの井川氏を訪問しました。
民間人でありますが、日本とアメリカに幅広い人脈がありました。


二人目は野村吉三郎氏です。
3ヶ月という短期ではありましたが外務大臣を経て駐米大使となりました。
野村氏は昭和天皇から直々に「日米開戦を避けるように」と指示を受けておりました。
しかし当時の松岡外務省は正反対の方針であったため(ドイツと友好を結び、アメリカと敵対する)大使館スタップの協力を得ることはできず孤立していました。
外務省はのちに来栖三郎も駐米大使として派遣し(異例の2人大使でした)、野村氏を干していました。
陛下の御下命を受けながら実際はアメリカで事実上孤立無援でした。


三人目は岩畔豪雄氏です。今回の主人公であり、幻の日米諒解案の立役者です。
彼は44歳ながら陸軍の実力者であり、陸軍中野学校の設立者でありました。
あまりにも切れ者すぎるため当時の陸軍大臣であった東條英機に疎んじられ、左遷としてアメリカ行きを命じられたとの説もあります。



さて話しは少し戻ります。
アメリカのユダヤ資本家たちのあるグループは、日本とアメリカの間に不戦条約を結ばせようとしたようです。
彼等の敵はナチスドイツでありました。
ナチスはユダヤ人に対する迫害を日増しに強めていきます。
いずれアメリカの国を動かしてナチスを潰さなければならないと考えていたことでしょう。
しかしそのためには、アメリカが日本と戦わない土壌が必要です。
このため険悪になりつつある日米関係を何とか融和する必要があります。
クーンレープ商会などのユダヤ資本家たちの後押しを受けて二人の神父が密命を受けて日本に来日しました。
彼等は民間人でありながら国際金融家としての人脈の広い井川をつてに、政府の要人たちと会見します。


そして彼等がアメリカに帰ったあと、井川に日米諒解案を作成するために渡米するように伝えました。
 「アメリカ政府首脳部ノ反応ハ上々デアル、渡米サレタシ」
1941年1月20日のことでした。
真珠湾攻撃まで11ヶ月を切った時期のことでした。



つづく



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