小歴小酒小本

周辺の神社、仏閣を探索して、力をもらっています。

今治城移転計画

2014-06-21 15:49:02 | 日記

 玉川に神子森(みこのもり)というところがあります。さやの峠を越えると朝倉になる村境で

す。 路線バスの終点です。

10年くらい前までは、全く知りませんでしたが、知人がその神子森に土地を持っていること

で知りました。

最初、その地名に驚きました。 なんかある、、、、、って思いますよね。

 そこには、いろり小屋、田んぼ、畑があり、とても空気がいいので、一時は入りびたっていま

した。

今も時々行きますが、夏は、いけない。雑草がすごく、にょろにょろもいっぱい。

でも、ほんといいとこです。

 

 江戸時代終わり頃、異国船が来るようになり、海沿いにある今治城は、格好の標的になっ

てしまうので、10代松平定法は、今治城移転計画を審議することとなったのです。

最初は玉川鈍川の鷹ヶ森城が検討されたが、土地が狭いとのことで、もう一つの候補地の

神子森に決まったそうです。

家老久松長世に縄張まで命じましたが、結局実現しないで明治維新となったとのことです。

どう、今治の人でも、こんな計画があったこと知らなかった人多いのでは、。

当時の石垣らしいものが、残っているらしいです。

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まだまだ、吹上で、鹿香神社

2014-06-13 12:23:07 | 日記

 吹上神社の拝殿の右側に、2つの境内社があります。

奧の神社が「鹿香神社」です。あらかじんじゃ、と読むようです。

 

石柱に建設業祖神と書かれています。

建設業の神様ということでしょう。 珍しいのでは、と思います。

鈴を鳴らす太いひものとってには、丸馬銘木、と地元の建設関係の名前が彫られています。

(ただ、気になるのは、ここの狛犬、ちょっと憂い気な表情をしています。)

 

建築関係に親しい友人がいるので、今度、教えてあげようと、思います。

大きなお世話でしょうか?

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今治の勘兵衛

2014-06-07 17:58:40 | 日記

 吹上に、銅像の写真を撮りに行ったついでに、鉄御門横の勘兵衛石も写真に撮りました。

NHKの「黒田官兵衛」はとてもおもしろくて、毎週見ていますが、頃を同じく、今治にも同様の勘

兵衛さんがいました。

「渡辺勘兵衛」です。

藤堂高虎が今治城を造るとき縄張を命じたのがこの渡辺勘兵衛です。関ヶ原の戦いで領主を

失った勘兵衛を二万石という大きな額で召し抱えたそうです。彼は、軍略家で、百戦錬磨の兵

だったそうです。

お城の入り口の石垣の中にある大きな勘兵衛石といわれるこの石は入城者を威圧したとのこ

とです。

              

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つづき

2014-06-07 07:46:47 | 日記

今治タオルを創られた方々の銅像が、あります。

 

 「柳瀬義富」さんの銅像(胸像)は、市立図書館の玄関前の広場にあります。

 「矢野七三郎」さんの銅像は、今治城の吹上神社の鳥居の正面向こうにあります。

 「阿部平助」さんの銅像(胸像)は、テクスポート今治前向かって右にあります。

 「菅原利」さんの銅像(胸像)は、今治城の鉄御門をくぐってすぐ左にあります。

 

 

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今治タオルについて

2014-06-05 14:36:31 | 日記
 先日から、妙に教会に縁があったので、いろいろ見ていたら、どうも、タオルの歴史

にかぶってしまいまして、いい機会になりましたので、今治タオルについて、調べてし

まいました。自分なりに、なるほど?のアウトラインがうかびましたので、ちょこっと

書いてみます。



①正倉院に、伊予の越智郡からの絹織物の献納あり。


②8世紀終わり頃、崑崙人たる者が三河に漂着し、綿花の種を持ち込み、温暖な西日本

 に広がり、伊予でも栽培され始めた。
       ↓

③江戸時代には、今治で綿花栽培が盛んになり、「綿替木綿」(商人が仕入れた実付き 
 
綿花を農家に渡し、農家は織った白木綿の半分を商人に渡すというもの)が定着し、 
 
今治藩が推奨した。
       ↓
       
④明治時代になり、柳瀬義富が、実家の木綿商を継ぎ綿業の基礎を築いた。
       ↓
     
⑤しかし、その後輸入品や播州の優良低廉な商品に押され、今治の白木綿は衰退してい

 った。
       ↓   

⑥柳瀬義富の甥の矢野七三郎が、紀州にて修行し、伊予綿ネルを開発した。
       ↓

⑦阿部平助が、綿ネルの機会を改造して、タオルの製造を開始した。
       ↓

⑧麓常三郎が、タオルを同時に2列織ることができる二挺バッタンを発明した。
       ↓

⑨大正元年、中村忠左右衛門が、タオルを織る前に原糸を晒す、単糸先晒縞タオルの生 
 産を始めた。
       ↓

⑩大正10年、愛媛県立工業講習所の菅原利(としはる)が、ジャガード機を開発し 
 
た。これによって、複雑な幾何学模様、華麗な色彩のタオルを織ることや、均一した 
 
製品の生産が可能になった。


こんな感じかな、と思います。どう?
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