衆生仏を念ずれば、仏も衆生を念じたまふ。 法然上人のことば。
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1
わたしが仏を念(おも)う。すると仏がわたしを念(おも)われる。相思相愛の間柄となる。
2
わたしが「念仏」すれば、仏が「念私」される。そういうスイッチが入る。
3
仏と私との間にベルトが懸けられる。モーターが動き出す。ベルトが回り出す。
4
仏の力がそのままわたしへ伝わってくる。日々の暮らしの中で入力されて出力される。
5
そういう相互運動の方程式が出来ている。その方程式は、しかし、仏が案出された方程式である。それに乗っかかるだけでいいのだ。
6
では、問う。わたしが仏を念じなければ、仏もわたしを念じないのか。
7
仏はわたしを念じるのである。念じているのである。仏の願い、仏の救済は、無条件である。わたしが仏を念じようが念じまいが不変である。
8
ただ、わたしが仏を念じるとわたしにその仏が見えてくるのである。仏の働きが見えてくるのである。嬉しくなるのである。忝くなるのである。お任せをしていていいと言う安心が生まれて来るのである。
9
わたしと仏の間にはベルトが懸かっているのだ。これは変わらないのだ。それが真如界の法(ダンマ)の働きなのだ。ここに一切をゆだねているのだ。
10
わたしは何処から来て何処へ向かうのか。その問いの答が、仏の法によって明確に提示されているのだ。
11
曰く、故郷の仏国土(真如界=浄土)から来て、故郷の浄土に向かって帰って行くのである。
12
わたしたちは仏国土を行き来している者である。そう決定した者である。仏性を発露させて仏道の修行をしている者である。向上の道を辿っている者である。
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暇にまかせて、そんなことを考えた。暇だなあ。分かりきったことを再確認してみた。ときどきそれを忘れてしまうことがある。分かりきっていることなので、ついつい、蔑(ないがし)ろに疎(おろそ)かに念うことがあるからだ。
仏がわたしを念じていてくださるのである。いつもいつもこれは不変である。この悪たれのわたしを、煩悩まみれのわたしを、何処までも悪態をつくわたしを、である。