江馬直の創作奮闘記

またまた無職になったかと思いきや、再び職を得、これからどうなるか全く予測が立たない創作家、江馬直の日常を綴るブログです。

司馬遼太郎が筆を折った理由(わけ)。

2015-07-26 14:10:11 | 『司馬遼太郎作品精読』
 以下は、例によって下衆の勘繰りである。だが、あながち間違ってはいないのではないか、と思っている。
 表題にも掲げた、司馬遼太郎(1923-1996)のことである。

 司馬遼太郎が、その晩年の十年間(1987-96)、小説の執筆を止めてしまったというのは有名な話である。最後の小説となった『韃靼(だったん)疾風録』を最後に、司馬は一切の小説を書かなくなり、『街道をゆく』、『この国のかたち』、『風塵抄』といった紀行文・随筆へと傾斜してゆく(1991年に書かれた『草原の記』は、例外的に小説と随筆の中間地点に位置するが、多分に『街道をゆく』の延長線上の作品である)。この時期の司馬の心境を、周囲の人々は以下のように振り返っている。

 『韃靼疾風録』を終えて、もう小説はエネルギーが要るから、とやめてしまったでしょう。でも私は、やっぱり司馬さんに小説を書いてほしかったんです。ほんとに趣味がない人で、だからあの人には、書いて、自分が思っていることを話す以外に何もないんです。その大切な書くことをやめると言いだしたから、私はどうするんだろうとずっとそのことが気になっていました。いつも「小説を書いてほしい」って言いつづけていました。そのたびに「そんナン・・・」て。でも本人も小説のことは考えていたんだと思います。いろいろな小説を読んでは、とりわけエンターテインメントを読んでは、「いまぼくが娯楽小説を書いたら面白いものが書けるんだけどなあ」と言っていました。それが五年くらい前(引用者注:1991年ごろ)のことで、「だったら書いてほしい」って言ったんです。「私も司馬さんの小説が読みたい」って。そしたら「ペンネームをかえたら書ける」って言って、「だったらペンネームをかえればいいじゃない」とも言いました。
(中略)頭はこの国のことでいっぱいで、でも側にいる私はそういう司馬さんを見ながら、なんだか不安で緊張していました。いまになってこんなこと嘘だと言われるかもしれませんが、人間が生涯をまっとうする最後の炎のたかぶりを目の当たりにしているような、そんなせつなさを感じていました。
 もしこの国がもっとちゃんとしていたら、きっと司馬さんは新しい小説、それも思い切り面白い娯楽小説を書いたんじゃないかと今でも残念です。もともとあの人自身がフィクションみたいな人で、その人が精魂傾けて壮大なフィクションを書いたとしたら、きっとすばらしい作品になったと思うんです。
福田みどり談「夜明けの会話―夫との四十年」より引用)


「ずっと前から曹操を書きたかったんですが、実は司馬さんに遠慮していた」という。故司馬遼太郎氏もまた、曹操を書きたいと漏らしていたという。「なのに、彼は『韃靼疾風録』を最後に小説は書かないと宣言したでしょう。ならば、と取りかかったんです」
「読売新聞・夕刊1998年12月5日」陳舜臣へのインタヴューより引用)


 昭和60年(1985年)春、都内のホテルで新潮三大賞のパーティが開かれたとき、司馬さんがひょっこり姿をあらわし、
「ここに泊まっとるんやけど、ちょっと暇やったんでな」
と珍しい出席だった。
 このとき、星新一さんが語った、
「もう小説を書くのはやめました」
に応えて、いわく、
「そうやそうや、もう小説なんて野蛮なことはやめや」
 どうして小説が野蛮なのか、解説してもらえず、したがって、いまだに理解できないのだが、そのころから、本当に小説の筆を断ってしまったのだった。
仁尾一三筆「げんねこちょ知らんな ――司馬遼太郎言行録――」より引用)


 どうやら司馬は、親しい人間にも小説の筆を折った理由は明かさなかったらしい。昨年亡くなった福田みどり夫人の談話を読む限り、書きたくなくなったというわけではなかったらしいことは読み取れるが、決定的な理由は判らない。親友であった故陳舜臣や担当編集者だった仁尾一三氏らにも詳細を語ることはなかったようである。
 今まで、その理由について深く考えたことはなかったのだが、つい最近、「もしかするとこれが原因だったのではないか?」という記述に突き当たった。今年出版された、近現代史家・伊藤隆氏の「オーラルヒストリー」である。以下、少々長くなるが引用してみたい。

 戦前・戦中・戦後の連続性というと思い出されるのが、昭和六十一年(一九八六)に、『中央公論』で行い、そのままお蔵入りになってしまった司馬遼太郎さんとの対談です。(中略)
 私は司馬さんの愛読者ではないけれど、『坂の上の雲』は面白いと思っていました。その日も「雲を求めて、坂を上ってきた日本は、その歴史をどう見通すことができるか」という話ができればと考えていました。
 ところが司馬さんが、
「結局、雲はなかった。バルチック艦隊の最後の軍艦が沈んだ時から日本は悪くなった」
「日露戦争までの日本史は理解できるが、昭和に入ってから二十年間の歴史は他の時代とはまったく違い、断絶している、非連続だ」
 というに及んで、反論のスイッチが入りました。
 坂を上っていって、雲をつかめたかどうかはわからないけれど、かつて夢にまで見た、西欧的な産業国家になったのは事実です。司馬さんのような見方は、西欧コンプレックスそのものだし、東京裁判の図式と変わらないではないか、といつもの調子で言い募ってしまったのです。
 二、三日して嶋中さん(引用者注:当時の中央公論社の社長)が、
『非常に面白い対談になったけれど、司馬さんはわが社にとって貴重な財産です。司馬さんは大変なショックを受けてしまいましたから、雑誌に載せるのはやめにしましょう(後略)』
 と言ってきて、司馬さんとはそれきりになりました。
伊藤隆著『歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想』P134-136より引用)


 司馬がショックを受けた対談というのは、ほとんど聞いたことがない。司馬は「座談の名手」といわれ、対立的な対談になることは少なかったはずであるから、この伊藤氏との対談は、詳細は不明ながらかなり特殊なものであったのだろう。
 ちなみに、これに類似したケースとしては、かつて陸軍参謀であった財界人・瀬島龍三との対談が挙げられる。司馬は、瀬島との対談を単行本化することを生涯拒否し続けたという。というのも、司馬がほぼ同時期に取材中であった、ある旧陸軍士官――須見新一郎大佐――が、司馬が瀬島と対談したことを知って激怒し、司馬との絶交を宣言するという「事件」が発生したからである。須見大佐という人物は、「ノモンハン事件」の際、実戦部隊を率いて最前線で奮戦し、辛うじて生き残ったという人物であった。その間後方で「のうのうと作戦を指揮していた」瀬島のような人間と、「和やかに」対談していた(という風に須見大佐には見えた)司馬が許せなくなった、ということであったらしい。この一件は、司馬に深刻なダメージを与えた。当時司馬は、「ノモンハン事件」を題材にした歴史小説を構想しており、須見大佐を主人公――『坂の上の雲』でいう秋山兄弟のような役回り――にするつもりであったらしいからだ。須見大佐からの「絶交宣言」は、司馬から「ノモンハン事件」を小説化しようとする執念を奪い去るには充分だった。そしてその結果、『坂の上の雲』のラストがどこか物悲しいものとなっていた理由への回答は、永遠に描かれなくなった。『坂の上の雲』の最終章である「雨の坂」は、これから下り坂になっていく日本の姿を暗喩しながら静かに幕を閉じるが、司馬にとって「下り坂」の象徴として書き継がれなければならない事象こそが、「ノモンハン事件」であった。
 しかし司馬は、『坂の上の雲』と「対」になるはずの長編小説『ノモンハン事件』の執筆を断念してしまった。半藤一利氏はじめ、多くの担当編集者が指摘していることであるが、このことは司馬にとって生涯の痛恨事となった。司馬が瀬島との対談を、敢えて「お蔵入り」にした心情は察するに余りある。

 年譜に拠ると、司馬が雑誌『中央公論』に『韃靼疾風録』を連載していたのは、1984年1月号から1987年8月号までである。そして、司馬の代表的エッセイ『この国のかたち』の執筆が、雑誌『文藝春秋』で始まるのが、1986年の3月号からとなる(以後、その死まで続くこととなる)。『この国のかたち』の連載がスタートした時期と、「お蔵入り」になったという伊藤氏との対談が行なわれた時期(1986年)とが重なっているのは、単なる偶然ではないだろう。おそらく司馬は、干支一回り近く年少の近現代史家に一刀両断にされ、納得し難いものを感じたのではないか。伊藤氏の容赦ない反論に対し、何らかの反駁の必要性を感じたのではないか。これまで、「小説というかたち」で、自分なりに創り上げてきた「日本近現代通史」を、もう一度、自らの手で再構築していく必要に駆られたのではないか。
 伊藤氏への反論(とはどこにも銘記されなかったが)を書く土台として、司馬は小説を選ばず、歴史随筆という形を採った。連載が開始された『この国のかたち』は、司馬の思いつくままに緩やかな「流れ」を維持しながら、長期連載が続けられていくことになるが、その連載初期において、殊更に司馬が取り上げたのは、「統帥権の独立」問題であった。司馬は「統帥権の独立」という名の「暴走」を始めた当時の軍部を指して、「鬼胎」と表現した。温厚な司馬にしては、かなり過激な熟語であるといえる。何故司馬は、このような過激な熟語を用いてまで、昭和期の軍部を糾弾しなければならなかったのか。それは無論、司馬が生前しきりに口にしていたという、自らの「戦時体験」にあったのだろう(当時の司馬の上官が、「戦車で民間人を轢き潰して行ってでも戦争を継続しなければならない」と語り、司馬に「このような愚かな命令を遂行する国家とは何か」という深刻な疑念を抱かせた、という逸話。ただ、先年亡くなった松本健一によると、この逸話そのものが司馬の創り上げたフィクションではなかったか、という。仮にフィクションであったとするならば、司馬にこのフィクションを語らせたものは何だったのだろうか。松本は、三島由紀夫の死後、「戦時体験」への言及が急増している点に着目している。司馬の語る「戦時体験」は、三島の自決に対する、司馬なりの反駁ではないか、というのである。その当否はともかく、この二人の同時代人がある意味対角の位置で言論・執筆活動を行なっていたことは興味深い。ちなみに以前、ノンフィクション界の巨人であった故大宅壮一と司馬・三島の三人が「東京オリンピック」について鼎談したもの――「敗者復活五輪大会」(1964.12)――を読んだことがあったのだが、司馬と三島の会話は驚くほど噛み合っていなかった。間に大宅が入っているから辛うじて鼎談の体裁が成り立っている、というほどに出来の悪い鼎談であった。このことは、松本説を補強するなにごとかになるかもしれない・・・と余談が過ぎた。本筋に戻ろう)。
 そしてそれに付随して、伊藤氏が指摘した、「西欧コンプレックスそのもの」、「東京裁判の図式と変わらない」という厳しい発言に対する、司馬なりの反駁としてではなかったか。その反駁を出来るだけ質の高い、精緻なものとするためには、一切のフィクションは排除されなければならなかったのではないか。
 伊藤氏との対談の翌年、伊藤氏の直弟子に当たる近代史家・加藤陽子氏の論考、「統帥権再考 ――司馬遼太郎氏の一文に寄せて――」(『外交時報』1235号 1987.02、『戦争の論理 日露戦争から太平洋戦争まで』勁草書房 2005.06所収)が発表される。どこにも銘記などされてはいないが、間違いなく司馬は、この小論に目を通したことであろう。加藤氏の論旨――その背後には伊藤隆氏の眼光が埋め込まれている――は、司馬の肺腑をまたしても痛烈に抉ることとなったであろう。この時司馬の胸中に何が去来したのか、私には想像することしか出来ない。
 司馬遼太郎は、以後十年間、『この国のかたち』の随所で、「統帥権の独立」という自ら設定した問題と格闘し続けることになる。だが、司馬が真に格闘していた相手とは誰だったのだろうか。

 『この国のかたち』の連載は順調に続いていったが、『韃靼疾風録』の完結を最後に、司馬はとうとう一篇の小説をも紡ぎ出さなくなった。多くの作家がその死によって連載小説の絶筆を強いられることになったが(池波正太郎などはその代表であろう)、司馬は中絶した小説がほぼ皆無(年譜に拠ると、数例の例外が存在する)という、まことに稀有な作家となった(その代わりに、『街道をゆく』、『この国のかたち』、『風塵抄』はいずれも中途で終わることとなったが)。
 その一方で司馬は、晩年に至るも長編小説の構想を持ち続けていたという。ある時は、「忠臣蔵」に関する史料を読み漁り、誰を主人公にしたらよいか、担当編集者に尋ねている。また、先述の通り、魏の曹操を主人公とした長編小説を書こうと考えていた時期もあったようである(これは結局、親友の陳舜臣に委ねている)。終生明言は避けていたものの、「ノモンハン事件」に関する史料も集め続けていた。
 だが、それらのエネルギーはフィクションとしては結実せず、あるいは時折随筆に書き綴られ、あるいは市民向けの講演会の中で語られ、あるいは有識者との対談時にぶちまけられる、というに留まった。特に激烈な口調で語られた対談に、故井上ひさしとの間で行なわれた『国家・宗教・日本人』(講談社 1996)がある。この対談が行なわれたのは、ちょうど「阪神大震災」、一連の「オウム事件」、「戦後五十年談話」の発表、「住専問題」等々、戦後の課題が山積し噴出していた時期であった。司馬の急逝直後、井上は、司馬の最後の対談での語り口を指して、「悲憤慷慨とまではいかないにしても、直接的な言い方をされるようになったな」と表現している。

 多分に間接的ではあろうが、司馬の小説執筆を断絶させたのは伊藤隆氏であった、ということになると、今の私は考えている(プラス、もしかすると加藤陽子氏も含まれてしまうかもしれない)。無論、だからといって別に、伊藤氏が悪い、などという話をしているのではない(し、責任があるなどというつもりも毛頭ない)。だがやはり、伊藤氏が司馬に与えたショックは、相当深刻なものだったのではないか、と思うのである。小説という、最適の「はけ口」を自ら絶ってしまうほどに傷付いてしまった司馬が、もしその後も継続して小説を書いていたとしたら・・・などと考えてしまうのは、司馬作品を長年愛読してきた一読者の、単なる迷妄でしかないだろうか。
コメント (2)   この記事についてブログを書く
« 私の嫌いな研究者。 | トップ | そんな時代もあったんやね。 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
この国のかたち (もののはじめのiina)
2018-08-22 09:23:17
全『街道をゆく』を読みましたが、なんとなく紀行という気分が濃尾平野あたりから一変します。
手に汗握る展開なのです。

いま。「この国のかたち」を読んで、疑問に思っていたことほ解き明かしてくれるので、無謀にもまとめる気になりました。^_^;

トライボロジーの未来 (ラマン分光関係)
2020-05-26 20:02:12
 九州大学出身の久保田邦親博士のCCSCモデルがノーベル賞候補に挙がってきた。カルロスゴーンが「ダイヤモンドは自動車進化の低フリクションの希望」というとDLC(ダイヤモンドライクカーボン)を学会で発表するものが多数でて「ダイヤモンドは低フリクション」を合唱している状態が10年以上も続いた。
まるで戦前の「大和魂で鬼畜米英に勝つ」みたいに無理なスローガン立てて集団化するさまを見ると司馬遼太郎氏もきっと嘆くことだろう。久保田博士はそんな中反骨精神を保ち続けた方で尊敬に値する。

コメントを投稿

『司馬遼太郎作品精読』」カテゴリの最新記事