江馬直の創作奮闘記

やっとこさ無職ではなくなった創作家、
江馬直の日常を綴るブログです。

年の瀬。

2013-12-31 15:23:19 | 日記
先週、無事祖母の納骨も終わりまして、大変穏やかな年の瀬です。


介護と看病で過ぎていった一年でした。


来年はそれ以外のことに時間が費やせるといいんですが、どうなりますことやら。


いずれにしましても、来年という年が、皆様にとって穏やかで暖かなものになりますよう祈念して、今年のブログの締めと致します。
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「都」の論理と「鄙」の論理。 ――縛られる「人たち」と縛られない「人」――

2013-12-22 02:04:30 | 日本中世史

 『戦国大名の危機管理』、『武田信重』、そして二冊の『今川義元』と、立て続けに武田・後北条・今川家関連の書籍を読んだからって訳でも無いですが(←いや、そうだろう)、このみっつ(プラス1、いや2かな?)の「戦国大名」に関して少々考えたことがあったので、以下、長々と書き連ねてみようと思います。


 至極当たり前の出来事であったかのように語られる戦国史の重要事項のひとつに、「甲相駿三国同盟」があります。これは、甲斐武田家、相模後北条家、駿河今川家というみっつの「戦国大名」の間で締結されたものですが、よくよく考えてみるとかなり特殊な同盟関係ですよね。なにしろお互いの嫡男に、お互いの実娘をトライアングル状に嫁がせて関係を強化するんですから。しかも、お互いの勢力伸長先が綺麗にバラバラの矢印を向いているっていう。武田家は信濃統一に、後北条家は関東制覇に、今川家は尾張侵攻にそれぞれ邁進する・・・というのは、大変よくできた話です。
 私は昔、「この同盟って今川家が一番有利な同盟だよなあ」って思ってたんです。なにしろ、東海道を直進すればまっすぐ京都まで上洛できるのは今川家だけですからね。武田家は長尾上杉家と川中島で死闘を繰り広げているから、当分上洛は出来ないだろうし、後北条家は関東統一にかかりきりになってしまって、いつまで経っても上洛には取り組めないだろうし。
 ・・・と思ってたんですが、室町史の文脈を援用すると、どうやらそういうことにはならないようなんです。当たり前のことを言うようですが、戦国期という時代は、その前の時代である室町期の影響を色濃く引き摺っていました。そのあたりの残影も込みで、「甲相駿三国同盟」という事象を眺めてみると、いったいどんな景色が見えてくるでしょうか。

 こないだも少し言及しましたけど、室町期の日本列島には、「都鄙(とひ)」という概念がありました。中部・畿内・中国・四国地方を「都」、東北・関東・九州地方を「鄙」と呼び、ある程度明確に領域区分していました。で、西方はともかくとして、東方における「都」と「鄙」の境目は、<越後―信濃―駿河>というラインでした。このラインより西側が「都」、東側が「鄙」なんです。このラインに武田・今川・後北条各家の領域を落とし込んでみると、今川家が「都」の側、武田・後北条家が「鄙」の側に位置していることに気が付きます。この三国、偶然なのか必然なのかは判りませんが、ちょうど「都鄙」の境に存在するんです(まあ、厳密にいうと、武田家の所領があった甲斐国は本来「中部」であって、いわゆる「関東」――相模・武蔵・常陸・上野・下野・上総・下総・安房――ではありませんが、当時の甲斐国は伊豆国とともに「鄙」に分類されていました。室町期には、鎌倉公方(のち古河公方。堀越公方と小弓公方なんてのもいますけど、とりあえず無視しときます。キリが無い)の支配領域ということで、この「十ヶ国」プラス陸奥・出羽両国を合わせて「鎌倉殿御分国」などと呼びました。ですから扱いが悩ましいんですが、ひとまず室町期の領域区分に従って、甲斐国は「鄙」に含めておきます)。

 ・・・京都から流れてきた伊勢宗瑞は、駿河今川家の勢力を背景にしながら、伊豆・相模両国を征服していきます。そして、その子・氏綱は、「伊勢」という「都」での「苗字」を棄てて、「北条」という、鎌倉期の北条執権体制を思い起こさせるものに、敢えて切り替えていきます。これは、彼らが「都」の論理を棄て、「鄙」の論理に乗り換えたということを示しているのだと思います。伊豆を支配するところからスタートして、相模・武蔵・・・と領有していった後北条家は、明らかに鎌倉期の執権・北条家を意識していました。北条家発祥の地が伊豆であったことを最大限活用したものでしょう(執権北条家発祥の地は、伊豆国の韮山でした。そして宗瑞が伊豆国で最初に領有・拠点化したのが、偶然なのか計算ずくなのか、韮山城でした。当時の伊豆の領民は、宗瑞のことを「韮山殿」と尊称していたといいます。宗瑞が韮山城を支配下に置いた段階で、いつか「北条」の「苗字」を活用しようというプランが出来上がっていたとしても、私は別段驚きません)。
 室町末~戦国初、「鄙」で圧倒的権威を誇っていた名家がありました。「関東管領」の地位を保有する山内上杉家と、その分家筋の扇谷上杉家というふたつの上杉家です。「関東管領」は、当時の「鄙」では、「副将軍」とも呼ばれていたそうです。足利家の「鄙」の統括者たる「古河公方」が「将軍」、「関東管領」が「副将軍」というのが、当時の「関東」の人々の共通認識だった訳です。そんな「副将軍」山内上杉家に対抗できる「名家」として、伊勢宗瑞・氏綱親子によって選び出されたのが、かつて鎌倉を統治した実績を有する「北条」という家名でした。偶然ではありますが、伊勢家は桓武平家の末裔、とっくに滅亡していた執権北条家も桓武平家の出でしたから、「詐称」もさぞかしスムーズに進んだことでしょう(こういうことは、当時どの大名もやっていました。例えば松平家。どこの馬の骨とも知れなかった「松平」という苗字を「徳川」に昇格させ、源氏の名門だった新田家の後裔であったという「おはなし」をつくっています。このあたりの家名の形成過程は徳川家と後北条家はよく似ていると思います)。
 かくして、伊豆・相模に新たなる「北条家」が誕生します。その「苗字」からしても、この後北条家の戦略は、「鄙」を自身の勢力下に置くことであって、上洛することにはありませんでした。後北条家が目指したのは、あくまで「鄙」の覇者たる地位だったのだろうと推測できます。実際、第二代・氏綱は「関東管領」を自称していますし、山内・扇谷の両上杉家を圧迫し、名を実のあるものにしていきます。山内上杉家は当然「関東管領」の地位を保持していましたから、この時期の関東には、ふたりの「関東管領」が並び立っていたことになる訳です。そしてこのふたりの「関東管領」の対決は、最終的には後北条家の勝利で終わりました。第三代の英主・氏康は、実力で扇谷・山内両上杉家を滅亡させてしまいます。崩壊した山内上杉家最後の当主・憲政は、自らの名跡と「関東管領」職を、越後上杉家の守護代格であった長尾景虎に譲ります。景虎改め上杉政虎(=上杉謙信)は、以後死ぬまで「関東管領」の地位に固執し、連年関東に出兵していくことになりますが、結局関東への侵攻は尽く失敗します。氏康、第四代・氏政らは、謙信の猛攻に耐え貫き、実質的な「関東管領」として振る舞い続けるんです。
 後北条家は最終的(第五代・氏直の治世)には、伊豆・相模・武蔵・下総のほぼ全域、上野南部、下野東部、常陸南部、上総北部という、「関東」の過半を支配下に置きました(ついでに言えば、上総南部と安房全域を領有していた里見家も実質的には従属させていました)。「関東」で後北条家に最後まで抵抗していたのは、常陸佐竹家の当主で「鬼」の異名のあった義重を盟主に担いだ旧「関東八屋形」の面々ぐらいのものになってしまいます。もし織豊政権による天下統一が無かったら、後北条家による「関東」制覇は達成されたものと思われます。

 それに対し、今川家はというと、確かに上洛したいという考えがあった可能性はあります。そして、どうも「鄙」に侵攻しようという発想は無かったように思います。後北条家という友邦兼強国が存在したため、という事情もあったでしょうが、今川家は「鄙」の論理に染まっていなかったようなんですね。「関東」には領土的野心がなかったらしい。今川義元は、後北条家が劣勢に追い込まれていた時期であっても、伊豆や相模を制圧しようとはしていないんです。駿河までが「都」で、伊豆・相模以東は「鄙」という意識が、義元の脳裏には明確に存在したのだと思います。さらに言えば、後北条家の家祖・伊勢宗瑞は、義元の父・氏親の外戚(氏親の母の兄)という立場をフル活用して伊豆・相模を奪取したという経歴があります。足利将軍家の「御一家(「江戸幕府」でいう「御三家」のようなものです)」という名家を出自としていた義元には、「はん、所詮北条家は、『鄙』における今川家の分家筋じゃ」ぐらいの意識が、実はあったのかもしれません(証拠、というわけではないですが、氏康は「三国同盟」の際、婚姻だけでなく自身の五男・氏規を人質として駿府に送っています。人質とはいっても、氏規は血筋としては寿桂尼の外孫にあたるのでかなり好き勝手に暮らしてたようですが。今川家が「本家」で後北条家が「分家」という意識があったんじゃないかなあ。ちなみに、氏規が駿府で与えられた邸宅の向かいには、当時義元の庇護下にあったもうひとりの「人質」が住んでいました。北条氏規の終生の「友」となる松平竹千代――徳川家康――です)。
 じゃあ、その反対だからやっぱり上洛志向だ、と言いたくなるんですが、そうは言えないようです。駿河・遠江・三河までを支配下に置いていたとはいえ、京都までの道のりはまだまだ遠いからです。最短のルートを選んだとしても、尾張⇒伊勢⇒近江⇒山城と侵攻していく必要があります。普通に考えて、五年や十年はかかるでしょう。時間がかかるだろう、と考えるのは、義元という人物は領土拡張するたびに「検地」を実施しているからです。「検地」を繰り返しているということは、地道かつ着実に征服地からの収益を増やそうとしているってことでしょうから、一足飛びの上洛などという冒険は考えてもいないでしょう。このやり方を創始したのは、またしても伊勢宗瑞です。新興勢力として伊豆・相模を征服した宗瑞は、新領が増える度に「検地」を繰り返し、実収を増やしていきました。それを見ていた甥の氏親は、今川領でも同様の施策を行なっています。義元も、大叔父や実父同様、遠江や三河、尾張に新領が出来る都度「検地」を進めていきました。その歩み方は、大変慎重で、ちっとも冒険的ではありません。最近、義元は「名君」として高く評価される傾向にありますが、当然のことだと思います。
 そんな義元が大軍を率いて尾張国に侵攻するのです。これは間違いなく、上洛を目標にしたものなどではなく、単純に領域拡大を目指したものだったろうと思います。義元は兵法の基本に忠実でした。大軍に区々たる用兵は必要無いといいます。圧倒的な物量で押しまくれば着実に勝利が得られる、と考えたのでしょう。義元の考えは全く間違っていません。ただ、その際、義元の敵対者となったのが、不幸にも織田信長だったというだけの話です。たまたま後に上洛を果たしてしまう信長に、たまたま「桶狭間の合戦」で敗北してしまったため、敗者たる義元の真の意図が後世には伝わらず、信長のケースから逆算されて拡大解釈されまくったのでしょう。勿論、順調に領土拡大が進んでいけば、最終的には上洛、ということもあったでしょうが、「桶狭間の合戦」段階での今川家は、尾張制圧ぐらいしか考えていなかった、というのが実際のところだったんだろうと思います。死後にその意図を異様なまでに増幅された義元は、このことを泉下でどう思っているんでしょうか?

 では武田家は、どちらだったのかというと、「どちらでもなかった」のではないか、というのが、私の密やかなる持論です。ポイントは「川中島の合戦」だと思います。もし信玄が本当に上洛を志向していたのであれば、信濃国の全域支配などには固執せず、上杉謙信と適当なところで和睦して、さっさと西進すればいいだけの話です。ですが、それをするようになるのは、今川義元が「桶狭間の合戦」で戦死した後です。これは、信玄の戦略が案外「場当たり」的なものであることを示しているように思います。後北条家が関東支配を目標とし、その戦略を長期的スパンで構想していたであろうこと、今川家が東海道に沿って地道かつ着実に勢力を拡張していったであろうこととは随分異なります。実も蓋も無いことを言うようですが、信玄の戦略は、基本的に「強きと結び、弱きを挫く」というマキャベリスティックなものでした。これは、別段卑怯な戦略では無いと思います。酷似したスタンスの持ち主に、室町幕府の第三代将軍・足利義満がいます。私には、信玄の戦略は義満のそれを踏襲したもののように見えるんですよ。以下、その「仮説」に沿って、信玄の行動を見ていきたいと思います。
 当時信濃に割拠していた諸大名――諏訪・木曾・小笠原・村上家など――は、武田家からすれば「弱者」でした。信玄は容赦なくこれらを撃破し、支配・服属させていきます(諏訪家は乗っ取り、木曾家は服属させ、小笠原・村上家は叩き出しています)。典型的な「弱いものいじめ」です(繰り返しますが、「悪い」と言ってるわけではありません)。しかし予想に反し、武田家に匹敵する「強者」である越後長尾家(後の長尾上杉家)が「助っ人」として侵攻してきます。これは、信玄にとって予想外の展開だったのではないかと思います。結局、武田家と上杉家は通算五度にわたって対峙することになりますが、本格的な戦闘は、有名な「第四次合戦」以外していません。あくまでも対峙して睨み合うのが基本です(信玄の用兵の基本は、「六分勝ち」です。完勝ではなく、辛勝、あるいは引き分けがちょうどいいというものですね。謙信に対しても同様のスタンスだったようで、決して無理はしていません)。そして、その間に信濃の領有を着実なものにしていきました。結局信玄は信濃全域の征服を完了させますが、謙信の本領たる越後には、とうとう侵攻しませんでした(謙信を牽制するために出兵することはありましたが、越後に本格的な侵攻はしていません)。彼は基本的に「強者」には手を出さないのです。その代わりに侵攻したのは、東の上野国西部でした。それも、一時期信玄を大変悩ませた守城の名将・長野業正が病没した直後を狙って侵攻しています。つまり、またまた「弱者」を攻撃しているんです。そして、相変わらず上洛しようとはしていません。まるで上洛には興味が無いかのようです。
 そうやって、信濃・西上野といった新領土を押さえきってから、信玄は「甲相駿三国同盟」を破棄し、義元亡き後の今川領へ侵攻を開始します(その際、嫡子・義信を自刃に追い込んでいますが、これも行き当たりばったりのなれの果てであったように思います。正妻を今川家から迎えている嫡男・義信に、自家の方針転換を納得させられなかったということでしょうから)。「強者」であった義元が死んでいたから、そうした選択が出来たのでしょう。もし義元が存命であれば、無理はしないスタンスだっただろう信玄は今川家と戦端を開いたりしなかったと思います(裏返せば、義元を高く評価していたということになるでしょうね)。信玄は、駿河国を確保すると、「三国同盟」破棄後対立関係が続いていた後北条家と再度和睦します。またまた「強者」とは対立しないのです。それは本当に徹底していますね。よく信玄終生のライバルは上杉謙信であるかのように語られがちですが、信玄の本音は「わしは弱い者いじめが好きなんじゃ。なのに、あんな面倒な奴と五回もやりあう羽目になるなんて、とんだ計算違いであることよ」なんてものだったかもしれません。
 今川家を滅ぼした信玄の、次のターゲットたる「弱者」は、三河・遠江二国を領有して急遽境域を接するようになった新興の徳川家です。後世「海道一の弓取り」と謳われることになる徳川家康ですが、当時はまだまだ弱体な部類に入る大名でした(信長の腰巾着ともいう)。信玄は「三方ヶ原の合戦」で家康を撃破し、遠江・三河を制圧していく途次で病没します。一見すると、駿河⇒遠江⇒三河への侵攻と、最期の最期は上洛を目指したように見えなくもないですが、「強者」である尾張・美濃の織田信長には、ほとんど手出しをしていません(全くしていないわけではありません。美濃国の岩村城を攻略していますしね。でも、信長との全面戦争は避けている気配が感じられます)。もしかすると、「三方ヶ原」後に織田家と雌雄を決しよう、という意図があったと言えるかもしれませんが、どうも違うような気がします。結局、信玄がしようとしたことというのは、周辺の「弱国」をじわじわと削り取って武田家の領域を拡大した、というだけのことなんじゃないでしょうか。信玄は上洛などという御大層なことは、実は大して考えてもいなかった、自領を同心円状に成長させただけだった、というのが、あまり戦国時代が好きではない私なりの解釈なんですが、どんなものでしょうね?
 私がそう考えるのは、甲斐武田家が長い間「鄙」に組み込まれていた、という歴史的事実が存在するからです。最初に指摘しておきましたが、甲斐国という地域は、「鎌倉殿御分国」のひとつでした。つまり、「都」の論理ではなく、「鄙」の論理に制約されているはずのお土地柄なんです。「鄙」の論理の方が強かったとすれば、武田家は後北条家同様上洛志向には乏しかった、とも考えられるんです。
 ところが、大変ややこしいことに、信玄の正室は京都の公家・三条家の出身でした。信玄自身は京都を含めた「都」に憧憬の念を抱きつづけていた気配があるんです(そういえば、京風の歌道に熱を入れ過ぎた、なんてエピソードもありました)。甲斐国という土地は、「都」と「鄙」のちょうど「境目」にあるだけに、双方の影響を等分に受けてしまうんでしょうね。「鄙」の一部であるとはいえ、どうしても「都」に近過ぎる訳です。さらにいえば、武田家の歴代当主(特に武田信重あたり)は、京都の足利将軍家とも親交を深めてもいます。室町期を少し勉強すると必ず目にすることになる重要タームに「京都扶持衆」というのがあります。これは「室町幕府」が、昔から仲の良くない「鎌倉府」に対抗するために打ち込んだ「くさび」のようなものでして、「鎌倉殿御分国」内に所領を持ち、本来は「鎌倉公方」の統制を受けなければならないはずの「関東」の「守護大名」たちに、足利将軍家が「扶持(サラリー)」を出して「室町幕府」のコントロール下に置こうとしたんですね。そして、甲斐武田家は、この「京都扶持衆」の重要な一員でした。足利将軍家の覚えめでたくなった武田家は、その庶家を京都に送り込み、「都」の領域にも守護職を確保していくようになります。特に有名だったのが、若狭武田家と安芸武田家です(ちなみに安芸武田家の後裔が、毛利家の外交僧だった安国寺恵瓊ですが、これはどうでもいいですね)。とまあ、そういう「都」とも「鄙」とも関係性を維持してきたという伝統(?)を有する武田家の当主・信玄は、「都」の論理にも「鄙」の論理にも精通していただろうことが想定されるんです。
 だからという訳でも無いでしょうが、後北条家が積極的に「鄙」の論理に身を沈めていき、今川家が「都」の論理を意識した勢力伸長をしたのに比べると、武田家の方針は「どっちつかず」の印象を受けてしまいます。言い変えれば、どちらの論理にも取り込まれることなく、好き勝手にふるまっていたとも言えます。北進して信濃全域を支配下に置き、征東して上野に出兵し、南下して駿河も攻略する。こうした結果から確実に言えることは、その領域が「常に」膨張し続けている、ということです。極言すれば、信玄はマキャヴェッリ的リアリストなんだと思います。獲れそうなところから容赦なく獲っていく、危険な場所には手を出さない、っていうね。なるほど信玄の行動に一貫性が無い訳です。間違っても上洛しようなどとは考えないようになっていくんです。
 信玄の基本戦略は、実はそうしたものであった、と言い切ってしまっていいんじゃないでしょうか。北には長尾上杉家があって、東隣には後北条家があって、南方には(ある時期まで強大だった)今川家がある。拡張できる領域はおのずと定まってしまいます。そうした限られた範囲の中で、甲斐が孤立しないように隣国信濃だけでも自領とする。より安定的な立場を作るため、強大な勢力(後北条家や今川家)とは手を結ぶ。ちょっとでも弱みを見せた相手には牙を剥いて食い尽くす(だから弱体化した今川家は容赦なく攻め滅ぼす)。信玄には、おそらくこのぐらいの「出たとこ勝負」的な戦略しか実行に移せなかったのだろうと思います。こういう言い方をすると、信玄を過小評価し過ぎなようにも聞こえるかもしれませんが、「希代の戦略家」という、今までの評価の方が過大評価に過ぎたんだと思いますよ。

(もうついでなんで、長尾上杉家――上杉謙信の家ね――についても簡単に考えてみたいと思います。この家も随分特殊な成り立ちをしています。まず元々は越後上杉家という、山内上杉家の分家の、「守護代(守護大名の代理)」を務めていたのが、越後長尾家当主だった謙信の父・長尾為景です。が、この為景が「下剋上」の典型のような人物で、ほぼ一代で越後一国を支配下に置き、主家であった越後上杉家を滅ぼしてしまいます。そんな乱世の奸雄・為景の死後、嫡子・晴景が跡を継ぎますが長続きせず、その弟の景虎――のちの謙信――が当主となります。
 謙信は、当初は為景の路線に乗っかって越後支配に傾注していきますが、その過程で「亡命者」を多数受け入れていきます。代表格は北信の土豪・村上義清と、山内上杉家最後の当主・上杉憲政です。謙信が信濃と関東に侵攻したのは、このふたりの「亡命者」の希望を叶えるためでした・・・といいたいところなんですけど、それでは謙信を「義の人」にし過ぎでしょうね。常識的に考えれば、「亡命者」の存在を大義名分に利用して北信濃や「関東」へ侵攻していた、というだけの話だと思います。熱狂的謙信ファンが激怒しそうですけどね。でも、リアルに「うわあ」と思った話があるんですけど、謙信が「関東」に出兵するのは、狙いすましたように冬季なんです。農繁期を終えた越後の農民たちを連れていって、「関東」で「乱獲り(略奪)」の限りを尽くさせたっていう・・・ 「謙信は領土を欲しがらなかった」という人もありますが、単に信玄と氏康の方が政略家として一枚上手だったため、領土を奪い損ねた、もしくは略奪する以外の目的が無かった、というだけの話でしょう。
 ・・・実も蓋もないこと言っちゃったかなあ。一応謙信を弁護(?)しておきますけど、越後国内の産業振興政策などは群を抜いて優れていました。内政家としての謙信の業績は後北条家歴代当主に匹敵すると考える史家もいるぐらいです。江戸城建設で有名な太田道灌の子孫筋(厳密にはちょっと違う)にあたる、謙信の同時代人に太田資正という人物がいるんですが、彼の言に拠ると、「越後が富栄えているのは全て謙信の政策の賜物」だったんだそうです。
 さて、謙信は上杉憲政の要請を受けてその養子となり、山内上杉家の名跡と「関東管領」職を譲り受けることになります。これまでは越後国の実質的君主としてのみ振る舞ってきた謙信ですが、「関東管領」という地位を得ることによってその行動がよく言えば明確化、悪く言えば規定されていきます。越後国は、先述したように「都」と「鄙」の境目の国です。厳密に線引きすれば、「都」に含まれますが、越後の支配者だった越後上杉家が山内上杉家の分家筋であった関係上、為景も謙信も「関東」の政局に相当数首を突っ込んでいきました。謙信の「関東管領」就任後は、それが一層加速していくんです。自らが「関東管領」である、という大義名分を得た謙信は、積極的に「関東」へ出兵していきます。この時期の後北条家は西関東――上野・武蔵・相模・伊豆など――をその勢力下に収めていましたが、本来西関東は山内・扇谷両上杉家の領国でした。上に挙げた四ヶ国を取り戻すのが、「関東管領」上杉家の新当主たる謙信の大いなる「責務」となってしまったんです。謙信は、北条氏康のことを「伊勢氏康」と呼んで侮蔑しました。氏康も謙信のことを「長尾景虎」と呼び、決して上杉家当主とは認めませんでした。双方自らを「関東管領」と称して譲らず、激しく対立しあったんです。謙信も氏康も「都」の論理から離れて、「鄙」の論理に取り込まれてしまった格好です。いや、少し違うかもしれませんね。「鄙」の論理に身を沿わせていった方が、当時の人々――「関東」の土豪や大小名――には理解されやすかった、ということなんでしょう。戦国期も奥深くになってなお、こうした室町期の感覚が残っていた訳です。
 謙信は、個人的には京都の足利将軍家との関係性も深く、軍勢を伴わずに上洛したことも何度かありますが、京都に攻め上ろうという発想はとうとう持てなかったようです。謙信が足利将軍家との関係性が深かったのは、多分に形式的ではあっても「関東管領」の任命権を有するのが「室町幕府」だったからでしょう。ここがややこしいところなんですけど、「鎌倉公方」や「古河公方」には「関東管領」の任命権はありません。「室町幕府」からは実質的には独立していたような「鎌倉公方」でしたが、そこだけは「室町幕府」にコントロールされてたんですね。まあ後北条家はそれを嫌って「関東管領」を自称するという道を選ぶわけなんですが、山内上杉家の新当主の座に就いた謙信は、律儀に足利将軍家からの許可を貰うという手続きを踏んでいくんです。謙信が真面目な人だった、というよりも、そうした形式を踏んだ方が、「関東管領」を自称する後北条家よりも正統性があるぞ、という大義名分を得られる、と考えたんでしょうね。
 謙信もその最晩年には京都へ侵攻する意図があったんだ、などと言われていますが、多分に眉唾物だろうと思います。今川義元のケースと同様、京都までの道程があまりにも遠過ぎるからです。最短のルートを取ったとしても、越中⇒能登⇒加賀⇒越前⇒近江⇒山城、ととんでもない距離になってしまいます。確かに、「手取川の合戦」で織田軍を撃破していますが、これは織田家が北陸に勢威を伸ばしてきた結果、謙信の勢力圏とぶつかるようになった、というだけの話です。よく小説や漫画などで「信長は信玄・謙信の上洛を恐れていた」という設定のものを見受けますが、そうはならなかったと思います。信玄は自領周辺で勢力を拡大させることが第一義で、謙信は基本的には越後統治、あわよくば「関東」制覇を達成する、というのがそれぞれの目標だったろうと思います)


 さて、いい加減、話を元に戻しましょうね。「甲相駿三国同盟」の話でした。私は最初に、「この同盟で一番得をするのは上洛を目指していた今川家だと思っていた」という意味のことを書きましたが、全くそうではなかったということになるだろうと思います。「甲相駿三国同盟」とは、武田、今川、後北条という有力三大名による「棲み分け」の方策だったんだろうと思います。三大名とも天下統一なんてものは目指していない。まあ強いて言えば、「関東」制覇というある種途方もない目標を掲げていた後北条家がやや特殊だった、ぐらいの話でしょうか。それから長尾上杉家も後北条家の「亜種」と言ってもいいかもしれません。そして武田・今川家は、甲信地域・東海地域というそれぞれの「ホームグラウンド」に割拠するために、この「三国同盟」を活用していた、と。「天下統一」などという、当時としては常識はずれなことを考えたのは、織田信長とその影響を受けて事業を引き継いだ羽柴秀吉だけだったんでしょうね。
 「甲相駿三国同盟」とは、「信長以外誰も天下取りを目指していなかったのが戦国時代だった」ということの、なによりの証拠なんだと思います。私がそんなことを考えるようになったのは、中国地方の雄・毛利家を大大名に成長させた当主・元就の遺言が、「割拠宣言」というに等しいものであったことに気付いたからです。元就は嫡孫の輝元や、その補佐役たるふたりの息子・吉川元春と小早川隆景たちにこう遺言しています。「天下を目指すな」と。これは異例の遺言であるようにも思われますが、案外地域単位の大大名たちの目標はこんなものだったのではないでしょうか。他にも東北の伊達家、四国の長宗我部家、九州の島津家といった、各地域単位で大勢力を形成した戦国大名たちがいましたが、彼らが本当に上洛するつもりがあったのか、私は疑問に思っています。
 私は先に、後北条家は上洛では無く、「関東」制覇を目標にしていた、と言いました。他の諸大名も似たり寄ったりだったのではないかなあと思うんですよ。そもそも、「室町幕府」という権力体は、本当の意味での「天下統一」をしたことがありませんでした。中部・畿内・中国・四国地方を統治するのがせいぜいだったという程度の、さして強力ではない権力体でした。関東地方は「鎌倉公方」と「関東管領」にほぼ任せてしまってますし、九州・東北地方も最初こそは「探題」を任命して間接統治に乗り出しますが、上手くいかなくなった途端、あとは軽く放置です。当時の日本列島は、戦国時代が到来する以前から分裂状態だったってことです(さらに言えば、平安末以降の日本列島というのはずっと分裂状態だったと言い切ってしまっていいと思います。「鎌倉幕府」も全国的な統一権力体ではありませんでした。「鎌倉幕府」の威令が行き届いていたのは、関東+東北+中部地方ぐらいだったようですし、西日本では平安末期以降も「院政」が行われていました)。「分裂してるのが当たり前」の時代に生を享けた多くの戦国大名たちには、「天下統一」という「青写真」が存在しなかったんです。何しろ、近過去にまったく前例がないから。これでどうやって天下統一を目指すんでしょうね?
 そんな中、突然変異のように天下統一を志向したのが、織田信長でした。彼だけがイレギュラーでした。明らかに他の諸大名と比較して異質です。義元も氏康も信玄も謙信も、稀有な個性を有する強力な指導者だったとは思いますが、信長ほどぶっ飛んではいません。彼らは皆、何らかの形で室町期の残影を引き摺っているんです。だから、当然の如く彼らは天下取りなんてものは目指しません。が、信長は違う。そういう旧来の考え方をしていないんです。これは何故なんでしょう? 不思議でしょうがない。

 学生時代、研究室仲間に話してみたところ、全く支持を得られなかったという話をして、今日のところはおしまいにしたいと思います。どんな話かっていうと、信長の「うつけ」のルーツは何かって話です。大変有名な話ですが、信長は家督相続時、「うつけ」と呼ばれたそうですね。町の通りをほっつき歩きながら、人目を一切気にせず栗や柿、餅などを食い散らかし、とにかくみっともない行為を繰り返した、と。信長の側近であった太田牛一の著作『信長公記』にも銘記されていますから、講談で潤色された噺などではなく、ほぼ間違いなく本当にあったことなんでしょう。よく言われるのは、独創性の塊のようだった信長は凡人には理解されなかった、だから信長の行動は記録者たちによって「奇矯」な人物であったかのように描かれている、という類の説です。
 でも、これとよく似た話が古代中国にはゴロゴロ転がってるんですよね。春秋時代、連日連夜大騒ぎをして一切国政を顧みないふりをして廷臣たちを欺き、機会を捉えて一気に改革を断行したという「三年鳴かず飛ばず」の逸話で有名な楚の荘王。戦国時代、九年もの長きに渡って国政を放棄し、油断した重臣たちが弛緩しきったところで綱紀粛正を行なった斉の威王。
 ・・・これらの逸話は、信長の「うつけ」の所業と大変よく似ています。『信長公記』には、信長が生まれつき奇矯だった、などとは書かれていません。むしろ元服までは大人しい少年だった、と記しています。「うつけ」は一種の反抗期だったとか、家臣を欺くための芝居だったとか言われますが、実は漢籍に描かれている帝王の逸話を実践したということだったのではないでしょうか。だから、信長が奇矯な言動を止めるのは、「諌臣(これも漢籍によく出てくる言葉です)」平手政秀の切腹後なんです。死を賭しての諌言に衝撃を受けるというのは、いかにも漢籍の影響を受けた人のやりそうな姿勢です。日本列島で、諌言が身に沁みないというタイプの人は、実はあまり漢籍の素養がない人、もしくは表面的な学習で止めてしまった人であるケースが多いです。おそらく信長という人は身に沁みるタイプだったのでしょう。
 信長は美濃の齋藤家を滅ぼすと、親交のあった高僧・沢彦に命じて居城・稲葉山を「岐阜」と改名させています。これまた有名な話ですが、この地名は、中国の「商周革命」時に鳳凰が舞い降りたと伝わる霊峰の名にちなんでいます。そして、岐阜命名と前後して、信長が用いるようになったという印判に掘られていたのは、「天下布武」の四字でした。岐阜という地名と天下統一という思考は方向性が合致しています。信長は確信的にそういう言葉を選びとり使用し始めています。どうも信長という人からは、中国の故事典籍にやたらと詳しかったような気配を感じるんです。「南蛮文化に傾倒した新し物好き」というイメージが強い信長ですが、実は一定量以上漢籍の素養があった人だったんじゃないか、と思うんですよね(もしくは、「耳学問」として漢籍に親しんでいたか)。しかもただの漢文読みではなく、何らかの意図を以て漢籍を読んでいる。
 ・・・そんな信長が、漢籍の中から、「中国の歴代王朝は天下(中国大陸)を統一している」という史実を抽出して、日本列島で実践したんだとしたら。室町期には存在しなかった「天下統一」という発想を信長が持ち得たのは、こういう所からだったのだろうと思います。
 反論はあると思います。あれほど優れた漢詩を詠むことが出来るほどに漢籍の素養深かった上杉謙信が、何故漢籍に頻出する「天下統一」という発想に行き付かなかったのか。歴代当主が皆儒学の漢籍を愛読していたと伝わる後北条家の面々が、何故天下統一を目指さなかったのか。京都の公家とさかんに交流し、幼少期から漢籍に親しんできたはずの今川義元や武田信玄が、何故上洛を志向しなかったのか、と。
 彼らは皆、「室町的秩序」に馴らされてしまっていたからだと思います。今川家や武田家は、室町期には守護大名として一国を任されていた名家です。室町期の、「分裂が常態」という思考から逸脱することは容易には出来なかったでしょう。もし逸脱が容易であったなら、先述の「都」や「鄙」の論理などすべて無視してしまえると思います。ですが、彼らはそうしていない。「下剋上」の末成りあがったはずの後北条家や越後長尾家であっても、「関東管領」という室町期に淵源をもつ称号に固執し続けています。他の新たなる称号をつくればいいようなものですが、そういうことはしていません。これらよっつの「戦国大名」は、「室町的秩序」からの「論理の飛躍」が出来なかったものと思われます。
 一方、信長は異なりました。信長の属した織田家は、尾張の守護大名・斯波家の守護代の隷下にいた一有力者、という程度の存在で、信長の父・信秀はそこから急速に財力・武力を付けて成長していきます。この時期になると、守護・斯波家の存在はすっかり形骸化していました。そんなところで家督を継いだ信長は、とうとう「室町的秩序」を身に着けませんでした。先に挙げたよっつの大名家の面々とは異なり、信長には無駄な「枷」が無かったことになります。だから後に、足利義昭を奉じて上洛していながら、その存在が邪魔になればあっさり追放してしまえる訳です。「室町的秩序」が利用できる場合には利用しますが、必要がなくなれば容赦無く排除することが出来る。この融通無碍さ(あるいは斟酌の無さ)は、信長特有のものだと思います。戦国時代後期、容易に「論理の飛躍」を遂げることが可能だったのは、織田信長だけであった、ということなのではないでしょうか。


 ・・・疲れたので、今回はこんなもんで。ここまで読み進めてみて、「こいつ、最後に来て、やたらめったら信長を持ち上げたなあ」と感じた方もいらしたと思いますけど、実は私は、信長が大嫌いです(笑・秀吉はもっと嫌いだけど)。
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覧読・乱読・濫読。

2013-12-21 22:00:07 | 各種感想文
かなり久々に県立図書館へ。

とにかく無性に、まだ読んだことの無い、「日本中世史」関連の書籍が読みたくなったので、まとめ借りしてきました。

私には悪い癖がありまして、借りた本はその日のうちに徹夜してでも一気に読んでしまうんです(そのくせ、買った本はしばらく「寝かせて」おく場合が多いです)。

今回もそれをやったんですが、いやあ、すげえ疲れた(年だなあ・・・)。



『中世人の経済感覚 「お買い物」からさぐる』
本郷恵子著 2004 日本放送出版協会(NHKブックス987)


私が一方的に私淑している中世史家・本郷和人氏の奥様が書いた著作。

この人の書いた『蕩尽する中世』(2012 新潮選書)が面白かったので、併読してみようと思いまして。

一読して「しまったなあ」と思ったのは、「読む順序が逆だった」ということ。

『中世人の経済感覚』の発展系が『蕩尽する中世』だったのね・・・やっぱ、刊行順に読まないといけないなあ、猛省。



『今川義元 自分の力量を以て国の法度を申付く』
小和田哲男著 2004 ミネルヴァ書房(ミネルヴァ日本評伝選011)



『今川義元』
有光有學著 2008 吉川弘文館(人物叢書254)


実は、今川義元にも「桶狭間の合戦」にもほとんど興味がありません。

でも、敢えて借りてきたのは、彼の両親に当たる人たち(今川氏親と寿桂尼)と、大叔父に当たる人(伊勢宗瑞=北条早雲)に興味があったからです。

駿河今川家は、「守護大名」から「戦国大名」にソフトランディングできたという稀有な存在でして(そういう大名って、実はあんまりいないんですよね。有名どころでいうと、陸奥伊達家、常陸佐竹家、甲斐武田家、近江六角家、周防大内家、豊前大友家、薩摩島津家ぐらいのもんじゃないかなあ。一般的なのは、「守護代」や中小の在地領主から「戦国大名」へと「下剋上」していったっていうケース。越後長尾家、越中神保家、三河松平家、尾張織田家、越前朝倉家、近江浅井家、丹波波多野家、備前浦上家、備前宇喜多家、出雲尼子家、安芸毛利家、阿波三好家、土佐長宗我部家、肥前龍造寺家・・・と大量に出てきます。小さな大名まで数えたらキリがないと思います。そして、「裸一貫」からの「下剋上」というのは、実は大変珍しいです。強いて上げても、伊勢宗瑞と齋藤道三くらいのもんだと思います。信長配下だと、それこそ最下層・浪人あたりからのし上がってったっていうケース――代表格は羽柴秀吉と明智光秀。荒木村重もかな?――もありますけど、彼らは信長の抜擢人事の過程で大名化していったって風なので、「戦国大名」というのとは少し違う気がします。誤解を恐れずに言えば、「軍官僚」、もしくは「サラリーマン」みたいなもんです)、この二冊の前半部分も、そのあたりの事情について多く紙幅が割かれています)。

・・・本格的な戦国期・安土桃山期よりも、室町末・戦国初期の方が面白いと思ってる私は、やっぱりどっかおかしいのかなあ?(黒田官兵衛を主人公にするより、宇喜多直家を主人公にしたらいいのになあ・・・やっぱ少しおかしいな、自分)



『戦国大名の危機管理』
黒田基樹著 2005 吉川弘文館(歴史文化ライブラリー200)



『戦国期領域権力と地域社会』
黒田基樹著 2009 岩田書院(中世史研究叢書15)


駿河今川家の「戦国大名」化に明らかに甚大な影響を与えたのが、伊勢宗瑞&相模後北条家です。

著者の黒田氏は、そんな伊勢宗瑞&後北条家研究の第一人者でして、特に前著は、後北条家の領国支配・経営の仕組みが大変よく判るようになってます。

この方の著書はあらかた読んでるはずなんですが(除論文集)、前者はまだ読んでなかった唯一の概説書(これの事実上の続編が、『百姓から見た戦国大名』(2006 ちくま新書)です。これも二冊セットで読まんといけんかったなあ。猛省その2)、後者は県立図書館に置いてあった唯一の論文集です。

論文集は、「手強いかな?」と思ってたんですが、題材と論点が判りやすいものだったので、「比較的」楽に読み進めることが出来ました(専攻が違ったからってこともありますけど、東洋史の論文に比べて、日本史の論文ってどうしても読み難いんですよね。研究の題材が東洋史以上に蛸壺化してるような気配があって・・・)。



『武田信重』
磯貝正義著 2010 戎光祥出版(中世武士選書①)


駿河今川家、相模後北条家ときたら、「やっぱ武田でしょう」ってことで、甲斐武田家関連本です。

といっても、メジャーどころではありませんで、武田信重というのは、室町時代中期の武田家当主だった人物です(ついでに言っておくと、信重の玄孫が信虎、その子が信玄、その子が勝頼です)。

甲斐武田家関連書籍というと、圧倒的に信虎&信玄&勝頼の事跡(特に川中島&長篠)に集中してまして(論文は別ですよ。普通に手に入る一般的な概説書の場合です)、それ以外のことは何も教えてくれないもんなんですが、本書は、甲斐武田家の来歴から室町期の「守護大名」の様子までが、手に取るように書いてあるという良書でした(だから、『今川義元』と同様、「伝記」としては読んでいません。「守護大名」⇒「戦国大名」という変化の勉強をしたようなもんです)。

どうやら本書は、1970年代に刊行されたものの復刊本みたいですが、内容はまったく古びてないですね(こういう本って大抵は古びるんですけどね)。



『北条時頼』
高橋慎一朗著 2013 吉川弘文館(人物叢書274)


室町・戦国史ばっかり読んでたら飽きちゃうので、時代をやや遡って鎌倉史へ。

一時期、鎌倉期の北条執権体制に熱中してたことがありまして(旧自民党の派閥政治と全く同じことやってるんですよ。そのあたりがすごく面白くて)、この時代の「人物叢書」はあらかた読破してあったんですが、これはその最新巻(吉川弘文館の「人物叢書」シリーズは、鎌倉北条執権期の著名政治家を結構な数網羅してありまして、『大江広元』(上杉和彦著 2005)⇒『北条政子』(渡辺保著 1961)⇒『北条義時』(安田元久著 1961)⇒『北条泰時』(上横手雅敬著 1958)⇒『北条重時』(森幸夫著 2009)||<やや断絶>⇒『北条時宗』(川添昭二著 2001)||<やや断絶>⇒『金沢貞顕』(永井晋著 2003)と、主要人物はほぼ出揃ってます。何故か1960年前後と2000年代以降に集中してます。時宗と広元はその年の「大河ドラマ」に合わせての刊行なんでしょうね)。

『北条時頼』は、ちょうど『北条重時』と『北条時宗』の間に位置します(個人的には、「時頼の短い生涯をどうやって「人物叢書」にまとめるんだろうか」って思ってたんですが、杞憂でした。いやあ密度が高い高い。白眉は、「宝治合戦」のくだりと、時頼が禅宗に帰依するあたり。北条歴代執権はみんなキャラが立ってて読みやすいなあ)。

後は、源頼朝、北条時政、安達泰盛、北条高時あたりが刊行されれば、「人物史で読む鎌倉通史」が完成しますね(吉川弘文館さん、ここまで出した以上、ちゃんと出して下さいよ! 個人的には、本郷和人氏に安達泰盛、細川重男氏に北条高時を書いてほしいけど、無理だろうなあ。でも細川氏には、『頼朝の武士団』(2012 洋泉社歴史新書)、『北条氏と鎌倉幕府』(2011 講談社選書メチエ)、『鎌倉幕府の滅亡』(2011 吉川弘文館歴史文化ライブラリー)の「鎌倉幕府三部作」とでもいうべき概説書群があるから期待しちゃうんだけどなあ。それにしても返す返すも惜しまれるのは、数年前に亡くなった鎌倉幕府研究の第一人者・奥富敬之氏が「人物叢書」を書かずに逝ってしまったこと。奥富氏が存命だったら、きっと頼朝か時政を書いてくれたんだろうなあ)。



『日記で読む日本中世史』
元木泰雄・松薗斉編著 2011 ミネルヴァ書房


今回読んだ中では一番「渋い」チョイスだったのが本書。

日本中世史の研究者が、この時代の公家・僧侶たちが書き遺した日記、総計十六種をダイジェストで紹介・解説したものです(準学術書ってとこでしょうか。本格的な学術書よりは読みやすいです)。

通読して、今までは敬遠してきた日本中世史の原史料に、ちょっと首を突っ込みたくなりました(一応『平家物語』と『吾妻鏡』、『太平記』は読んでたんですが、やっぱ足んないよなあ。・・・あ、いかんいかん、こうやって深入りしていくのを「滅びの道」っていうんだった・苦笑)。

とりあえず本気で読んでみたくなったのは、平安末期・藤原頼長の『台記』、鎌倉初期・九条兼実の『玉葉』、室町中期・三宝院満済の『満済准后日記』あたりかなあ。



『自由にしてケシカラン人々の世紀』
東島誠著 2010 講談社選書メチエ(選書日本中世史②)



『僧侶と海商たちの東シナ海』
榎本渉著 2010 講談社選書メチエ(選書日本中世史④)


この二書は、数年前、尊敬してやまない「ある日本史研究者」の方から直々に、「いや、この二作は是非読んでおくべきですよ。こんなに人に熱心に薦める本は、森公章さんの『白村江以後』以来じゃないかなあ」と静かに熱く薦めて貰ったにもかかわらず、ついつい買い逃してしまっていたものです(ちなみに、このシリーズの①と③は、購入してちゃんと手元にあります。①が『武力による政治の誕生』(本郷和人著 2010)、③が『将軍権力の発見』(本郷恵子著 2010)です。この御夫婦の著作は本当に面白くて、一章を読み終える度に溜息が出ました。・・・そういえばこのシリーズ、確かあともう一冊刊行される予定だった気がするんですけど、出てないなあ)。

最初は軽い気持ちで読んでいったんですが、二作とも流し読みなんてできませんでした。

「このシリーズ、四作とも質が高い!!」

もうね、軽く首括りたくなるくらい(比喩が不穏当だなあ)後悔しましたよ。


ああ、もう何で今まで読んでなかったんだろう。

存在を知ってたくせにまだ読んでなかったなんて、めちゃくちゃ口惜しいわ・・・

知らなかったんならしょうがない。

でも、人に薦められてたのに、今の今まで読んでなかったって・・・そういう経験のある方、今からでも遅くないですよ、薦められた段階で、即読みましょう(笑)。


内容は・・・ちょっと軽くは書けないぐらい良い本なので、後日、「選書日本中世史」四冊まとめて(・・・できるのか?)紹介したいと思います。
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おつかれ、『八重の桜』。

2013-12-15 21:57:46 | 各種感想文
 長いことつづいてきた、主人公を極端なまでに称揚するテイストの「大河ドラマ」とは、大きく一線を画する物語となった『八重の桜』が、最終回を迎えた。「明治篇」の迷走ぶりには正直納得がいかなかったが、「幕末篇」の丁寧なつくりには素直に頭が下がった。『坂の上の雲』の時もそうだったのだが、「どうせこの程度だろう」と高をくくっていたところに、それ以上のものを見せ付けられると素直に頭が下がるものであるらしい。こんなにハマった幕末ものは『翔ぶが如く』以来であった(そういえばあるブロガーの方が、「『獅子の時代』を彷彿とさせるものがある」という意味のことを言っておられた。機会があったら見比べてみようかな)。近年の「駄作」・『龍馬伝』(←面白いって言ってる人が多いところ恐縮だが、私には全然面白くなかった。暴論かもしれないけど、『JIN』の方が遥かに「歴史ドラマ」になっていたと思う。『龍馬伝』は単なる「見せ場集」にしかなってなかったなあ)を軽く超える作品になったのではないか、と思う(無論、あくまで私の主観である。この正反対の感想をお持ちになった方がより多いだろうことは覚悟の上で、でもそれでも、「『龍馬伝』、酷かったですよ」と小声で言いたい。視聴したかなり早い段階で、相当「引いて」観ていたのだが、劇中中盤の武市瑞山と山内容堂のやり取りを観て、「これは野心作をつくろうとしてもののみごとにしくじった駄作だ」と断言したくなった。別に大森南朋氏や近藤正臣氏に含むところがある訳ではない。念のため)。

 以前書いたことと重複するが、『八重の桜』の美点は、主人公サイドを過剰に美化しなかった点に集約されるかもしれない。脚本家のバランス感覚のよさを感じる。幕府方、あるいは薩長土肥の人々が不当に貶められる描写は少なかった(極端な話、そういう目に遭ったのは世良修蔵ぐらいのものだった。徳川慶喜や松平春嶽、木戸孝允や西郷隆盛、大久保利通、岩倉具視、板垣退助、大隈重信、伊藤博文――完全にどうでもいい話だが、伊藤役の人はお上手&そっくりだった。あの顔のイメージのまま年を取ると、綺麗に「坂の上の雲」に繋がってくれる。大山巌はなあ・・・あそこからどれだけビールがぶ飲みすれば「蝦蟇坊」になれるやら・笑――といった面々にも彼らなりの主義主張があったのだろうと理解できる描写が多かった。いわゆる「顔見世」的な描写は少なかった。特に西郷には奇妙な説得力があったように思う。それだけに、「西南戦争」のくだりはいただけなかった。せめて前後篇で描いてくれてたらなあ)。これは「そちらサイド」の視聴者に媚を売った結果などでは無くて、価値観の相対化が出来ていた何よりの証であろうと思う(「明治篇」が迷走しなければ、「西南戦争」が「戊辰戦争」と「対」の役割を果たすことになったのだろうと思う)。その証拠に、会津側の愚行・愚挙にも数多くの言及・描写があった。ここ数年続いた主人公サイドの登場人物を過度に美化するような悪習とは無縁であった。徳川慶喜に嵌められた神保修理の哀れなまでの惨死、田中土佐と神保内蔵助の「無意味」過ぎる切腹、「美しいシーン」ではあっても決して美化はしなかった二本松少年隊・西郷一家・白虎隊・娘子隊の戦死・自刃のくだり、先見の明はあっても終始残念なキャラクターであった西郷頼母(言うてはならないことなのかもしれないが、最終話の「あの姿」は・・・思わず爆笑してしまった。一緒に視聴していたうちの母は「あらぁ、びんこーさん――母は西田敏行氏のことを「有職読み」してこう呼ぶ――、「七福神」になっちゃって・・・」と言って絶句していた。ほぼ同意見)、妻の死に錯乱して実弟に死を迫る山川大蔵(このぐらい激昂するのが、実はデフォルトな為人だったらしい)、誤った采配を続けたことに悔恨の念を抱きつづけた梶原平馬(最後に出番があってよかったね)、まさか本当に「寝過ごし事件」(場面としてはやや間延びし過ぎたかな?)までやってくれるとは思ってなかった佐川官兵衛、「恨みを晴らしてくれ」という遺言が遂に成就されることは無かった萱野権兵衛(大半の視聴者が思っただろうけど、ラストは「さらば」じゃなくて、「アバヨ!」って言ってほしかった。もし本当にやらかしてたら内容ぶち壊しだったかな?)、「ほぼ架空」の人物と言ってよかったにもかかわらず、その存在意義を示すことが出来た(近年では本当に稀なこと。『平清盛』の兎丸を思い出そう)主人公の前夫・川崎尚之助、とにかく不運で薄幸な、しかし忍耐強い(そしてそれ故に藩に無用の流血を強いてしまった)藩主・松平容保等々、「群像劇」としては痒いところに手が届く描写が多かった(でも、永岡久茂は削ってほしくなかったなあ。ほんのちょっとだったけど「思案橋事件」も描いてたんだし、出してくれりゃあよかったのに。あ、そうそう、久茂と覚馬・八重ってどうやら遠縁だったっぽい。久茂が会津永岡家の本家筋、覚馬たちの父・権八が、永岡家の分家筋から山本家に養子に入った人なので、たぶん間違いないはず。・・・って全然本筋と関係ないや)。
 一部でこうした描写を「散漫」、「主人公不在」とする論評をみたが、当たっていないと思う。本来「群像劇」とはそうしたものである(暴論かなあ)。「幕末篇」は、極言すれば会津藩士たちの銘々伝であった(『史記』の「列伝」のようなものと言ったらしっくりくるであろうか)。『八重の桜』と謳っておきながら、主人公・八重を意図的に物語の埒外に置いた――ここ数年の「大河ドラマ」の女性主人公であれば、あらゆる歴史的場面に「ワープ」して現れ、好き勝手な発言を繰り返し、何でもかんでも己の「手柄」にすることが出来たはずである。現に今作では、「ワープ」しない主人公の代わりを実兄・山本覚馬が務めている――のは、確信犯的にその方針を推し進めたものだったからだと思われる。だからこの作品は、意図的なる「看板に偽りあり」なのである。「それが許せない」という人もいるであろうが、八重を「超人」として描きたくなかった脚本家の「良心」の為せる技だったのだろうと思いたい(擁護し過ぎ? でも、丸々半年主人公を埒外に置いておいたおかげで、鶴ヶ城攻防戦での活躍が不自然なものにならずに済んだようにも思う)。
 どうしてこういう事態が発生するかというと、おそらくは脚本家に主人公の選択権がほぼ無いからであろう。先に「女性主人公」(=「大河ドラマ」なのに女優を主役として起用したい)という企画ありきなのだろう。そういう制約の中で歴史に題材を取った物語を書き進めようとするから、タイトルと内容に齟齬が出てしまっているように見えてしまうのである。だから暴論かもしれないが、今作の脚本家にとって「幕末篇」の真の主人公は、八重ではなく、「会津藩」そのものなのである。ここから先は私の勝手な憶測になるが、複数脚本家制(と言ってしまっていいか自信はないが。「助っ人」ぐらいの位置付けだったのだろうとも思う)に路線変更となって、八重の(やや無意味な)露出が増えなければ、「明治篇」でももう少し旧会津藩士の描写に紙数が割かれていたのだろうと思う(せめてもう少し斗南移住後の苦境が描かれてたらなあ)。

 無論、『八重の桜』には目に見える欠点も存在した(「看板に偽りあり」というところも欠点と言ってしまっていいかもしれない)。止むを得ないこととはいえ、「幕末篇」では「群像劇」の裏返しとしての主人公不用回が目立ってしまう結果となった(だから女性主人公にしちゃいけないんだってば。・・・あんまりこのフレーズ繰返すと、女性蔑視論者扱いされるのかなあ。でも知ってる人は知ってると思うけど、我が家は典型的女系――というか「女権」?――家族で、仮に妹①に蹴り入れられても、私は決して反撃しないっていうくらい女性を「立てて」――いや、怯えて?――生きてるんだけどなあ。あ、そっか、だからその反動で「女性主人公反対!」って叫んでるのか。・・・って違う違う。ちなみに「去年と言ってることが違う」と思われた方もいらっしゃるかもしれない。去年私は、「主人公がその存在意義を証明できていない」と酷評したが、それは主人公が「平清盛」という積極的・主体的に歴史に関わっていったはずの人物だったからである)。
 そして正直言って、「明治篇」は迷走していたと思う。主人公・八重を描きたいのか、同志社大学設立そのものを描きたいのか、旧会津藩士の苦難を描きたいのか、それとも新島襄を描きたいのか、よく判らない構成になってしまった。先述したように、脚本家は確信犯的に『八重の桜』を「群像劇」にしていたように思う。「幕末篇」ではそれを貫徹できていたが、「明治篇」では――「それでは視聴率が取れないだろう」という話になって、脚本家が追加されたんだろうなあ――不徹底となった。脚本家は当初「幕末篇」に対する「解答」として「明治篇」を構想していたのであろう。が、複数脚本家制になった途端、描き方が変わってしまった。八重のキャラクターもぶれてしまった(典型的なのが、覚馬の後妻を叩き出した直後、覚馬の娘の駆け落ちには理解を示そうとしたところ。後妻を叩き出す回は従来通りの脚本家、駆け落ちの回は新規の脚本家が担当したため、八重の言動がダブルスタンダードになってしまった)。もったいないことである。今年の脚本家は、一昨年の某脚本家のように女性主人公を自己の分身として奇矯に描いたりはしなかった。昨年の某脚本家のように主人公を殊更に残念な人物として描いたりはしなかった(一昨年の脚本家には本当に弁護の余地が一切ないが、昨年の脚本家には、その後『夫婦善哉』という傑作ができた。単に『平清盛』のような「歴史もの」が苦手だった、というだけのことだったのだろうと思う)。それだけでも充分に賞賛に値するであろう。ただ望蜀ではあろうが、「幕末篇」をもう少し刈り込んで「明治篇」を充実させるなり(「幕末篇」がきっかり半年で終わってくれていれば、「明治篇」ももう少しバランスのとれた内容になっていたのではないかと思う。ただ、完成した「幕末篇」に無駄な描写は少なかった――「史実重視過ぎる箇所が無駄だ」という意見もあるが、私には不必要なエピソードがあるとは思えなかった――ことを思えば、止むを得なかっただろう)、割り切って「幕末篇」のみで一年間の作品にするなり(ただ、オチが全く救いの無いものになってしまったであろうが)したほうが、より一貫性の取れた作品として仕上がったであろうとは思う。惜しいことである。

 では、脚本家が「明治篇」で手を抜いていたかというと、必ずしもそうではなく(というか、さっきも少し述べたが、追加された脚本家ふたりによる描き方に納得がいかなかった。このふたりが担当したのは「明治篇」全体のうちの六~七話ぐらい――ん、三分の一? 結構多いな――だったと思うが、これまでの描写の積み重ねから離れ過ぎていた。「八重はそういう言動しないよなあ」というシーンがちらほらしていて、率直に言って見苦しかった。薩摩出身者に八重が土下座したり、八重と大山が腕相撲始めたり、とかね。それと、そうした「しわ寄せ」が他の回にも悪影響を及ぼしてしまった。行動原理が複数あったように見えるもんだから、意味不明になってしまう。やっぱ、テイストは変えちゃ駄目なんだよなあ)、それなりに健闘していたと思う。
 自分でも意外だったのは、新島襄の描写に悪印象を持てなかったということ。「明治篇」全体を通して、一服の清涼剤となっていた感がある(覚馬が失明しているため動き回れない、「敵役(?)」の槇村正直はややうざすぎる、徳富兄弟&「熊本バンド」にはあまりいい印象が持てなかった・・・のに比べて、ということであったかもしれないけど。一番好もしかったのは、襄が八重に「手柄を取られた」ようには見えなかった点。ちゃんと存在感のある夫・学校経営者であるように見えた。まあ、もう少し生徒たちに『聖書』を教授するシーンが多かった方が、あの臨終がより悲劇的に見えたかもしれない)。「幕末篇」には出てこなかったタイプの、「晦渋ではない」人物(晦渋な人物の典型が徳川慶喜。あ、言い忘れてたけど、今年の「大河」は慶喜が凄かった。放送前は正直、「けっ、元首相の息子かよっ」って思ってたんですけど、回を追うごとに目が離せなくなった。「所詮親の七光りだろう」という私の偏見を実力で払拭されてしまった。そのぐらい感銘を受けた。それにしても、容保と対比させると慶喜の動きがこんなにも活きてくるんだなあ。昔、司馬遼太郎の『王城の護衛者』と『最後の将軍』を同時進行で読んだ時と同じような説得力があった)だったため、かえって新鮮に見えた。薩長への憎悪を捨てきれない八重の心を解きほぐすには、あのぐらいのキャラクター造形でちょうどよかったのかもしれない(まあ、やや善人過ぎかなあとは思ったが。つうか、この役者さんは、こういう「優しい人」役が一番似合うんじゃないかな、と思った)。

 ただなあ・・・最終話のあの終わり方はいただけないよ。あのラストはいらなかった。無理に籠城時代に戻らなくてもよかったのに。残念。あのラストが当初から想定されていたものだとは思えないんだよなあ。取ってつけた感があるっていうか。もっと地味めにひっそりと終わってくれてれば・・・まあいいや。



 さて、来年の予告を見た限り、『天地人』に近い臭いを感じるんだけど・・・気のせいだよね? ・・・うん、気のせい。気のせいだよ、たぶん。


・・・うーん、去年よりも甘いなあ。
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今度こそ「播磨赤松家」について。

2013-12-10 22:17:16 | 日本中世史
それでは、「わざと」最後に残しておいた(はずの)赤松家です(やっと到達した・・・前回は脱線が過ぎましたね、猛省)。


・・・赤松家の家系は、史上「悪党」といわれるんですが、これは「わるいやつ」というよりは、「権威に靡かず抵抗する者」というニュアンスの方が強いですかね。

播磨(兵庫中西部)の御家人(まだ定説はないようですが、近年では「鎌倉幕府」に反抗的な御家人出身だったのではないかと考えられています)赤松家の当主・円心(史上に登場した段階で彼はすでに法体、しかも五十代でした)は、楠木正成や名和長年らとともに後醍醐天皇に協力し、「鎌倉幕府」の討滅に成功します。

当然、論功行賞で多大な恩賞が貰えるものと思いきや、円心は賞与から外されてしまいます。

一説には、後醍醐と対立していた皇子・護良親王と密着しすぎていた円心(正確には護良と密接な関係があったのは円心の子の則祐)のことを、後醍醐が快く思わず、仲違いしてしまったから、とも言われています。


これに憤慨した円心は、気前が良すぎることで有名な足利尊氏に接近し(有名な逸話ですが、献上されてきた宝物を惜しげもなく家来たちにばらまいていたんだそうですね。尊氏は、全く物惜しみしない人でした)、彼が反後醍醐の兵を挙げるとすぐさま呼応、その参謀格に収まってしまいます(ですから赤松家は、足利家の血縁――前回詳述した斯波・畠山・細川など――ではなく、「外様」のような位置付けからスタートしています。後醍醐天皇に臣従したという点からみれば、当初は尊氏とは同格だったわけです。それが時代の変化に即応して尊氏の重臣というポジションに収まってしまっています。気を見るに敏な為人だったのでしょうね)。

一度などは新田義貞の軍を策略(というより悪謀。これも大変有名な話ですので、興味がある方は何かでお調べになってみて下さい。多分ネット上にも転がってるはずです)で徹底的に翻弄し、完勝を収めてもいます(本当に悪辣なやり口過ぎて、思わず私は笑ってしまいました。なんて言うか、新田義貞って人は、武門の頭領としてはあまりにも真面目過ぎたんだろうなあ。それに比べて足利尊氏はちゃらんぽらんの代名詞みたいな人です。あまりにも対照的過ぎます)。

後醍醐方に手痛い敗北を喫した尊氏に、「九州の不平分子を糾合して再起し、今一度京都に攻め入るべし」と焚き付け、大成功させてもいます。

私は、このあたりの円心の小説チックな痛快さが大好きなんですけどね(でも、例によってというべきか、これまで生きてきて円心ファンに出会ったことが無い。南北朝~室町期の人物って、「マイナーメジャー」な人ばっかりなんですよね)。


そんなこんなで尊氏の覚えめでたかった赤松家は、恩賞として播磨(兵庫中西部)・備前・美作(岡山中東部)の三ヶ国守護職と「四職」の地位を与えられます(ここまで重用された「外様」は京極家・山名家・土岐家ぐらいでしょうか。このラインナップを見てお気付きの方もいらっしゃるかと思いますが、上掲の四家はいずれも「四職」の家格です。一色家のみが足利将軍家の血縁ですが、前回お話ししたように、一色家は当初「九州探題」に任じられ、しくじった後に京都政界に復帰しています。九州で失敗したという閲歴が、「三管」には今一歩及ばず、「四職」と同格というあたりに落ち着いたのかなあと考えています。ちなみに周防・長門の大内家はやや別格なんでしょうね。山名家が「与党内野党」だとすると、大内家は「連立政権を構成する別個の政党」ってとこでしょうか)。

ここで、地図をお持ちの方は、またまた「守護大名」家を地図上に落とし込んで頂きたいんですが、赤松家の領国が細川家と山名家のそれに綺麗に挟み込まれていることが分かると思います。

こんな至近距離に、細川・山名という二大「守護大名」の勢力圏が位置しているって、結構恐ろしいことだと思います。

「譜代」最大の領国を有する細川家と、「外様」最大の領国を有する細川家の間に挟まれるって・・・私が赤松家当主だったら、こんな「前門の虎、後門の狼」状態、怖くて怖くてしょうがないです(笑)。


・・・という訳で、赤松家の歴代当主がとった戦略は、「細川家と親睦を深め、山名家に対抗する」というもの、だったようです。

具体的には、細川家との間に緊密な通婚関係を取り結び、連歌の会などの各種文芸行事に共同参画する、といった類です。

それから、赤松・細川家双方の領国が瀬戸内海に面していたということもあって、明への交易事業も共同して行っていたようです。

これに、先述した近江北半国の守護・京極家も加わり、「赤松=細川=京極ライン」が完成します(その狙いは、潜在敵国たる山名家を封じ込めることだったのだろうと思います。この三家連合の紐帯は、「応仁の乱」まで続いていくことになります。ちなみに山名家は西隣の大内家との紐帯を強くして「赤松=細川=京極ライン」に対抗していたようです。室町時代は「三管四職」の時代だった、と総括してもよさそうなものですが、私は「細川家VS山名家」の時代だった、と言い切ってみたくなります)。


こうして赤松家は、最盛期を迎えることになります。

足利将軍家の覚えもめでたく、幕府最大の実力者細川家とも友好関係を有している・・・一見してこれ以上望むべくもないほどの状態です。

円心(初代)の後を継いだ範資(二代。円心の長男)・則祐(三代。円心の三男)・義則(四代。則祐の長男)といった歴代当主たちも比較的優秀な人物だったので、初代・尊氏から第三代・義満ぐらいまでの期間は大過なく幕府の重鎮というポジションを満喫します(本当はもう少し複雑な動き方をしてますけど)。

風向きが変わったのは、「赤松満祐播磨下国事件」あたりからだと思います。


・・・というわけで、次回は義則の後を継いだ赤松満祐の話になります(・・・できるのか?)。

(つづきます)
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