江馬直の創作奮闘記

やっとこさ無職ではなくなった創作家、
江馬直の日常を綴るブログです。

ひとりで勝手に「東北産創作家の輪」企画  『震災挿話集』ⅩⅠ 「王様の耳は驢馬(ろば)の耳」

2014-03-11 14:46:18 | 『震災挿話集』

 この「小説」にこのタイトルを付けようと思い立った時、そのあまりの芸の無さに愧死(きし)したくなった。と同時に、この話を美化したり誇張したりすることが、今の自分には出来ないであろうことにも思い至っていた。もし後年、同じ題材を用いて「美しい」話を創ることが出来るのだとすれば、それは昇華などでは決してなく、私自身の劣化に他ならないのだろう、とさえ思った。
 だから以下の話は、創作するという行為には当たらないかもしれない。単なる事柄の羅列にしかなっていない、およそ「小説」と名乗ることすら出来ぬ代物であるのかもしれない。
もしかすると、これから語る話を読み解くことになるのは、「私」というたったひとりの人間だけであるかもしれない、とさえ思う。そのたったひとりの読者(と言いつつ、それでも複数の読者を欲してしまうこの二律背反(アンビバレンツ)!)に向けて、これから美化も誇張も無い話を紡(つむ)いでみようと思う。とにかくそういうものを書き進めていく。
 誰が言った台詞であったか失念してしまったのだが(という言い回しを使ってみたいがために敢えて失念した風を装ってみる)、「小説とは過去の自分に対する手紙」のようなものなのだそうである。この台詞を発した当事者が如何なる存念の持ち主であったのかは判然としない(いや、ある程度はしている)が、「小説」という代物がそんなせせこましい代物だ、などとは思いたくも無い。
そう思っているはずなのに、先述のような発想をしてしまっている自分自身の悍(おぞ)ましさには、正直嫌悪さえ感ずる(そして、さっきから私は、いったい何を書きなぐっているのだろう?)。

 ・・・今、私が最も困惑しているのは、一向に本題に入ろうとしていない、この書き出しのことである。一度書くと決めたにもかかわらず、これに言及することには一抹(いちまつ)どころではない躊躇(ためら)いが存在するのである。実は当初、「本編(に該当する箇所)」を書き上げてから、この「まえがき(らしきもの)」を付加しようと考えていたのだが、どうしてもそうすることが出来ず、何ひとつ「本編」を書き出さぬうちにここまでに至ってしまった。何故そうなってしまったのか、という疑問への解答(本当にそんなものがあるとは思えないのだが)を導き出したくて、今私は「本編」に駒を進めようとしている。
 これを迂遠(うえん)と評するのは容易(ようい)であろうが、案外その迂遠さの中に、このタイトルの持つ意味が込められているのかもしれないと、よりにもよって作者自身が考えてしまうというのは、それこそ迂遠であるのだろうか。


 「その人」には、自殺願望があった。
 かといって痛みに苛(さいな)まれながらの死には、人一倍の恐れを抱いてもいた。だからという訳ではないだろうが、「その人」が試みるのは決まってオーバードーズであった。何度やったかおそらく本人にもよく判っていないに違いない。
 「その人」には年子の妹がいるのだが、一度ならず彼女に現場を取り押さえられている。妹という人はその都度怒り狂い、次いで泣き喚き、最後にはひきつけを起こしながら「二度としないで」と小さくささやかにお願いする。「その人」は、内なる衝動が収まるたびに、妹が耳元でささやくたびに、人並みの後悔はするのだが、その後悔はどうしても長くは続かないのだった。妹が気を緩(ゆる)めた直後にはまたやらかしてしまうのである。妹は目の前が真っ暗になりながら、それでも激怒と号泣と懇願(こんがん)を止めることは無かった。
 妹はこの性質(たち)の悪いエンドレスリピートにすっかり嫌気がさしてしまったようであった。もっとも、本気で嫌気がさしたわけではなく、今まで通り「その人」の相手をし続けた。ある意味、諦(あきら)めの悪い人である。
 「その人」の妹というのが、私の知人にあたる。友人とは言えないであろう。率直に言って、そこまで密な関係性を有してはいない。私が一年を通して彼女のことを知覚していることの方が稀(まれ)なほどである。それくらい忘却し去って久しい存在であった。
 「その人」の妹は、快活な人ではない。どう言葉を取り繕ったとしても、灰色の性格の持ち主としか言いようがない人である。私は、彼女に積極的に不幸になってほしいと思ったことは一度もないが、幸福であれかしと願ったことも一度もない。やはり友人とは呼べない関係性になるのだろう。
 そんな彼女から、私は相談を受ける羽目に陥(おちい)った。「陥った」という表現がこれほどぴたりとくる場面もそうそうないものであった。ただでさえ希薄(きはく)な関係性であるのに、会ったこともない「その人」の自殺願望を抑制する方法を教えてほしい、というのだから。私は、直接関われない人以外は相手にしないことにしている、と努めて冷厳に言い放った。別段冷たい態度だとは思わなかった。中途半端に関わって、遠くから助言をすることほどの無責任は無いから、とも伝えた。彼女は「そうだよねえ」と薄く笑った。
「じゃあさあ、ひとつだけアドバイスちょうだい」
「・・・どんな?」
「どうやったらあたしの心は折れなくなるかな? それだけ教えて」
 その思考法の危うさを感じつつも、この相談だけなら私にも対処可能だと思った。
「時々でいいから、穴を掘って、『王様の耳は驢馬の耳』って叫べばいいんだよ」
「・・・はっ?」
 彼女から怪訝(けげん)そうな声が上がる。無視して続ける。
「穴の数は兎(うさぎ)の隠れ家と同じ数だけあれば足りるから・・・みっつかな」
「三ヶ所、穴を掘ればいいの?」
「出来るだけ深くて、大きいのを作るといいんじゃないかな」
「それは、あたしが掘らなきゃ駄目なんだよね?」
 どうやら「意図」は通じたようであった。
「うん、自力で掘らなきゃ意味が無いよ」
「・・・そうだよね」
「みっつで足りなかったらよっつ、それでも足りなかったら・・・穴のサイズを変えればいい」
「もっと深く掘るの?」
「そう。出来るだけ深く。底の底が見えなくなるぐらい」
 青白かった彼女の頬がようやく解れたようであった。
「じゃあ、あたし泥だらけになっちゃうね」
「そうだね。でももし泥だらけになれないんだとしたら、穴を掘ってる意味が無くなるからね」
「・・・そうなんだろうねえ」
「それから、これは特別におまけのアドバイス。もし今後オーバードーズがより一層酷(ひど)くなったとしても、決して自分のせいだなんて思わないこと」
 一瞬で渋面(じゅうめん)をつくってしまう、笑い方を忘れたペリカン。
「それは難しいかなあ・・・」
「自分がこうしていれば何かを変えられたはずだって必要以上に思い込み過ぎると、何にも出来なくなるよ」
「でも・・・」
 やや語気を強めてみる。そろそろはっきり言うべきかな。
「死にたいやつには勝手にさせればいいんだよ。たとえそれが身内だったとしても」
「・・・」
「ちょっと偏ったこと言うようだけど、生きたくても生きられなかった人の人生を冒瀆(ぼうとく)するような真似だけはしちゃ駄目だと思うんだよね。本当の意味で死んだ方がマシな状況ってやつに直面でもしない限り、安易にそういう路(みち)に走っちゃいけないと思うんだよね。それでもそっちに逸(そ)れていくやつに、私は何の感情も抱けない。勝手にすればって言いたくなる」
「・・・そんな風に言わないで」
「どれだけ無様(ぶざま)で薄(うす)らみっともなくても、それでも私は死にてえなんて思えねえからさ」
 耳を塞(ふさ)げるものなら塞ぎたいという表情を彼女はしてみせた。
「それは江馬くんが強い人だからでしょう?」
 癪(しゃく)に障(さわ)る言い回し。感情が激してくる。
「・・・私はちっとも強くなんてねえよ。みんな誤解していやがる。執着心が人より強いだけだ」
「その執着心が抱けない人はどうしたらいいの? そういう身内を抱えた人はどうしたらいいの?」
「終わりにすればいいと思うよ。見棄(す)てればいいと思うよ」
「そんな酷いことできないよ・・・」
「どっちが酷い?」
「え?」
「得手勝手な自分の生き死にで他人の人生左右するってのが、どんだけ性質の悪いことなのか本気で考えたことがあるか? 今あんたはそうやって人生左右されてんだぞ?」
 私は明らかに言い過ぎたであろう。これでもまだ言い過ぎでないのなら、私はもうひと山登り切った発言をしなくてはならない。だが、それは杞憂(きゆう)で終わりそうだった。
「違うよ! あたしは人生左右されたいんだよ。それでもいいんだよ。でもね・・・時々虚しくなるんだよ。今必死にやってることが全部無駄になっちゃったらどうしようって。
 朝起きたら、真っ先に様子見に行くのね。そんでね、情けない話だけどさ、寝息立ててるのを聞いてほっとするの。ああよかったって思うのね。でもそう思いつつ、今手に持ってるタオルでこの首絞(し)めてあげたら楽になれるかもしれないなあっても思うの。それがきっかけになって、あたしが返り討ちに遇って首絞めてもらえないかなあ、そうなった方が楽かなあって思っちゃうの。・・・わけわかんないよね、こんなの。あたしだってよくわかんないし。
 ・・・そういう意味の無いこと考えながら一日が始まるの。全然楽しくはないんだけど、でもそうやってここまで来ちゃったんだよ。もう後戻りできない気がするの。明日の方が明るくて楽しい日になるなんていう風には、もうあたしは思えないの。でもね、それでももう少し生かしてあげたいって思っちゃうの」
 穴を掘らずに、それでも泥だらけになっていた彼女の姿が、私の眼前に在るような気がした。


「・・・ねえ、今みたいな言い合いも穴掘りになってるのかな?」
 やり口の手酷さを詰(なじ)られても仕方ないと思っていたが、それを責めるつもりは彼女にはないようであった。
「・・・相手にもよるだろうけど、なってたと思うよ」
「じゃあ、あとふたつ、探さないとね」
「そうだね」
「残りは自力で見つけます」
「そうだね」
「見つかるかなあ」
「見つかるんじゃなくて、見つけるんだよ」
 彼女は心なしか微笑んだようであった。
「なんだか空気の話みたい」
「え?」
「よく『空気読め』っていうじゃない? でも、本当に読めない人と、読めるのにわざと外してくる人っているでしょ? それとちょっと似てるね」
「そうかな?」
「うん、そう思った」
「ふうん」
 賢しらなオチは必要無いと思った私は、これ以上この話題を続けようとは思わなかった。だから、唐突な感は残るものの、これでこの「小説」は終わりになってしまう。この終わった先に何かをつけ加える必要があるのか、これで自己完結した「挿話」だと判断するのか、それとも単なる出来損ないと一刀両断するのか、それは読み終えた時の気分でその都度替わるものであるかもしれない。
<了>
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『震災挿話集』Ⅹ 「陽は暗く穿たれた孔の如し」解題

2013-03-11 14:46:18 | 『震災挿話集』

 『陽は暗く穿たれた孔の如し』は、書かない方が良いのではないか、という疑念を終始抱えたままに書き終えた作品となった。今でこそ書いて良かったと思い込んではいるが、当初は自分自身を精神解剖したような気色悪さに怯え通しであった。作中登場する「M」という老人に悪意を抱けず、虚しく自己投影しているだけであるかに見える「私」という生き物は、間違いなく社会不適応者なのだろうな、などという不愉快な自問自答もし続けた。そのくせ書き上げたこの作品には実に奇妙な執心がある。間違いなく、今まで書き散らしてきた諸作品の中でも最も愛着深い一作となってしまった(作品の出来如何は、この際目を瞑っておく)。

 『陽は~』を書き終えて、改めて気が付いたことがある。
 『陽は~』は、以前書いた『蝉』(『第一回東北創作家の輪』収録)や『八月二十七日』、未完の『嫁と舅』などと同種の構造の作品となった。いずれも老人の心情に「私」が寄り添う形で物語が進められていく。大袈裟に言えば、司馬遼太郎が、しばしばその作中に筆者自身を登場させるような、あるいは村上春樹が、頻繁に失踪する女性を登場させるのと同じような、「物語」を構築する上での「背骨」にあたる私なりのスタイルであるらしい。おそらくは今後も懲りずに、同種の作品を描いていくことになろうと思う。

 『震災挿話集』にくくられる作品群には、ある決まり事を儲けてある。それは、必ずひとつ、もっともらしい「嘘」を放り込んでおく、というものである。私は、『震災挿話集』をノンフィクションとしたいのではない。テーマそのものに「嘘」を込めるつもりは無いが、現実に同種のことがあってほしくない、と内心で思い続けているからであろうか。『陽は~』にも「嘘」が盛り込んであるが、テーマそのもので「嘘」をついたつもりはない。

 なお『陽は~』を書くに際して、一昨年偶然視聴していて衝撃を受けたドラマ『相棒』中の一エピソード「ボーダーライン」が、ある種の示唆を与えてくれた、と思っている(まあ、なんらの類似点も無いかもしれないが)。無理に「社会派」を気取る訳でもなく、物事の本質を的確に抉りつつ「物語」に落とし込む手法は、大いに参考にさせて頂いた。決して届くわけも無かろうが、「ボーダーライン」の脚本家・櫻井武晴氏に心からの謝意を表したい。


※『陽は暗く穿たれた孔の如し』を収録した『第三回東北創作家の輪』「わすれな草」 は本日発売です。ぜひご一読下さい。また、こちらに『陽は~』の番外編を載せてあります。御併読頂ければ幸いです。

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『震災挿話集』番外編 「チャンコロ」

2013-02-08 21:47:00 | 『震災挿話集』
以下は、近日発表予定の「陽は暗く穿たれた孔の如し」の番外編になります。

「陽は~」を公開する前に、番外編だけ発表するというのもどうか、とは思ったんですが。

番外編だけ読んでもらっても、何の話だかさっぱりになるだろうなあ、とは思ったんですが。

「陽は~」はこんな話ですよ、という宣伝代わりだと思ってください。


*************************


 些細な点に引っ掛かっているということを書いておこうと思う。
 「チャンコロ」という蔑称についてである。
 「陽は暗く穿たれた孔の如し」の作中で、この言葉について言及した箇所があるのだが、読み返してみて、言葉足らずがあったのではないかと思えたので、多少なりとも補足――あるいは蛇足にしかならないかもしれないが――しておきたいのだ。
 どういうことかというと。
 「チャンコロ」とは、本来、「清国人」を指した蔑称であった。「日清戦争」後、大日本帝国が大陸進出をする過程で、敗戦国たる清国人――ひいては中国人――を蔑むニュアンスを含みつつ流行した表記・表現である。近年「支那」という表記・表現も問題となっているが、それとは比較にならない程の侮蔑を含んでいる。
 が、作中登場するMは、「半島人」である。どう考えても「チャンコロ」ではない。当時半島人に対して用いられた蔑称は「チョン」であった。
 Mはどうして「チャンコロ」と呼ばれた、などと言ったのだろう。Mの思い違いであったのだろうか。Mの噺は、さらに続けて朝鮮人云々という話題に流れていったので、聴いた当初は深く考えもしなかったのだが、実は大変おかしなことである。Mは口数こそ少なかったが、それなりに明晰な人物であった。そのMが、己に対して与えられた蔑称を、誤って記憶するなどということがあるだろうか。
 こうも思う。当時のI市では、内地人以外の人間を一律に「チャンコロ」と呼んでいたのではないか、と。実際そうした誤用例は少なくないという。単に非内地人への侮蔑語として使われていたのかもしれない。であれば、私が先に記したことはさしたる問題とはならないことになるであろう。
 もしかすると、もう少し性質の悪い意味が含まれていたのかもしれない、とも思う。Mは詳しくは語らなかったが、雑居を強いられていた半島人と大陸人の間にも、深刻な溝が生じていたらしい。
 あるいは、「チャンコロ」という誤った蔑称は、「チョン」以上の醜悪さをもってMに迫ってきたのではないか。自分は生地と等しく半島人なのか、住地と等しく日本人なのか、それとも「チョン」なのか、はたまた「チャンコロ」なのか。幼かったMのささやかなアイデンティティは、複数の呼称と蔑称の狭間でどのように形成されていったのだろうか。そしてそれは、後にMが日本国籍を取得し、しかしそれでも「日本人」という輪に馴染まずに過ごしたことと、同一線上に位置していたのかもしれない。

 ・・・以上の噺は、前作(「陽は暗く穿たれた孔の如し」)で語られるべき事柄であったのかもしれないが、執筆当時にはその意味が判然とせず、脳内の棚に晒したままとなっていた。今、ようやくそれを記し終え、少なからず安堵している。
 この挿話の正答(そんなものが実際にあるとは思えないが)は、無責任であるかもしれないが、読んだ人間の数だけ存在する、ということにしておきたいと思う。


※本作には、差別的表現、もしくは差別的表現ととられかねない表題・箇所が含まれていますが、執筆者には差別を助長するような意図は一切ありません。もしご不快を催した方がいらっしゃいましたら、衷心よりお詫び申し上げます。
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『神戸在住』と『震災挿話集』の類似性について。

2012-09-12 21:32:33 | 『震災挿話集』
ある人に言わせると、私は「つよい」人間であるらしいです。

そんなことないのにねえ。

とてつもなく弱っちい、吹けば飛ぶような、かそけき生き物、なのにねえ。

でも、そう見えてしまう人がいるってことは、多少なりともそういう側面があるってことなんだろうなあ。


ある人に言わせると、私は「こわい」人間であるらしいです。

そんなことないのにねえ。

不機嫌そうに見えるのは、どこまでも表面だけで、存外能天気な生き物、なのにねえ。

でも、そう見えてしまう人がいるってことは、多少なりともそういう側面があるってことなんだろうなあ。


ある人に言わせると、私は「かなしい」人間であるらしいです。

・・・うん、これはそうかもしれない。

年がら年中ってわけではないけれど、不意にどうしようもなく、悲しくなってしまうことがあるもんなあ。

でも、悲しみに浸るには歳を喰い過ぎてしまっているから、「ま、いっか」と呟いて、気分を切り替えてしまうけれども。


ある人に言わせると、私は「やさしい」人間であるらしいです。

最近ようやく、そう言われることを否定しなくなってきたなあ。

昔は、そう言われることがたまらなく嫌だったはずなのに・・・人間、変われば変わるもんですね。

・・・自分のことが、一番よく判りません。





・・・それはまあ、さて置いて、「あの日」以降、時折読み返してしまう漫画があります(読み返し漫画多いなあ、自分)。









木村紺著『神戸在住』



です(学部時代、サークルの先輩に「君はこれ、気に入ると思うよ」と言われて一読し、翌日には書店に買いに走っていました。その先輩とは本の趣味が悉く被っていて、一時期かなり親密にしていましたが、いつの間にか疎遠になってしまいました。今はどうしてるかな?)。

「阪神・淡路大震災」後の復興途上の神戸の街を舞台(舞台というより主人公?)にした、若者たちの青春グラフィティといった趣の作品ということになるでしょうか(しっかし、私が「グラフィティ」とかいう表現を使うとまったく似合わないなあ・苦笑)。

淡いタッチで描かれた独特の描線と、エッセイ風の緩いストーリーが特徴です。


『神戸在住』は、震災を語るために描かれた作品という訳では、必ずしもありません。

震災に関する描写も散見されますし、重要な要素のひとつであることは間違いありませんが、それは多くの場合物語の背景と化していて、震災を直接に訴えかけてくるという場面は少ないように思います。

古来多元的な都市であった神戸という舞台が、「震災」というテーマのみに物語を縛り付けなかったってこと、なのかなあ。

シリーズ完結から六年近く経ちますが、色褪せた印象は感じません(もしかすると、この漫画は、後世記録文学として不朽の名を残すことになるかもしれないな。・・・さあ、この予言は当たるでしょうか?)。


『神戸在住』が、色褪せない作品になっているのは、主人公が震災を体験していないからなのかもしれない、と思うことがあります。

主人公の辰木桂(たつき・かつら)は、震災後、神戸に越してきたという経歴の持ち主です。

一方、桂以外の多くの登場人物は、震災前から神戸に住み続けています。

この差異が、『神戸在住』を単なる「お涙頂戴」的な展開へ凋落することから、免れさせてくれているように思います。


桂は震災を想像することしかできません。

彼女は劇中しばしば、友人が体験した震災の話を、「代わりに」語る役割を担います(ちょっと違うかな、モノローグのナレーション役ってとこかな?)。

このことが、物語に客観性を担保する何よりの重石になっています。

読者は、桂というレンズ越しに、神戸という街を、震災を、「体験」することになります。


『神戸在住』が読み捨てられる類の漫画にならなかったのは、このレンズの完成度が極めて高かったからだと思います。


『震災挿話集』は、『神戸在住』がモデルになっているわけではありませんが、ヒントのひとつにはなっていると思います(他には、エミール・ゾラの『ルーゴン=マッカール叢書』や司馬遷の『史記』、最近流行り出した「オーラル・ヒストリー」なんかが「原型」になっているかもしれません。ちなみに、いわゆる「私小説」は全くモデルになっていません。何でだろう?)。

『震災挿話集』に登場する「私」は、江馬直の分身ではありますが、ちょっと違った人格の持ち主です。

おそらく、江馬直よりも行動力のある、より「醒めた」人間です(ちなみに江馬直という作者は、もう少し感情的でグダグダな人間です・笑)。

そういう主人公を構築することで、物語としての客観性を担保しようとしてみました(成功しているかどうかは怪しいところですけどね)。


「あの日」を突き放してみたい、という願望が、どうやら今の私にはあるようです。

「あの日」以降、色々なことに翻弄されている(自爆している?)自分や他人を突き放して、数歩下がって観続けてみたいという欲求のようなものがあります。

福島という街の一画にビデオカメラを設置して、停止ボタンを押さずに延々と録画し続けてみたいってことなのかな?

そしてそこにうっかり映った私が、『震災挿話集』の「私」なのかもしれません。


『震災挿話集』を『神戸在住』にあえて引き付けてみたのは、こじつけのようなものです。

私は、「私」を桂の代わりにしたつもりは毛頭無いですし、『神戸在住』と同じことをしようと確信犯的に書いた訳でもありません。

でも、潜在的に影響は受けていたのかもしれません。

映画監督の押井守氏が何かの文章で、「何かをクリエイトするということは、何を引用するかということだ」という意味のことを述べていましたが、潜在的な影響も引用の一種なのかもしれないなあ(ちなみに私が一番好きな押井作品は、『イノセンス』でも『スカイ・クロラ』でもなく、『機動警察パトレイバー2』だったりします)。


・・・『神戸在住』は穏やかで暖かなラストへと向かっていったけど、『震災挿話集』はどんな終局を迎えることが出来るんだろうか、などと埒も無いことを考えてしまったので、眠れなくなりそうです。

うん、やっぱり私は、「つよい」人間でも「こわい」人間でもないよ(苦笑)。
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『震災挿話集』Ⅸ 「夢の欠片」

2012-08-24 05:09:53 | 『震災挿話集』
 八月某日、二三:二五。この時刻に飲みに誘うたあ、ふてえ野郎どもである。そう思いながら、それでものこのこ出ていく私も、なかなかにふてえ野郎である。
 入ったことのない、地下のワイン・バーの一隅まで足を運ぶと、女友達ふたりはすでにやや壊れていた(筆者注:前言撤回、「ふてえ女郎ども」である。表現上、大いに問題があるが、まあ、いいだろう)。そのうちのひとりは良い意味で酩酊状態であった。そして、その隣に座った時点でなぜかかすかに予感した。

――これは一時間では帰れそうもないな――

 話題は、互いの近況報告であったり、共通の知り合いへのささやかなバッシングであったり、性質の悪い勤務先の話であったりして、まったくとりとめがない。だが、こういう他愛の無い時間の方が、後年貴重なものであったと思い返すことに、あるいはなるのかもしれない。その機会を得られたことには素直に感謝をしよう。柄でもなくワイングラスなんぞを傾けながら、そう私は思った。
 が、予想に反して、飲み会自体は一時間ほどで終わった。まあ、私は赤ワインとロゼワインの肴で呼ばれただけだから、そんなものであろう。私のみ一銭も払わずその店を後にする。
 ひとりは、駅前でタクシーを拾って帰宅した。
 もうひとりは、投宿先のホテルの玄関口で立ち止まり、やがて座り込んだ。多分そうなるんだろうな、と半ば思っていたので、私はスロープ脇の手摺に背中を預けた。長期戦の態勢は整いましたよ、とは口に出さない。

 その友人は隣県のS市在住である。「あの日」の直後には色々と世話になっている。彼女は雄弁にではなく、やや訥々と、語り出した。「あの日」の後の、自分の心の置き所についてというのが、彼女の語る、いわば主題であった。
 その友人は言う。生き残っていることに後ろめたさを感じてしまう、と。いわゆる「浜の人々」と自分たちの境遇とをどうしても比較してしまう、と。彼らのことを考えると、自分の受けた「傷」はさほどのものではないじゃないか。そう言い聞かせている自分を再発見してしまう、と。
 私はこういう時、特に反論しない。そしてまず同意してしまう。なぜなら、私も同じ気持ちであったから。
 被災したはずのすべての人々が、津波や原発の惨禍を見るにつけ、自分たちの境遇に安堵感を覚え、それとほとんど同時に、えも言われぬ嫌悪感に陥る。今、自分は何を考えた? あの津波の中に、あの放射線の中に自分の姿が、家族の姿がなくてよかったと、心底から安堵してしまったのではないか。そして、そう思ってしまった自分に、譬えようもない罪の意識を感じてしまったのではないか。
 ・・・口を紡ぐサイレント・マジョリティーの列が、私の脳内を占有した。

 いや、そんなことを考える必要はない。
 おそらくはあの時、世界で一番辛かったのは、彼女であったのだろう。
 世界で一番辛かったのは、私であったのだろう。
 世界で一番辛かったのは、「あの日」を体験してしまった、ほぼすべての人々なのであろう。
 「あの日」、職場からやっとの思いで自宅に辿り着き、家族と再会し、でもライフラインを寸断された我が家の前で立ち竦み、心身ともに途方に暮れたであろう彼女は、世界で一番悲惨だった。
 数日後、ようやくささやかな水を手に入れることが叶い、暖めたそれをタオルに湿らせて肌を拭ったであろう彼女は、世界で一番幸福だった。
 そう言い切ることに、何の躊躇いがいるだろうか。
 必要なのは、安易な同情でも、深刻な共感でもない。
 「あの日」体験したことをあるがままに、素直に心のどこかに留め、時が来たら静かに、穏やかに、語り出すことである。そうした作業をとつおいつ続けながら、非日常だらけだった「あの日」を、ゆっくりと、でも確実に自分自身にしてしまうこと。それが一年以上を経て、ようやく私たちの眼前にぶら下がるようになった、新しくて懐かしい匂いのする「日常」であるのかもしれない。

 私は、「あの日」を「聖化」しようとは思わない。
 私は、今年の「あの日」、黙禱を捧げなかった。その代わりという訳では無いだろうが、黙禱ではない「何か」を、捧げてみたいと思った。
 その「何か」の名を、「夢の欠片」と名付けてみた。
 そう思いこむことは、私にとってある種の儀式のようなものであった。

 ・・・友人との長い立ち話を終え、帰路に着きながら、ふと、「夢の欠片」と呟いてみる。
 それは、使い古されてすっかり色褪せた、既に大層陳腐な言葉であるのかもしれない。
 でも、ホテルの前で、透明な美しい液体を素直に流して見せたあの友人の中には、「夢の欠片」が溢れているであろうと、そう思いたかった。大袈裟かもしれないし過大評価かもしれない。でもそれでも構わないじゃないか。
 満天とは到底言えない、妖しい灯で照らし出された郷里の夜空を、私は見やった。それは、決して美しいとは言えない、およそ天体観測家には酷評しかされない類の夜空であったろう。にもかかわらず、その夜空には、ほんのいくつかではあっても、ささやかにささやかに星がまたたいている。その星のひとつが自分の「夢の欠片」だ、などとは決して思わない。ただ願うらくは、ささやかではあっても夜明けまで、あの星たちがまたたいてくれてさえいれば、それでいい。
 そう思えたことが、今日という日を脳裏に刻印して、「あの日」を相対化させる、ひとつの素材になってくれるであろうから。

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