江馬直の創作奮闘記

やっとこさ無職ではなくなった創作家、
江馬直の日常を綴るブログです。

「ぐしゃぐしゃ」

2013-04-29 20:36:22 | 『黄昏詩文集』
数ヶ月に一度ぐらい
忘れた頃に唐突に
その髪の毛を引っ掴み
ぐしゃぐしゃ頭にしてしまう

嫌がる顔を気にもせず
へらへら顔で受け流し
受け流し
受け流し

もうそういうことはできないんだね

ぐしゃぐしゃ頭、ありがとう

貴女の
舌っ足らずな童顔は
ころころ肥えたほっぺたは
不器用すぎる指先は

きっと必ず間違い無く
どんなとこでも馴染むから

だから

顔までぐしゃぐしゃにしないでください

ぐっしゃぐしゃにするのは
豊かな豊かな髪の毛と
もうひとつだけで沢山だから

さよなら、末っ妹
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放置しすぎ。

2013-04-28 23:10:49 | 日記
なんだかえらく久々の更新ですね。

妹②の引っ越しの手伝いやら何やらでバタバタしてしまいました。

明日、目出度く妹②は嫁いでいきます。

感慨は・・・無いなあ(笑)。


妹①がややくさってますけど。

結婚先越されてぶーたれてる・・・

って訳じゃなくて、一卵性年子だから離れたくないんでしょうね。

今、大して飲めもしない酒かっくらって不貞寝しやがりました(笑)。


明日は新居に荷物運んできます。

とりあえずおやすみなさい。
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司馬遼太郎中短編小説精読③「アームストロング砲」を撫する「肥前の妖怪」

2013-04-14 23:16:39 | 『司馬遼太郎作品精読』
随分前に、『八重の桜』もあんまり期待できない云々と放言したことがあったんですが。

謹んで前言撤回させて頂きます(汗)。

去年とは雲泥の差(暴言)で面白いよ。

どうか、今のままで突っ走ってください。


「幕末篇」は安心して観ていられるなあと思っています(まあ、もう数話後には会津藩士の死屍累々な展開ではあろうけど)。

後は、「明治篇」でコケなきゃいいんですが・・・

斎藤一な新島襄とか、「デアルカ」な大山巌とか、離婚訴訟に勝って号泣した槇村正直とか、不安要素はいっぱいありますが。

・・・大丈夫だよね。


さて、だいぶ前の話、『八重の桜』の第三話あたりだったかと思うんですが、八重の兄・山本覚馬が軍備を洋式化せよと建言するシーンで、「薩摩と佐賀はすでに洋式化しつつある!」みたいなことを熱く語るくだりがありましたね。

それを観てて、「はて? 佐賀藩の洋式化って、当時世間に流布するほどに有名な話だったんだっけか? 確か佐賀藩は『二重鎖国』してたから、機密が藩外に洩れるってことはまず無かったはずなんじゃ・・・」とかいう、いらぬ疑念が湧いてしまいました。

こうなるとちょっと調べ直してみたくなる生き物なもので、自宅内で「積ん読」と化してた幕末関連本を参照してみましたところ・・・

案外そうでもなかったみたいですね。


当時の佐賀藩は、幕府や他藩(対馬藩とか津軽藩)に鉄製大砲を多数発注されていて、相当な荒稼ぎをしていたようです。

藩内に設置した大砲の製造所に「公儀(幕府)御用石火矢(大砲のこと)鋳立所」と看板を掲げて得意満面だった、なんて逸話もあるくらいで。

これはもう、秘密もくそもないですね(笑)。

長州や薩摩にも精製技術を割とあっさりと伝授してますし。


当時のある幕臣の漢詩に曰く、

   百物 何ぞ外国を須(もち)いて求めん(わざわざ外国より物品を買い求める必要があろうか)
   肥前の銃砲 薩摩の舟(佐賀藩の銃砲、薩摩藩の軍船のなんと充実したることよ)
   十年の勧業 君看取せよ(二藩の十年に渡る勧業をとくと観られよ)
   日本の旗号 五洲に遍(あまね)し(日本旗を立てた船舶がやがて世界に遍く行き渡ろうぞ)


ってな状況だったんだそうで(しっかし、漢詩の表現っちゃ、なんとも誇大に聞こえるもんですねえ・苦笑)。

佐賀藩が既に洋式化しているというのは、周知のことだったようです。

<毛利敏彦著『幕末維新と佐賀藩』(中公新書 2008年刊)参照>



そっか、なら覚馬が上司にあの台詞を叫んでも一応問題無いわけか・・・

・・・私が偉そうに言うことじゃないだろうけど、『八重の桜』の脚本家さん、実は相当勉強して書いてるんじゃなかろうか?

「歴史もの」のドラマで細部を疎かにしない(拘りすぎるってのとはちょっと違う)って凄く大事なことだと思うんです。

今のところ『八重の桜』は、細部を実に丁寧に描こうとしていますね。


というわけで、『風林火山』・『坂の上の雲』以来の名作(「きちんと歴史の香りのするドラマ」の意)になるんじゃないか、と勝手に期待しているんですが(今後どう転ぶかは判らないけど・・・っていうか、転ばないで下さい・笑)。

・・・さて、わざとらしく佐賀藩の話題を出したところで、今日の本題です(前振り長っ)。


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 司馬遼太郎は、佐賀(肥前)藩に対してやや冷淡な態度をとっているようにみえる。
 あまりにも有名な『竜馬がゆく』や「人斬り以蔵」で土佐藩を、『世に棲む日日』・『花神』・『殉死』(それからあえて『坂の上の雲』を含めても構わないかもしれない)などで長州藩を、大河長編『翔ぶが如く』で薩摩藩を、それぞれフィーチャーしておきながら、佐賀藩に関して描いた作品は極めて寡少である。短編二作――「肥前の妖怪」・「アームストロング砲」――と長編一作――『歳月』――のみであり、しかも司馬の全作品の中でも特に有名という訳でもない。が、この三作品は司馬の幕末・明治小説中でも極めて重要かつ独特な位置を占めている(と思われる)。司馬は、佐賀藩を語ることによって、ある「可能性の未来」の存在を指摘しているように思えるからである(これと同様のことは、越後長岡藩士・河井継之助を描いた『峠』についても言えることではあるが)。
 本稿では、佐賀藩を題材にした短編二作を題材に、司馬が想定した「ある可能性」について言及してみたいと思う(『歳月』とその主人公・江藤新平に関しては、他日に論及したい)。佐幕でも攘夷でもなく、全くの別方角へと進んだのではないか、との指摘である。

 短編「肥前の妖怪」は、連作中短編集『酔って候』に収録されている四編のうちのひとつである。以下、収録作を列記すると、

「酔って候」  ・・・山内容堂(ようどう・土佐藩主)
「きつね馬」  ・・・島津久光(ひさみつ・薩摩藩父)
「伊達の黒船」・・・伊達宗城(むねなり・宇和島藩主)
「肥前の妖怪」・・・鍋島閑叟(かんそう・佐賀藩主)


となり、いずれも幕末に影響力を持った「雄藩」の藩主を中心に据えた、やや実験的な中中短編となっている。その意味では先に取り上げた『王城の護衛者』や『最後の将軍』と同様の性質を有した作品ということも出来る。個人的には、福井藩主・松平春嶽(しゅんがく)を扱った短編が無いのが惜しまれる(ちなみに『八重の桜』では、「悪役」としてかなりフィーチャーされていますね)。もっとも春嶽は、上掲の四人に比べ奇矯な人格の所有者というわけでも無く、あまり小説映えしない人物ではあるのだが。
 それから、いわゆる「薩長土肥」四藩のうち長州だけが扱われていない。時の藩主・毛利敬親(たかちか)もなかなかユニークな藩主なので、彼を題材にした短編があってもよかったかもしれない。ちなみに、一応敬親に関しては、吉田松陰と高杉晋作を主人公とした長編『世に棲む日日』の中で一章を割いて言及されてはいる。その言及のされ方が個人的に気に入っているので、以下、まったく本筋とは関係ないが引用してみたい。

 ところで、この藩(引用者注:長州藩)の殿さまは、
「そうせい侯」
 と、藩の左翼からも右翼からも蔭口をたたかれた毛利敬親(慶親)であった。敬親は歩行もつらいほどにふとっていて顔が膨れ、そのくせ顔面が神経痛でつねにゆがんでいる(引用者注:司馬はしばしば人物の容姿までも容赦なくくさすが、これはその最上級のものであろう。毛利家の末裔からクレームは付かなかったのだろうか)。死んだ吉田松陰の社中の連中が、藩内でいう過激派をなし、それが勢いをえてきてなにか上申すると、
「ああ、そうせい」
と、許可をあたえる。穏健派(佐幕派)が勢力を得てきて、それが大広間にすすみ出て政治的旋回案を上申しても、
「ああ、そうせい」
 と、大きな顔を振って、いった。(中略)
かといって、毛利敬親があほうであったかということになると、疑問である。(中略)
 かれはかれ自身独創力というものはもたなかったが、人物眼もあり、物事の理解力にも富んだ男で、それにうまれつきおそろしく寛大であった。かれは幼児、
――お大名と申すおひとは、家臣に対し、好き嫌いをなされてはなりませぬ、海のようにひろいお心をお持ちにならねばなりませぬ。
と、教えられた。この教えは、どの藩のどの大名もそう教育されるはずであったが、敬親にあってはその一点を、終生教条のようにして守りつづけたほどに純良であった。
 ある意味では、かれほど賢侯であった人物はいないかもしれない。かれは、愚人や佞人を近づけようとはせず、藩内の賢士を近づけた。賢士は左右どちらかの派閥に属している。そのどちらが藩の政権をとっても、毛利敬親は泰然とその上に乗り、
「そうせい」
と、政令に許可をあたえる。
「そうせねば、毛利敬親侯は明治までとても生きながらえることができず、過激・穏健のどちらかの派から毒殺されていたろう」
と、維新後、藩外の長州通のものがいったという記録がのこっているが、あるいはそうであったかもしれない。
(『世に棲む日日』二巻 「毛利敬親」より引用)


 ・・・この何もしない明君・「そうせい侯」毛利敬親とは対極に位置したであろう藩主が、「肥前の妖怪」と謳われた鍋島閑叟であった。

 作中・閑叟は希代の「潔癖家」として描かれる。妻妾との性行為の後、容赦無く手水をつかって平然としているという描写が何度も為されるあたり、一種異様である。挙句には、正妻相手に手水をつかうことを乳母に窘められると、正妻との関係が遠のいて、遠慮せず手水のつかえる側室とばかり関係を持ち、その結果子女五人はいずれも側室の腹の子となった、などというのはもはや滑稽噺に近い。
 この閑叟の潔癖は、史実に基づいた司馬一流の暗喩であろう。妖怪・閑叟が佐賀藩の軍装尽くを洋式化していくに至る理由の一端を、司馬は閑叟の潔癖症が発端であるかのように描いている。この閑叟独特の神経の細やかさが、大名にしておくのは惜しいと言われたほどの商才や、佐賀藩固有の武士道規範「葉隠」精神論の否定(そのくせ藩士には「葉隠」精神を強制するという理不尽さをも併せ持つ)や、西欧合理主義の積極的導入へと繋がっていくとする司馬の発想は、真実か否かは別として、物語としてはまことに説得的である。読む側は、「こういう人物なのだから、後々の洋式化は当然である」と読むようになる。見事な導入である。と同時に、度を過ぎた潔癖が、この短篇のタイトル「肥前の妖怪」とも相俟って、鍋島閑叟という人物の姿を一筋縄ではいかぬ不気味な存在に仕立て上げてもいる。
 閑叟は西欧技術を積極的に導入し、ペリー来航の前年には領内の港湾を「はりねずみのように武装せしめ」るに至る。奇矯な合理主義者・閑叟をして初めてこのような防備が完了したわけで、英主・斉彬(なりあきら)を喪い一時迷走した薩摩藩とも、「そうせい侯」敬親を神輿にして攘夷と開国の間で右往左往した長州藩とも、酔漢・容堂の弾圧で多くの死者を出した土佐藩とも異なる、幕末の動乱に微動だにもせぬ重厚整然たる佐賀藩が誕生したのである。
 閑叟が築かんとする重厚整然の一翼を担うべく、技術革新に勤しませられた一藩士の悲哀を描いたのが、もうひとつの小品、「アームストロング砲」である。
 短編「アームストロング砲」は『プロジェクトX』に似ている。順序でいったら逆であろう。『プロジェクトX』が「アームストロング砲」の物語構成に似ているのである。だが、「技術革新に賭ける男たちの熱きドラマ」などという浪漫的な作品では必ずしもない。製造に取り組んだ佐賀藩士は精神に異常を来たし、発狂して開発協力者を斬殺して幽閉され、挙句、完成したその巨砲は、一回を除いてほぼ無用の長物と化してしまう。アームストロング砲は、彰義隊攻撃時に僅か十二発の咆哮を上げたのみで、その役目を終えることとなる。真に救いの無い話である。

 司馬の描く閑叟は、技術革新にのみ血道を上げる不可思議な藩主とされるが、そのように描かれた意図は、奈辺にあったのだろうか。司馬は「幕末」を舞台とした作品を多数著すことによって、多様な選択肢が存在したはずであるこの特異な時代そのものを描こうとしている。『竜馬がゆく』では、倒幕をせずに維新が実現したかもしれない可能性を描き出した。『峠』では、北陸の一小藩が武装独立するという夢想に憑りつかれた男の生涯を活写した。後世から視れば結果的に歴史の本道となった観のある長州を舞台とした『花神』や『世に棲む日日』とは性質の異なる群像劇を、敢えて多重的・多層的に配置することによって、司馬は「幕末」という時代の様々な可能性を描くことに成功しているのである。
 閑叟の真意が奈辺にあったのか、司馬は作中で詳細には語ってくれない。が、薩長と幕府を戦わせて疲弊させたのち、独り閑叟が漁夫の利を占めようと考えていたのではないか、と予感させる描写が散見される。実際の閑叟がそのような意図を有していたかどうかは判らない。が、少なくとも司馬は、この老獪な佐賀藩主を、薩長にも幕府にも属さぬ得体のしれぬ鵺のような存在として描いているのである。
 ・・・かくして、多大なる犠牲の末完成した「アームストロング砲」を丹念に愛撫する「肥前の妖怪」の奇怪な姿が、二作品を読了した読者の眼前に立ち現われることとなる。

 この不気味な閑叟の虚像に恐怖した薩・長・土は、閑叟への接近を図り、閑叟はそれと提携することになる。ここで独自路線を貫けなかった異能の才人・閑叟に足りなかったのは、時世と自力で並走する「脚」のみであった、と司馬は言いたかったのかもしれない。「肥前の妖怪」は、以下の文章でもって締め括られている。

 閑叟は、大坂天保山に入港し、鳥羽伏見の戦い直後の京に入った。(中略)
 数日後、閑叟は嵐山の花が満開であることをきき、(中略)都の西へ向かった。(中略)閑叟はしたたかに酔い、
「わしは襲封以来、商人のごとく厘耗(りんもう)の費(つい)えも惜しみ、銃砲陣、海軍をつくりあげてきた。半生のうち、庶人がするほどの贅沢もしたことがない。今日の遊びで憂さが晴れた」
 というと、木戸(引用者注:木戸孝允。嵐山で閑叟と偶然出会い、歓談していた)がすかさず、
「その厘耗を吝(おし)んで貯められた財(軍隊)を差し出されては如何」
 といった。閑叟はうなずき、
「もはや惜しくもない」
 それ以上なにもいわなかったが、ここで薩長土三藩は薩長土肥になったといえる。
 肥は、海軍力の弱い官軍に艦隊を与え、さらにその施条銃と後装砲、アームストロング砲の威力をもって関東、江戸、東北、北陸、蝦夷地などあらゆる戦線で大なり小なりの勝因をつくっている。
 さて、閑叟。
 舟中にあること半刻ばかりで痩せた体を磧(かわら)へ移し、ふたたび馬上の人になり、
「花応(まさ)に老人の頭に上るを羞(はじら)ふべし」
 と即興の句を口吟して、鞭を鳴らして去った。もはや老人の出るべき時代ではない、という意であろう(引用者注:「アームストロング砲」にもこの情景が描かれているが、そこにはもう少し詳しく、「花とは、かれの育てた佐賀藩軍隊であろう。それを自在に手折って頭にかざせ、花も自分のような老人の頭にかざされるよりもふさわしく思うだろう、という意味らしい」とある)。
 それから三年後の花の季節には、閑叟はすでに世にいなかった。
 死ぬ間際、
「わしが戦国の世にうまれていたならば、もうすこしおもしろい世を送っていたかもしれぬ」
 と洩らしたといわれる。
(『酔って候』所収 「肥前の妖怪」より引用)


 実際の閑叟がかような末期の台詞を漏らしたか否かは判然としない。が、もし更に十年ほど彼が長命であったならば、歴史はどのように転変したであろう、と考えることはよくある。閑叟が「明治六年の政変」時まで存命であったならば、太政官にある程度のポストを得て政治活動を行なっていたのではないか。明治期、島津久光が名誉職だったとはいえ左大臣職を得ていることを思えば、それに伍する地位を得ていたであろうことは想像に難くない。そして久光よりも遥かにマキャヴェッリ的政治家の特質を備えていた閑叟は、薩長土の元勲たちを上回るイニシアティヴを発揮し得ていたかも知れない。その場合、閑叟の「配下」として活躍することになる人物は、江藤新平・大隈重信・大木喬任(たかとう)・副島種臣(たねおみ)らとなったであろう。閑叟の統制一下、薩摩や長州に充分対抗しうる勢力を、あるいは佐賀は持ち得ていたかもしれないのである。この場合、征韓論争は起こり得たのであろうか? 西南戦争が発生していたとして、それはどのような帰着を迎えたであろうか? 旧佐賀藩出身者らを率いて、木戸孝允や西郷隆盛、大久保利通らに煮え湯を飲ませる妖怪・閑叟の姿を想像してしまうのは、司馬の描いた閑叟の虚像が、私の脳裏で独り歩きしてしまった結果なのであろうか。


コメント (2)

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』読了。

2013-04-12 21:22:32 | 各種感想文
少しだけ読後感を。

異論は多々あろうけれど、この作品は、震災後の人々の心象の具体化を試みたものである、と断言してみたくなりました。

それから、「居心地の良すぎる牢獄」から抜け出た経験があると思い込んでいる人には、相当堪える内容の物語であるかもしれない、とも思いました。

私はいわゆる「ハルキスト」ではないので、必要以上の感銘は受けませんでしたが。

ただ、読後感は悪くないですね。

今夜必要以上に考えすぎて眠れなくなるということはなさそうです。

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唯一不快だったこと。

私の部屋に漫画を借りに来た妹①が読みかけの『色彩を~』を一瞥して一言。

「うわ、流行りものに手だしてるよ、この男」

・・・色々不本意な言われようだなあ。
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生まれ故郷は、書くに値するもの。

2013-04-11 23:36:59 | 雑文
 ウィリアム・フォークナーはその主著『ヨクナパトーファ・サーガ』において、南北戦争後のアメリカ南部をモティーフとした壮大な物語を紡ぎ出した。その第一作に当たるのが、『サートリス』である。これ以降、フォークナーは『響きと怒り』、『八月の光』、『サンクチュアリ』、『アブサロム、アブサロム!』といった難解な、しかし一貫した長編を何作も書き紡いだ。
そんなフォークナーの遺した言葉の中で、もっとも印象的なそれ――あくまでも私にとって――は、彼の小説の一文では無く、あるインタヴューの一節に存在する。

――『サートリス』を書きはじめたとき、僕は気がついたんです。ぼく自身の小さな切手程の生まれ故郷が、書くに値するものであり、どんなに長生きしても書きつくすことはないだろうし、現実を聖書に言う正典外の神話に昇華することによって、どの程度にせよぼくが持っている才能をその極限まで活用する完全な自由を手に入れることができるだろうと――(岩波文庫版『響きと怒り』下巻解説より引用)

 ほんの数年前に、何気なく読んだこの数行の文字列が、今の私をささやかにささやかに呪縛している。最近の私が、本来嫌いで仕方のないはずの因循姑息な住地や、厄介極まりない身内のことばかり書きたくなっている理由の一端がそこにはあった。

 自らの住地に基づいた作品を丹念に丹念に書き続けた作家を、私はもうひとり知っている。「イーハトーブ」の物語の生みの親、宮沢賢治である。先日、年譜を比較して改めて気付いたことなのだが、賢治とフォークナーは僅かに一歳違いであった(賢治は1896年生、フォークナーは1897年生)。この似て非なる両名は、同時代人であったのだ。
 賢治とフォークナーの相似点は、「東北」と「南部」という、ともに「敗者」の地に生誕したことである。東北は戊辰戦争に、南部は南北戦争に敗れた、勝者によって「守旧的な」お土地柄というレッテルを張られた場所であった。
 そういう場所で育まれた文学作品が、一世紀を経てなお、丹念に読み継がれている。この両名が互いの作品を読むことは一度も無かったが、もしその存在を知ったならば、どのような感想を抱くのであろうか。

 樹木は生長するごとに無数に枝分かれし、その末端はついに交わることが無いが、小川は大河へと合流し、やがて大海でひとつとなりうる。いくつもの文学作品を、前者のようにでは無く、後者のように読み接いでいった先には、いったい何が見えるのだろうか。

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