え~~~!という衝撃が走った本のご紹介です。

『武田信玄と勝頼―文書に見る戦国大名の実像』(鴨川達夫 岩波新書 740円)
確か設楽原鉄砲隊の設立20周年記念講演だったかと思うのですが、小和田哲男氏が「元亀二年に武田軍の侵攻は無かった、というのが最近の話で私もそう思います。」みたいなことを言われまして『えっ!』と内心驚愕したのが発端です。
私のような素人は、せいぜい郷土資料から細かな情報を拾って「ふ~ん」と納得するレベルなのですが、作手村史や額田町の奥平関係の資料では、元亀2年の武田侵略を基に話が描かれており、古宮城の建築も元亀2年に馬場信房がやった、と、書かれております。鳳来町誌も元亀2年に足助城を武田が攻略しており三方原の戦いの瀬踏み、と、記載しています。
しかし、『元亀2年武田侵攻』がない、となると、一体、これらの記載はなんだったんだ、というのが私の混乱の原因。特に、今回ブログに古宮城の築城年次について書こうと思った際に、困ってしまうわけです。で、誰がそのような衝撃的な説を唱え始めたのか、と、思い「元亀二年 武田 奥三河」という、とてもアバウトな検索で引っかかってきたのが、この本な訳です。
この本、私のように専門的に史料の読み方を習っていない人間にとって、大変ありがたいつくりになっていました。「ようわからんなぁ。」と思う翻刻史料の読み方もわかりやすく説明していますし、体系だっていて、よくわかる。こうした史料の読み解き方法から応用編として元亀二年の武田奥三河侵攻説を検証しなおすと、これは、長篠合戦前の武田勝頼発給文書であり、天正三年の文書として整理しなおすべきである、という結論になっています。
うおーーー!
感動。
そして、これらの史料を天正三年と位置づけた場合、はたして武田軍の動きは?という考え方も披露しています。どちらかというと、信玄の駿河侵攻は、今川の動きに対して受動的に行われた、だの、織田信長との関係は結構信玄的にも博打に近く織田信長にしてみると突然の騙まし討ちに近く、相当怒らせたとか、今までの話とは全く違う視点を提供しています。
山梨県学芸員の平山優氏の講演も聞きましたが、織田信長は武田勝頼を決して許さず講和を探る勝頼を妥協せずに滅ぼした、という内容でした。はて?、なんでそんなに武田を信長は恨んだのかね?というのが、そのときの漠然とした疑問でしたが、この鴨川説であれば説明がつく。「てめぇが突然裏切っといて、なんだ。」という訳。
あまりのすごい内容に、もう一度読み直しをしているところです。
この本を読んだ後、再度郷土資料を読み直してみようと思ってます。なかなか面白いことになりそうです。
実は、郷土資料を見ていて疑問に思っていた点が一つあり、その疑問を解こうとあれこれ最近調べていまして、案外鵜呑みにするのは危険だな、と、思っていた矢先のこの本。大変参考になります。
ちなみに、私が疑問に思ったのは「船渡橋の戦い」という設楽町名倉付近で行われた、大変小さな戦いに関する郷土資料の記述です。これについては、また、別に書くつもりです。

『武田信玄と勝頼―文書に見る戦国大名の実像』(鴨川達夫 岩波新書 740円)
確か設楽原鉄砲隊の設立20周年記念講演だったかと思うのですが、小和田哲男氏が「元亀二年に武田軍の侵攻は無かった、というのが最近の話で私もそう思います。」みたいなことを言われまして『えっ!』と内心驚愕したのが発端です。
私のような素人は、せいぜい郷土資料から細かな情報を拾って「ふ~ん」と納得するレベルなのですが、作手村史や額田町の奥平関係の資料では、元亀2年の武田侵略を基に話が描かれており、古宮城の建築も元亀2年に馬場信房がやった、と、書かれております。鳳来町誌も元亀2年に足助城を武田が攻略しており三方原の戦いの瀬踏み、と、記載しています。
しかし、『元亀2年武田侵攻』がない、となると、一体、これらの記載はなんだったんだ、というのが私の混乱の原因。特に、今回ブログに古宮城の築城年次について書こうと思った際に、困ってしまうわけです。で、誰がそのような衝撃的な説を唱え始めたのか、と、思い「元亀二年 武田 奥三河」という、とてもアバウトな検索で引っかかってきたのが、この本な訳です。
この本、私のように専門的に史料の読み方を習っていない人間にとって、大変ありがたいつくりになっていました。「ようわからんなぁ。」と思う翻刻史料の読み方もわかりやすく説明していますし、体系だっていて、よくわかる。こうした史料の読み解き方法から応用編として元亀二年の武田奥三河侵攻説を検証しなおすと、これは、長篠合戦前の武田勝頼発給文書であり、天正三年の文書として整理しなおすべきである、という結論になっています。
うおーーー!
感動。
そして、これらの史料を天正三年と位置づけた場合、はたして武田軍の動きは?という考え方も披露しています。どちらかというと、信玄の駿河侵攻は、今川の動きに対して受動的に行われた、だの、織田信長との関係は結構信玄的にも博打に近く織田信長にしてみると突然の騙まし討ちに近く、相当怒らせたとか、今までの話とは全く違う視点を提供しています。
山梨県学芸員の平山優氏の講演も聞きましたが、織田信長は武田勝頼を決して許さず講和を探る勝頼を妥協せずに滅ぼした、という内容でした。はて?、なんでそんなに武田を信長は恨んだのかね?というのが、そのときの漠然とした疑問でしたが、この鴨川説であれば説明がつく。「てめぇが突然裏切っといて、なんだ。」という訳。
あまりのすごい内容に、もう一度読み直しをしているところです。
この本を読んだ後、再度郷土資料を読み直してみようと思ってます。なかなか面白いことになりそうです。
実は、郷土資料を見ていて疑問に思っていた点が一つあり、その疑問を解こうとあれこれ最近調べていまして、案外鵜呑みにするのは危険だな、と、思っていた矢先のこの本。大変参考になります。
ちなみに、私が疑問に思ったのは「船渡橋の戦い」という設楽町名倉付近で行われた、大変小さな戦いに関する郷土資料の記述です。これについては、また、別に書くつもりです。