にんげんっていいな

What a Wonderful World We Live in!

働いてないのに業務連絡

2013年04月09日 | Weblog
そんな感じで。

ここでは約1年間、すっかりのご無沙汰でした。
某所ではちょろちょろと遊んではいましたが。そろそろ長文を書く筋肉も鍛え直したいと思います。

と書いてみて思ったのですが。
過去に1年以上空いたこともあるので、言うほど珍しいことでも無いんですね。
個人的には、今回の空白は「書けない」よりも「書かない」という感覚の方が強かったので、特に間隔が長いように感じられるだけかも知れません。

まぁ、どうだって良いでしょう。

この1年間、と言わず、まぁ色々なことがあった訳ですが。
詳しいことはまた追々いきましょう、ということで。
現状でとりあえず私は生きていて、少なくとも元気だと言っても嘘ではない程度には元気です。
それでいいじゃない。


話は変わりますが、学部時代のレポートとかを書いた記事へのアクセスが(相対的に)増えたみたいでした。
僕の立場から申し上げられるのは、色んな意味で「利用しても可ですよ」ということくらいですが。何だか恥ずかしいこともありますし、仮に何らかの反応を受けることがあったら、それに気付いた時点で全部削除、という方向にしましょう。だったら今消せよ、という話ですが。
今のような暮らしの中では、自分の行動に「何となく」以外の理由と言うか言い訳がついていた方が精神衛生上よろしいのではないかな、と。


そういう訳で。
もはや自分の文体すら思い出せない体たらくですが。

一先ずの生存報告程度には、これでいいのではないでしょうか。


早くまた色々書いて色々考える暮らしに入りたいものです。

ふたりだから出来ること

2012年04月08日 | Weblog
そういう訳で。

何だか、普通に週末を過ごすのは久々のような気がしますね。
まぁ、先週は「清明節」の煽りを受け、土日出勤、月火水三連休という変則日程でしたし。先々週は仕事で鹿児島だったので。冷静に考えると、三週間振りの「普通の」週末ということで、「久々」と言っても許される程度の間隔は空いていたのではないでしょうか。
と言うか、その絡みでここ何週間かは変則日程続きでしたからね。普段からそんなに曜日の感覚を重視している訳ではありませんでしたが、流石に調子も狂ってくるというものです。ちなみに、未だ少し「普通の」生活を送る上でのペースが戻っていません。そんなに戻す気もないけど。


さて、話変わって。

前回のアレが尻切れトンボな感じでしたが。
自分でも何となく座りが悪い印象だったので、ここ数日はぼんやりと考えていたことでした。

それを受けての結論、と言うほど整理は出来ていませんが。
何となく思い当たる節はあるので、その辺を書いておこうと思います。備忘録。

ちなみにこれは余談ですが。
「備忘録」という単語を、僕はずっと「忘備録」だと勘違いしていました。自分の間違いに気付いたのは、パソコンで文章を書く習慣がつき始めた後なので、早くて2004年ですね。某所ではお決まりの「何故か変換できない」的な発見の仕方です。
そう言えば、似たような間違いとして「大団円」というのもありますね。こっちは「大円団」だと思っていましたが。まぁ、御幼少の頃から文字を目にする習慣はあったようですから。「耳から」ではなく、或いは「耳と目を併用して」ではなく日本語を覚えてきたための混乱でしょう。
別に一々紹介することもありませんが、漢字の読み方を間違えて記憶していたものも一定数はありますし。その延長みたいなものでしょう。

話を戻しますと。

ざっくり言ってしまえば、前の話はこんな感じ。

・自分では自己評価は一定以上には高い
・自己評価に見合う客観的成果は特にない
・成果を出すための自助努力ができていない


とまぁ、これだけ読むと、本当に救いようの無いクズ野郎みたいですね。いや、別に否定はしませんが。

この3点についてですが。
問題なのは、それに対して「内/外から見てそれぞれどうなのか」なのかな、と思っています。
その意味で言うと、第一項と第二項は判り易いですね。特に第二項なんかは、もはや議論の余地など1ミリもありませんし。第一項も、外から見たところで、まぁそう思ってるんならそうなんだろう、程度の話で。嬉しいことに他人様からも似たような評価を頂くことはあるので、伸びた天狗の鼻が折れない程度には補強して貰っています。
なので、畢竟この話は第三項とどう向き合うか、という方向に向かっていく訳です。

前回のアレがあれで止まった理由が、実は正にこれで。

指示語が多いので判り難いですが。まぁ僕の文章を読み慣れている人には問題ないレベルでしょう。
つまり、前回のあの記事があんなに中途半端な状態で終わった理由が、上に挙げた第三項目の内容を自身でどう評価するか、という点を自分でも整理し切れなかったことにある、という意味です。

この「成果を出すための自助努力ができていない」ということ。

これについて、「外」から見た場合の話はシンプルなことこの上ないです。
事実としてそうだからね。それを「どう見るか」となってくると、まぁ話は分かれるかとは思いますが。「所詮は自己責任なんだから、努力出来ない奴は放っとけ」と思う人もいるでしょうし、「あぁ、この人はそういう人なんだ」と思う人もいるでしょうし、「せっかくいいもの持ってるのに勿体ないなぁ」と思う人もいるでしょうし、「それで30年近く生きていられるんだから世の中甘いよなぁ」と思う人もいるでしょう。まぁ、ぶっちゃけて言うとそんなの知ったこっちゃないですね。
特に僕が近しく感じている一部の人たちがどう思うか、というのは。それは僕個人にとっては別問題にして大問題ではありますが。それは、「そう思われていることを『自分は』どう思うか」という話ですから。どちらかと言うと僕の「内側」寄りな問題になってくるので、この文脈では特に意味はありません。

そんな感じで。
ここまで書いてようやく、話は「この単純にして不変の事実を僕自身がどう見ているか」という一点に絞られる訳です。最初からそう書けば、ここまでに千と数百文字も費やさなくて済んだんですが。それはまぁ、ご愛嬌、と言ったところでしょう。自己弁護。

それで、ですよ。
先に結論から言うと、自分としても、どうも今一はっきりしない、というのが正直なところ。

今更なので、そんなに詳しく話しはしませんが。
「自分の現状について、自分で満足しているか」と問われれば、答えは圧倒的に「否」であるのです。「やりたいことができているか」「なりたい自分になれているか」等といった愚問は、今になって問い直す意味などないのですから。そして、先に挙げた第一項のような自己評価をしている以上、その原因は第三項そのものでなければならない。
そうであるならば、この第三項は反省を込めて立てられなければならないのも自明でしょう。潜在的な能力には不満がなく、発揮された能力に不満があるのであれば、それは「能力の発揮の課程」を洗練していくしかないのだから。

僕自身も、これが「正解」なんじゃないかな、とは思っています。
ただね。一方で、それを素直に受け入れることに、何かこう、それこそ喉に小骨が引っ掛かっているような抵抗を覚えているのも事実である訳で。その抵抗が何であるかを明確に把握できないモヤモヤが、そのまま件の第三項に対する自己認識につながってしまっているのだとは思います。
それは例えば、「元がいいなら努力如何に関わらず結果を出せるはず」という慢心かも知れないし、「そんなお利口な理屈で人生動かしてたまるか」という反発かも知れないし、「何はなくともそれなりに楽しいからまぁいいんじゃない」という堕落かも知れない。或いは、そうした諸々を吹き飛ばして僕を正解に向かわせてくれるだけの何物かを夢見て惰眠を貪っているだけなのかも知れません。



……
………
…………



まぁ、ここまで話しといてアレですが、どう言ったところで現実は変わりませんし。
別に時間が潤沢にある訳でもありませんが、この件はゆっくりと考えていきたいな、と。

今更こんな中高生みたいなことを考えている時点でどうなのよ、と思わないこともないですが。
最近になってようやく、先のことを踏まえてこういうことを考える気になってきたようではありますので。もう遅いかも知れませんが、尻尾くらいは掴めるようにしておきたいものです。

もういい加減アラサーだしね。

男坂

2012年04月04日 | Weblog
そういう訳で。

お久し振りです。
気付いたら4月ということで。どうにも加速度的に時間が経つのが速くなっていっているような気がするのですが、僕も年を取った、ということなのでしょうか。
まぁ、普通に考えても物理的に時間が過ぎているのはおそらく事実らしいとされているので、別に構いませんが。年輪を重ねてきた割には成長が見られないのはどうなのよ、と思わないこともありません。むしろ中高生くらいの時分の方が老成していたような体感がありますが。
「環境は人間をつくる」とかその辺りでお茶を濁しておきましょう。


さて、話変わって。
3月末頃に通訳回が入ったのですが、事前に偉そうなことを言っていた割には散々な結果に終わりました。

まぁ「結果は結果として受け止めて反省を次に活かす」みたいな殊勝な気持ちにならんでもないですが。
個人的には原因が明らか過ぎて、逆に反省する気にもなれない、辺りが正直なところでしょうか。端的に言ってしまえば調整ミスのようなもので。自分の状態を「そういうところ」に持っていけなかった時点で、今にして思えば結果は決まっていたのでしょう。そもそもの問題として、そういう風に状況依存的にしか能力を発揮できないってのはどうなのよ、というのはありますが。
逆を言えば、「ハマればデカい」ということだと自分では思っているだけに。何となく力負けした感がなく、不完全燃焼にも似た後味の悪さが残るだけで、に向けての具体的な課題を考える方向には持って行き難いのかなぁ、と。いや、細々したところでは色々とあるんですよ。例によっての専門用語の翻訳が云々とか。ただ、今回はそういうもの以上に「根本的なところでしくじった」という印象が強いです。

そういう意味では。
先日、自分の中でも割と、と言うかかなりスペシャルな位置付けにある2名のご友人方から頂いた評価は印象的でしたね。全く同時に、という訳ではありませんが、時系列的にもかなり近いところで受取っただけに印象的でした。

「頭は良いけど社会不適合」
「努力しないで才能だけで生きてる」


というのがそれ。
ある程度は自分を認めてくれていることはやっぱり有難いことだと思いますし、ケチが付くところは自分でも自覚しているものであるだけに「よく見てるもんだなぁ」と感心することしきりでしたが。どちらにも共通しているのが、「素材はいいけど工夫が足りない」感とでも申しましょうか。「適合」なり「発揮」なりに向けての主体的営為が圧倒的に欠けている、という指摘ではないかと。
それはまぁ、大きく言えば今の自分が在る状態を実に的確に表現されている訳ですが。小さく見ても、やっぱり今回の失敗を「失敗」と認識できていない自分と重なる部分が大きいなぁ、と。


そんな感じで。
「だからどうした」という話にする予定だったのですが、まとまらなかったのでこの辺で終わりにしましょう。

覚書きみたいでアレですが。
たぶん、その先で「自分が何をしたいのか」みたいな話と関わってくると思う。

それだけ。

しあわせへの回り道

2012年03月12日 | Weblog
そんな感じで。
今週も個人的な意味でごく普通に過ごしてしまったことに罪の意識を禁じ得ません。

流石に3月も中旬ですからね。
いい加減に言い訳ばかりしている訳にもいかなくなってきた今日この頃。「追い込まれないと動き出さないタイプ」と言い続けてからもう数年経った気がするのですが、僕はいつになったら「自分が追い込まれている」という現実を受け入れることができるのでしょうか。
いや、気持ちは少しずつ乗ってきているような感覚は自分でも有るのですが。何て言うか、ねぇ。もうちょっとこう、最後の一手、みたいなものがほしいかなぁ、と。まぁ、そういうものを待望している時点で「甘え」と言ってしまえばそれだけの話なので。粛々といきましょう。粛々と。


話変わって。
いつもながらの業務連絡チックな話ですが、月末にはまた日本に向かうことになりそうです。こちらのお客さんに同行しての鹿児島行きですが。個人的にちょろっと済ませたい用事が無いでもないので、できれば東京にも行っておきたいなぁ、と。

メインで済ませたい事項が大きい方と小さい方の二つほどあるのですが。
大きい方を実現するには、それ以前の準備と言うか、まぁそんな感じのものが不可欠な情勢なので。今週は極力空き時間を作らず、と言うか少しでも空くなら有効に使うよ、くらいの気持ちで生きてみたいと思います。流石に時期も時期なので、むしろここで頓挫すると人生設計から考え直さないといけないレベルと肝に銘じておきたいですね。こういうことを書いているのは、実際にはそういう風には捉えられていない証左です。いや、反省してます。
小さい方は、週の半ばくらいまでには結論が出るでしょう。こちらの方は、まぁ実現すれば超ラッキー、くらいの話ですので。2012年最初の運試し、くらいの気持ちでいる…と書いてみますが。実のところはリアルに「渇望」という表現が正しいくらいだと思いますので。微妙に予防線を張りつつ、心の奥底から湧き出る衝動をなだめている、といった感じでしょうか。

そんな感じで。
まぁ、何はともあれ、生きるからには有意義な時間を過ごしていきたいですね。何事も


それはそれとして。
昨年の終盤辺りから例外もポツポツと見えてはきましたが。僕が会社の用事で日本に行くと、まぁ往々にして「通訳」っぽい仕事をするのが平時の流れじゃないですか。最近は語学力がついたのか度胸が出てきたのか単純に慣れたのか。まぁ特に抵抗も気負いもなく普通に息を吸って吐くように中国語を聞いて日本語を呟くようになってきた気がします。僕の囁きを聞く側の人々に感想を尋ねたことがないので、実際はどうなのかは知りませんが。って言うか機会があったら聞いてみたいな。

まぁ、そういう自分のスキルはさて置き。
ちょうど一週間くらい前に、改めて日中関係を考える日があったりだとか。数日前には別個に日本人と会ったりだとか。そういう諸々があったので、改めて「通訳」って何なんだろうなぁということを考えるようになってきたことは事実であり。
だとすれば、今週は上に書いた大きい方の事項に向けて時間を割くのと同時に、次の通訳に向けて少し心の準備と言うか、何かしらを胸の内に「練っておく」ことにも使いたいなぁ、と。まぁ、そんな風に思う訳です。

まぁ、言っても別に僕はプロではないのでね。
ほぼその為だけに会社に飼われている現状を鑑みると、せめて「プロ意識」の欠片くらいは持っておけよ、と思わないこともないのですが。それとは同時に、流石にこのレベルで「プロフェッショナル」を自称するのは余りに失礼だよなぁ、という気持ちもあり。
適度に折り合いをつけた結果の落とし所として、「『プロ』じゃない自分に欠けているものは何か」くらいの問題設定として自覚している感じでしょうか。いや、色々言ったところで自分が考える内容は変わらん。

それで、通訳ですよ通訳。
似たような話は常々してきた訳ですし。そもそも僕の周りには二ヶ国語以上を扱う人間が多いので、別に目新しい話でも何でもありませんが。

まぁ基本的なラインとしては、言語間の差異を単語の置き換え(所謂「逐語訳」のような行為)によって埋めることで、或る一つの言語を解さない人にも理解できる形式に切り替える行為、というのが最低限でしょうか。この機能をかなりの使い勝手で以て見せてくれている代表格があの「エキサイト先生」ですね。アレで「大体判る」というのが全てを物語っているような気がしてなりません。
まぁ、僕が個人的に好まないのも正にそこで。このスタイルによる最低限って、その「大体」の範疇が異様に広いのです。短い文とか単語レベルなら恐ろしく正確なのでしょうが。長文とかになってくると、流石にボロが出ると言うか何と言うか。お世話になっている相手にダメ出しするのも気が引けますが。平たく言うと、「エキサイト師匠は単語に拘り過ぎてて論理構造が見えてない」という一言に尽きます。あの人は文の切り方とかよく間違えるし。
なので、単語の置換えより一段上のレベルとして、まずは文の趣旨が正しく伝わるように調整することが求められる訳です。

その次が、僕がいつも言っている「自然な語感とその内の感覚を伝える」ということになってくるでしょうか。死にたいくらいに月が綺麗なのには理由がある訳で。それが何なのかを解する為には、矢張りある程度の教養と文化的な素養が必要です。これが出来ない程度の人間は、きっと京都に行っても旨そうにお茶漬けを喰らっていることかと。いや、日本人ならお茶漬けでもいいけどさ。まぁ極端な例として、ね。
ただ、時々そういうのが面倒になると言うか、煩わしいときがあると言うか。まぁ、ある程度まで「綺麗な状態」にまで言語が整えられていれば、そういう文化的差異とかの範疇に属する事柄は常識的に考えれば判るということがあるのも事実であり。一方で、そういうところを気にし出すとキリがない、というのも実情な訳です。そうなってくると、「一体どこまで訳せばいいのよ?」という話になります。そこが充分でなければ「翻訳」としては不完全な訳ですが。詰め過ぎると、逆に原文から離れていく一方ですからね。脚注が多い文は読み難い。
そこで、次に考えるべきは相手が「判る」のに必要にして充分な最低限のレベルを見極めることということになってきます。

とまぁ、この辺までは既にどこぞで話したことがあるでしょうか。
今日の話題は「通訳」なので、そこに加えてもう一つ。

ここでは対比のために、あくまで便宜上「翻訳」を「文書の翻訳」「通訳」を「会話の翻訳」としてみます。どちらも広義の「翻訳」には変わりありませんので、上述したようなことは気に掛けておきたい訳ですが。
「翻訳」と比したときの「通訳」の最大の特徴とは、やはりその「リアルタイムのライブ感」にあるのではないでしょうか。「会話」というものは、よくキャッチボールに喩えられるものですが。キャッチボールの最中に、キャッチングの感覚とかボールの縫い目とか指のかかり具合とか、そういうのを一々確認されていたら、それはそれでちょっとイラッとするのではないでしょうか。加えて、そういう確認を中間に位置している当事者にあらざる何者かが行っているのであれば尚更です。ぶっちゃけて言うと若干ウザい。
なので、「通訳」には「翻訳」以上にテンポが大切。と言うか、テンポを切らさないための「即興性」が求められる要素が非常に強い

ここまで言ってくると、もはや通訳ではスキルよりもセンスの方が大切な気すらしてきます。
別に、面白いこととか気の利いたことを言え、という訳でもないですが。発話者が音にした内容を理解し。繰り返しだとかそういうノイズは切り捨て。素直に(逐語訳的に)表現が出てこない言葉を探し。そして受話者に通じる音に変える。こういう一連の流れを限られた時間内にサクッと行わないといけないのだとしたら、それは最早、単純な外国語運用能力とは異なる能力を求められると言わざるを得ないことがご理解頂けるのではないでしょうか。
そういう意味で、同時通訳と言うのは凄くてですね。普通の通訳レベルだと、まぁ発話から受話までの間に空白があるじゃないですか。その空白こそが、取りも直さず「通訳」にかかっている時間な訳ですが。その空白の期間を極限まで縮め、複数の工程ないし一連の活動を常にオーバーラップさせて「若干のタイムラグ」程度で抑えないといけない。これは本当に凄い。と言うか、他人の話を聞きながら喋る、というのはそもそも難しいでしょう。他人が話しているときに喋るのとは訳が違う。

そういう意味で。
僕は割と、「通訳」は苦手なタイプじゃないかと自分で思っています。そもそもの問題として、特に日本語と比べたときに中国語で喋るのが若干苦手なのは否めませんが。まぁそれは冗談としても。何が苦手かって、頭の中で別個の作業を並行して進める、という一事に尽きるでしょう。良く言えば集中力のあるタイプ。
通訳を行う際には、いくつかの作業を同時に進める必要があります。「発話者の話を聞く」「受話者に伝える言い方を考える」の2つは基本中の基本ですね。この時点で既に若干怪しいですが。まぁ、同時通訳を求められる場が少ないので何とかなっているような状況です。あと、割と忘れがちなのですが「議論の流れを追いかける」という作業も割と大切です。数秒から数分単位の短期記憶、と言い換えてもいいかも知れませんが。「言いたいことは2つあります、まず一つ目に…」とかいうフリが来るとドキッとしますね。平時は無意識にやっているようですが、通訳に集中しちゃうとついつい「今は何の話をしているのか」という単純なことを忘れそうになります。
そして、これは会議参加者としての営為ですが「議論の内容を記録(記憶)する」ということ。これが厄介。まぁ「記録」は現実的に無理と思い、最初から切り捨てている感はありますが。正直、僕の頭では会話を使い捨てにするくらいの気持ちで挑まないと通訳し切れないという現状があり。議場で出てきた話を体系立てて自分の内に整理しておく、というのはハードルが高いです。僕はこれについては、会議後の身内の会話で補完するようにしています。内緒だよ。

まぁ、そんな感じなのでね。
正直、会議通訳とかになってくると、まぁできないこともないですが、やっぱり現実的には「何かしら捨てないとやってられない」という感じになってしまいますね。その辺も完璧にこなせるのが理想でしょうし、そうできるように努力しないといけないんでしょうが。
それに比べると、文書の翻訳は相対的に楽ですし、やってて普通に楽しいです。流石に、気の向くままに好きなように好きなだけ、という訳にはいきませんが。やっぱり、読んで、考えて、書いて、読み直して、書き直して。そういう工程をちゃんと踏めるので安心感があります。あと、欲が出てきたと言うか何と言うか。単純に中国語と日本語を右から左に読み書き流す、というのとはちょっと違って。文書の内容に基づいて自分が行動することを前提に、第三者的な翻訳者の立場と同時に当事者の立場にも立てる、というのが大きいかな、と。いや、通訳でもそれができないといけないのは間違いありません。
まぁ、そういう感覚が積み重なって。意識上も何となく「翻訳は得意、通訳は苦手」みたいな認識を持っちゃっているだけかも知れませんね。


さて、長々と書いてきましたが。
まぁ、要は「そういう認識を下敷きに次はもうちょっと上手くやりたいなぁ」くらいのお話でした。

こういう役どころに満足している、という訳ではないですが。
日中の間を繋ぐ、という行為の一つの在り方として。やっぱり自分にとって、極めて重要な営為の一つではないのかな、と考えていますのでね。

こうした日々の積み重ねの先に、自分なりに心地の良いものと感じられる「しあわせ」な場所があってほしいなぁ、ということなのでしょう。


2月は去る

2012年03月05日 | Weblog
というタイトルで一本書こうかと思っていたのですが。

気付いたらもう3月ですよ。
「如月されば」と思っていたらもう「去っていた」というオチ。ちなみにこの文の笑い所は、「さる」という単語が日本古語で「来る」という意味である、というだけなんですが。これを少しでも「面白い」と思った人は、悪いことは言わないので休んだ方がいいと思います。と言うか俺が休みたい。

と言う訳で、もう3月ですよ。
これはヤバい。判る人だけ判ってくれればいいと思いますが、何もしないで自分が3月を迎えてしまった、という事実は限りなくヤバい
いや、今日から心を入れ換えて頑張ります。


さて、もう3月、ということでね。
「1月は行く、2月は去る、3月は逃げる」でしたっけ。主に三学期制を採用している小中高では、割とリアリティを持って語られるフレーズだとは思いますが。

考えてみれば、まぁ当然、といったところですよね。

1月はどういう月かと言えば、まぁ当然ながら西暦で一年の始まる月な訳で。11月くらいから所謂「年末ムード」的なものが芽生え始め、12月後半辺りからは完全に「新年から本気出す」みたいな雰囲気が蔓延してくるじゃないですか。言ってしまえば、1月が始まる前から「1月」のイメージが高められ続けている訳で。その割にスタートは年始の休みで、松が取れて所謂「新年ムード」が収まったかなぁ、と感じてくる頃にはもう月の後半から下手すると月末、と。「来るぞ、来るぞ…」と構えていたのに気付いたら半分過ぎていれば、まぁそれはもう「行っちゃったね…」という思いが生まれるのは当然でしょう。

続く2月はそもそも短いですからね。前半は行ってしまった1月を惜しんでいる間に過ぎてしまい、後半は逃げゆく3月を追いかける体勢を整えているだけです。それはまぁ、後になって振り返ってみれば「あれ、もう終わり?」と思ってしまっても仕方ないでしょう。と言うか、今まさにソレ。

そして3月、と。ここで注目すべきは、3月は「逃げる」という点ですね。「行く」「去る」といった単純な動作を表す単語と比べて、「逃げる」という表現はちょっと質が異なります。まぁ平たく言うと、「逃げる」奴がいるからには、それを「追いかける」存在も想定されていないといけない訳で。まぁ俺だけど。つまり、ここにきて「新年はまだ始まったばかり(のようなイメージ)」と「年度が終わる直前」という感覚の矛盾が極大化しているために。単純な時間体感以上に、「始まったばっかりの筈なのに終わろうとしている」という意識のズレが、「決して追い付けない」という自覚を促すのでしょう。「え、おい、ちょ、待てよ!」みたいな。

まぁ、実際問題として。
ここにテストだとか卒業式だとか、学生ならではのイベントが挟まってくれば、正に感慨もひとしお、といったところでしょうね。自分もそんな感じだった気がします。
なお、我が母校は私が高校2年生の時分に二学期制に移行しましたので、ここ10年くらいは「三学期」というものを体験していません。まぁ、むしろ注目すべきは「実はまだ学生」というとんでもない事実なんでしょうが。

ちなみに好きな歌謡曲はZONEの『卒業』です。



そんな感じで。
もう北京暮らしも1年半くらいになるのですが、相も変わらずです。

この時期なら、本当なら「両会」こと「全国人民代表大会」「全国人民政治協商会議」の話でもしないといけないんでしょうが。日頃の精神的不摂生が祟り、語ろうにも別に何も言えねぇ、みたいな状態です。恥ずかしながら。あと、別に気持ち良くはない。
別に自分の生活にとっては、喫緊の課題でも何でもないのですが。やはり大陸に生きる身として、最低限のマナーを身につけてはいたいなぁ、という風に思う今日この頃。少しずつでも、党中央の方針を学習していきたいと思います。

丁度、昨日くらいにも改めて「日中友好」という単語の持つ意義について考える機会があったのですが。
自分としては最早「中国」のない人生なんて考えられないし、かと言って自分に流れる「日本」の血統を否定することもできないのが今の私。そうであれば、まぁ日本と中国の間をどう生きていくか、というテーマは避けては通れないですね。

そんな中で自分にとっての中国と言うか、「自分が中国を感じる」という営為については、どこか「泳ぎながら息継ぎをする」ような印象を持っています。日本のことは(全面的かはさて置き)放っておいても勝手に呼吸するように更新される面が強いのですが。その一方で中国のことは、やはり「少しばかりの意識」を加えてようやく吸い込めるのかな、と。そして、吸い込んでばかりもいられない。新鮮なものを自分の内に取り入れる為には、「もうちょっと強い意識」をして吐き出すことが必要なのです。
ここで水面のように自分に意識される一種の境界面について。少し前の僕は、それを否定することに必死だったように思います。まぁ、中国が好きで、もっと中国に近付きたくて、できることなら一つになりたくて。そういう想いからすれば、素直に「異質なもの」として中国を眺めることに抵抗が生まれるのは、ある意味で仕方のないことなのでしょうが。

最近はその辺、微妙に力が抜けてきた、と言うかね。
自分は自分、として一定の距離感を保ちつつ、自分にとって「座りのいい」認識を得る方向で考える癖がついてきた、ということなのでしょうか。実のところ、上海時代と比べると、北京を通じて感じている今の中国は別に好き過ぎる程じゃないというのが正解なんですが。
まぁ、そういう感覚が逆に、中国に向かって「意識していく」という部分のモチベーションになってきたのかな、と。

それも含めて。
まぁ、仮の庵でも終の棲家でもない中国、という新しい感覚があるにはある感じなので。自分の人生設計も含めて、「自分と中国」というテーマを考える時期がまた来たのかなぁ、とは思うことでした。
思っているだけで特に変化してないところも含めての「相変わらず」なのにはちょっと反省してます。


とりあえず、「3月は逃がしてもチャンスは逃がさない」という辺りで、どうかひとつ。