コメント
 
 
 
見当違いだったら申し訳ありません。 (宮里逸郎)
2017-12-14 06:07:13
このお話を読ませていただき、根本的に共感するところがあります。
小原さんの言わんとしていることとは違っているかもしれませんが、私のような精神障害者が感じている「社会での生きづらさ」とどこか似ているのかなと感じた次第です。
字数制限のため詳しくは書けませんが…。
 
 
 
ありがとうございます (おっはー)
2017-12-14 09:20:08
お世話になっています。世の中にはもっとしんどい人がたくさんいるのに、このことばかり大げさに言っていいのかなどとも思いましたが、言ってみた結果、もっとしんどい人のこともこれまで以上に考えたいと思うようになった気がします。生きづらさって言葉は、もっと生きづらい人のことを知ってから使っていこうと思って、当面くらしにくさとしました。
 
 
 
記事を拝見いたしました。 (波多由起子)
2017-12-25 08:20:52
今現在この地球上で、子供を生むという機能は片側にしかありません。それはメスという名前をつけられた側です。その自然の仕組みを踏まえて、男、女という区別が認識され、そこから自分の周りを意識するようになります。
男という性も女という性も、属性に過ぎないのですが、それを殊更差別問題として捉えるのは、人間特有です。ある種の生物のように性別を自己の中で変化させられたらいいのですが、残念なことに人間にはそうした機能は適用されませんでした。
性という属性を越えて人間としてお互いを愛するのは当たり前のことです。でも、そこに性を利用して生まれる子供とか、セックスそのものを表明されると、違和感を覚えるのは自然な感情だとは思われませんか?
いじめの原因に自らの性への違和感を上げていますが、いじめそのものの根拠はなんでもありなんじゃないでしょうか。どんな形であっても自分とは違うものを忌み嫌うのは私達人間の性ではありませんか?
多様性とよく謳われます。それはある意味自分とは違う人々にこう訴えていることでもあります。「時代は変わった。心の狭いお前らは、お前らとは違う私達を受け入れるために、心を広げるべきだ。」
でも、性そのものの多様性など今のところ自然界には見られません。もしそうした事態が起きたなら、それは無秩序の始まりであり生物の生存そのものの崩壊であり延いては破滅への序曲ともなり得ます。
性での差別なら、女の歴史は雄弁に語ることでしょう。人間として生きるとはなんなのでしょうか。個人の性的な好みは、個人のものであり、衆目に晒して、狭い了見の人々の神経を逆撫ですることではないと思います。
 
 
 
Unknown (おっはー)
2017-12-28 10:16:52
コメントありがとうございます。文字からだけだと、どういう方がどういう背景や気持ちからコメントされているか読み取りきれないので、なかなかじゅうぶんなお返事ができる自信がありません。

「多様性」といってこれまでにないものをもちこまれるのは誰しも当然抵抗があることと思います。それは私にも当然あります。それをけしからんと言うつもりはありませんが、そうなんだと知る過程をつうじ、時間をかけて解決されていくのかなと思います。ただ公的な立場にいるものは、自覚をもって抵抗をのりこえる努力がいると思います。私を含めて。

いろいろなご意見をいただくことで、私自身も「ああこういう疑問が生じるのだな」と勉強になります。ありがとうございます。
 
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