<おでいげ>においでおいで

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賢しらを装ったところで何ほどのこともあるまい

2017年07月30日 09時50分20秒 | Weblog

前回のこのブログで「入我我入」のことについて書いた。にゅうががにゅう。仏がわたしに入り、わたしをして仏の懐へ入らしむ。

呼吸しているときはだれでもそうしている。息を吐いたら吐いた先が仏の世界だし、息を吸ったらわたしの内側が仏の世界になっている。仏と離れていることはないのである。

でも、意図して力んでそうするのではない。未来に向かって努力するのではない。既にそうなっていることを知る、体感するだけなのである。現在の完了、現在に成立してしていることを察知するだけでいいのである。いまわたしが仏の世界に入っているということ。わたしの世界に仏が入って来られているということ。それでもってわたしがここに居るということ。でもって図らずも仏と一体化しきっているということ。それを感得すればいいのである。

夏の青い空が広がっている。蝉が鳴いている。向日葵が咲いている。それを風が揺らしている。それをわたしが見上げて安らいでいる。その涅槃図式は梵我一如の世界として成立しているのだ。わたしが異を唱えるところではない。異を唱えたら賢しらにはなれそうだが、いかにも底が浅すぎる。

ことあらためて人間賢しらになることでもないのだ。凡愚で怠け者でふてぶてしいわたしが、賢しらを勤めたところで何ほどのこともあるまい。浄土の教えではそれを帰依帰命というのだろう。無為にして「入我我入しているわたし」を静かに味わって、今日の日曜を過ごしていようかなあ。外に出ていっても暑そうだし。

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