・ 何気なく使っているが「音を重ねる」とは考えてみると不思議な言葉だ。音の現象そのものが既に環境に影響された波長同士や音源そのものの体質など何層もの自然が重なりあって初めて音と呼ばれる姿となる。これを重ねると言う場合、勿論多様なキャラクターやユニットとしての音素の相互作用を仕掛けるわけだが、その段階では既に音本来の出所は関係無くひたすら社会的動機、日常的生理反応、整列の論理、哲学などでコントロールされるものになっている。単純にはアンサンブル、セッション等の形で行なわれるのだろうが、これが個人の中で起きるとすると連続した時間の中で統一的に行なわれ「重ねる」という時間の過ごし方とは異なってくる。確信犯になるわけだ。或る意味「デザイン」「レイアウト」「インスタレーション」「ディスプレイ」と呼んでも良い行為なのだろう。ここを発端に「即興」の概念も浮上してくる。
・ 土方巽とダブ。暗黒舞踏に直結する西馬音内盆踊りの端縫いの衣装は正にダビングされたもの。先祖から送られる数多の衣装の端切れを継ぎ接ぎして時代を重ねて今日に伝わる。殆ど文化財にでもなろうかと言うものはその経てきた年代すら測りがたいとか。土方と時を同じくして音楽の継ぎ接ぎが或る意味現代音楽の入り口とも言えようか。1960年代70年代にそれは起こる。ダブミュージックからレゲエミュージック。ミュージックコンクレート、ミニマルミュージックなどなど。ダビングは録音、録画されたテープやフィルムを合成したりユニット順の入れ替えを行ない改めて全体を再録音、再録画するのだが、これは土方巽の暗黒舞踏における「舞踏譜」の劇場化とそのまま重なる手法とも言えるのではないだろうか。ユニットの発見、選択のセンスはそっくりそのままダビングプロセスである。また、松岡正剛の編集工学に通ずるシステムだろうか。或る日、オープンテープに残る土方の古い舞台用の音源をデジタル化する機会があったが全く端縫いの衣装の縫い直しのような作業の連続で保存状態の悪いプラスチックテープの継ぎ直しに殆どの時間を費やした。この作業は嘗て私自身が作曲現場で行なっていたダビング作業そのままだったので実に懐かしく、多くの忘れ物を思い出させてくれたよう。時の周辺のキュビズムやポップアートの表情変化にもまたこれから気に掛けてみようかと思う。
・ 20代の頃、現地の放送スタジオ改造支援の仕事で頻繁にバンコックを訪れていた場面を思い出す。何度か通う間に多少はタイ語も、話すのは充分ではなかったが聞き取れる位にはなっていた。或る日、現地の人のアテンドを受けて幾つかの現場視察を予定しており、案内されながらその人と行動を共にする。迎えに来た彼が言うには「今日はサムロ(三輪タクシー)ではなくてエアコンのついたトヨタで行きます」。私はてっきりトヨタの車だろうと理解して「分かりました、良いですね~!」と返事をしたが実は分かってなかった。と言うのも流しの普通のタクシーを拾って乗り込み「パイ、ヤワラ、タウライ?」とか尋ねて運ちゃんと値段の交渉をし、話しが落ち着いたところで私は尋ねる。「トヨタは何処?」、彼曰く「もう乗ってる」、私「???」。そのタクシーがトヨタでは無いことは確か。「えっ?」と私。この細やかな意見の食い違いについて後日整理すると、当時は日本の女性は全て「ミチコ」、屋根と側面ドアのついた4輪自動車は「トヨタ」、唄は「スバル」、大きな店は「ダイマル」、日本の男は全て「オンナホシイ」と呼ばれていた。ワクワクするような時代だった。因みに私が最初に覚えた会話は「ホンナム、ユーティーナイ?(トイレは何処ですか)」でしたね~。
・ 最近、耳元で囁く奴がいる。「彷徨えるお爺さん」と何度も。私は1人で「うるせーコノヤロー」と抵抗を試みるが何だか馬鹿馬鹿しくなり「もしかしてそうなのかな~?」と日和ったりもする。どうしたものか、殆ど耳鳴り状態で繰り返す。私には「都度の花」など絵空事で実態は経年劣化との切実な戦いに明け暮れるばかり。「痛い苦しい」を回避せず「痛い苦しい」で良いのだとしておいてその間にもっと別の方向に神経を伸ばそうと思う。どうせこの後300年を生きられるかどうかの儚い命だもの、今の時間を有難く頂きましょうか。
・ 「新しい世の中」「活気ある社会」「明日を創る」....。全くもって古くさい言いぐさ。目新しさは百均ショップのアイデア製品の数々にはとうてい及ぶ事が出来ない。「地球に優しい」「少しだけのエコ参加が地球を救う」「海を取り戻そう」「自然を大切に」...、なにをか言わんや。
・ 周期的に現れ今も健在な子供の頃の記憶の場面。場所はともかく中身はともかく、どこかの広場で遊んでいたところに突然の雨の襲来。周りの者はどこか雨宿りに散ってしまい大人達は急いで雨具の用意にこの世の全てを賭けたものだ。初動遅れの私は「いっそこのままこの場に立ち続けるとどうなるのだろうか?」と、考えてしまったものだから結局そのまま立ち続けるのだった。そこでついでに「一体雨に濡れるとはどう言う事か、何が問題か確かめたい」などと世間知らずが世間の扉を開けるかのような妙な興奮に出会うこととなる。先ずは顔に当たる雨粒の一つずつを特定する。当たるポイント、一粒の大きさ冷たさ、当たるところが感じる痛さか何か、当たって飛び散った水滴の広がり具合等々をテーマにして次々にやって来る雨粒の検証に入る。しかし余りの量の多さと経過時間の前にあえなく頭は飽和状態となってしまい、そこでこれからどうして良いかと混乱の境界に陥る。その混乱は今現在も続いており解消の兆しは今もってほど遠い。世間は経済の混乱や戦争の問題、人間関係などで忙しそうで羨ましい限り、いつか仲間に入りたいものだが顔に当たる雨が止まない限りは無理なのかな~。
・ 道端の程よい大きさの石に腰を掛けタバコを一服。何も考えず只ひたすらこの瞬間のみをタバコと一緒に味わっている。「この瞬間!」、この時こそが「永遠」の中の一コマかと思う。「永遠」なのだから過去も未来も全てを孕み、一々を反芻分析を求められてはいない。今生きているとか身体のどこそこの調子が悪いとか痛いとか痒いとか重苦しいとか。只、不規則に揺れる煙の後追いをし、足下にたまたま落ちている枯れ葉の心残りの模様に見とれ、評価の対象にならない街の雑音を受け止め、耳の辺りに絡みつく温度を測りながら永遠の一瞬に浸る。最高に安上がりの閑房暮らしの特権を堪能する。反経済学の素敵な一面を垣間見る。
・ 閑房の外では雪が降り続いている。コンコンなのかシンシンなのか聞こえない音がする。雷ゴロゴロ、波ザブーン、犬がワンワン、猫ニャーニャー、電車はガッタンゴットンなどと表現するのとは違い、もっと生理的反応の言葉に思える。冷え切った空気、周りの騒音が全く無い深夜の闇の深さなどまで、とてつもなく深い情報を伝えている。こう言う日本語の言葉のセンスには実に感じ入ってしまう。身体反応が吐き出した証拠物件としての言葉。意味在りきではないのだろう。とかく経験論的に思えるがもっとストレートな純度100パーセントの表現結果か。上代歌謡に度々登場する表現で「空気がケンケン、パチンと立ち上るお日様、木魂ケタケタ・・」などあるが、現代の語感では解析が及ばないのではないだろうか。リテラシーのレベルでは役に立たない世界かも。パターン認識の癖から、岩の表面に浮ぶ人の顔を見たり、鯉の模様が人の顔に見えたりして何だか胸騒ぎするような時があるのと同様、こんな事を思うのは安上がりな暇つぶしになって閑房の愉悦とでも言うべきか。
・ 注文があって創っている訳でも無いのに、ただひたすら閑房の居方として音楽を作り続けてきたが、ふと立ち止まりその落書きのような出来上がった音楽の数たるや間もなく一万曲を越えようかというところまでになってしまっている。道理で周りに創る過程で出た破片が溢れかえっているわけだ。思うに私の音楽は実に生理的に生まれる様で何ら物語るものではなく、天然自然の気候の移り変わるが如く、とでも言おうか、とにかく世間的なメッセージが無い。多産の原点に考えられるミニマリズム、サウンドディスプレイ、コンクレート、イベントミュージック、サウンドインスタレーション、コラージュなどの作曲手法によってリピート、ループ、タッピング、デジタル処理などの助けがあってのことであるのは言うまでも無いだろうが、作曲を始めた頃に感じた定番音楽構成方に内在する権威的なことへの不十分感、不満を処する方法として選んだことなのだろう。幸か不幸かそんな時に出会ったのが J・ケージやタイテルバウム、テリーライリー、近藤譲、佐野清彦、松岡正剛、小杉武久、高橋悠治、小泉文夫、皆川達夫、B・イーノ、J・ハッセルなどなど、フルクサス、モノ派、伝統、民俗、時間、地理、歴史を網羅する人達から受けたモダンそのものの時代だったからだろう。当然ながら社会運動との連動が生まれ畢竟、作曲基盤を頂く事となった。今流行のコンテンポラリー何チャラに欠ける社会連動性が復活すれば再び私も少しは出番があるかも知れないが。今日までたくさんの音楽祭、芸術祭に関わってきているのも自分の作曲行為の一つであるからなのだろう。例えば「ソナタ」の様に提示、展開、再現(序章、終結のおまけ付きもある)で、或るメッセージ、物語、文学などを表現することとは基本的に別物である。働く脳味噌の位置が違うのである。生理そのもの、気候そのもの、星の位置そのものにも匹敵するかもとさえ思う。謂わば自然のアンテナとしての存在か。シャーマニズムとは勿論異なるが舞台上で演じる役者の様に空気に興る出来事への敏感な反応体として今この時を漂う結果、一万曲がヘドロのように溜り続けるのだろう。
・ 先日ふっと思いつき馴染みの床屋で髪の毛をやってもらった。普段は余り見ることのないテレビが頭の斜め上の方で何となくしゃべっているのを目を閉じて聞くでも無く聞いていると、これでもかと言う様に叫びながら「~今なら何と半額以下でなんとかかんとか、ちょっとお待ち下さーい、この放送終了後30分以内のご注文で~のサービス・・」「この尿漏れパンツに出会ってから本当に毎日をさわやかの過ごせるんですよ~・・」「この死亡保険は他社のと違い色んな意味でとても安心・・」「これを使ってからみるみる髪が生えてきて今では仲間内で一番の若者になった様でとても嬉しいんですよ~・・」「これを飲むようになってから毎朝座ったとたんどっさり出るようになって、もう一生手放せません・・」などなど。いつの間にかついつい良い気持ちで寝込んでしまった。馴染みの床屋の大将さん有り難う。またねっ!






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