江馬直の創作奮闘記

やっとこさ無職ではなくなった創作家、
江馬直の日常を綴るブログです。

「天正壬午(てんしょうじんご)の乱」

2013-05-30 12:00:29 | 日本中世史
司馬遼太郎の隠れた名作に『覇王の家』があります。

徳川家康を題材としたこの小説は、「小説」と呼ぶにはあまりに実験的な作風でありすぎるため、高い評価を得ているとは言い難いのですが(隠れファンはそれなりにいると思うけど)、そのほぼ中盤に置かれている「甲信併呑」の章が大好きで、何故か何度も読み返してしまいます。

決してそこがこの作品のハイライトという訳ではないのですが、司馬解釈による家康の変貌っぷりがあまりに露骨すぎて、ついつい興味が向いてしまうんですよね。

司馬遼太郎という人は、徳川家康が嫌いとまでは言えないにせよ、少なくとも好感を抱いてはいなくて、終始ドライな筆致で書き綴っています。


この章の前には、嫡男信康の切腹⇒「甲州征伐(武田家滅亡)」⇒信長の富士遊覧⇒「本能寺の変」⇒「伊賀越え」があり、その後ろには本作の真のハイライトである「小牧・長久手の戦い」と譜代重臣・石川数正の岡崎出奔が位置しています。

これまで信長に頭を押さえつけられていた家康が、その死後急激に調略活動に勤しみ、合戦に依らずして甲斐・信濃という旧武田領を併呑し、秀吉の対抗馬に成長していく過程を描くこの章は、『関ヶ原』や『城塞』でより一層露わとなる家康の謀略家的資質の片鱗を垣間見せてくれます。

まあ、これはあくまでも「司馬遼太郎が描く徳川家康像」な訳で、実際の家康がそういう人物であったか否かはまた別問題となります(前にも書きましたが、小説家の描いた人物像が真実の姿である訳がありませんからね)。

司馬が家康を主体に据えて、甲斐・信濃の併合というトピックを扱うとこのようになる、ということです。


さて、日本列島の戦国史に関して、最近ずっと気になっているトピックがあります。

それは、

「呼び込み」

というものです。

多くの日本中世史研究者の中で、地域統合・天下統一の原動力となったと考えられるようになった政治現象のことです。


やや図式的に説明しますと、

「a村」と「b村」の間で領土紛争が発生
⇒「a村」は「国人A」に、「b村」は「国人B」に紛争解決を依頼(紛争に国人が呼び込まれる)
 ⇒「国人A」と「国人B」の間で領土紛争が発生
  ⇒「国人A」は「大名α」に、「国人B」は「大名β」に紛争解決を依頼(紛争に大名が呼び込まれる)
   ⇒「大名α」と「大名β」の間に領土紛争が発生
    ⇒「大名α」が「大名β」の領土を併呑し、領域拡大
     ⇒「大名α」の領域と新たに隣接した「大名γ」との間に領土紛争が発生
      ⇒「大名α」と「大名γ」の紛争に対し、豊臣秀吉の「惣無事令(無条件停戦命令)」が出される
       ⇒「大名α」は仲介を了承し所領を安堵されるが、「大名γ」は拒絶する
        ⇒秀吉の出兵により「大名γ」は滅亡、その所領は再分配される
         ⇒秀吉の天下統一


ということになるでしょうか。

「中世」とか戦国時代とか呼ばれる時期の紛争の多くは、おそらくこの理屈で説明がついてしまうのだろうと思います。


二年ほど前、この「呼び込み」という概念を援用して地域史を徹底的に分析したという研究概説書が出版されました。




平山優著
『天正壬午の乱』 『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望』



この正続二作は、「本能寺の変」後、主を喪った旧武田遺領を巡り、争った徳川家康・北条氏政・上杉景勝の三大名の動向と、それに翻弄されつつも生存の道を探る甲斐・信濃土着の国人衆の去就、そしてその結果誘発された豊臣秀吉の天下統一について、実に詳細に分析したものとなっています(この一連の動乱を総称して『天正壬午の乱』といいます)。

従来、徳川・北条・上杉の三大勢力の角逐、徳川氏の飛躍として捉えられてきた「天正壬午の乱」に、平山氏は信濃国人衆(村上・木曾・諏訪・小笠原・保科・依田・真田といった諸氏)の生き残りをかけた地域紛争としての側面を付加して捉えます。

「大大名」という上からの視点と「国人衆」という下からの視点が絡み合うことによって、見てきたような(ドキュメント風の)「天正壬午の乱」が描き出されています。

少なくとも家康のワンサイド・ゲームなどではなかったということがよく判りました。


『覇王の家』では、「天正壬午の乱」という事件は謀略家・家康の覚醒という観方で捉えられていましたが、これは全く別の観点でした(無論、歴史小説と歴史概説は全く別物です。決してこれを混同してはなりません。が、司馬の書き方がルポルタージュ風なので、読者はそれに良くも悪くも影響されてしまいます。私も司馬の観点に毒されていたということになるでしょうね。司馬のこういうところが、歴史研究者の忌避を買い、一般読者を大いに誤解させ、そして読者層の多い作家になりおおせた要因でしょう)。

このマニアックな人以外誰も喜ばないであろう(無論、言葉の綾です。この労作を書かれた平山氏には心より敬意を表します)二冊の概説書が、私には大変参考になりました。

私は、今やたらとこの「呼び込み」にこだわっているわけですが、その理由は魏晋南北朝時代の「中華世界」でもこれと同様のことが起こっていたのではないか、と考えているからです。

「呼び込み」は、世界各地の様々な時代で起こりえたであろう普遍的な現象だと思うんです。


・・・こういう観点を取り入れながら、魏晋南北朝時代を題材にした小説が書けないかなあ。

単に「英雄」が活躍するという歴史小説ではなく、時代なり、事件なりに翻弄され苦悩する人々の姿が描けないかなあ。

などという、ある種不遜なことを、今、考えています。

もうちょっとで、本来書きたいと思っていたものに戻っていけそうな気がしています(単なる勘違いかな?)。
コメント

聊(いささ)か復(ま)た自(みずか)ら私(ひそか)に脈絡も無く。

2013-05-22 00:20:25 | 日本中世史
ブログを始めた当初、九州のキリシタン大名に興味関心がある、なんて話を書いたことがありました。

よせばいいのに、それが久々に再燃しています。

絶対キリが無くなるのに(馬鹿だなあ)・・・でも、止められないっていう(苦笑)。

もう十五年ぐらい(長っ。でも、歴史に興味を持つようになって四半世紀ぐらいにはなりましたから、こんなものかなあ)気になって気になって仕方のない存在が、大友宗麟(おおともそうりん)です。


多分興味を持ったきっかけは、海音寺潮五郎の『武将列伝』(「大友宗麟」と「立花一族」の頁)と遠藤周作の『王の挽歌』だったんだろうと思います(そういえば十年ぐらい前に『王の挽歌』はNHKで単発ドラマ化されましたね。宗麟役が意外というべきか松平健。「暴れん坊宗麟」って感じでは無くって、やや抑えた演技でしたけどね。そしてその正室役が小林聡美か戝前直美だったはず(ちょっとうろ覚え。どっちだったかな?)。内容は・・・まあ、期待したほどでは無かったですね(苦笑)。何より尺が短過ぎでした。正味二時間も無かったような気が・・・。もう少し長ければ描きようもあったんじゃないかなあ)。

豊後(現大分県)の戦国大名だった大友宗麟(1530~1587 諱は義鎮<よししげ>。宗麟は法名)という人は、実父・義鑑(よしあき。読み辛い名前だなあ)の横死後(有名な事件ですね。「二階崩れの変」というインパクトの強い事件名のおかげもあって、私は一発で覚えました。何で「二階崩れ」というのかは、ぜひご自分で調べてみて下さい)に家督を継ぎ、優秀な家臣団(吉岡長増<よしおかながます>・臼杵鑑速<うすきあきはや>・吉弘鑑理<よしひろあきさと>の「豊後三老」、猛将として名高い戸次道雪<べっきどうせつ>・高橋紹運<たかはしじょううん>・立花宗茂<たちばなむねしげ>など。この時代には珍しい「忠義者」が多いのが特徴です)に恵まれたこともあって、九州の大半に勢力圏を拡大しましたが(最盛期には、豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後・日向の七ヶ国にまで進出)、新興の肥前龍造寺家、古豪の薩摩島津家に相次いで大敗を喫し(それぞれ「今山の合戦」と「耳川(みみかわ)の合戦」といいまして、どちらも大友方の歴史的大敗として有名です)、急速に弱体化していってしまいます(最終的には「沖田畷(おきたなわて)の合戦」で龍造寺家をも撃破した島津家の猛攻に遭い、豊後一国と筑前数郡というところまで追い詰められます)。

これですっかり弱気になった宗麟は、畿内を制覇した直後の豊臣秀吉に救援を依頼します(というより這いつくばっての懇願に近いかな。なお、この時期の宗麟の心の葛藤を小説化した作品が、先述の『王の挽歌』となります。ところで、私が不勉強で知らなかったんですが、「大友・立花もの」の小説って結構多いんですね。白石一郎(直木賞作家。数年前に直木賞を受賞した白石一文氏の実父でもありますね)『火炎城』(大友宗麟)、滝口康彦(以前話題にしましたが、『拝領妻始末』『一命』の原作者として有名です)『乱離の風』(立花・高橋一族)、赤瀬川隼(彼も直木賞作家)『王国燃ゆ』(大友宗麟)などがありました。近作だと、先年直木賞を受賞した葉室麟氏の『無双の花』(立花宗茂)。先日、ようやくこの四作品を読み終えましたが、いずれも大変面白かったです。日本におけるキリスト教問題、一代の栄光と落日、忠義と玉砕、ゼロからの再起等々、汲み取れるテーマが多岐に渡るからなんでしょうか? どうやら「大友・立花もの」は駄作無し、のようです)。

結局宗麟の行動は、秀吉の「九州征伐」の呼び水として利用され(余談ですが、最近の戦国・安土桃山史では、この「呼び込み」とでもいうべき現象が注目されているみたいですね。単純に信長・秀吉の軍事行動によって天下統一が為されたとする従来説とは異なり、各地域の紛争の連鎖による、結果としての天下統一――東北地方の伊達氏、関東地方の佐竹・後北条氏、甲信地方の武田氏、東海地方の今川氏、北陸地方の長尾上杉氏、中国地方の宇喜多・毛利氏、四国地方の長宗我部氏、九州地方の大友・島津氏といった地域ブロック単位の大勢力の拡張と、その周辺の中小勢力の動静に、畿内を平定した織豊政権が介入していき、雪達磨式に膨れ上がっていって天下統一される――として捉え直そう、という考え方です)、彼は失意の中で病没しますが、絶頂期と衰退期をその生涯で体験してしまったというあたり、なんとも言えない哀れさを覚えます。


宗麟は毛利元就・長宗我部元親・島津義久といった西国のその他の大大名に比べると知名度も低いし、シンパシーを感じる人も少ないだろうとは思いますが、何故か私は興味をそそられます。

彼には破滅型君主の典型とでもいうべき逸話が多く残されています。

例えば、自分の家臣の妻を寝取るといった漁色に耽ったという話(自分の欲望に制御が利かないタイプだったということになるでしょうか)、それに反発した重臣連の謀叛が相次ぎ、本来九州統一に注ぐはずだったエネルギーを拡散させてしまったという話、そしてキリスト教を盲信し過ぎるのあまり、日向国(現宮崎県)に理想郷を建設しようと邁進し、ものの見事に失敗していったという話・・・

当人が意識していたかどうかは判然としませんが、破滅願望を満たそうとするある種の狂気じみたものさえ感じます(っていうのは言い過ぎかな?)。


こんなのが主君だったら家臣団は堪ったものでは無かったでしょうが、道雪やら紹運やらが叛旗を翻さず忠義を尽くしたってあたりはどう理解すればいいのかなあ。

フランシスコ・ザビエルのキリスト教布教を許可したり(晩年には正式にキリスト教に帰依してもします。有名な「天正遣欧少年使節」を派遣したのも宗麟です)、いわゆる南蛮交易で莫大な利益を上げたり(大砲を購入した最初の大名としても知られています)、領内の医療施設を庶民に開放して無料診察したり(実態は大分怪しいようですが)・・・と、それなりに挙げるべき事績も多いんですが、どうしても負の側面の方がクローズアップされがちな人物であるように思います。

まあ、こういう人物の方が人間臭くて面白いんですけどね。

あ、だから小説のネタにはしやすいのか(笑)。


そういえば来年の大河ドラマは『軍師官兵衛』ですが(先日一部キャスティングが公開されましたが、ぶっちゃけた話、かなり不安です。『天地人』とか『江』みたいになるんじゃないか? もう「戦国ホームドラマ」は沢山なんですけど。時代劇の「ホームドラマ化」が許されるのは江戸時代以降だと思うんだけどなあ。あと余談ですが、谷原章介っていつのまにか大河常連になってますよね。あ、変な予言していいですか? 多分官兵衛と半兵衛はかなり早い段階から交流しますよ、きっと。さあ、この谷原・岡田の「二兵衛」に挟まれる「禿鼠」はだれになるんでしょうか?)、中国・四国・九州征伐といった西国の話はどのぐらいクローズアップされるんでしょうか(実はこの辺りって映像として「きちんと」取り扱われたことがほとんど無いですよね)。

大友宗麟と黒田官兵衛で思い出したことがあるんですが、「城井谷崩れ」(官兵衛が豊前の国人領主・城井氏一党を「悪辣な」手段で葬り去った事件。全貌を書くと疲れるし虚しくなるので止めますが、こんなに胸糞悪い計略も珍しいです)ってちゃんと映像化されるのかな?(でも、司馬遼太郎の『播磨灘物語』でも意図的に省かれてたし、無視されるんだろうなあ。せめて美化だけはしないでほしい。岡田官兵衛が「こんなことはしとうなかったのじゃあ!!」とか泣いて誤魔化すのはマジで止めてほしい。冷厳な暗い表情で、この悪謀に手を染めてくれないかなあ。無理だろうなあ)

NHKには『天地人』で「新発田重家の乱」(重家は越後の国人領主集団「揚北衆」の一員。上杉景勝・直江兼続に叛逆するも敗死を遂げた。その顛末を知ると、「愛」だの「義」だのを標榜する物語のテイストと合致しないため黙殺された)を華麗にスルーしたという「前科」がありますからねえ・・・(だいぶ前の大河になりますが、『毛利元就』では有力家臣・井上元兼一党の族滅事件を結構丁寧に描写していましたけどね。この井上という人物、ふてぶてしいヒール役として描かれてたんですが、それを演じたのは怪優・片岡鶴太郎でした。またまた余談ですが、『軍師官兵衛』で官兵衛の最初の主君となる小寺政職役を演ずるのも片岡です。この人も大河常連ですねえ)。

大河の悪癖として、主人公を過度に美化し過ぎるというのがありますが、戦国ものは特にそれが顕著ですよね(敢えて醜悪なところもきちんと描く、っていう物好きな脚本家って少ないんだろうなあ)。


そういえば城井氏で思い出したんですが、城井氏は別名、豊前宇都宮氏といいまして、「関東八屋形」のひとつで下野国にルーツを持つ名族・宇都宮氏の支族にあたります。

宇都宮氏の分流は大きく三派ありまして、伊予宇都宮氏、豊前宇都宮氏(別名:城井氏)、筑後宇都宮氏(別名:蒲池氏)があります。

この宇都宮一門、豊臣秀吉とはよほどに相性が悪かったらしく、秀吉の天下統一の過程でその尽くが滅亡しています(宇都宮本宗家は太閤検地に絡む疑獄に巻き込まれてお家断絶しました。伊予宇都宮家は秀吉傘下に加わった毛利家に攻め滅ぼされました。城井家は前述のとおり黒田官兵衛の手で滅ぼされました。そして蒲池家は大友家と龍造寺家の抗争の過程で滅ぼされてしまいました)。

なんというか、ここまで全家系が衰亡するというのもなかなか壮観なものですね(ドライな見方をすれば、時流に乗り損ねた一族なんでしょうね。鎌倉・室町時代から続いていた旧秩序の崩壊現象に対応できなかったっていう)。


宇都宮氏と室町的旧秩序で思い出したんですが、かつて「関東八屋形」と呼ばれた有力武門がありました。

下野宇都宮氏
下野那須氏
下野長沼氏
下野小山氏
下総結城氏
下総千葉氏
常陸小田氏
常陸佐竹氏


彼らは鎌倉に設置された関東公方府・関東管領山内上杉氏に直属しながら京都の室町幕府とも交流を持つという複雑な遊泳をしながら関東の政局を動かすという、なかなかにしたたかな存在でした。

が、公方府・関東管領家の衰退と後北条氏(北条早雲とその子孫たち)の台頭、長尾上杉氏(上杉謙信)の関東侵攻などといった時世に翻弄され、更には信長・秀吉・家康ら中央政権の諸政策にも翻弄され、佐竹氏を除いていずれも衰亡しています(佐竹氏も関ヶ原で西軍に付き、出羽秋田に転封させられています)。

「関東八屋形」の事跡を細かく見ていくと、魏晋南北朝時代に興亡した中小の諸政権や、その傘下で苦悩した諸豪族の事跡が重なってきて、大層興味深く思います(これは勝手な持論ですが、「中華世界」の魏晋南北朝隋唐時代と「日本列島」の平安末・鎌倉・南北朝・室町・戦国・安土桃山時代あたりって時間軸はずれてますけど時代相は恐ろしく似通っている気がしています。どうしても律令国家としての隋唐帝国と奈良・平安朝という対比がされているように思うんですが、全くの見当はずれであるような気がします。いずれ機会があったら詳述してみようと思います)。


魏晋南北朝時代といえば・・・ってキリが無くなってきたのでもう止めておきますが、九州のキリシタン大名の話がどこかに消えてしまいましたね(でも、強引に繋げますけど、キリスト教に触れて動揺する大友宗麟と、仏教に触れて動揺する魏晋南北朝時代の皇帝たちの心性って酷似してる・・・かもしれないなあ)。

このどっ散らかった思考回路を何とかひとつに収斂させてみたいんですが、なかなか難しいです。

これでも大分纏まってきてるんですけどねえ。

これ以上訳の判らないことを書き始めないように、とりあえず今日はこの辺りで(また何のオチも無い終わり方をしてしまった。猛省)。
コメント

ショートショート033「雲霞(うんか)」

2013-05-16 22:46:48 | 『掌編寓話集』

 呆れるほど見事なそれを見たのは、何年前のことだったろうか。
積乱雲が幾重にも折り連なり、空の先が見えないほどであった。その天井をのびやかに見上げると、決して白い訳ではなく、反対に黒灰色に沈んでいる訳でもなく、かといってかすけくおぼろげな訳でもない、無定形の莫大な塊が在るだけだった。
 曇天と呼ぶのは躊躇われる程に、湿り気の少ない、それは、長い長い雲の列だった。
 その雲の下をのびやかに歩いてみると、不思議と不快感は消え去って、柔らかい風の膜に覆われているかのような錯覚に囚われるのだった。所詮は錯覚でしかないと、理性では判っているはずなのに、それでもその被膜を破り捨ててしまいたくはなくて、後生大事に抱えて先を歩いて行きたくなるのだった。
 ふと気付いて立ち止まった眼前には、八月の光を存分に浴びたのであろうくすんだ黄金色の列があった。田圃を美しいと感じたことは、後にも先にもこの時しか無かった。雲の群の下では、本来輝くはずのない稲穂たちがそれでもさやさやとそよいでいる。たったそれだけの光景が、ひたすらに美しく感じられた。
 絵心も無ければ写真を撮る趣味も無い。だからこそ余計に、この時の光景を尽く、己の脳裏に収めきってしまいたかったのかもしれない。

 そんな景色が、一変したという。
 今、その地には美しい田圃は無いという。
 あるのは、干乾びた跡地と、剥き出しになった荒地と、ささやかな数の家屋だった物体と、それから蒸発して白い個体の姿を露わにした海水の残り香だけなのだという。
 そしてもうひとつ、辛うじて残っているものは、時折発生するという、あの奇妙な形をした雲の列である。
 その雲霞は、包み込むべき対象を喪失したままに、かつてと同じように折り重なって空の先を見えなくする。雲の天井の下、のびやかに生長した稲穂の群がさやさやとそよいでいるはずだったのに。
 雲霞は、潤すべき対象を見失ったまま、それを悼みでもするかのように唐突に、泣き出すのだという。渇いた田圃に、生命の雫をこれでもかとばかりに夥しく、注ぐのだという。注がれてできた涙の流れは、かつて海水だった白い塊と荒地の土塊を巻き込んで、ある種形容し難い無残な色彩を帯びた汚泥となって溢れ返る。降り落ちた先でのみ、人の涙と同じ味になって流れ続ける。
 存分に泣き終えた雲霞は、両の手を広げ伸びをするようにして四方八達に飛び散っていく。別れ別れになって消える雲と雲との間から、今度は今更のように陽の光が降り注ぐ。降り注いだ日光は、汚泥の集積地だったはずの荒れた大地をまんべんなく照らし出す。無残なはずだった汚泥が、きらきらと輝き始める。稲穂のように黄金色では無いその輝きは、あるいは錯覚かもしれない。でもそれでも充分に、美しく揺らめいて見えるのだった。
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海音寺潮五郎再読。

2013-05-15 01:06:09 | 各種感想文
最近、気になっている作家がいます。

・・・っていうか、気になるものが多すぎるんだよ、自分(←「・・・ったく、フォークナーはどうした!」って話ですが、毎月興味関心の方角が変わるという、恐ろしく移り気な生き物なもので)。

で、その気になる作家ですが、例によっていうべきか、大分古い作家です(フォークナー程には古くないけど)。

このあいだもちょっとだけ話題に挙げましたが、『天と地と』の作者、海音寺潮五郎(1901~1977。あ、今気付いたんですが、海音寺って太宰治、中島敦、井上靖よりも年上だったんですね)です。


私は、中学時代に海音寺の『孫子』と『中国英傑伝』を読んで以来の読者なんですが(もっとも、小学時代に渡辺謙が急性白血病を発症し降板したことで有名になってしまった映画版『天と地と』は観てましたが)、最近気になっているのは、彼の遺した一連の「史伝文学」です。

「史伝文学」というのは、ノンフィクション風の伝記・史論を総称したものです(少なくとも私はそう認識してます。なお海音寺は、司馬遷の『史記』をモデルにした人物列伝という意識で「史伝文学」を執筆していたのだろうと思います)。

戦前にはそれなりに需要の大きなジャンルで、有名な書き手としては森鴎外(1862~1922)と幸田露伴(1867~1947)などがいましたが、戦後になると歴史・時代小説が主流となり、「史伝文学」をものする作家は急速に減っていきました(広義での「史伝文学」小説は残りますが)。

『平将門』や『天と地と』、『天正女合戦』などといった長編小説なら読んでいましたが、海音寺の「史伝文学」は一部を除いてほとんど未見だったもので、現在鋭意読破中です。


海音寺「史伝文学」の代表格としては、一種の「対比列伝」となっている観のある


『武将列伝』





『悪人列伝』


江戸時代諸藩の「お家騒動」の型をほぼ網羅しているであろう


『列藩騒動録』
(絵柄が繋がっていたので上下逆にしました)


「忠臣蔵」から徹底的にフィクションを排して構成したとされる


『赤穂義士』


それからややマイナーなところでいうと


『日本名城伝』



『幕末動乱の男たち』


などといった作品があります(ちなみに今並べた「史伝文学」作品は、『海音寺潮五郎全集』十六巻~二十巻に収録されていますし、ここ数年来の怒濤の再刊ラッシュによりすべて文庫化されています。没後三十年を記念しての改訂再刊だったようです。いやあ、十年前に比べたら遥かに入手しやすくなりました。ついでに言えば、先に述べた『中国英傑伝』も「史伝文学」に含まれます)。

そして当然とでもいうべき(?)巨編


『西郷隆盛』
(「新装版」だと全九巻)


に至り絶筆となります(海音寺潮五郎の出身地は鹿児島県です。海音寺にとって西郷とは単なる「御当地英雄」というだけではとても足りない、何とも形容し尽くせない存在だったようですね。ちなみに海音寺が手掛けた「西郷もの」はきわめて多岐に渡りまして、私は未だにその全てを読破出来ずにいます。詳しくは、横着になりますがこちらをご参照ください。最近偶然見付けたサイトです)。


で、何故海音寺「史伝文学」を読み始めたかと言いますと、司馬遼太郎の「元ネタ」探しの過程で引っ掛かったんです(←また司馬遼太郎かよ)。

司馬作品を通読すると判ることですが、司馬が拾ってくる逸話は、出典が不明瞭であるケースがきわめて多いです。

実は、本式で歴史学を研究している方面からすると、司馬作品というのは無責任な文章が羅列してあるだけのけったいな代物で、歴史とも文学ともつかぬ鬼っ子でしかない、という酷評が存在するんです。

多少なりとも事実を穿った見方であろうと思います。


実証性が中途半端だということでしょうし、それはまったくもってその通りだとは思います。

ただ、司馬がユニークなものの見方をしていたのは事実でしょうし、そこまでは否定する必要も無いと思うのです(極端に毒され過ぎるのも禁物でしょうが。「歴史文学」と「歴史」をきっちり分けて読む必要があるでしょうね)。

ただ、あまりにも出典・実証性が不明瞭であり過ぎるため、司馬の見解がオリジナルなものなのか、既に誰かが言及したものであるのかが判り難くなっています。

という訳で、時折「元ネタ」探しをしていた訳なんですが、灯台下暗しと言いますか、案外容易に発見できる箇所に転がっていたんです。


少々煩雑になりますが、以下は海音寺「史伝文学」作品の目録です(併記してあるのは対応する司馬作品です)。

軽く眺めてみて下さい。

*******************************************

『武将列伝』(その名の通り、日本史上活躍したとされる主要な武将たちの列伝)
悪源太義平
平清盛
源頼朝
木曾義仲
源義経・・・『義経』
楠木正成
足利尊氏
楠木正儀
北条早雲・・・『箱根の坂』
斎藤道三・・・『国盗り物語 斎藤道三篇』
毛利元就
武田信玄
織田信長・・・『国盗り物語 織田信長篇』
豊臣秀吉・・・『新史太閤記』
徳川家康・・・『覇王の家』
大友宗麟
山中鹿之介
明智光秀・・・『国盗り物語 織田信長篇』
武田勝頼
竹中半兵衛・・・『新史太閤記』
前田利家
黒田如水・・・『播磨灘物語』
蒲生氏郷
真田昌幸・・・『関ヶ原』
長宗我部元親・・・『夏草の賦』
伊達政宗・・・「馬上少年過ぐ」
石田三成・・・『関ヶ原』
加藤清正
立花一族
真田幸村・・・『城塞』
徳川家光
西郷隆盛・・・『翔ぶが如く』
勝海舟・・・『竜馬がゆく』

『悪人列伝』(史上、「悪人」に仕立て上げられてしまった著名人の再評価列伝)
蘇我入鹿
弓削道鏡
藤原薬子
伴大納言
平将門
藤原純友
藤原兼家
梶原景時
北条政子
北条高時
高師直
足利義満
日野富子・・・『妖怪』
松永久秀・・・「果心居士の幻術」
陶晴賢
宇喜多直家
松平忠直
徳川綱吉
大槻伝蔵
天一坊
田沼意次
鳥居燿蔵
高橋お伝
井上馨・・・「死んでも死なぬ」

『新名将言行録』(全集には未収録。『武将列伝』『悪人列伝』と一部重複するも別内容)
源頼義
源義家
源為朝
源義朝
北条時頼
北条時宗
北条高時
竹中半兵衛
島津家久
島津義久・・・『関ヶ原』
堀秀政
黒田如水
山内一豊・・・『功名が辻』
池田輝政
宇喜多秀家・・・「宇喜多秀家」
立花宗茂

『覇者の条件』(全集には未収録。『武将列伝』と一部重複するも別内容)
平清盛
源頼朝
北条泰時
足利尊氏
北条早雲
武田信玄
毛利元就
織田信長
徳川家康
野中兼山
細川茂賢
上杉鷹山

『列藩騒動録』(江戸時代の著名な「お家騒動」を脚色を排して再構成したもの)
島津騒動・・・「きつね馬」
伊達騒動
黒田騒動
加賀騒動
秋田騒動
越前騒動
越後騒動
仙石騒動
生駒騒動
檜山騒動
宇都宮騒動
阿波騒動

『日本名城伝』(戦国~幕末の城郭をテーマとした史伝)
熊本城
高知城
姫路城
大阪城
岐阜城
名古屋城
富山城
小田原城
江戸城
会津若松城
仙台城
五稜郭

『幕末動乱の男たち』(幕末期の諸群像を列伝スタイルでまとめたもの)
有馬新七
平野国臣
清河八郎・・・「奇妙なり八郎」
長野主膳
武市半平太・・・「土佐の夜雨」
小栗上野介
吉田松陰・・・『世に棲む日日』
山岡鉄舟
大久保利通・・・『翔ぶが如く』
田中新兵衛
岡田以蔵・・・「人斬り以蔵」
河上彦斎


・・・全部が全部「海音寺史伝」を下敷きにしているとまでは言いませんが、「被り方」が尋常ではありません。

それに上掲の司馬作品と併読してみるとよく判りますが、その記述内容も類似点が多過ぎます。

具体例を逐一挙げるとキリがなくなりそうなのでやめておきますが、司馬作品を読むということは、司馬作品を通して「海音寺史伝」の影響を受けるというのとほぼ同義であるかもしれません。

誤解を恐れずに言えば、「海音寺史伝」に潤色を施して小説化したのが司馬遼太郎だった、と言い切ってもよいかもしれません(言い過ぎかなあ)。


・・・と勢いで書き出してしまいましたが、ちょっと疲れました。

今日はとりあえずこんなところで(投げっぱなしかよっ。そのうち続き書きます。たぶんね)。
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流れに乗る人、つくる人、抗う人もいるにはいる。

2013-05-14 02:24:59 | 日記
ぶっちゃける才能ってあると思う。

平然と禁忌に触り、王様の耳は驢馬の耳と言い放つ。

それを禁忌だと思いこんでいた者は忌み嫌い、密かなる同意見の持ち主は、公然たる快哉を叫ぶ。

あとは、禁忌と思う人間が少数派か多数派かによって、放言者の命運は決する。

遠からず禁忌は消失し、快哉の声が大きくなるのだろう。

流れに乗ることの重要性を他者に語る人の顔には、「バスに乗り遅れるな」と書いてある。

そのプレートには、目的地すら書いていないのに。

清沢洌も馬場恒吾も石橋湛山も、敢えて流れに抗した人だった。

彼らが顧みられたのは、ずっと後のことだった。

現実とやらが見えていないのは、本当はどちらだろう。
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