設楽原ボランティアガイドの養成講座第1回を受講してきました。
本当であれば別の日だったのですが、この日が残念ながら先約有。
仕方なく休みましたが、別の都合の良い日にくればいいよ、とのことでした。
この講座自体は全6~7回あるそうです。
第1回目は設楽原歴史資料館に関するガイドの注意事項。

※設楽原歴史資料館
設楽原合戦などの内容についてよりも、ガイド方法や注意点についてでした。
ガイドの目的としては、当然のことながら来訪客対応。
ただ単にカセットテープのように同じ事を話すのではなく、相手の来訪の目的を最初に掴むことが大切とのこと。
大きく分けると、この資料館には、長篠・設楽原の合戦について知りたいという方と火縄銃など銃に関して知りたい、という方が来訪されるとか。
そして、合戦について知りたい方にあっては、武田方の武将について知りたい、という方の来訪が多いため注意が必要との事でした。
甲斐から来訪される方が、武田信玄や武田勝頼のことを「信玄」や「勝頼」と呼び捨てにされると郷土の英雄を粗末に扱われているように感じてしまう場合があるので、『信玄公』『勝頼公』のように配慮が必要との事でした。
また、来訪者は遠くから資料館のことだけを見に来ているわけではない。
馬防柵や長篠城、思い入れのある武将の墓などをセットにしていることがあるため来訪時間には限りがある。そのため、来訪時間をしっかりと把握した上で対応しないと、例えばツアー対応時に「あそこは時間にルーズで時間が読めない。」という評判が立ってしまうと次に繋がらないので注意すること、というものもありました。
なので、湯浅主任学芸員が解説されるときは、大体20分で合戦の概略と資料館の見所などを話して、後はご随意に、という形にしているそうです。
なるほど。
自分もガイドを受ける立場になることが多いのですが、まさにそのとおりなんです。
1時間ものガイドはよっぽど時間が取れる場合のみ。やっぱり10分~20分位がありがたい。そして、その後にガイドの人の知識量や説明方法を見て、自分達の今後の旅程を考えながら質問をするかしないかを決めています。
やはりガイドさんが客観的に周辺知識を含めて話を筋道立ててする場合、この人ならば少々突っ込んで質問しても大丈夫、通り一遍だったり、自信なさげだと質問するだけ無駄だろうと考えて、一通りの説明を受けて「ありがとうございました。」となります。
要は、普段自分がされていることの逆をすればいい、ということか、と。
「己の欲せざるところ、人に施すこと勿れ。」ということですね。
しかも、来訪客にも温度差があり、めちゃくちゃ詳しい人、それこそ行くところが無いから涼みに来た人などがいる。そうなると、相手方のペースを考えないと押し付けになってしまいます。
後、湯浅氏が特に気を配っているのは、
「現地」
というところだそうです。
長篠合戦図屏風で説明をする、模型を前に説明をするのは、別にどこでもできてしまいます。特に、白帝文庫や蓬左文庫には長篠合戦図屏風の本物があるので叶わない。
しかし、ここは現地。
なので、実際の風景を見て、そして気温や音、風などを感じてもらいながら説明をすると、これは設楽原歴史資料館でしかできない。
まさにそのとおり。
なぜわざわざ現地に行くかと言えば、現地の状況を少しでも理解したいから。
仮にその場所が現在川の中だろうが、埋め立てられて住宅地になっていようが、やはり、そこはそこ。だからわざわざ見に行くわけです。現地で無いとできないのは、現地を見ながら、ということ。
人によっては「意外と近い」と思うのか「案外遠い」と感じるかはそれぞれでしょうけど、それを感じてもらうことが大事、ということに気をつけてガイドされている、ということは、改めて勉強になりました。
資料館2階からの眺めは良いので、寒暖ありますが、できるかぎり2階から説明するようにしているそうです。
そして、もう一つの目玉『鉄砲』
日本一の火縄銃収蔵、というのがこの資料館の売り。

火縄銃に興味のある方も多く訪れるそうです。
国友や松本城などが他にも火縄銃所蔵では水準が高いそうです。
湯浅氏などは設楽原鉄砲隊に入って実際に火縄銃を撃ってみえるので説明できる部分も多く、私などにはとてもできないな、と、思う説明もありました。こうなると、やはり、自分なりに調べていかないと、とても来訪者の満足を得るような説明ができない。
一応、それなりに流派別の特徴や火縄銃が目的によって違いがある点や銃身が長いものは射撃競技を意識したものだとか、などの話をお聞きしました。
撃鉄と火縄銃の考え方なども面白かったです。武芸と実戦は違うのだな、と、認識した次第です。
この他、現在洋式銃の展示も比較のために行っているのですが、やはり「八重の桜」を御覧になっている方が多く、ゲベール銃、スペンサー銃は皆さん知っている方が多いそうです。
こういう時代時代のブームなども抑えておかないと、うまく話が進まない、ということもあるようです。
と、色々とお聞きした後、
「そういえば、先ほど家康や勝頼、信長の布陣の考え方について戦術的な面から説明する場合もある、と、言ってみえましたが、どういうことなんでしょう?」
と、質問。
後、
「長篠城攻めの際、吉田城と浜松城を、武田軍はどうするつもりだったんでしょうか?」
ということも質問。
これは。。。
現地で。(笑)
と、聞きながら「本当にガイドできるかや?」と思わんでもなかったですが、とりあえず、講座は続けて受講していく予定です。
と、思っていたら、第2回目の講習会予定日も仕事が入ってる!
仕方なしに「次回も別日可能ですか?」と・・・。
ほんと、すいません。
でも、頑張りって、いつかデビューできるように知識を深めてまいります。
本当であれば別の日だったのですが、この日が残念ながら先約有。
仕方なく休みましたが、別の都合の良い日にくればいいよ、とのことでした。
この講座自体は全6~7回あるそうです。
第1回目は設楽原歴史資料館に関するガイドの注意事項。

※設楽原歴史資料館
設楽原合戦などの内容についてよりも、ガイド方法や注意点についてでした。
ガイドの目的としては、当然のことながら来訪客対応。
ただ単にカセットテープのように同じ事を話すのではなく、相手の来訪の目的を最初に掴むことが大切とのこと。
大きく分けると、この資料館には、長篠・設楽原の合戦について知りたいという方と火縄銃など銃に関して知りたい、という方が来訪されるとか。
そして、合戦について知りたい方にあっては、武田方の武将について知りたい、という方の来訪が多いため注意が必要との事でした。
甲斐から来訪される方が、武田信玄や武田勝頼のことを「信玄」や「勝頼」と呼び捨てにされると郷土の英雄を粗末に扱われているように感じてしまう場合があるので、『信玄公』『勝頼公』のように配慮が必要との事でした。
また、来訪者は遠くから資料館のことだけを見に来ているわけではない。
馬防柵や長篠城、思い入れのある武将の墓などをセットにしていることがあるため来訪時間には限りがある。そのため、来訪時間をしっかりと把握した上で対応しないと、例えばツアー対応時に「あそこは時間にルーズで時間が読めない。」という評判が立ってしまうと次に繋がらないので注意すること、というものもありました。
なので、湯浅主任学芸員が解説されるときは、大体20分で合戦の概略と資料館の見所などを話して、後はご随意に、という形にしているそうです。
なるほど。
自分もガイドを受ける立場になることが多いのですが、まさにそのとおりなんです。
1時間ものガイドはよっぽど時間が取れる場合のみ。やっぱり10分~20分位がありがたい。そして、その後にガイドの人の知識量や説明方法を見て、自分達の今後の旅程を考えながら質問をするかしないかを決めています。
やはりガイドさんが客観的に周辺知識を含めて話を筋道立ててする場合、この人ならば少々突っ込んで質問しても大丈夫、通り一遍だったり、自信なさげだと質問するだけ無駄だろうと考えて、一通りの説明を受けて「ありがとうございました。」となります。
要は、普段自分がされていることの逆をすればいい、ということか、と。
「己の欲せざるところ、人に施すこと勿れ。」ということですね。
しかも、来訪客にも温度差があり、めちゃくちゃ詳しい人、それこそ行くところが無いから涼みに来た人などがいる。そうなると、相手方のペースを考えないと押し付けになってしまいます。
後、湯浅氏が特に気を配っているのは、
「現地」
というところだそうです。
長篠合戦図屏風で説明をする、模型を前に説明をするのは、別にどこでもできてしまいます。特に、白帝文庫や蓬左文庫には長篠合戦図屏風の本物があるので叶わない。
しかし、ここは現地。
なので、実際の風景を見て、そして気温や音、風などを感じてもらいながら説明をすると、これは設楽原歴史資料館でしかできない。
まさにそのとおり。
なぜわざわざ現地に行くかと言えば、現地の状況を少しでも理解したいから。
仮にその場所が現在川の中だろうが、埋め立てられて住宅地になっていようが、やはり、そこはそこ。だからわざわざ見に行くわけです。現地で無いとできないのは、現地を見ながら、ということ。
人によっては「意外と近い」と思うのか「案外遠い」と感じるかはそれぞれでしょうけど、それを感じてもらうことが大事、ということに気をつけてガイドされている、ということは、改めて勉強になりました。
資料館2階からの眺めは良いので、寒暖ありますが、できるかぎり2階から説明するようにしているそうです。
そして、もう一つの目玉『鉄砲』
日本一の火縄銃収蔵、というのがこの資料館の売り。

火縄銃に興味のある方も多く訪れるそうです。
国友や松本城などが他にも火縄銃所蔵では水準が高いそうです。
湯浅氏などは設楽原鉄砲隊に入って実際に火縄銃を撃ってみえるので説明できる部分も多く、私などにはとてもできないな、と、思う説明もありました。こうなると、やはり、自分なりに調べていかないと、とても来訪者の満足を得るような説明ができない。
一応、それなりに流派別の特徴や火縄銃が目的によって違いがある点や銃身が長いものは射撃競技を意識したものだとか、などの話をお聞きしました。
撃鉄と火縄銃の考え方なども面白かったです。武芸と実戦は違うのだな、と、認識した次第です。
この他、現在洋式銃の展示も比較のために行っているのですが、やはり「八重の桜」を御覧になっている方が多く、ゲベール銃、スペンサー銃は皆さん知っている方が多いそうです。
こういう時代時代のブームなども抑えておかないと、うまく話が進まない、ということもあるようです。
と、色々とお聞きした後、
「そういえば、先ほど家康や勝頼、信長の布陣の考え方について戦術的な面から説明する場合もある、と、言ってみえましたが、どういうことなんでしょう?」
と、質問。
後、
「長篠城攻めの際、吉田城と浜松城を、武田軍はどうするつもりだったんでしょうか?」
ということも質問。
これは。。。
現地で。(笑)
と、聞きながら「本当にガイドできるかや?」と思わんでもなかったですが、とりあえず、講座は続けて受講していく予定です。
と、思っていたら、第2回目の講習会予定日も仕事が入ってる!
仕方なしに「次回も別日可能ですか?」と・・・。
ほんと、すいません。
でも、頑張りって、いつかデビューできるように知識を深めてまいります。
ガイドさんの養成講座を受けられるとは、尊敬のひとことです。
小学生の頃、夏休みの自由研究で土地の言い伝えについて調べたことがあります。
あまり乗り気ではなかったのでほとんど内容を忘れてしまいましたが
庄屋であったという家の古老に話を聞いたとき、「勝頼は柴田勝家の軍に攻められて敗走した。」
という言葉がありました。その時は「ふうん」程度だったのですが、20歳を過ぎて歴史本や長篠戦史資料を(長篠城で買った)
読んでみてもどこにもそんなことは書いてないことに気づきました。
その古老の家はちょうど望月右近さんが騙し討ちにあって亡くなった地域で、その望月氏の話の後日談もありました。
近くの豊根村の熊谷家も武田と縁が深かったようですし、別所城の主も武田の家臣であったようですし
尾張よりも伊那地方との関係が深かったせいもあったかもしれません。
ちなみに望月氏を討った家は現存します。
長々とすみません。
今、出先で手元に資料がないので柴田勝家の布陣がどこかがわからないのですが、多分、織田・徳川陣の北方にあったと思われます。そうなると、勝頼は勝家の軍勢に追い立てられるはずです。ただ、勝家名指し、というのは私も初耳です。
別所城は東栄町でしたっけ?
あの地域は完全に武田だったと思っています。
熊谷家伝記などを読んでも、人的なつながりもおっしゃるとおり、伊那地方の方が深いと思われます。
ぜひ、案内をお願いしたいです。
そう、ボランティアガイドさんって、地元愛、マイ殿愛のせいか、ついつい、時間が長くなるんですよね。
息子が、隣でイライラしてたりします。
もう、目もあわさないようにするか、時間をあらかじめ言うか、こちらも歴は、長いので、かぶせ気味に詳しいことを言うかです。
時間さえ取れれば、とても楽しい時間なのは、間違いありません。
行くときには、ご連絡しますので、ぜひ、お願いします。
百名城巡りいいですね。自分も結果的に百名城も巡っている、というかんじです。
私のガイドは、まだ車の免許でいえば路上にも出てない教習所の中のようなもの。
ガイド免許皆伝の暁にはお引き受けします。
たぶん、今年度一杯掛かるかと思います。
それでよろしければ。
うらにわさま、ぜひに、願いあげまする。
委細承知しました。お越しの際は御一報を。