東京アイランド

OCNブログ人サービス終了に伴い、ここに引っ越ししました!

今日は「やまぐちday」

2012-10-29 01:12:32 | 山口

 返却された本を1冊1冊チェックし、「返却済」のスキャン。中に何か挟んでいないかをチェックしています。ハガキや氏名入りの治療費領収書など個人情報に関わるような書類はすぐに呼び止め、本人にお返しするように心がけています。
 借りた本に万札がはさまれてあったと利用者からの連絡を受け、警察へ拾得物届出。6ケ月過ぎても名乗り出なかったら、そのお札は最初に発見した利用者のもとへ届けられるようになります。
 いろんなモノをはさんだままお返しする利用者もかなり多いようですが、借りた本をお返しする前に一度何かを挟んでいないかをパラパラとめぐってチェックされるようにお願いします。
 お買い物のレシートやしおり、チラシなどは、個人情報を特定できないものはこちらで処分させていただいています。

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 山口・下関の観光ガイドブックにはさまれていました。
 豊浦といえば・・・私の故郷です!!

201210290007 懐かしいな~!!千葉の人が私の故郷に行くなんて、非常に稀なことだと思う。
 川棚温泉といえば、たかせの「瓦そば」ですよ~!!


201210290011 今度は別のお客さまがこの本をお返しに来ました。
 松尾定行著の「懐かしい光景を新旧比較する 消えた駅舎 消える駅舎」という本です。
 パラパラとチェックしたら、なんと!「長門二見駅」の文字が目に!!

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 本書の目次を見ると、北海道から九州まで幅広く収録しており、私の故郷「長門二見」を取り上げられるなんて、天文的確率なんですよ。
 この写真は昭和42(1967)年8月5日撮影。

 その頃の父は駅前の床屋マスター。店舗は間借りしたもので、トイレはついていませんでした。駅のトイレを拝借する代わりに、当時の駅長、助役、出札掛、改札掛などの8人の駅員さんの理容代を半額にするサービスをしていたとか!!
 本書の文章では「車寄せの上に揚げられた駅名票が「国鉄の駅」としての誇りを表現しているかのようだ。私たちが学んだ小学校の木造校舎の玄関に雰囲気が似ているような気がする」と書かれています。
 
 
 
 私の生家は駅から徒歩5分のところ。たまに帰省していますが、今は伯母が住んでいます。
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 今の駅舎。大正14(1925)年8月16日に開業したときの駅舎は取り壊されてしまいました。
 本書では「四十数年後に同じ場所に立ったら、サンデンの傘下、ブルーライン交通のバスが停まっていた。駅舎も小さくなり、バスも小さくなったけれど、「列車に路線バスが接続する」という交通体系が変わっていない、と書かれています。
 二見駅から出るバスは国道191号線の海岸線沿いを経て「肥中(ひじゅう)」行き。昔も今も変わりません。車の免許を持っていないころ、環境省選定の快水浴場百選に選ばれている土井ケ浜海水浴場行きはこのバスにお世話になりました。

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 平成4(1992)年9月、長年も憧れていた東京暮らしが決まった日の出発日。
 「長門二見 → 【区】東京都区内 経由:山陰・山陽・東海道」(全区間在来線の普通列車)のマルス券1枚で

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 第1ランナー 839D
 長門二見8:44 → 下関9:58
 下関方面がキハ28 2305+キハ58 505

 国鉄急行型です。今の時代、ネットで車歴を調べることができ、先頭のキハ28 2305は昭和38年10月8日新潟工場で製造、平成12年2月1日山口で廃車。

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 下関で第2ランナーに乗り換え。2440M。
 下関 10:10 → 岩国 13:14
 クモハ103 23+モハ103 105+サハ102 2+クハ103 26 の4両編成。
 この中で1番古そうなサハ102 2 で岩国まで3時間の旅とちゃっかりアルバムに書かれていました。
 サハ102 2の車歴を調べてみると、波乱万丈な・・・。戦後の高度経済成長期の昭和39(1964)年山手線の新型電車として産声を上げた池袋電車区所属。昭和60年、次世代の205系が出ると、103系は地方に追いやられ、大阪へ転属。その後、下関に転がってしまいました。103系はトイレがついていません。山陽本線の長距離なのにトイレなしとはきつい。
 そのような不評があったため、サハ102 2は再び大阪環状線へ帰属。
 ついに2006(平成18)年10月31日廃車。昭和39年から42年間も現役で頑張ってくれました。
201210290005 第3ランナー 岩国 13:17 → 岡山16:43 モハ114 3058
 第4ランナー 岡山 17:15 → 姫路18:39 クハ116 9
 第5ランナー 姫路 18:58 → 米原21:24 新快速221系
 第6ランナー 米原 21:39 → 大垣22:12 117系
 
 第7ランナー 大垣 22:40 → 東京 4:42 モハ169 21
 朝9時前に出て、翌朝5時まで電車ぶっ通しの旅でも平然だった頃がすごかった。山口の田舎から7本の普通電車に乗り継ぎ、東京までとは・・・。
 今、帰省するとしたら、東京から各駅停車とは考えられない。空の旅1時間半の飛行機。

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 当時のマルス券。

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 今のみどりの窓口では、タッチパネル式の小さなコンピュータだというのに、昔はこんなにでかいものを鎮座。マルスM型は最初にシステムを設計した日立ブランドです。フォントも日立さんがデザインしたものを沖電気工業や富士通に引き継ぎ。東海道新幹線が開通した昭和39年当時の指定席予約は、各駅から電話で予約を受け付け、回転台からリクエストされた列車の座席台帳を取り出し、空席の位置を口頭で伝えるやりかた。このやり方だと、聞き取り間違いやタブルフッキング(二重予約)が相次いでいました。当時の国鉄さんが日立の技術を見て、コンピュータで座席を予約できる装置を作ってくれないかと持ち込んだのが、マルスシステムの始まり。
 上の段は乗車駅、下は下車駅といったようにページをめぐり、該当する駅名に緑色のピンを差し込み、発券。
 下関や博多駅では、山陰線のページを開くと、「長門二見」のインデックスは入っていました。
 しかし、東京山手線内の駅で「長門二見」までとリクエストすると、山陰線のインデックスは「東萩・長門市・滝部・小串・川棚温泉」といったように主要駅しかない。電報略号「ヒロフタ」を入力し、モニターは「長門二見」と変換。ヒロは広島鉄道管理局、フタは二見の略号。
 20年前のコンピュータは1文字あたりのメモリが非常に高価、オンラインでやりとりするのに漢字表示だと莫大な通信量もかかる。電報略号4ケタでやりとりしていたようです。
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 1967(昭和42)年に撮影した駅舎はすごく貫禄があったのに、あれから30年経過した1997(平成9)年の駅舎はみすぼらしくなっています・・・。
 
 

コメント
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