Flour of Life

煩悩のおもむくままな日々を、だらだらと綴っております。

映画「小さな村の小さなダンサー」を見て

2018-04-12 14:16:01 | 映画

年末にBlu-rayを買った、「小さな村の小さなダンサー」を、もう一度見返しました。

2017-18シーズン、アメリカのネイサン・チェン選手のフリープログラムのテーマとして、サウンドトラックが使用された映画です。
オリンピックが始まる前にもう一度見て感想を書こう、オリンピックまでに間に合わなかったからワールドが始まる前に、それが間に合わなかったらワールドが終わってから…とずるずる引き延ばしているうちに、4月になってしまいました。てへ☆
まあ、私の長い(ほんとに長い)歴史の中では、頻繁に起きていることですね。

映画の内容は、1970年代の中国で、毛沢東の文化政策による英才教育のひとつとして北京舞踏学院でバレエを学んだ少年が、アメリカに渡って才能を開花させ、自らの運命を切り開く…というものです。実在のバレエダンサー、リー・ツンシンの半生を描いた物語です。バレエの才能を持つ少年の成長と成功の物語、と言えば「リトル・ダンサー」が思い浮かぶので、私も見る前は「中国版リトル・ダンサー」かなくらいに思っていました。しかし、いざ見てみるとこちらは主人公の年齢が高く、政治的背景もより強く描かれているので、バレエが題材なこと以外はそんなに共通点がありませんでした。主人公の家族の描写は「リトル・ダンサー」のほうが濃かったと思うし。そもそも、原題の"MAO'S LAST DANCER"に対してこの邦題はちょっと違うんじゃないの、って気もするし。

※ここから先はネタバレがあります。ご注意ください。






主人公のリー・ツンシンは、山東省の貧しい村に生まれた少年。全国から集められた少年少女の中から、厳しいテストに合格して北京舞踏学院に入り、バレエを学びます。将来有名なバレエダンサーになるのだから、ここでもすぐに才能を開花させるのかと思いきや、最初はそうでもなかった様子。チャン先生という素晴らしい師に出会ったことで、彼の道は開けたようです。ちなみに、青年期のリーを演じたツァオ・チーは英国バーミンガム・ロイヤル・バレエ団のプリンシパルですが、ツァオの父親はこの北京舞踏学院のバレエ教師で、リーにバレエを教えたのはツァオの父親だったそうです。だからといってチャン先生=ツァオの父親かどうかはわかりませんが、それを知ってからはこの映画を見る目が少し変わりました。縁ってあるんだなぁとか思ったりして。

リーがアメリカに渡るきっかけになったのは、ヒューストン・バレエ団の芸術監督、ベン・スティーブンソンとの出会いでした。ベンがダンサーを連れて北京舞踏学院を訪れた時、リーに目を留め、3か月間の期限付きで、彼をアメリカへ研修生として招きます。アメリカに渡ってから、リーはベンの家に住み、生活のあれこれを実に丁寧に世話してもらうのですが、その熱の入り様は見ていてちょっと引いてしまうくらいでした。もちろん、ベンがリーの才能を信じ、アメリカで開花させてやりたいと思ったからこそだったのでしょうが。

3か月間という短い研修期間の間に、リーはバレエのレッスンだけでなく、バレエ団で知り合ったリズというダンサーと恋に落ちます。といっても、この時点でのリーの英語力はまだまだと言ったところで、リズはリズでバレエ団の団員ではなく、群舞のキャストとして臨時で採用されただけという立場。そんな、意思の疎通が若干怪しくて、またバレエダンサーとしての格差もある2人が、出会って3か月で「この子を好きになった、結婚したい」だなんだ言われたら、ベンじゃなくてもおいおいちょっと待てよ、って思っちゃいますよね。祖国での監視の目から解放されて、リーは自由の国アメリカではっちゃけちゃったんだな、と。

と言っても、リーはアメリカに来てから急に恋愛にアグレッシブになったというわけではなく、北京時代にも同じクラスにいるガールフレンドとうまいことやってたので、もとからそういう人だったのかもしれませんね。逆に、リズのほうがシャイで消極的だったみたいだし。そんな彼女が、怪我をしたダンサーの代役として急きょ大舞台に立つリーの姿を、自宅のテレビで眺めている場面はとても切なかったです。彼女は彼の恋人で、バレエダンサーでもあるけれど、舞台で彼の隣に立つのは別の女性…。北京時代のガールフレンドも、教室ではリーのパートナーを務めていたものの、ベンがリーたちにレッスンしている場面でリーのパートナーを降ろされ、その結果客席から舞台上のリーとメアリ(ベンがアメリカから連れてきたダンサー)が踊るのを涙目で眺めるという結果になっていましたし。この頃のリーにしてみれば「恋愛とバレエは別」なのかもしれませんが、彼女たちだってダンサーなのだから、そう割り切れないですよね。切ない。

アメリカに来てから3か月が経って、リーとベンは滞在の延長を申請しますが却下されます。かくなる上は…と熟考した結果かどうかは知りませんが、リーはリズと結婚し、アメリカに亡命します。中国政府はこれを許さず、リーは中国領事館に監禁されるのですが、弁護士の機転でこの窮地を脱します。リーを救ったのは当時の副大統領、ジョージ・ブッシュ(シニアのほう)でした。彼の妻バーバラが、ヒューストン・バレエ団の理事だったことから、リーを解放するよう働きかけることができたそうです。なんとまぁ。今(2018年現在)のアメリカ大統領だったら絶対にやらないだろうな、という驚きの行動です。同じ共和党なのに。

そういうわけでリーはリズと結婚、アメリカに残ることができてめでたしめでたし…となるわけではありません。結婚してもリーとリズは異文化コミュニケーションでバレエダンサーとしての格差も残り、ぎくしゃくします。リズにしてみれば、リーはアメリカに残るために自分と結婚したのではないかという疑念がありますし。ダンサーとして舞台に立ちたくても、自分にはチャンスが回ってこない。リーはベンの舞台で主役を務め、脚光を浴びているのに。しかも、疲れて帰ってきたらリーから

「部屋が散らかってる。僕の母は働いて家事もちゃんとしてたのに」

なんてテンプレ言われたら、そりゃブチ切れちゃうわなーと。いやもうこの場面、画面に向かって「それ一番言うたらアカンやつやん!」と突っ込んでしまいましたよ。マジで。これから結婚を考えている世の男性にとって、なんて為になる映画なんでしょう。

リズのいる場面で印象深かったのは、領事館でリーが役人と中国語で話す時に、リズが同席していた場面でした。それまで、片言の英語を話すリーしか見たことがなかったリズにとって、流ちょうな、でも自分には理解できない中国語で誰かと話しているリーを見るのは不安だったんじゃないだろうかと。しかも、話している内容は、自分も大きく関わっていることなのに。リズが感じている、言葉が通じなくて意思疎通ができず、置き去りにされていることへの不安が伝わってきました。もっとも、同じ言語を話す人同士でも、言葉が通じなくて言ってる意味がわからないことは多々あるわけですが(遠い目)。

つーわけでリーとリズは破局。リズは別の場所へと旅立ち、傷心のリーはどうしたかというと…ベンが呼び寄せたメアリと再会し、いつのまにかうまいこといってました。なんじゃそりゃ。この辺の経緯は映画で省かれているのですが、メアリはリズと違ってアメリカ人ではなくオーストラリア人なので、異邦人同士リーと分かり合えるものがあった、のかもしれません。ベンと一緒に北京に来ていたことから考えると、リーよりも少し年上で、彼に振り回されない心の余裕もあったのかも。「かも」ばかりで私の憶測にすぎませんが。何より、北京で初めてパ・ド・ドゥを成功した時から、リーにとってメアリはバレエのパートナーとして最高の存在だったから、その延長で私生活のパートナーになるのも自然っちゃ自然です。まあ、すべてのバレエダンサーが「バレエのパートナー=人生のパートナー」なわけじゃないですがね。フィギュアスケートのアイスダンス、ペアも然り。逆に、恋人だから、妻だから、夫だからこの人と踊るって言ってパートナー変更されたら困りますものね。それはさておき、この映画を1回目に見た時は「えーこの人(メアリのこと)と?」って驚いたのですが、2回目見たら北京時代からちゃんと伏線が張られていたので納得できました。その分、メアリにパートナーの座を奪われた北京のガールフレンド、常に舞台の上からではなくテレビ越しや客席からしかリーの踊る姿を見られなかったリズの胸の内を想像して苦しくなりました。彼女たちとの関係は単なる若気の至りだと思っていたけど、芸術家の業という面もあったんだなぁと。山岸凉子の「黒鳥」の主人公、マリアを思い出しました。バランシンのミューズとして愛され、ミューズとしての役を降ろされると同時に妻の座も追われたマリア。彼女たちはマリアほど深刻ではないだろうけど、通じるものがあると思います。

山岸凉子つながりで言うと、リーとベンの関係は「牧神の午後」で描かれていた、ニジンスキーとディアギレフの関係を思い起こされるものがありました。もちろん、まったく同じというわけではなく、なんとなく似ているかもと思うくらいのものだったのですが。リーとベンの関係が、ニジンスキーとディアギレフのように破綻しなくてよかったです…。余談ですが、私はこの「牧神の午後」を読んで以来、簡単に「ニジンスキーの再来」とか「〇〇のニジンスキー」とか言って誰かをニジンスキーに例えるのが不快になりました。天才の美味しいとこ、都合のいいとこだけ切り取って利用してんじゃないよ、言われるほうの身になってみろよ、と。え、誰の話をしてるのかって?それは…ごにょごにょ。

というわけでなんというか「男性としてどうよ」と思うところのあるリーですが、ワシントンDCで両親と再会する場面と、メアリと共に故郷を訪ね、チェン先生の前でパ・ド・ドゥを披露するラストシーンは見るのが2回目でも涙がこぼれました。特に故郷の場面は、子供の頃、リーが北京に旅立った時の壮行会の場面のリフレインで、壁に描かれていた毛沢東の肖像画が風景画に塗り替えられていたりと時代の変化を感じさせられる構図になっていて、感慨深かったです。それに!なんてったって!BGMが!ネイサンのフリーの終盤と同じだから!ジャンプ全部終わってイーグルからスピンに入るまでのあの音楽と!いろいろオーバーラップしてぐっときましたとですよ!!マ!ジ!で!(号泣)

なんか脱線しましたが、ラストの帰郷のシーンは、故郷に戻れたこと、時代が変わり人々が過去の抑圧された生活から解放されていること、チェン先生との再会など、リーにとっての喜びがいくつも表現されてて胸熱でした。よかったねぇ、よかったねぇって。亡命直後、リーは自分が亡命したせいで故郷の両親が処刑されたんじゃないかと怯えて悪夢に苦しんでいたのですが、そういう恐ろしいこともなくて。もしかすると、この悪夢の場面は、アメリカにいるリーには中国の実情を知ることが出きないという意味があったのかもしれませんが。

感動のラストシーンで終わり、心地よい余韻が残る映画でした。が、1979年の当時と現在を比べてみると、もしかすると当時よりも今のほうが世界は自由を求める人に不寛容なんじゃないかという疑問がわいてきて、考えさせられる映画でもありました。簡単に置き換えて仮定できることではないけど、もし、リー・ツンシンがアメリカに亡命したいと訴えたのが1979年ではなく、2018年の今だったら…?かの国のトップは、国民の大多数は、そして我が国のマジョリティはどんな反応を示すだろう?そう考えると、日本に住む私でもぞっとします。

Blu-rayの特典映像に、リー・ツンシンさん御本人とツァオ・チーさんのインタビューがありました。ツンシンさんは50歳を過ぎてなおエネルギッシュな人で、舞台に立っていた時も圧倒的なオーラを放っていたんだろうと想像できます。自分で自分のことをハンサムと言い切ってるのにも「なるほどな」と納得できます。個人的にはハンサムというよりチャーミングな印象ですが。ツァオ・チーさんは、映画の中では少し野暮ったいかったけど、実際は現代風の涼しげなハンサム。ツンシンさんがオーラを放出するタイプなら、ツァオさんはオーラで人を引き込むタイプに見えました。映画初出演で、自分とタイプがまったく違う役を演じたのだから、ツァオさんもすごいですね。

バレエダンサーの映画なので当然ですが、「ドン・キホーテ」「白鳥の湖」「春の祭典」などを舞台で踊る場面が見られて、バレエ好きとしては大満足でした。一度、ツァオさんが踊る舞台も見てみたいけど、来日しないかなぁ。来日しても、関西まで来ないかもしれないけど…。




-はい、ここまで読んでくださいましてありがとうございました。ここからはフィギュアスケート、というかネイサンとこの作品についての感想です。
興味ない人は回れ右でお願いします。

2017-18シーズンの初めに、ネイサンが「小さな村の小さなダンサー」のサントラでフリーを滑ると聞いた時は、彼がバレエの経験者だからということと、五輪シーズンは多くの選手が自分のルーツを表現するプログラムになりがちだから、中国にちなんだ映画で滑るんだなと勝手に思っていました。しかし、この映画を見て、SNS等でネイサンの両親が中国からアメリカに渡り家族を築くまでのストーリーを読んで、「もしかするとこれはそんな安直なものじゃないかもしれないぞ」と考えるようになりました。このフリープログラムを振り付けたのは名振付師のローリー・ニコルですが、人種とか国籍とか民族という大きなくくりよりもっと、パーソナルな題材を滑らせるのは、いくらローリーでも大変だったのではないでしょうか。映画の中では、当時の中国の政治事情も出てきますし、アメリカと中国の関係についても、考えさせられるものが描かれていますから。

そんなわけで、映画を見てからはネイサンのフリーの演技を見るたびに、滑っている本人の胸の内を含め、演技と音楽が映画と重なってテンションが上がり、ごぼごぼと滾るものがあります。まあ、そこまで興味のない人、フィギュアは好きだけど彼のファンじゃない人、むしろアンチ寄りな人にしてみれば、「4回転ジャンプをひたすら跳んでるだけのプログラム」に見えるのかもしれませんが。昔と比べて、解説を担当している元選手の人たちが、ステップやスピンと言ったジャンプ以外の要素や音楽性、芸術性についてちゃんと解説してくれてるのが、たくさんの人に伝わってるといいのになーと思います。はい。

あと、これは私のゲスな勘ぐりですが、やっぱり言葉が通じない相手に押せ押せで行ってもろくなことにならんのだろうなーと、この映画をみて思ったので、そのへんを見習ってくれてたらいいなと思います。頭いいんだから、相手の国の言葉を学ぶ努力も必要だよね☆って。それより、ネイティブですら聞き取れないほどの早口のほうをどうにかしたほうがいいのかもしれんけど…。


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