長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

長篠合戦のときの武田軍

2015年01月17日 | 戦国逸話
最近、久々に戦国の逸話集「常山紀談」を読み返しておりました。

常山紀談とは、江戸時代中期、岡山藩池田氏に仕えた湯浅常山という人がまとめた武将達の逸話集で、幕末に編纂された名将言行録に比べると、あまり著名で無い武士や細かい内容も乗っています。
その時期に流布していた話が書かれているので、真実が書いてある、というよりは、そういう話があったとさ、的なものとして捉える必要があります。

が、読み物になっているので、面白いは面白い。


で、たまたま読んでおりましたら設楽原合戦時の武田布陣を見た、織田信長や徳川家康の反応について記載しているものがあったので、ご報告。

〇長篠合戦に武田勝頼人数を出す事
 長篠合戦で武田勝頼が五月二十一日に人数を出してきた。(うらにわ注:設楽原に現れたことを指しています。)
 織田信長は武田勢を見て
 「敵も大勢だ。三万はいるのでは。」
 と、いう。
 徳川家康が言うには、
 「今回は味方の勝ちかと。敵が丸く固まっているときは難しいが、人数を散らして大勢いる様に見せかけるのは、勢を頼みにするので大方勝ちになる。」
 酒井忠次は、それを聞いて
 「もっともだ。」
 と、感心した。

 設楽原合戦で一番議論になるのは、
「なんで武田勝頼は、わざわざ馬防柵がある設楽原に出てきたのか。」
と、いう点。

 こればっかりはその時の勝頼の考えを直接的に示す史料がないため、全て状況証拠の積み上げで、それぞれに議論が展開されています。また、信長は自信満々で来たのか、それとも結構不安を抱えながら来たのか、と、いう点も同様です。

 実際に常山紀談の発言を信長や家康がしたのかはわかりませんが、信長は武田勢を過大に見積もり脅威を感じているようにも見えます。しかし、家康は敵が広く薄い、と、見て勝てると踏んだわけです。

 結果的に、設楽原の合戦の状況は、家康の言ったとおりになってるわけですが、江戸時代に編纂された物だけに、家康のすごさをたたえるために後から作った話の可能性も高い。信長だって歴戦の勇将。敵勢を見ての判断は、そう家康に劣るとも思えません。まぁ、対武田経験の豊富さでは家康には負けるので、こうした差が出る、ということも、絶対無いとは言えないですが。ただ、こうした話が江戸時代にあった、ということは間違いないのでしょう。

 この話が真実かどうかは別として、非常に興味深かったのが、家康がなぜこういう判断をしたのか、と、いう点。よくよく考えて見ると、家康は勝頼の立場を経験済み、と、言えます。
 
 三方原の合戦で家康は、数で圧倒的に優位な勝頼の父武田信玄を相手に、浜松城を出て会戦。待ち構えていた信玄の大軍に、木っ端微塵に打ち砕かれます。
 その時、武田勢は魚鱗の陣形と言う密集隊形をとり、家康は鶴翼という横に広がる隊形を取ったとも言われています。通常、軍勢が多い方が包囲陣形を取るといわれているだけに、このとき、なぜ家康が数で劣るにも関らず(武田2万5千、徳川1万3千程度)鶴翼を取ったか、という理由もよく分かっていません。数が少ない方が包囲しても包囲陣を破られて、かえって陣形が乱れて収集が付かなくなる可能性が高いですよね。

 家康は祝田の坂を下っているであろう武田軍の背後を襲えば勝ち目ガあると出てきたら、信玄はそれを予想して待ち構えており、徳川軍は進むこともできず、退けば武田軍に追い崩されてしまうため、大変に困ったとも言われています。そのため、中央が凹む鶴翼であれば、大将である家康が逃げやすいから、ということを書いてある小説などもあります。

 しかし、今回の長篠における家康の発言からすると、

 「兵を多く見せようと思った。」

 と、いう考えだった可能性が高い。
 
 話が逸れましたが、設楽原では織田信長は兵力を少なく見せかけるようにしている布陣している様が『信長公記』に見えます。

 敵に数を少なく見せようと思った織田・徳川軍。
 敵に数を多く見せようと思った武田軍。

 こうした対比も考えられる逸話だけに、面白い話かと。

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