誰かの知恵を自分の力にするためには、ただ聞くだけでは全然足りない。聞いて、記録して頭に入れて、やってみて一度では上手くいかず、二度目で言われたことの意味がわかり、三度目から何とか形になる、ぐらいが普通なのではないか。それでも我流でやればトンチンカンな方に向かっていくかもしれないから、誰かに知恵を授かるのはありがたい事だ。が、授かっただけではまだ自分のものではない。ただのもらいものでしかない。
受け入れる力が必要だ。
意にそぐわぬなら抗う事もする。それとて、受け入れる力の一部だ。受け入れるための交渉だ。
受け入れてから、さてどうするか、考えればいい。閉ざして拒んでいたのでは、何も始まらない。
意にそぐわぬなら抗う事もする。それとて、受け入れる力の一部だ。受け入れるための交渉だ。
受け入れてから、さてどうするか、考えればいい。閉ざして拒んでいたのでは、何も始まらない。
世に起こる様々なことを説明するのが科学の言葉だが、それよりはずっと宗教の言葉の方がやかりやすいし、ピンとくる。
宗教の言葉はあまりに分かりやすいので悪用するものもいる。気をつけなければならない。が、理知による説明の彼方に、大いなる意志が働いている、という敬虔な気持ちを持つのは大事なことではないだろうか。
特にこれといった宗教に帰依するつもりは今のとこないが、明確な答えにたどり着かなくても、どこかに答えがある、と信じていた方が、まっとうな人生を送ることができるはずだ。
宗教の言葉はあまりに分かりやすいので悪用するものもいる。気をつけなければならない。が、理知による説明の彼方に、大いなる意志が働いている、という敬虔な気持ちを持つのは大事なことではないだろうか。
特にこれといった宗教に帰依するつもりは今のとこないが、明確な答えにたどり着かなくても、どこかに答えがある、と信じていた方が、まっとうな人生を送ることができるはずだ。
歳をとれば目は悪くなる。では、物事を見通す力の方はどうだろうか。よくなる、と思いたいところだが、視野が狭くなって、頭が固くなる、とも言える。もっとも、当然経験値は上がるのだから、要はどっちにだってころぶ、ということか。蓄えだけに頼って生きて行こうとするとダメになるのだろう。これからの事を真剣に考えて、これまでの流れを俯瞰し今の動きを分析し、頭を働かせて道を拓いて行こうとする、のは「ゆるくない」けど、そうありたいものだ。目は霞むようになったとしても。
何もしないで寝っ転がっていたら当たりの宝くじが飛んできた、何ていうのは人類の夢だ。そのような寓話は好きだけれど、宝くじほどではないにせよ、何もしていないのに期待だけしている、ということはある。その全てが卑しくてダメ、という事でもないけれど、何かを期待するのなら、自分が何をなすべきなのか、よく考え、実行した上で、の事だ。当たり前のことなのだが、時々そのことを忘れ、夢想の世界にひきづられそうになる。気をつけなければ。