多病息災発達障害者こよりの日常

両手で数えきれない障害と持病を抱えつつ毎日元気に活動中。発達障害の息子たちの子育ても終え、悠々自適の毎日です。

クリスマスの思い出と父の決断

2016-12-24 14:12:26 | 思い出
昔、まだ 昭和の時代、オイルショックがあり、父の会社でも 退職者を募った。父は責任ある場に


いたため、退職依願者候補のリストには 名前が なかった。


その時、リストに載っていた 候補の中に、父の 同郷から就職に来た 後輩の名があった。


その人には まだ 小さい子がいて、下の子は まだ 乳飲み子だった。


父は そのリストを 見ることができたため、上司にこう申し出た。


「自分が 退職しますので、その代り どうか 自分の後輩のOO君を 会社に残していただきたい」と。


母から聞いた 話だが、父は こう 話したそうだ。「うちの子どもたちは 小学生だ。一日二日食べなくても


命に係わることはない。だが OO君の家には赤ん坊がいる。母親の乳が止まったら 命に係わる。


実家に帰ると 行っても それができる環境では ないことを自分はよく知っている。


どこにも 行く先がないし、行き先が見つかっても 赤ん坊抱えて 引っ越しは無理だ。


少しは 退職金が出るから、それで 引っ越して 新しい職を探す。多分食べるのにも


苦労するだろうが、我慢してくれ。」と。


どうして 引っ越すのか わけもわからないまま 私たち子どもは ついていき、父は 今までと変わらず


毎朝出かけていったが、今思うと職探しに行っていたのだろう。


父の今までいた 業種はどこも 人を雇う余裕はなく、貯えも底をついたのだろう、


おかずは 一品で、キャベツの 外葉の 炒めたのだったり大根の葉のご飯だったりし、父にだけ


別の おかずが 付いたが それも 卵焼き程度のものだった。


父は それを 一口ずつ 私やきょうだいに わけてくれた。


母も 働くようになったが それでも生活は 苦しく、


ある日 母に 「これを 水道局に行って払ってらっしゃい」と


はがきを渡された。水道料金滞納の 請求書である。


薄々気づいてはいたが、そんなに うちは 困っていたのか、と驚く私に、母はこう言った。


「これ 印刷して あるでしょう?こういうことになってるの うちだけじゃないのよ。


うちだけだったら 手書きで来るだろうけど、印刷するほど 今は すぐに払えない人が


いっぱいいるってことなの。」


私は 言われた通り お金の入った封筒と はがきを持って水道局に行き、


支払窓口に それを 渡して 領収書を 受け取って 帰った。


そういうことが何度あっただろうか。


また ある時は 探し物をしていて 母の 引き出しの中から


質札を見つけて 驚いたこともある。給食費の 支払いの封筒を 見せた途端


叩かれたこともある。母も父も とにかく 必死だったのだ。



父は その後 経験のない職場で 一番下の立場から 始め、


自分より 年下の 社員に 叱られながら 仕事を 覚えていったが、


よほど 辛かったらしい。これも 母から聞いた 話だが、


寝言で 「俺を馬鹿にするな」とか「OOの馬鹿野郎!」と 毎日のように言っていて、


母は 何度も 起こされたと言っていた。


クリスマスは 父も母も クリスマスケーキの 配達で奔走していた。


私たちはきょうだいで 母が冷蔵庫に入れておいてくれた アイスクリームを


分けて 食べながら 両親の帰りを遅くまで待った。




父が 会社に残してくれと頼んだ 後輩の人は、その後安定した生活を送ることができ、


「あの時 会社を 放り出されていたら、親子で死んでいたかも知れません」と


毎年 必ず 父に あいさつに来た。


父は 自分の苦労は 微塵も見せないで、「お子さんも 大きくなってよかった」とか


「俺の方も 新しいところで 何とかやってるよ」と 話をしていた。


父も 仕事を苦労しながら覚え、徐々に お金の苦労は少なくなっていった。


父は 一番下から 未経験の仕事を始めて、最後には 主任の職に就いた。



定年近くなって、父の同僚や 後輩たちが 送別会を開いてくれた。


写真の中で、父は 好きな お酒を飲みながら、うれしそうに笑っていた。


その直後、父にがんが あることが わかった。


手術は成功した、と 医師は 言ったが、その時 すでに転移していたらしく、


その 一年後に亡くなった。


田舎で 苦労して育ち、集団就職で慣れない地に来て ようやく安定して 結婚し


子どもに 恵まれて 仕事で 安定した地位についた途端 また一から


やり直しの 人生だった。


父の人生で、楽だった時期は 一体何年あったのだろうか?


行きたかった高校を あきらめ 就職し、家庭を持って 安定した生活を得た時期は


わずかだった。慣れない仕事で 苦労しただろうと 思うが、私経ち子どもにはその姿を 一度も


見せなかった。やっと 楽ができる、という時期に 闘病生活に入り、


苦しかったと思うが 私が 子どもたちを連れていくと 笑顔を見せて迎えてくれた。


父が 亡くなったという知らせをあちこちにしたあと、駆け付けた その 後輩の方が


男泣きに泣いていた。奥さんも泣きながら、大きくなったお子さんたちに、


「お前たちが こうしていられるのも この方の おかげなのよ」と


話し、お子さんたちも 父に焼香してくれた。


カチカチの キャベツの外葉炒め。大根葉のご飯。父が 分けてくれた 一口の卵焼き。


その味を 私は 一生忘れないだろう。


苦労しながら それを 微塵も見せないで、私たちきょうだいを育ててくれた 父と


辛いながらも 父の 決断を 受け入れた母が 私の 誇りである。
















父の帽子 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
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3 コメント

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ほっこり (うえはら)
2016-12-26 10:28:27
初めてコメントいたします。
こよりさんのブログのファンです。
今日のお話は短編小説を読んでいるようでした。
素敵なお話ありがとうございました。
これが当たり前の時代があったのです (こより)
2016-12-26 13:21:06
こういう苦しさを 乗り越えて きたのは

私の家庭だけでなく、全国にたくさん

ありました。私やきょうだいは貧しいとはいえ、何とか食べさせてもらい 生き抜くことが できましたが そうした生活に
耐えきれず 悲惨な 状況になった家庭も
多かったのではないかと思います。

両親の 努力のおかげで 私たちは無事
成人し、今 裕福ではないですが 幸せな家庭を築くことができました。


苦しさも 修行と 考えて どう対処していけば いいのか 考えて 努力すれば
道が開けていくと 私は思います。

子どもたちも無事成人し 私は 今病気の管理をしながら あちこちの 親の会などで
子育て経験や 私の個人の経験などを話して 修行の大切さを 広めていく活動をしています。
暖かい交流 (こより)
2016-12-27 11:28:08
うえはらさん、コメントありがとうございました。

母に聞いたら 父の後輩の方も 亡くなられたそうですが、母とその方との奥様の交流は、今も 続いているそうです。

単なる 職場の先輩と後輩という間柄から、より強い絆で結ばれる関係になっていることを、父も後輩の方も空の上から眺めて 喜んでいるのではないかなと思います。

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