荻野洋一 映画等覚書ブログ

http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi

『贖罪の奏鳴曲(ソナタ)』 青山真治

2015-02-24 02:00:32 | ラジオ・テレビ
 ドラマ『贖罪の奏鳴曲(ソナタ)』が、原作となったミステリー小説にどの程度忠実に作られたものなのかはわからない。しかしオリジナル脚本と見まごうほど、演出を担当した青山真治的記号が横溢している。
 ドラマ初回の冒頭いきなり主人公の弁護士(三上博史)が死体を遺棄するシーンから始まるが、それはどしゃ降りの夜のできごとである。『サッド ヴァケイション』『共喰い』といった作品を、嵐という気象がどれほど映画的に活気づけたかを思い出してみるとき、「死体に触れたのは、これが2度目だ」という主人公のモノローグが、青山映画に課された原罪に触れていることに気づかざるを得ない。青山映画の原罪とは何かというと、その多くが父殺しか、それに準ずる殺人だ。殺人によって生じた喪失、あるいは入獄は、青山映画がほとんどつねに、知られざる古代神話のリメイクであるという現実に根ざしているのではないか。青山の出身地である北九州という土地がそうした神話性を召喚してやまないのか、それとも中上健次的な妄執の再燃なのか、おそらくその混淆であろう。ここでの三上博史もまた原罪の人であり、彼は中学生の時に5歳幼女を日本刀で斬殺し、取り調べの席で「誰でも良かったんです。とにかく人殺しをやってみたかった」とうそぶき、精神異常と診断されて医療少年院に収監された過去をもつ。刃物での斬殺という血なまぐささは、青山映画にふさわしい。
 「人殺しの前科をもつ弁護士」などという突拍子もない設定は秀逸だが、かといって見る側が期待するジョン・ガーフィールド的な悪徳弁護士の社会派作品というわけではない。むしろ三上博史はフィリップ・マーロウのような探偵として振る舞う。保険金目当ての殺人なのか、それとも生命維持装置の誤作動なのかといったソープオペラまがいのサスペンスを愚直に跡づけながら(三上博史がマーロウのように聞き込み調査を反復しながら)、後に起きた殺人が前に起きた殺人のリメイクになっているという連鎖的構造──殺人者、被害者、殺人者の母といった人間関係の二重性、三重性──が、古代神話の反復性のごとく浮かび上がる。この多重性を増幅する装置として、留置所の面会室がまたしてもメイン舞台となる。ガラスなり鉄格子なりを隔てたこの面会室という舞台で「母と息子」が対峙する。これほど青山的な構図はない。
 登場人物たちははっきりとした性格付けをなされている一方で、どこか茫洋としてとらえどころがない。三上博史は、殺人という自分の罪を償おうとしつつも、自分を見捨てた母親を許せないという感情に苛まれつづける。彼は母親という存在を内面的に肥大化させ、フィルム・ノワールのファム・ファタールに見立てて「女は男を裏切る」という宿命論とともに生きているのではないか。「お前さんは憐れな奴だ」とリリー・フランキーの刑事が三上博史をつめたく罵倒するとき、真行寺君枝、薬師丸ひろ子、石田えり、田中裕子 etc.といった母親たち──時に主人公をファム・ファタールのように裏切り、時に肥大化しつつ母系一族の祖として再-君臨してみせる母親たち──をいっこうに対象化できない幼児性への憐憫として聞こえる。
 ただひとりだけ、ファム・ファタールでも卑弥呼でもない、ゼロ記号のような女が登場する。それは少年院時代の仲間であり、彼女はいまではピアニストになっている。ベートーヴェンのピアノソナタ〈熱情〉の暗く沈潜していく短調の旋律が、主人公と彼女を取り結ぶ。女ピアニストは贖罪の記号として、この曲を弾く直前に必ず燭台のろうそくに火を灯す。この小さな炎が主人公の希望となり、苦悶の源ともなる。コンサート会場でろうそくの炎とピアノソナタの演奏にしたたか打ちのめされ、ホール外へと退散する三上博史の苦悶はすばらしく、私たちがこれまでサイレント期から現代まで見てきた数多くの映画のなかの罪人たちのごとく怯え、顔を歪ませ、危なげな歩みで、孤独で、と同時に狂気の影を残し、つまりは非常に感動的な演技だった。そしてコンサート会場の外は、不穏な光が闇のなかで明滅している。
 しかも、この炎は何にも還元されないのである。私はこのろうそくの炎が最終回で何かを語りかけ、贖罪の同志としてのピアニストと主人公を再び結びつけていくものと期待した。しかし、ふたりの贖罪の道程はしょせん交わらざる2本の道なのである。生涯をかけた贖罪という宿命を義務づけられた男女に、カットバックというメロドラマ性は赦されない。この女ピアニストは少年院時代こそ美少女によって演じられていたが、いまとなってはもはや人称性さえはぎ取られ、贖罪の伴奏者としてのみ現れる。そもそもどんな女優が演じているのかさえはっきり示さないという、異常なアングルが選択されている。しかしその代償として、主人公は彼の贖罪を、少なからぬ人々に見守られているという実感を得ることで、物語の決着を図ってもらえるわけである。これがはたして決着と言えるのかどうか、それは受け手によってさまざまだと思う。
 少年院で主人公の指導教官役をつとめた中原丈雄が、今回のドラマ全体をみごとに引き締めた。事あるごとに中原丈雄が主人公にむかって静かに心臓をトン、トンと叩き、「生きろよ、生きて、一生償うんだぞ」と諭す。そのトントンはこの指導教官の一生をも規定していることだろう。『ユリイカ』のなかで役所広司と宮崎あおいが、寝静まった夜のバスで、コツ、コツと壁を叩いて反応しあい続ける。あの渇いた小さい打音が、肥大化した母性、原罪で血塗られた神話性の反復という苦悶から、ただひとつ救ってくれる、わずかな希望なのかもしれない。


2015年1月~2月にかけてWOWOW〈連続ドラマW〉枠で放映
http://www.wowow.co.jp/dramaw/sonata/


最新の画像もっと見る

コメントを投稿