長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

伊予松山城 ~弾丸四国 その3~

2014年05月01日 | 落城戦記
現存12天守で評価も高い伊予松山城。
坂の上の雲でも秋山真之だ正岡子規だのが遊んだ城。
関ヶ原の戦いで伊予半国をもらったのが自分の手を焼肉にしちゃった加藤嘉明。(詳しくはリンク先)
この嘉明、1603年から築城をするものの、あちこちお手伝い普請に借り出されたりして完成するのは24年後。しかも、完成直前に会津へ転封。結果的にこの城は久松松平氏のものとなり明治を迎えることに。

私にとっても憧れの城のため、ずっと機会を狙っていました。
今回の一番の目的。この城を見るためにわざわざ早朝から車運転してやってきたのです!
結構な高台にあると聞いていたので心配していたのですが、ロープウェーがあるらしい、ということは地図を見てわかっていました。しかし、現地に行って驚いたのがリフトがある、ということ。

※リフト、ロープウェー、歩き、を一つに収める。

往復切符は買わずに降りは歩きとするため片道切符を。やっぱり城は上り下りせねば。時間短縮のために上りだけはリフトにしました。

さて、伊予松山城はこんな城。

山頂を丸ごと城塞化した感じです。

目に飛び込んできたのがコレ!


何この石垣!何この高さ!何コレ!
思わず「すごいわー。」と独り言。独り旅だし。
なにせ石垣の綺麗さが半端無い!
切込接とみまごう打込接。一直線に立ち上がる石垣に正直感動。この石垣だけでも来た甲斐あるわ~と、目を潤ませながら石垣を撫でる。

するとふと視線を感じる。

「加藤嘉明も築城名人なのに、隣の今治城、藤堂高虎の方が有名だし、加藤と言えば清正だし。」


ボランティアガイドさんでした。

思わず、
「そうですよねぇ。」と。

特に誰かをガイドしているわけではなさそう。
少し会話をしているとガイドしてくれることに。独り旅だし勿論お願いする。

先ほどの石垣を過ぎるとこの有名なアングルに到達。

※石垣たっか~。
ここって向かって左側にもこんな道がありまして、これが麓の二の丸へ続く大手道のようです。


ツヅラ折れのように何度もクランクを通過させられる。こうした攻撃導線を増やすとともに敵を迷わせる仕組みって城主が攻められることを想定して必死に考えた感が出てて好き。こうした築城者の執念を感じるのが城見学の醍醐味ってもんです。坂を上ると雲はまだなく道が二手に分かれている。直進すると行き止まり。180度で切り返すと戸無門。

※ここでどちらに行こうと迷っていると上の太鼓櫓から攻撃される。

ここ、扉がないんですね。だから戸無門。扉が無いのは創建当初からだとか。

※見学者が多すぎてわかりにくいか。

そのまま城兵は突入してきます。
そしてさらに180度折り返すと筒井門。

かなり頑丈な造りです。

ところがこの筒井門の奥にわかりにくいのですが門がある。その名も隠門。

※写真手前が筒井門。奥が隠門。少し角度が付いて登ってきた人にはわかりにくい。

ガイドさんが言うには、戸無門があることで勢いづいて入ってきた敵兵が筒井門で止められて門攻めに夢中になっている際に隠門から城兵が突出して攻撃するようにしていたのではないか、とのこと。あくまでも推測で理由は不明だそうです。不思議なものつくるもんです。門だけに。(爆)
ひょっとすると、間違えて行き止まりの方に行ってしまう家臣が続出して、「おい、あっちが登城道だとわかりやすいように門でもつけとけ。」的な感じで「でも別に門じゃなくてもいいから。」ってなったのかもしれません。ここで食い止めれば筒井門の上の櫓から攻撃されるので扉があってもおかしくは無い。それだけに無いのが不思議です。まぁ、実戦経験豊富な加藤嘉明築城の城だけに、戸無門があった方が隠門の効果があると判断したからかもしれません。

運が良いことに、隠門の上の櫓が開放してました。

※隠門の出入口。門が相手も坂を上らねばならないのが、また、大変。

※隠門を登ったところ。

例によって例のごとく、カメラで門の下にいる人を狙う。

※討取ったり。

そして筒井門から太鼓門へ移動となるのですが、筒井門から対角線上に折れた場所に入口が。ここが突破されると本丸に突入されるので頑固なつくりとなっています。門から門の連続。クランクの連続で導線が延びつつ、山登りつつ、なんで相当大変だと思います。
ちなみに、この松山城、空襲にあって天守は残るもののその他の建物はかなり焼失したそうです。ガイドさんが大変残念がっていました。ついでに名古屋城が空襲で燃えてしまって残念だ、という話をしたら、「あれ残ってれば国宝、世界遺産間違いなしだったのにねぇ。残念だねぇ。」とのこと。しかもこの方、戦中派なので戦争で逃げたりして大変だったそうです。
そんな爪あとと思しきものがこの石垣。


欠けちゃってるんですけど、どうやら空襲のときの火事のせいじゃないかとのこと。なるほど。普通、ここが欠けるようでは城が崩れてしまいますからねぇ。
この太鼓門をくぐると下が見上げられます。

なんだか底が抜けそうな感じもありますが、珍しいものを見ました。

さて、ここを抜けると本丸。

本丸は谷を埋めて造型したらしいとはガイドさん。
こんだけのものを造成したとなれば、そりゃ時間かかるわね。この井戸が掘ったのではなくて、元々あった泉の上に石を積んでそこを本丸として土で埋めてしまった、とのこと。当時の技術ではほれない深さだとか。


うーむ。こんだけの宅地造成を人力で。そして埋めた土を石垣で囲うって、すごい。


よっぽど家康が怖かったのか。実際、この加藤家は嘉明の息子の代で取り潰されてしまいます。まぁ、息子の不行跡が原因のようです。ところでガイドさんは名古屋城にも来たことがあるそうで「名古屋城で清正は石曳いてる銅像とかあるのに、嘉明も手伝ってるのに何もないのは悲しい。」とのこと。そこで「黒田長政にいたっては、名古屋城の自分の持ち場に大きな石を石垣に嵌め込んだのに『清正石』と呼ばれている。清正の人気が高いのが原因でしょうねぇ。」と慰めました。
こういう会話が全く知らない人とすぐに交わせると言うのは楽しいことです。城好きの特権ですね。笑。

さて、天守が近づいてくる。

なんだか「ぶにっ」と押しつぶしたような天守は前から気になる。この感じは彦根城天守にも感じるもの。
すると、ガイドさん「加藤嘉明は5重の天守を作ったらしいが、地盤が弱いか江戸幕府に配慮したかで久松松平家の代で3重の天守に改装したから。」とのこと。やっぱり。縦横比が変だもん。この天守。特に最上階の屋根に違和感がありすぎ。やっぱり改装したのか、と、納得。

とうとう本壇といわれる連立式天守へ突入します。


正面から見るとこう!


ああ、もう、こりゃ生きて帰れるとは思えない、と、いう感じがたまらない。
正面の天守からも左右の櫓からも。もう、畑中葉子状態。

ちなみに天守の瓦に葵の御紋が。さすが久松松平家。

だいたい、天守が燃えたから建て替えたい、なんてことが許されるのが譜代大名だからだよねぇ、と、納得。
黒船来航時に再建されたので最新の天守、という称号も持っています。

さぁ、先ほどの天守が睨む道を曲がるとこんな門。


振り返れば奴がいる。

※あの櫓から撃たれているな、俺、的な図。

そこを抜けるとまた180度ターン。


そして、ほっそい道を抜けるとまた門。杉山城以来のくどさが・・・。

そしていよいよ天守に侵入。城主のみが入る玄関は唐破風。郭式が高い。残念ながらこの日は城主がいないので開いていません。


連立式天守はこんなに複雑。

※こんな城は攻めたくないわぁ。

そして、天守の玄関に靴箱発見!

※実はこれ、江戸時代から・・・、と、いうのは嘘で当然近代のもの。

さぁ、いよいよ櫓をわたって城へ。

※やっぱり本物が持つ迫力は違いますね。

鉄砲狭間や


石落し


なども見られます。(石落しは危険なのでガラスが嵌めてあります。)

天守から門を見るとこんな感じ。

そりゃ、自分が訳わからんくなるわね、という納得の造り。徹底的な防御思想が窺えます。

そして天守にこんなものを発見。


部屋が。畳の敷ける。ふすまも嵌められます。上の階に行ってもそう。


さらに上に行っても。




しかも床の間まである。


櫓ではなく天守なので畳が敷けるようになっていてもおかしくは無いのですが、畳の保存だけでも手間がかかるので最初はともかく次第に畳など引かないようになっていったのが天守。
パンフにも
「松山城代天守の不思議」として「・・・当時の城主、12代松平勝善はここを何の用途にしようとしたのか、定かではない。」とまで書かれています。名古屋城では天守に登るのがめんどくさくて、ほとんど城主が登ってないとも聞いています。まぁ、勝善公は「わーい!僕の城、僕の天守ができたぁ!ここに住むんだぁ!だから住めるようにしてねぇ!」と無邪気に指示したのかもしれません。わかりませんが。今となっては実態は薮の中。
戸無門に続く謎の設備になってしまったわけです。

最上階にはこんな回廊も。

飾りでしょうね。犬山城もそうです。

最後はこんな急な階段を登った分、降りる。


今治城が徳川家の城とすると伊予松山城は徳川家から攻められる側の城、という感じです。
それぞれに特徴が出ていて、この二つの城を比較しながら見てみると面白いですね。

2 コメント

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Unknown (山江まろん)
2014-05-05 13:03:29
そうなんですよ。清正石は、黒田家臣の「林太郎左衛門」のお手柄なんです。
清正にすりかわって、清正も否定しなかったのかしら?
虎退治も、鉄砲でなく刀「南山」で、倒した「菅正利」のほうが、本当っぽいです。

念願の長篠に行きました。
生憎館長さんは、お留守でした。
「徒歩○分」は、強右衛門基準?
3倍くらいかかりました。
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ようこそ長篠へ (うらにわ)
2014-05-06 03:45:59
清正はなぜか人気が高いですね。虎退治については刀だとは知りませんでした。大抵錦絵の構図が有名なだけに、江戸時代に清正ブームがあったんですかね。
長篠にお越し頂きありがとうございます。徒歩〇分はどこのあたりですかね。長篠城一帯は案外と広くて自動車で巡るほうが向いています。
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