直ぐ近くにある天吹酒造会社のお酒「天吹(あまぶき)」を買って来ました。いい値段がしました。お正月が来るので、きばりました。いつもは1000円以下のを買っています。安いのはやっぱりおいしくないのです。よほど高いのは、果物ジュースのように感じますので、好きではありません。どちらかというと辛口派です。ツウではりません。あんまり味わい分けができません。
お正月に飲みます。楽しみにします。たくさんは飲めません。一合ほどで酔います。安上がりです。酔ったらことんと横になります。寝てしまいます。
直ぐ近くにある天吹酒造会社のお酒「天吹(あまぶき)」を買って来ました。いい値段がしました。お正月が来るので、きばりました。いつもは1000円以下のを買っています。安いのはやっぱりおいしくないのです。よほど高いのは、果物ジュースのように感じますので、好きではありません。どちらかというと辛口派です。ツウではりません。あんまり味わい分けができません。
お正月に飲みます。楽しみにします。たくさんは飲めません。一合ほどで酔います。安上がりです。酔ったらことんと横になります。寝てしまいます。
CoCo壱番屋上峰店に出掛けて行って、野菜カレーを食べました。ときおりカレーが食べたくなります。
繁盛していました。席に座れず、名前を書いて10分くらい待ちました。カウンターが空きましたのでそこに座りました。
注文したら直ぐに運ばれて来ました。わたしはここの大根漬けが好きです。まわりに装いました。ご飯の量が多かったようで、少し残してしまいました。
わたしが食べ終わった時間になると、店のお客さんの数が、潮が引くように、少なくなりました。慌ただしかった従業員さんもゆっくりになりました。
退屈と言った気がする海鼠かな
青木栄子さん
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西日本新聞の今朝の「俳句月評」にこの句を見つけました。月評担当は谷口慎也俳人です。
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海鼠(なまこ)が食べられる季節になりました。12月が過ぎようとしています。スーパーで切り分けた赤海鼠パックを見つけましたが値段が張っていてとてもとても。その場を逃げるようにして立ち去りました。海鼠は海の底に退屈そうに暮らしていますが、なんのなんの、地上に運ばれて来ると途端に驚きの価値が出ます。
海の底にいるときには退屈に暮らしているのでしょうか、ほんとに? なにしろ鈍重。ぶよぶよとしてふくらんで動きが鈍いですからね。目が何処についているのかもわかりません。海の底の暮らしがそんなに変化に富んでいるわけでもありません。恋人と連れ添って映画を見に行く機会もありません。
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ある日とうとう海鼠のお爺さんは、「退屈!」と言いました。「生きているのは退屈!」と2度3度。まるでお爺さんしているわたしのようです、長生きに倦怠を覚えているところが。いいんでしいんです、それでいいんです。退屈を覚えるほどの平和な世の中がいいんです。
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提示された俳句の言い分は、読者によってさまざまに受け取られしまいます。それほどに奥が深いのでしょうね、きっと。
それぞれの主張軽やか百千鳥
黒田純子
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今朝の西日本新聞「俳句月評」にこの句がありました。いいなと思いました。
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主張をして、われわれは生きています。ともかくわいわいがやがや自分の主張とやらを口にしています。相手にぶつけるときもあります。譲れないで喧嘩になるときもあります。己をよしとすれbs、必然的に相手が非になります、潰さねばならなくなります。でも、喧嘩はよくありませんよね。しない方がいいんです。浜辺に居る浜千鳥はしていません。主張はしてもその主張のせいで地上を飛び立てなくなるほどの重さはないのです。譲って譲って軽くなることができます。百羽いてもみないっせいに波飛沫上がる磯辺を飛び立って行きました。主張は重たい石にするものではありません、よね。
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これは小鳥たちの智慧です。己の主張も生き様も、軽く軽くしていないと青く透き通る天空まで飛んでいけないことを知っているのです。
このごろよく俳句を取り上げている。俳句が好きになったのかな、もしかしたら。短いからね、なにしろ。1口サイズでぽんと口の中に入っちゃうからね。椎茸が竹串に3個ならんでいるくらいだからね。
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天上の神が鈴振るさくらんぼ
岩中中正
西日本新聞(12月27日付け)朝刊の「俳句月評」にこの句がありました。
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天の上には神様がいらっしゃいます。おいでにならないと天の上は広すぎます。静かすぎます。冷たすぎます。
この世の人の数だけの神様がいてくださって、そこから一人一人を見守って下さっています。一人も過(あやま)たず済むように。生きていてよかったとつぶやけるように。
そういう明るい設定にしてこの句が展開されています。
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春が暮れてもうすぐ夏になろうという時季にサクランボがまあるく赤く熟れてきます。一枝にたくさん。下を向いて。摘みに来たこどもたちをながめるようにして。
その赤く熟れたサクランボを育てていたのは、地上の人間たちですが、でも天上界の神々もこれに加わっていたのです。愛情を降り注いでいたのです。その証拠に、今日のサクランボは鈴になっています。祭の鈴がにぎやかに鳴っています。天上界と地上界が仲良く繋がるように、りんりんと明るい鈴の音がしています。鈴を振る神々の手が見えるようです。
月光を蝶舌技巧の死がねぶる
高岡修 高岡修句集より
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月光が春先、地上の湿った落ち葉に降っている。蝶々が死んで横たわっている。月光が、舌先でそこに静かに落ちている死を、ねぶっている。くまなく嘗め回している。少しだけあたたまったのか、一条の朦朧とした湯気が上がるのが見える。これが超絶技巧に見えて来る。蝶々に舌先がある。その細い小さな舌先が降って来る月光を嘗めている。死が月光をねぶっている。
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俳句はこれだけの風景を包摂できる器である。大きな深い器だ。
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今朝の西日本新聞俳句月評にこの句が紹介されていた。世界はそこにごろんと転がっているだけのようだが、俳人にはこんなふうに見えているんだ。俳人がむしろ独自のあやしい世界を作って、それを楽しんで生きているんだろう。
12月27日、水曜日です、今日は。お正月まで残る5日。師走になったって感じがします。お日様が冬の空を明るくしています。お天気がいいです。外気温は9・2℃あります。これなら外に出て行けそうです。
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コタツに入って、足を延ばして、遠藤周作の随筆集「フランスの街の夜」を読んでいます。文章がうまいです。美味しい野菜スープを飲んでいるようです。本の文字が小さいので、拡大鏡が要ります。面倒です。
役に立ちました、お爺さんでも。嬉しいです。
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「台所の水洗い場のところに、守宮が出ました。守宮はキライ。気持ち悪い」と、ご近所のお嬢様が我が家に太助を求めて来られました。みな出払っておられて、誰も居ないのだそうです。
落ち着かせて聞いてみる。夕食の準備をしようとしたら、窓から守宮が落ちて来たらしい。お嬢さんはキャアーと悲鳴を上げた。触るとにょろっとして冷たい、くにょくにょする、そこがキライでもうなにがなんでも苦手らしい。
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で、わたしと家内と救助に向かいました。台所の洗い場のシンクタンクのところに、それがいました。幼いこどものようです。割り箸で捕まえて、ビニール袋に押し込んで、玄関の外にぽいと捨てて、終わりました。苦手の人は徹底して苦手のようです。
というわけで、わたしたちは、人様の役に立ってのです。これは大事件でした。役に立っていなかったお爺さんお婆さんが、なんと、人様のお役に立てたのです。存在が、人を救ったのです。嬉しくなりました。顔の皺が3mmくらいのびました。
今夜の月は美しい。おもわず<おおおお>の大声を上げてしまった。
東の空に上がっている。冬の寒い大きな満月である。
でも、それからしばらくしたら雲が現れて朧月にしてしまった。
世界が認めた名画ですから、わたしの方が悪いんです。わたしはそれがそんなにいい映画なのか、理解できませんでした。11時45分に始まって14時に終わりました。
役所広司演じる読書好きで無口な独身男性トイレ清掃員の、誠実な掃除場面がたくさん何度も流れました。人の嫌がる便所掃除を嫌がらずにやっているというそこのところが美談として協調されているわけでもありませんでした。
彼は一人暮らしをしています。寝るときにはいつも文庫本を読んでいます。インテリ風でもあります。鉢植えも楽しんでいます。運転中はよく古い音楽を聴いています。なにしろ主演男優賞を取ったのですから、名演技だったにちがいありません。
途中いくつかドラマが挿入されていました。そこを深く読み取らねばならなかったのかもしれませんが、わたしには分かりませんでした。二人合わせると影が濃くなる、ならなきゃ嘘だという場面もありました。ここがポイントだったのかもしれません。
名画を名画として鑑賞できなかったわたしの鑑賞眼が劣っていたとしか言いようがありません。核心を読み取れなかったようです。
たくさんの人が見に来ておられました。映画が終わってもみなさんすぐには立たれませんでした。感動に浸っておられたのかもしれません。