江馬直の創作奮闘記

やっとこさ無職ではなくなった創作家、
江馬直の日常を綴るブログです。

ショートショート043「アルタヰルの、ヰプシロンの如く」

2013-08-26 23:13:16 | 『掌編寓話集』
學びなさひ學びなさひ御終ひなどは無ひのですから學びなさひ學びなさひ御終ひなどは無ひのですから此でまう御終ひ等と云ふ輩は土臺性根が缺けてゐますそんな輩の不埒な言を眞に受ける事などありませぬぞ學びなさひ學びなさひ嘲笑われても構わぬから續けなさひ學びなさひ學びなさひ嘲笑われても構わぬから續けなさひ此でまう御終ひ等と考へたが最期谷底まで滑落して消へてしまふでありませう佞妄に囚われて徒や學びを疎かにしてはなりませぬぞ宜しいか世に許容せられぬ事を怨んではなりませぬ宜しいか己の才幹の屹立せぬを嘆ひてはなりませぬそのいづれもが畢竟己の奮勵少く才乏しきを露わにするのみですぞ他者時世いづれを責めても益少く害多きのみですぞ其の事であのアルタヰルが書く事を止めましたか其の事であのヰプシロンが書く事を止めましたか彼等は其れでも懸命に何事かを爲そうと志したではありませぬか彼等は其れでも堅忍に何者かに成らんと志したではありませぬか彼等が碌々たる名聲を求めましたか彼等が莫大なる富貴を望みましたか彼等はただ學びたかつたのですよ彼等はただ書きたかつたのですよ其の精が邁な物であったかは判りませぬですが少くとも彼等は己の選擇に悔悟する事だけはしなかつた筈で御座ゐますいや實際に其の樣であつたかだうかは關係御座ゐませぬ貴方が其の樣に思ひ込む事が出來たか否かが最も肝要なので御座ゐます其の事さへ忘却の彼方へ置き去りにせられなければ貴方は尚暫くは正氣を保つて居られませう貴方は尚暫くは平靜を保つて居られませう壯健なる貴方はアルタヰルやヰプシロンの如き哀しき疾中に在るのでは無ひのですから
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好みは人それぞれなんだろうけれど。

2013-08-20 21:27:26 | 各種感想文
「明治篇」になってから、いまいち面白くなくなってきた気がする『八重の桜』。

今週は特に内容が散漫で観ていられなかった(のは私だけなんでしょうか?)。

全体的に何か浮付いてるっていうか(主に槇村正直のキャラクターが)、描写のバランスが悪いっていうか(主に征韓論争のくだりが)、ヒロインがでしゃばり過ぎっていうか(もう少し段階踏みながらでしゃばればいいのに)・・・。

少し気になったので、さっきちょっと調べてみたら・・・脚本家が交代してました。


え~、途中交代かよ・・・

完全な交代なのかどうかは、今後を観ていかないとよく判りませんが(どうやら「明治篇」から「脚本協力」の方が追加されたみたいですね。で、三十三話で正式に「脚本」に昇格したってことらしい。そして今までの脚本家さんは「原作」扱いになってます。ただ、来週はまた元に戻るらしいです。こういうのが「テコ入れ」ってやつなのか? う~ん・・・)、これが「変化」の原因だったんですね。

「幕末篇」の作風は確かに暗く重苦しいものでしたし(私はそこが気に入ってたんですけどね)、「ヒロインが話の中心じゃない!」とか、「史実を拾ってるだけでドラマになってない」とか酷評される方がいたのも知っていました。

でもねえ、コミカルにしちゃダメだったと思うんだけどなあ・・・


この路線の方が視聴率獲れるっていう判断なのか?

つうか、民放でもないのにそんなに視聴率って大事なの?

今までずっと観てきた一視聴者からすると、「おはなし」の一貫性を保つことの方が遥かに大事だと思うんですけどねえ(暗い「幕末篇」から明るい「明治篇」っていう転換自体は悪いことだと思いませんけど、今までの丁寧な描き方を変えてしまうのはいかがなものかと思います)。

正直、路線変更はしてほしくなかったです(第二部からがらりと変えるのではなく、その途中から脚本家を交代させたってところは、製作者側にささやかな良心があったってことになるのかな? それとも単なるピンチヒッター?)


まだ「明治篇」が始まって一ヶ月ですから、安易に否定してはいけないんでしょうが、この新しい脚本家さん、歴史パートを描くのはお上手ではないみたいですね(というか、書いたことが無い人なんだと思いました。話の繋げ方がとてつもなく下手でした)。

今後は、「幕末篇」で酷評されたヒロインの描写に力を入れていくってことになるんでしょうかね。

その結果、一昨年の大河ヒロインみたいに「何でもあり」の主人公になってしまったら、それこそ目も当てられないけど(いや、さすがにそこまでぶっ壊れることは無いと思いたいけど・・・)。

なんでもかんでも八重の功績にするようなことだけはしないでほしいなあ(今年のヒロインの持ち味は時代の流れに翻弄されながら、それでも懸命に生きるってところだと思うので)。


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さて、来年の「大河ドラマ」の信長&秀吉役が発表されましたね(黒田長政が「ガッチャマン」なのは・・・吉凶どっちに転ぶかなあ)。

信長に関する論評は差し控えたいと思いますが(いや、この人に狂気が出せるのか未知数なもので・・・)、問題なのは秀吉役かなあ、と。

私は素直に歓迎したいんですけど(十数年前に描ききれなかった晩年の秀吉が、彼の二度目の挑戦でどこまできちんと描かれるかとか、やっぱり『心配御無用!』とか言っちゃうのかとか)、でもねえ。

・・・「岡田」官兵衛、喰われちゃうだろうなあ(苦笑)。


それから、どうやら荒木摂津守村重が重要な役どころになるみたいですね。

司馬遼太郎の『播磨灘物語』・『鬼灯』、遠藤周作の『反逆』を読んで以来の村重好きとしては(何故か好きなんですよ、村重。妻子を棄てて逃亡するっていう人間臭いところが特に。「こんなにカッコ悪い戦国武将がいたんだ」ってほっとしたぐらいに好きです)、大いに期待したいところです(役者さんも割と嫌いじゃない人だったし)。

ついでにいえば、高山右近&中川瀬兵衛の「見捨てられコンビ」もちゃんと扱ってほしい(すでに『へうげもの』で描かれ済なので、別になくてもいいっちゃいいけど)。

まあ、大抵こういう期待は裏切られるんですけどね・・・


あと、光秀は・・・これ、ネタなんだよね?

もはや「伝統芸能」の域に達しつつある「敵は本能寺にあり!」を、「金髪豚野郎(しっかし酷いフレーズだなあ)」が叫ぶシーンというのが、ちょっとイメージ付かないなあ(どうしても『三匹が斬る』を思い出してしまう)。

光秀(小朝)といい、秀吉(竹中)といい、小寺政職(鶴太郎)といい、個性派俳優(というかコメディアン)使い過ぎなんじゃないかなあ(足利義昭が「濃い目(吹越満)」なのは、最近の「大河」のお約束だからここには含めない)。

そして、まだ公表されてないけど家康は誰がやるんだろう?(←「戦国大河」は嫌いって言っときながら、結局興味あるんじゃん、自分)


・・・お願いだから『天地人』みたいにだけはならないでほしいなあ。
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『自分の問題を克服せずに 他人に背負わせる事を「正しい」というのなら 僕の答えはただ一つ ふざけるな』

2013-08-17 23:10:17 | 雑文
↑↑↑「ある有名な漫画」のワンシーン中の主人公の独白です(何の漫画かは記しません)。

先日、「ある有名な報道番組」を観終えたところで、この独白が脳裏に浮かんできました(なんの番組かはこれまた記しません。敢えて他人に背負わせます)。

直接的には何の関連性もないだろうし、いやむしろ関連させてはいけないのだろうけれど、この独白が私の脳裏にこびり付いたままになっていた意味が、その番組を見ていてやっと判りました。

今の私を支配(オーバーな表現だなあ)している感情の種類も判りました。


私は怒ってるんだね。

ずっと怒ってるんだ。

しかも特定の「誰か」に対する怒りじゃない(漫画の中での主人公は、この場面では「誰か」に対して怒っているけれども)。

おそらく、適当に流すか忘れるかした方がいいことに対して、ずっと怒りつづけてるんだ。


だから怒りが持続してるんだ。

考えつづけることを辞めた方が遥かに楽であるはずなのに、それをしようとしていないんだ。

「怒る」という行為は膨大なエネルギーを必要とする(少なくとも私にとっては)。

そのエネルギーの浪費のような行為を、ずっとしつづけている。


なにかに歪みが発生した場合、それが表面化するのはかなり後のことになるらしい。

そして、表面化したころには取り返しのつかないことになっている。

歪みを正すことは極めて困難で、おそらく直しようが無くなっている。

だが、そのことに気付いてしまった人間が未熟な存在であった場合、それでも敢えて、その歪みを糺(ただ)そうと考えるだろう。


「バケツの水」をぶちまけたのは、その必要があったからだ、ということになっている。

でもそれは、本当に必要なことだったのだろうか?

誰が言ったか忘れたが(検索すれば出てくるのかもしれないけれど、そういうものに頼らずに思い出そうとしつづけることが、私は案外嫌いではありません。無駄な行為のはずなのにね)、人間という生き物の特質は、△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△なところであるのだという。

至言ではなかろうか。


脳髄に直結した水道管から洩れだしてくる思考を、強いて文章化するという行為も、おそらくはその同類なんだろうな。
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八月十五日の「年中行事」を、聞くたび見るたび思い返すこと。

2013-08-16 23:12:14 | 雑文

 ドイツ人はヨーロッパで生きていけないほどの歴史を背負ってしまったわけでしょう。戦後ドイツ(引用者注:旧西ドイツの意)の指導者たちはそう思って、われわれはドイツ人であるよりも、よきヨーロッパ人になりますと宣言した。もちろん若者にドイツ人という民族の誇りを持たせたいという気分はあると思うんですが、それを質に入れてまで、悪かったと言い続けた。地続きでお互いに隣人だった国をやっつけたわけですから、どのようなことをしてでも贖罪しますという姿勢以外には生きていく道がなかったろうと思うんですね。
 ところが日本は離れ小島なものですから、ラバウルから帰ってきたら歌を一つ歌って(笑)、忘れてしまった。韓国といえども玄界灘を超えるわけだから、引き揚げて帰ってきたらそれですっかり忘れてしまう。
 しかもドイツ人ほどひどいことをやっていないという意識がどこかにある。しかし、程度の違いを論じたってしようがないんです。質は同じなんですから。 
(中略)
 ぼくらは戦後に「ああ、いい国になったわい」と思ったところから出発しているんですから、しかも理想が好きな国なんですから、せっかくの理想の旗をもう少しくっきりさせましょう、といえばいいんです。そのとき「おまえ、朝鮮半島を支配したことがあるじゃないか」と言われれば、昔の話だけれども「申し訳なかった」と頭を下げていかなければいけない。頭下げるのは、カッコ悪いと言うけれども、いくら頭を下げてもいいんだ、カッコ悪いもヘッタクレもない。
 基本的な誇りの首の骨を折られた人たちには、三代、四代あとまで謝ることは必要です。それでいいんです。それで少しも日本国および日本人の器量が下がるわけではない。
(司馬遼太郎・井上ひさし共著『国家・宗教・日本人』司馬遼太郎の発言より引用)


東アジア諸国の反日政策・教育については暫く措く(この種の口実・「揚げ足」を与えているのが実は日本国だということを「忘れた」ふりをしたまま反駁する手合いが多いのは、なんと言うべきなのだろう)。

こういう「穏当」な発言も、「自虐史観」とか左派イデオローグとかっていうんですかねえ。

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ヘロドトスの「つづき」たち。

2013-08-15 01:45:34 | 各種感想文
ヘロドトス『歴史』を読了したら、「つづき」が読みたくなりました。

こうなるだろうとは思ってたんですけどね・・・

「つづき」と言っても、別にヘロドトスに他の著作がある訳ではありません。

古代ギリシア・ヘレニズム・ローマ史関連本のまとめ読みを始めたってことです。


これはねえ、中国史やイスラーム史並みの「底なし沼」なんですよ。

一度ハマり込んだらなかなか戻ってこられないですからね(でも毎度毎度「発見」があるからなあ。無目的な読書を馬鹿にするべきじゃないと思う)。

もう「ゴール」なんて見当たりません。

多分、これでまるまる一ヶ月ぐらいは没頭するんだろうけど・・・いつ戻ってこれるかなあ。


というわけで、次に読み返し始めたのは、当然というべきか、



トゥキュディデス『戦史』上・中・下(久保正彰訳 岩波文庫)



です。


ヘロドトスの『歴史』がいわゆる「ペルシア戦争」を題材にした史書だとすると、トゥキュディデスの『戦史』は、「ペロポネソス戦争」を題材にした史書になります。

この二種類の史書、執筆スタイルが全く違います。

『歴史』が「歴史物語風味」だとすると、『戦史』は「お堅い年代記」っていうところでしょうか(だから、高校時代ぐらいでこの二作品に挑戦した場合、『歴史』は読了しても『戦史』は中途で投げ出すことになります。というか、私が思いっきりそうでした。『戦史』をきちんと読み終えたのは実は結構最近で、大学四年生の頃だったと思います)。

『歴史』がやや荒唐無稽な逸話でも採録しているのに比べて、『戦史』はとにかく生真面目な著作なんです(決して無味乾燥って訳では無いんですけどねえ・・・。『歴史』が比較的お気楽に頁を開ける種類の本だとすると、『戦史』は読み始めるのに心の準備が必要な本です)。


ここで何の脈絡もありませんが、『戦史』出色の「演説(「ギリシア・ローマ史の醍醐味は演説に有り、中国史の醍醐味は上奏文に有り」というそうです。でも誰が言い出したフレーズなんだろう?)」をひとつ紹介します。

『歴史』や『戦史』の凄まじいところは、今でも用いるに足るフレーズが満載なところにありますね。

欧米の政治家のスピーチの中には、こうした「典拠」に基づいた演説が散りばめられていることが多いですね。

以下は、アテナイ最大の政治家と謳われたペリクレス(訳文中では「ペリクレース」)の演説の一部です。


 われらの政体は他国の制度を追従するものではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。その名は、少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる。わが国においては、個人間に紛争が生ずれば、法律の定めによってすべての人に平等な発言が認められる。だが一個人が才能に秀でていることが世にわかれば、無差別なる平等の利を排し世人の認めるその人の能力に応じて、公(おおや)けの高い地位を授けられる。またたとえ貧窮に身を起そうとも、ポリスに益をなす力をもつ人ならば、貧しさゆえに道をとざされることはない。われらはあくまでも自由に公けにつくす道をもち、また日々互いに猜疑の眼を恐れることなく自由な生活を享受している。よし隣人が己れの楽しみを求めても、これを怒ったり、あるいは実害なしとはいえ不快を催すような冷視を浴せることはない。私(わたくし)の生活においてわれらは互いに制肘(せいちゅう)を加えることはしない、だが事公けに関するときは、法を犯す振舞いを深く恥じおそれる。時の政治をあずかる者に従い、法を敬い、とくに、侵されたものを救う掟と、万人に廉恥(れんち)の心を呼び覚ます不文の掟とを、厚く尊ぶことを忘れない。
(『戦史』巻二 ペリクレースの演説より引用)



↑↑↑これだけを読むと民主主義政体の称揚に聞こえるでしょうが、実はこれ、戦没者慰霊祭で行なわれた演説の一部なんです。

つまりこれは一種の「アジ演説」でして、ペリクレスの「高尚」な演説を聴いたアテナイ市民は、更に激昂して戦争へと突入していく、というしかけになっています。

ペリクレスの発言は、民主主義の精神を伝えるものとして「正論」と言ってよいかと思いますが、と同時に、これに感激してさらに戦死する人々が増え、「ペロポネソス戦争」は長期化していくという、なんともアンビバレンツな――同時にペリクレスの狙い通りの――結果へと繋がっていきます。

煽動政治家ペリクレスの絶頂期ですね(いつの間にか論理がすり替わってるでしょ? ぼんやり聴いていたら大変なことになりそうだ。諸葛孔明の「出師の表」もそうですが、名演説とアジ演説は紙一重です)。


ちょっと余談が過ぎましたが、おそらく純粋な歴史史料として比較した場合には、『戦史』の方がより手堅い史書ということになるんだろうと思います(『歴史』の方が遥かに「面白い」作品だとは思いますけど。・・・って、まあ、単に私が『歴史』がより好みだっていうだけの話ですかね)。

『歴史』の執筆対象範囲が広すぎるため、やや雑駁で荒唐無稽に見えてしまうのに対して、『戦史』は焦点を当てる対象を絞っているため、大変整然と執筆されているように見えます(=物事の因果がきっちり書き込まれている)。

かっちりし過ぎていて遊びの余地が無い、ということも出来るますけどね(ちなみに『歴史』は、エジプト⇒ペルシア⇒スキタイ・・・と話がギリシアに留まらず、何処までもぶっ飛んでいきますから、遊び過ぎにさえ見えます。『戦史』が良くも悪くもギリシア世界に限定した史書であるため、その違いが余計に際立っているとも言えます)。

そうしたところが、ヘロドトスを「歴史の父」、トゥキュディデスを「実証史学の父」と評する所以なんでしょうね(ちなみに全く関連性は無いと思いますが、中華世界の史書でも似たようなことがありました。司馬遷の『史記』の「つづき」――実際はちょっと違うんですけどね。あくまでも便宜上の言い草です――として書かれた史書に班固の『漢書』がありますが、後世歴代王朝の「正史」が編纂される際、模範とされたのは『史記』では無く『漢書』でした。『漢書』が前漢王朝の一代記(+王莽の「新」王朝)として大変手堅く執筆されたのに対して、『史記』が執筆した時代・範囲があまりに広すぎたため(神話時代~夏・殷・周・春秋・戦国・秦・楚漢戦争・前漢盛期まで。ヘロドトス『歴史』と同様、司馬遷が判る範囲の出来事はあらかたぶち込んであります)、模範とされなかったようなんです。『漢書』執筆以降、「正史」の多くは王朝ごとに区切られた「断代史」となっていきます。例えば、『後漢書』は後漢一代、『三国志』は曹魏・蜀漢・東呉三国の事跡、といった具合です。「初代」であるはずの『歴史』と『史記』ではなく、「二代目」である『戦史』と『漢書』が後世の史書の規範となっていくあたり、古代ギリシア世界と中華世界の奇妙――それとも必然?――な共通項ですね。まあ、破格な「初代」の真似は誰にも出来なくて、穏当堅実な「二代目」のスタイルを踏襲した方が無難ってことなんでしょうか。・・・今回は脱線が多いなあ。戻ります)。


さて、そんな手堅い『戦史』ですが、ほとんど唯一といっていい「欠点」を持っています。

それは、この史書が「未完」であることです。

「ペロポネソス戦争」の途中までで執筆が中断しているんです(中断理由は諸説ありますが、どうやら執筆中に作者が死亡したからでは無く、何らかの事情で作業が中断したからであるらしいです)。

『戦史』を無事読み終えた時、「えっ、ここで終わるの?」ってなりました。


一応、半端なところで終わるという予備知識を持って読み進めてはいたんですが(唐突な終焉を迎えるあたり、日本史でいう『吾妻鏡』に似てますね。あれも鎌倉時代の通史として考えると結構半端なところで終わってしまいます)、ちょっと納得がいきませんでした。

それでずっとモヤモヤしてたんですが、二年ほど前から、あるシリーズ本の存在が気になり始めました。

京都大学学術出版会が刊行し続けている「西洋古典叢書」です。

その名の通り、ヨーロッパ世界(の原型を形成した地域。ギリシア・ヘレニズム・ローマ史を西洋史の雛型とする考え方がありますが、私は違うんじゃないかと思っています。「地中海世界」と言い直した方がより適切なんじゃないかなあ。例えば、ビザンツ帝国という、ローマ帝国の継承国家がありましたが、その後を襲ったのはイスラーム世界+草原世界から勃興したオスマン朝でした。オスマン朝の支配領域は旧東西ローマ帝国のそれに匹敵し、ギリシア・ローマの古典文化の影響を色濃く受けてもいますが、オスマン朝をヨーロッパ扱いはしません。ローマ古典文化の正統なる継承者は、実はオスマン朝だと思うんだけどなあ。でも、あまりそういう理解はされませんよね? 「西洋」とか「中国」っていう「括り方」っていうのは多分に作為的なもので、もう少し柔軟に考えるべきものなんじゃないかと思うんです。これはモンゴル帝国史家の岡田英弘氏や杉山正明氏、中央ユーラシア史家の林俊雄氏などの影響を色濃く受けた考え方ですが、現代の「国民国家」の存在を前提にした歴史像って誤解を生じやすいんじゃないでしょうか・・・ってまたまた余談が過ぎますね。元に戻します)の「古典」を翻訳刊行したものです。


この「西洋古典叢書」、従来訳出されてこなかった古典を順次翻訳刊行するという、かゆいところに手が届く(?)シリーズになっています。

主要な古典が既に「岩波文庫」などで刊行されている場合、そちらは敢えて刊行せず(例外もありますが)、マイナーな古典ばかりをチョイスしてくれています(じゃないと翻訳しても「岩波文庫」に負けてあんまり売れないだろうしね)。

「西洋古典叢書」の存在を知ったのは大学進学直後だったんですが、なかなか手を出せませんでした。

だんだんと東洋史関連書籍で手一杯になってしまって、大部なこのシリーズにまで挑戦する気力が失われていたんです(この時期に無理してでも読んどきゃよかったなあ)。


が、今回、『歴史』、『戦史』と連続して読み進めていったせいで、急激にその「つづき」が読みたくなりました。

「つづき」を訳出したものが、「西洋古典叢書」に入っていることはだいぶ以前から知っていました。

「それ」が、県立図書館のギリシア・ローマの棚にずっと鎮座していることにも気付いていました。

という訳で先週、県立図書館の西洋史棚で黙考すること数分、「他に借りたいものがある訳じゃない」とひとりごちて、「つづき」を借り出してきました。


で、その「つづき」というのが、



クセノポン『ギリシア史(ヘレニカ)』1・2(根本英世訳 京都大学学術出版会)



という史書です。


一昨日、とりあえず読了しまして、『歴史』・『戦史』・『ギリシア史』という「古代ギリシア史三部作」をようやく脳味噌の中に放り込むことが出来ました(ああ疲れた)。

なかなか癖のある史書でして(訳本の解説にも書いてありますが、クセノポンの「贔屓」が各所に出ています)、『戦史』ほど客観的な史書では無いということはよく判りましたが、それでも充分に面白い内容でした(粗雑に結論付けると、「ヘロドトスほど面白くは無く、トゥキュディデスほど生真面目では無い」ってことになるでしょうか)。

『ギリシア史』を読んで、十年来の宿願を果たしたはずだったんですが、ここで予想外の好奇心が首を擡げてしまいました。

当初の予定だと、この後はヘレニズム・ローマ史関連本に突入するはずだったんですが、これは当分先の話になりそうです。


『ギリシア史』以上に、作者であるクセノポン当人に興味を持ってしまったんです。

というよりも、クセノポンが何者であるかがようやく判ったから、とでもすればいいでしょうか?

クセノポン噺は、これまた長くなりそうなので、いったん区切ります。

とりあえず今回はこんなところで(またオチがない!)。

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