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今此処に仏が目の前に立って現れて来る、ために。

2019年12月16日 17時15分37秒 | Weblog
「現在仏悉在前立三昧(げんざいぶつざいぜんりゅうざんまい)」という三昧がある。精神統一法である。これで仏を見るのである。仏を念じて仏を見る方法である。
 
<今此処に仏が目の前に立って現れて来る>ために、念仏行者は一定の期間、常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)に籠もって、三昧行(ざんまいぎょう)を貫く。仏と直流電流を通わせ合う。
 
「現在諸仏悉立三昧(げんざいしょぶつしつりゅうざんまい)」ともいう。阿弥陀仏を信じる浄土教の人たちはもっぱら阿弥陀仏と向かい合うことになる。<般舟三昧経(はんじゅざんまいきょう)>の中で説かれている。
 
そういう記事を本で読んだ。目がそこに立ち止まった。その場を想起して目の前がくらくらになった。
 
一定期間の常行三昧の後で、仏さまが目の前に現れて来れば、目が眩んでしまうだろうなあ。仏さまと対峙ができるだろうか? 
 
この世での光の明るさしか目にしていない者に、仏の世界の仏の光の明るさが、人間の目のままで探知できるだろうか? 
 
僕の場合なら、そこで一挙に目が潰れてしまうのじゃないかなと思う。でもすさまじいすさまじい感激だろうなあ。
 
(此処を書くために、このブログを書いているけど)
 
いずれは仏さまに出遭う。出遭うと思っている。信じていると言っていい。仏さまの導きなしには、死後の世界に行けないからだ。自力では行けないからだ。
 
だから、当然、仏さまが現れて来て下さることになる。そこが<現在>になる。<死後は未来>のようだが、そこが<現在>になる。
 
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そして諸仏が目の前に立つ。光輝く諸仏の世界に出て、手を引かれて歩いて行くことになる。それしかない。
 
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いまはまだ死後の世界ではなく、生きている世界である。煩悩界である。迷妄界である。光は、そこを照らしている。
 
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そこを照らすほどの光の明るさで十分である。そこに居る。そこに生きている。
 
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で、仏は、いまは山の形をして現れている。海の形をして現れている。空の形をして現れている。しかし、歴(れっき)とした仏であることに違いはない。
 
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山は仏である。海は仏である。空は仏である。見るもの見るものすべてが仏である。
 
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この世を生きながら、仏の世界を生きているからである。すべては現在に、光として、光の仏として、現前しているのである。
 
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わたしはそういう理解をしている。感覚的な浅はかな理解である。
 
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<現在諸仏悉在前立三昧(げんざいしょぶつしつざいぜんりゅうざんまい)>の楽しみを後に残しておく。
 
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いったいぜんたいどんな楽しみだろう。どれだけ大きな楽しみだろう。死後は楽しみの連続だろうと思う。
 
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生前も死後も諸仏のお計らいの中にある。諸仏のなさしめる運行の中にある。これは間違いのない事実だろうと僕は思っている。
 
20
私が自力でこの世界に生まれてきて、自力で仏の世界に進んでいけるとは思っていない。仏がわたしを守り、仏がわたしを導いているのである。
 
 
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