観察 Observation

研究室メンバーによる自然についてのエッセー

かくれんぼ

2014-06-25 15:35:54 | 14
4年 中川知己

 私は今年の2月から真剣に「かくれんぼ」をしている。私が鬼役で、ずっと惨敗し続けている。かくれんぼの相手はトウキョウサンショウウオだ。
 私のかくれんぼは1日に6時間ほどおこなっている。鬼役から代わることはなく、ひたすらサンショウウオを探し続ける。発見例の多いといわれる落ち葉や倒木、大きな石をどかし、小動物が利用した穴の中を探すのだが、まったく見つからない。サンショウウオの気持ちにならなきゃダメだよとアドバイスをいただいたこともあったが、それでも見つからない。どうやら私はサンショウウオの気持ちになりきれていないようだ。
 逆の立場のトウキョウサンショウウオのことを考えてみる。サンショウウオはかくれんぼを24時間365日おこなっている。これは自然界で生き残るための命がけ戦略である。天敵に見つかることは死を意味しているからだ。多くの両生類は天敵に見つかったときのために何らかの対策を備えている。身体からくさいにおいを出すツチガエルや、神経毒を出すアカハライモリなどが例である。しかし、トウキョウサンショウウオの場合、身体をよじることくらいしかできない。身体からべたつく液体を出しているようだが、これが天敵となる動物に効果があるのかは明らかになってはいない。
 このように他の両生類のような天敵への対策を持たないサンショウウオがこれまで生き残ってきたのは、見つからないことに特化した戦略をとっているからだと私は思う。ある研究によると天敵となりうるヘビと活動時期をずらし、林床の地下深くで生活しているという。地上で生活し天敵がいない私たち人間からすれば、かくれんぼのプロといっても過言ではないだろう。4か月かくれんぼをし、負け続けて、サンショウウオの生存戦略が洗練されたものだということを身を持って経験した。


谷戸沢処分場の池で繁殖期(2月)に見られたオス…彼はこの後「かくれんぼ」をしたままだ。

密猟は悪い、だけど・・・

2014-06-25 10:35:46 | 14
3年 鈴木華奈

 高校生の頃、図書館で絶滅に瀕している動物の写真がたくさんあげられている写真集を手にとった。サイが密猟者によってツノを取られ、根元からは血が出ていて、目をふさぎたくなるような写真がのっていた。そのサイはとても悲しそうで、目からは涙が出ているようにも見えた。
 私はその写真を見たとき、あまりのショックに心臓になにか突き刺さるような鋭い痛みを感じ、悲しみや憎しみが涙に変わり、溢れ出てきた。
 その感覚は今でも覚えているが、そのことを改めて考えてみた。高校生のときは単純に密猟者は悪い人だと思っていたが、考えてみれば、密猟をやりたくてやる人はいないだろう。ではなぜその違法行為をせざるをえないか。サイの密猟はそのツノを買ってくれる人がいるから成り立つはずだ。そうであれば、買う側の人に、サイのツノには薬効も栄養もないことを知らせることで、需要を小さくすることができるかもしれない。また、売る側の意識改革も必要であるし、実質的によりよい仕事を産み出すような社会の改善も必要であろう。だれでも密猟よりは、生産的な仕事のほうに喜びを見いだすに違いない。
 また、高校生の私はそもそも人動物を利用することをよくないことだと思っていた。でも考えてみれば、自分自身も家畜の肉や魚も食べている。動物の肉を食べるのはよくないからベジタリアンになるべきだという考えもあるようだが、植物も生きているのだから、その命をいただいていることには変わりない。人は生きている以上、ほかの動植物を食べるのは宿命なのだから、利用することが悪いといってしまえば、自己否定することになる。そのことと、密猟反対とは次元の違う問題なのだということに気づいた。
 またサルやカモシカは農業被害を出す場合は駆除されているし、ゴキブリやハエは不衛生とか不快だからという理由で殺されている。そういうさまざまな事例を考えると、私たち人とさまざまな動物とはどうあるべきかということが、わからなくなってしまった。今の時点の私には、すぐ答えをだすことはむずかしい。でも、動物にも、分類学的にいっても哺乳類から昆虫、微生物まであり、人間にとの関係からみても、人間が利用できるもの、有害なもの、品種改良されたものなど、さまざまであり、それに、人間側にも国により、時代によりさまざまな事情がある。そして、それらが組み合わさってさまざまな問題が起きているのを、単純に「悪い人がかわいそうな動物を殺しているのは許せない」という面だけを見て、憤っていたのは単純すぎる。少なくともそういうことには気づくことができた。このむずかしい問題をこれからも考え続けたいと思います。


 

「ぼくもうシャベルしない」

2014-06-25 06:49:04 | 14
教授 高槻成紀

 6月22日にアファンの森にいた。前日から調査に来て、ある作業をしていた。自然界で動物が死んだ場合、その死体はどう分解されるのだろう。どういう動物が死体を食べに来て、何日くらいで骨になるのだろう。ヨーロッパの文献によると、ヨーロッパバイソンの死体にはまずワタリガラスが来て、独特の鳴き方をすると、オオカミが来て厚い皮を裂き、それからタヌキなどが食べにくるという。こうした動物が重要な分解者としての役割を果たしているわけだ。私はこれをアファンの森で調べてみたいと思い、21日の夕方にアナグマの死体を森に設置した。それを翌朝の早い時間に確認に来たのである。死体の設置や観察は緊張をともなう作業なので独特の心理的ストレスがある。
 そのとき携帯電話が鳴った。「だれかな?」とみると画面に次女の名前がある。あまり私に電話をしてこない子なので、「どうしたのだろう?」と、死体を扱っていた私は、少し不穏な思いを持ちながら、電話に出た。すると、娘の声よりも3歳の男の子の声のほうが大きく、何かさかんに話しているが、わからない。それでも一生懸命になにか伝えようとしているのはわかったので、ひととおり聞いてから「お母さんに代わって」と言った。母親によれば、飼っていたカブトムシの幼虫が蛹になったのだが、葵という名のその子が、好奇心もあって、シャベルで触ったら角が折れたらしい。どうなるかと聞くので、そのまま脱皮して羽化すれば、角のない成虫が出て来るが、その傷がもとで死ぬこともあるだろうと答えた。

 あとで聞いたら、葵は自分がシャベルでさわったために角が折れたことにただならぬことをしたと感じたらしい。そのようすから、娘は日曜日の早朝だが、おじいちゃんに聞かないとまずいと思って電話したようだ。
 葵はいま幼稚園に通いはじめたところだが、2年生のいとこがいて、二人とも昆虫が大好きなので、週末に我が家に来ると私の昆虫標本を眺めたり、図鑑をみたりして、昆虫の話をする。話というより、標本を指差して「これはなあに?」と聞き、私が「カミキリムシ」などと答えるだけのことが多いのだが、それが楽しいようだ。
 4月に近所の雑木林で、そのいとこがダンゴムシをとろうと枯葉をかきわけていたとき、「カブトムシの幼虫ってどういうところにいるの」と聞くので、いないとは思いながら低木の下に枯葉がつもっているところを指差して「こういうところかな」というと、土を掘り始めた。ビギナーズラックというのだろうか、なんとそこに巨大な幼虫が姿を見せた。しかも何匹もいた。それを持ち帰って飼育していたのだ。
 水槽に土を入れて幼虫を飼育し、ときどきようすを見て羽化するのを楽しみにしていたようだ。私の電話のあと、娘はおじいちゃんが話した内容をゆっくり息子に説明したらしい。彼にしてみればそれは大きなショックだったようだ。自分がシャベルでさわったことで蛹の角が折れた。そして悪くすれば死んでしまうかもしれない。小さな胸は張り裂けるようだったのだろう、そのあと大泣きに泣いたという。そして言った

「ぼくもうシャベルしない」

 その気持ちを思って母親もいっしょに抱き合って泣いたと話していた。幸い、もう一匹飼っており、翌日に立派な蛹になったのだそうだ。



 3歳の少年はこのことをどうとらえたのだろう。まだ気持ちをうまく言葉で表現できないが、少なくともカブトムシが自動車のおもちゃなどとは違うことは感じただろう。じっと土の中にいる幼虫の体の中で変化が起きて、育つのだということはわかったはずだ。傷ついたカブトムシには悪かったが、生き物を飼えば、死ぬのを見ることもある。そうした体験を通じて生き物が生きるということをなんとなく感じるのだと思う。娘は娘で、自分が出産したときに、自分もがんばったが、赤ちゃんががんばっていると感じたらしいが、今回、カブトムシの体の変化を知ってそのときの感覚を思い出したらしい。生き物が一生懸命生きていることを実感するとき、私たちはそういう感慨に胸打たれる思いがする。

 3歳の少年はもちろん、その母親も、じいさんもドキドキした日曜日の朝であった。