日本人の宗教は、他のメジャーな世界宗教とは異なっている点があります。一般的に日本の宗教は神道や仏教と言われます。その神道とは開祖も経典も戒律もありません。神道のそもそもの元祖は山や海を畏れ敬って拝んでいたこととされます。その大自然の精霊をお祭りするときに、一時的に大自然の精霊が降りてくる場所が、今の神社と呼ばれるお宮になっていきます。ですから神社のお宮の裏には山や森があるのが基本でありました。
また日本人の多くが自分の宗教という仏教といっても、日本人のいう仏教とは、インドの釈尊の教えを信仰するものでもありません。これは日本人の先祖崇拝の習慣であります。戦前まではどの家庭にも仏壇がありましたが、この仏壇とは釈尊をお祭りしているというより、その家系先祖代々のご先祖様をお祭りしている場所でありました。
ほかの多くの世界宗教の方々は神が自分を守ってくれるという信仰によって、このきびしい社会生活の支えとしています。しかし日本人の多くはいわゆる「神の救い」というものを信仰していないといえます。
日本の平均寿命は女性は世界1位(87歳)で男性は世界4位(80歳)です。このような長寿命社会では100歳を超える老人も増えてきています。この100歳超えの老人を「百寿者」と呼びます。この「百寿者」を調査すると興味深い結果が出ました。彼らには共通した2つの特徴があったのです。
一つは生活の些細なことにでも感謝する傾向が強いということでした。もう生かされているだけでありがたい。という心境なのです。
そしてもう一つはすでに亡くなった家族知人といつも一緒にいる。という感覚でした。100歳を過ぎると多くの知り合いはもう鬼籍に入っていることでしょう。子どもや孫でさえ先に他界しているかもしれません。しかし百寿者の多くは毎朝仏壇にお線香を立てる習慣の中で、彼らが自分とともに生きていることを実感しているのです。うむ。
これこそが日本人の死生観の典型であります。なぜ日本人は心の拠り所となる世界宗教を輸入する必要がなかったのか。それはすでに「家系のご先祖たちと共に生きる」という文化が日本人の長い生活の中に染みこんでいたからであろうと言えます。
これは、スイスのジャーナリスト桃棒さんのご指摘にある
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欧州、アメリカ…西欧社会では、個人の幸福の追求こそが世の中全体のレベルを上げていく、という考えです。日本ではどちらかというとまず全体の幸福を追求し、そのあとに個人の幸福がやってくる、というものでしょうか?
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という日本人の特性にもつながります。
私は日本人なので自分たちのことはわかりにくいのでありますが、確かに他の地域の方々に比べると「個の意識」と同じように「全体の意識」が強いと言えるかもしれません。
日本人は「全体の意識」に溶け込みやすい傾向があるからゆえ、家系のご先祖さまと一体になる先祖崇拝の習慣が広まったのか、あるいは先祖崇拝の習慣が文化として土壌があるから、「全体の意識」に溶け込むという性質が育まれたのか。おそらくその両方であろうとおもいます。
おひさま、ありがとうございます。
下記は静止衛星軌道上で観測される太陽からの電子密度グラフです。急な変動がある場合は地震や事故に備えて防災意識を心掛けましょう。特に注意が必要な期間は、メールやTwitterで防災意識リマインダーを受け取ることができます。詳しくはこちら
また日本人の多くが自分の宗教という仏教といっても、日本人のいう仏教とは、インドの釈尊の教えを信仰するものでもありません。これは日本人の先祖崇拝の習慣であります。戦前まではどの家庭にも仏壇がありましたが、この仏壇とは釈尊をお祭りしているというより、その家系先祖代々のご先祖様をお祭りしている場所でありました。
ほかの多くの世界宗教の方々は神が自分を守ってくれるという信仰によって、このきびしい社会生活の支えとしています。しかし日本人の多くはいわゆる「神の救い」というものを信仰していないといえます。
日本の平均寿命は女性は世界1位(87歳)で男性は世界4位(80歳)です。このような長寿命社会では100歳を超える老人も増えてきています。この100歳超えの老人を「百寿者」と呼びます。この「百寿者」を調査すると興味深い結果が出ました。彼らには共通した2つの特徴があったのです。
一つは生活の些細なことにでも感謝する傾向が強いということでした。もう生かされているだけでありがたい。という心境なのです。
そしてもう一つはすでに亡くなった家族知人といつも一緒にいる。という感覚でした。100歳を過ぎると多くの知り合いはもう鬼籍に入っていることでしょう。子どもや孫でさえ先に他界しているかもしれません。しかし百寿者の多くは毎朝仏壇にお線香を立てる習慣の中で、彼らが自分とともに生きていることを実感しているのです。うむ。
これこそが日本人の死生観の典型であります。なぜ日本人は心の拠り所となる世界宗教を輸入する必要がなかったのか。それはすでに「家系のご先祖たちと共に生きる」という文化が日本人の長い生活の中に染みこんでいたからであろうと言えます。
これは、スイスのジャーナリスト桃棒さんのご指摘にある
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欧州、アメリカ…西欧社会では、個人の幸福の追求こそが世の中全体のレベルを上げていく、という考えです。日本ではどちらかというとまず全体の幸福を追求し、そのあとに個人の幸福がやってくる、というものでしょうか?
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という日本人の特性にもつながります。
私は日本人なので自分たちのことはわかりにくいのでありますが、確かに他の地域の方々に比べると「個の意識」と同じように「全体の意識」が強いと言えるかもしれません。
日本人は「全体の意識」に溶け込みやすい傾向があるからゆえ、家系のご先祖さまと一体になる先祖崇拝の習慣が広まったのか、あるいは先祖崇拝の習慣が文化として土壌があるから、「全体の意識」に溶け込むという性質が育まれたのか。おそらくその両方であろうとおもいます。
おひさま、ありがとうございます。
下記は静止衛星軌道上で観測される太陽からの電子密度グラフです。急な変動がある場合は地震や事故に備えて防災意識を心掛けましょう。特に注意が必要な期間は、メールやTwitterで防災意識リマインダーを受け取ることができます。詳しくはこちら

宗教に出会ったのはクリスマス会。初めてイエス様を拝むことを知りました。人生の中で数回キリスト教に出会いましたが根付きませんでした。イエス様は大好きですが「何だか違うのよね」という感覚。
もう一つはお葬式、お盆で出会ったお寺・仏教です。幼いときからですから行事感覚だと思います。
しかし神様または「何か見えない大きなもの」という感覚はイエス様の前に私の中に存在していたと思います。
それは記憶の中にあります。「自然の不思議、すごさ。田舎の山中にある氏神様にご飯あげる時感じたこわかった何か。仏事の親族集まりで長たる父が一日を差配した満足の顔。毎日お仏壇に手を合わせてご先祖様に心で声をかける。食事前に感謝する」など。その場面場面で沢山の神様やご先祖とお話している気がします。
それが私の源だと思います。それが道徳として根付いたかな。そう思います。雨風土も時には鳥も私には神様です。
私も、先祖供養を実践するようになってから、両親やご先祖様といつも一緒という、見守られている意識を持ち、
ささやかな日常に感謝を持つようになりました。
先祖供養をきっかけに、一人が寂しいという気持ちも軽減され、落ち着きのある生活になったと思います。
私も、100歳まで生きられるかな、…。(笑)
全体のためにやっているように見えるけれど、その人自身が目立ちたい、すごいねって言われたいが為にがんばっているように見える同僚に対してすごく不満を感じてしまいます。
その人自身は全体で進めていくべき仕事を、自分と、気の会う数人と分けあうものの、私などの合わない人には「しなくていいよ」というように、仕事を横取りしたり、まわしてくれません。
もし全体のためにやっているなら、グループ全員に平等に仕事を配分すればいいのに、「なんか仕事できなさそう、信頼がない」という空気で、グループ活動中、私の存在は無視してます。
結果として私は仕事がない状態で無能な人、という感じになっています。グループワークで無能扱いされると、結果として意見も聞いてもらえないですし、存在否定されている感じでつらいです。
たしかにその人が一目置くような仕事ぶりをこれまでできていなかったことは確かですし反省点ではありますが、でも個別の相談には乗ったりしていたとは思うのです。
これまでの働きが全部、その人がグループ内で、トップとして活動するために利用されていた気がします。
他の人にはその人がバリバリ仕事しているので、わたしは手伝わないひどい人、と思われているようです。でも、本当は仕事がしたいのに、その人が全部独りよがりでやってしまうのです。
私自身は、仕事はできる人間だと自負していますが、こういう人のそばでは怒りでやる気が削がれてしまって、無能状態です。
怒りは駄目だと頭で分かっていても、怒りがこみ上げてきて、精神的につらいです。
ぐちと相談が混ざってしまい、すみません。
まるぞうさんはどう思いますか。
たぶん?同じだ。これは思考の中で自分で理解出来ました。心の仲の良心的思考をかみさま。と思っていたし。ご先祖さまとの繋がりは意識も理解もありませんでした。むしろ……………。
だから、〇ぞうさんにもRさんにも。ありがとうございます。の思考感謝があります。自分の環境では理解出来ませんでした。僕は。ラッキーと思いました。お疲れ様です。ありがとうございます。m(__)m。
ある人は、他人のAさんが自分の人生にいると思っています。しかし本当は自分一人しかいないのでした。他人のAさんとは実はまた自分自身を投影してただけでした。
たとえもし引っ越しても転職しても、そこでもAさんがいたのでした。名前も違う別人でありますが、本質は全く同じAさんでありました。ある人はどんな場所に世界を移しても必ずAさんがそばにいました。なぜならAさんとは自分自身の影でありましたから。そばにいる一番(反対がゆえに似ている)人物に、Aという自分の影を投射していたのでした。ある人の人生には、実はたったひとりという自分しかいないのでした。
という夢を見ました。おわり。