「もしかして」
虫には開業している病院がない。ないようだ。でももしかしたら、お医者さんはいるかもしれない。看護士さんもいるかもしれない。鳥もそう。魚もそう。獣たちはどうなんだろう。案外、そういう役目を負った一族がいて、せっせせっせ治療看病に当たっているかもしれない。互いを思い遣るところは共通していて、なんの不思議はない。
虫も鳥も魚も獣たちも、健康でばかりはいられない。やはり病む。健康を損ねて病むだろう。怪我をすることだってあるだろう。回復できなくて、最後には死ぬことになる。
人間も免れない。老いて病んで死んで行くことになる。人間に不治の病を起こさせる病原菌たちだって、しかし、同じだ。永生ではない。病む。死滅する。個だからだ。
人間界には病院がある。歴とした。お医者さんも看護士さんも介護士さんもいる。治療をしてくれる、看病をしてくれる。終わりを看取ってくれる。手厚く手厚く。
人間はその上、葬儀という恭しい儀式もする。お墓もある。行き届いている。互の永久の行く末を慮る、そういう社会に住んでいる。
個体を生きる虫や魚や鳥や獣たちにも、そういう慮る社会性があるのだろうか。ふっと考えてみた。ありそうに思った。
僕は大切な友人を葬儀場に見送った。そこを出てひとり枯蓮の堀端を歩いた。そして人間界に生死するものの、安心のようなものを感じた。
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4月1日、今朝の新聞、読者の広場の「男の星座」にこの原稿が載せられていた。3月6日に投稿しているから、もう没になったものと諦めていた。没になっていなかったのが嬉しかった。これまで没になったのが何倍もある。日の目を見るとまた書こうという気になる。元気が涌き出た。








