<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

衆生仏を念ずれば、仏も衆生を念じたまふ 法然上人

2018年01月22日 10時45分24秒 | Weblog

衆生仏を念ずれば、仏も衆生を念じたまふ。        法然上人のことば。

わたしが仏を念(おも)う。すると仏がわたしを念(おも)われる。相思相愛の間柄となる。

わたしが「念仏」すれば、仏が「念私」される。そういうスイッチが入る。

仏と私との間にベルトが懸けられる。モーターが動き出す。ベルトが回り出す。

仏の力がそのままわたしへ伝わってくる。日々の暮らしの中で入力されて出力される。

そういう相互運動の方程式が出来ている。その方程式は、しかし、仏が案出された方程式である。それに乗っかかるだけでいいのだ。

6 

では、問う。わたしが仏を念じなければ、仏もわたしを念じないのか。

仏はわたしを念じるのである。念じているのである。仏の願い、仏の救済は、無条件である。わたしが仏を念じようが念じまいが不変である。

ただ、わたしが仏を念じるとわたしにその仏が見えてくるのである。仏の働きが見えてくるのである。嬉しくなるのである。忝くなるのである。お任せをしていていいと言う安心が生まれて来るのである。

わたしと仏の間にはベルトが懸かっているのだ。これは変わらないのだ。それが真如界の法(ダンマ)の働きなのだ。ここに一切をゆだねているのだ。

10

わたしは何処から来て何処へ向かうのか。その問いの答が、仏の法によって明確に提示されているのだ。

11

曰く、故郷の仏国土(真如界=浄土)から来て、故郷の浄土に向かって帰って行くのである。

12

わたしたちは仏国土を行き来している者である。そう決定した者である。仏性を発露させて仏道の修行をしている者である。向上の道を辿っている者である。

暇にまかせて、そんなことを考えた。暇だなあ。分かりきったことを再確認してみた。ときどきそれを忘れてしまうことがある。分かりきっていることなので、ついつい、蔑(ないがし)ろに疎(おろそ)かに念うことがあるからだ。

仏がわたしを念じていてくださるのである。いつもいつもこれは不変である。この悪たれのわたしを、煩悩まみれのわたしを、何処までも悪態をつくわたしを、である。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 烏が近くに来てカアカア鳴い... | トップ | 茶花の「侘び助」が我が家の... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事