江馬直の創作奮闘記

やっとこさ無職ではなくなった創作家、
江馬直の日常を綴るブログです。

司馬遼太郎が筆を折った理由(わけ)。

2015-07-26 14:10:11 | 『司馬遼太郎作品精読』
 以下は、例によって下衆の勘繰りである。だが、あながち間違ってはいないのではないか、と思っている。
 表題にも掲げた、司馬遼太郎(1923-1996)のことである。

 司馬遼太郎が、その晩年の十年間(1987-96)、小説の執筆を止めてしまったというのは有名な話である。最後の小説となった『韃靼(だったん)疾風録』を最後に、司馬は一切の小説を書かなくなり、『街道をゆく』、『この国のかたち』、『風塵抄』といった紀行文・随筆へと傾斜してゆく(1991年に書かれた『草原の記』は、例外的に小説と随筆の中間地点に位置するが、多分に『街道をゆく』の延長線上の作品である)。この時期の司馬の心境を、周囲の人々は以下のように振り返っている。

 『韃靼疾風録』を終えて、もう小説はエネルギーが要るから、とやめてしまったでしょう。でも私は、やっぱり司馬さんに小説を書いてほしかったんです。ほんとに趣味がない人で、だからあの人には、書いて、自分が思っていることを話す以外に何もないんです。その大切な書くことをやめると言いだしたから、私はどうするんだろうとずっとそのことが気になっていました。いつも「小説を書いてほしい」って言いつづけていました。そのたびに「そんナン・・・」て。でも本人も小説のことは考えていたんだと思います。いろいろな小説を読んでは、とりわけエンターテインメントを読んでは、「いまぼくが娯楽小説を書いたら面白いものが書けるんだけどなあ」と言っていました。それが五年くらい前(引用者注:1991年ごろ)のことで、「だったら書いてほしい」って言ったんです。「私も司馬さんの小説が読みたい」って。そしたら「ペンネームをかえたら書ける」って言って、「だったらペンネームをかえればいいじゃない」とも言いました。
(中略)頭はこの国のことでいっぱいで、でも側にいる私はそういう司馬さんを見ながら、なんだか不安で緊張していました。いまになってこんなこと嘘だと言われるかもしれませんが、人間が生涯をまっとうする最後の炎のたかぶりを目の当たりにしているような、そんなせつなさを感じていました。
 もしこの国がもっとちゃんとしていたら、きっと司馬さんは新しい小説、それも思い切り面白い娯楽小説を書いたんじゃないかと今でも残念です。もともとあの人自身がフィクションみたいな人で、その人が精魂傾けて壮大なフィクションを書いたとしたら、きっとすばらしい作品になったと思うんです。
福田みどり談「夜明けの会話―夫との四十年」より引用)


「ずっと前から曹操を書きたかったんですが、実は司馬さんに遠慮していた」という。故司馬遼太郎氏もまた、曹操を書きたいと漏らしていたという。「なのに、彼は『韃靼疾風録』を最後に小説は書かないと宣言したでしょう。ならば、と取りかかったんです」
「読売新聞・夕刊1998年12月5日」陳舜臣へのインタヴューより引用)


 昭和60年(1985年)春、都内のホテルで新潮三大賞のパーティが開かれたとき、司馬さんがひょっこり姿をあらわし、
「ここに泊まっとるんやけど、ちょっと暇やったんでな」
と珍しい出席だった。
 このとき、星新一さんが語った、
「もう小説を書くのはやめました」
に応えて、いわく、
「そうやそうや、もう小説なんて野蛮なことはやめや」
 どうして小説が野蛮なのか、解説してもらえず、したがって、いまだに理解できないのだが、そのころから、本当に小説の筆を断ってしまったのだった。
仁尾一三筆「げんねこちょ知らんな ――司馬遼太郎言行録――」より引用)


 どうやら司馬は、親しい人間にも小説の筆を折った理由は明かさなかったらしい。昨年亡くなった福田みどり夫人の談話を読む限り、書きたくなくなったというわけではなかったらしいことは読み取れるが、決定的な理由は判らない。親友であった故陳舜臣や担当編集者だった仁尾一三氏らにも詳細を語ることはなかったようである。
 今まで、その理由について深く考えたことはなかったのだが、つい最近、「もしかするとこれが原因だったのではないか?」という記述に突き当たった。今年出版された、近現代史家・伊藤隆氏の「オーラルヒストリー」である。以下、少々長くなるが引用してみたい。

 戦前・戦中・戦後の連続性というと思い出されるのが、昭和六十一年(一九八六)に、『中央公論』で行い、そのままお蔵入りになってしまった司馬遼太郎さんとの対談です。(中略)
 私は司馬さんの愛読者ではないけれど、『坂の上の雲』は面白いと思っていました。その日も「雲を求めて、坂を上ってきた日本は、その歴史をどう見通すことができるか」という話ができればと考えていました。
 ところが司馬さんが、
「結局、雲はなかった。バルチック艦隊の最後の軍艦が沈んだ時から日本は悪くなった」
「日露戦争までの日本史は理解できるが、昭和に入ってから二十年間の歴史は他の時代とはまったく違い、断絶している、非連続だ」
 というに及んで、反論のスイッチが入りました。
 坂を上っていって、雲をつかめたかどうかはわからないけれど、かつて夢にまで見た、西欧的な産業国家になったのは事実です。司馬さんのような見方は、西欧コンプレックスそのものだし、東京裁判の図式と変わらないではないか、といつもの調子で言い募ってしまったのです。
 二、三日して嶋中さん(引用者注:当時の中央公論社の社長)が、
『非常に面白い対談になったけれど、司馬さんはわが社にとって貴重な財産です。司馬さんは大変なショックを受けてしまいましたから、雑誌に載せるのはやめにしましょう(後略)』
 と言ってきて、司馬さんとはそれきりになりました。
伊藤隆著『歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想』P134-136より引用)


 司馬がショックを受けた対談というのは、ほとんど聞いたことがない。司馬は「座談の名手」といわれ、対立的な対談になることは少なかったはずであるから、この伊藤氏との対談は、詳細は不明ながらかなり特殊なものであったのだろう。
 ちなみに、これに類似したケースとしては、かつて陸軍参謀であった財界人・瀬島龍三との対談が挙げられる。司馬は、瀬島との対談を単行本化することを生涯拒否し続けたという。というのも、司馬がほぼ同時期に取材中であった、ある旧陸軍士官――須見新一郎大佐――が、司馬が瀬島と対談したことを知って激怒し、司馬との絶交を宣言するという「事件」が発生したからである。須見大佐という人物は、「ノモンハン事件」の際、実戦部隊を率いて最前線で奮戦し、辛うじて生き残ったという人物であった。その間後方で「のうのうと作戦を指揮していた」瀬島のような人間と、「和やかに」対談していた(という風に須見大佐には見えた)司馬が許せなくなった、ということであったらしい。この一件は、司馬に深刻なダメージを与えた。当時司馬は、「ノモンハン事件」を題材にした歴史小説を構想しており、須見大佐を主人公――『坂の上の雲』でいう秋山兄弟のような役回り――にするつもりであったらしいからだ。須見大佐からの「絶交宣言」は、司馬から「ノモンハン事件」を小説化しようとする執念を奪い去るには充分だった。そしてその結果、『坂の上の雲』のラストがどこか物悲しいものとなっていた理由への回答は、永遠に描かれなくなった。『坂の上の雲』の最終章である「雨の坂」は、これから下り坂になっていく日本の姿を暗喩しながら静かに幕を閉じるが、司馬にとって「下り坂」の象徴として書き継がれなければならない事象こそが、「ノモンハン事件」であった。
 しかし司馬は、『坂の上の雲』と「対」になるはずの長編小説『ノモンハン事件』の執筆を断念してしまった。半藤一利氏はじめ、多くの担当編集者が指摘していることであるが、このことは司馬にとって生涯の痛恨事となった。司馬が瀬島との対談を、敢えて「お蔵入り」にした心情は察するに余りある。

 年譜に拠ると、司馬が雑誌『中央公論』に『韃靼疾風録』を連載していたのは、1984年1月号から1987年8月号までである。そして、司馬の代表的エッセイ『この国のかたち』の執筆が、雑誌『文藝春秋』で始まるのが、1986年の3月号からとなる(以後、その死まで続くこととなる)。『この国のかたち』の連載がスタートした時期と、「お蔵入り」になったという伊藤氏との対談が行なわれた時期(1986年)とが重なっているのは、単なる偶然ではないだろう。おそらく司馬は、干支一回り近く年少の近現代史家に一刀両断にされ、納得し難いものを感じたのではないか。伊藤氏の容赦ない反論に対し、何らかの反駁の必要性を感じたのではないか。これまで、「小説というかたち」で、自分なりに創り上げてきた「日本近現代通史」を、もう一度、自らの手で再構築していく必要に駆られたのではないか。
 伊藤氏への反論(とはどこにも銘記されなかったが)を書く土台として、司馬は小説を選ばず、歴史随筆という形を採った。連載が開始された『この国のかたち』は、司馬の思いつくままに緩やかな「流れ」を維持しながら、長期連載が続けられていくことになるが、その連載初期において、殊更に司馬が取り上げたのは、「統帥権の独立」問題であった。司馬は「統帥権の独立」という名の「暴走」を始めた当時の軍部を指して、「鬼胎」と表現した。温厚な司馬にしては、かなり過激な熟語であるといえる。何故司馬は、このような過激な熟語を用いてまで、昭和期の軍部を糾弾しなければならなかったのか。それは無論、司馬が生前しきりに口にしていたという、自らの「戦時体験」にあったのだろう(当時の司馬の上官が、「戦車で民間人を轢き潰して行ってでも戦争を継続しなければならない」と語り、司馬に「このような愚かな命令を遂行する国家とは何か」という深刻な疑念を抱かせた、という逸話。ただ、先年亡くなった松本健一によると、この逸話そのものが司馬の創り上げたフィクションではなかったか、という。仮にフィクションであったとするならば、司馬にこのフィクションを語らせたものは何だったのだろうか。松本は、三島由紀夫の死後、「戦時体験」への言及が急増している点に着目している。司馬の語る「戦時体験」は、三島の自決に対する、司馬なりの反駁ではないか、というのである。その当否はともかく、この二人の同時代人がある意味対角の位置で言論・執筆活動を行なっていたことは興味深い。ちなみに以前、ノンフィクション界の巨人であった故大宅壮一と司馬・三島の三人が「東京オリンピック」について鼎談したもの――「敗者復活五輪大会」(1964.12)――を読んだことがあったのだが、司馬と三島の会話は驚くほど噛み合っていなかった。間に大宅が入っているから辛うじて鼎談の体裁が成り立っている、というほどに出来の悪い鼎談であった。このことは、松本説を補強するなにごとかになるかもしれない・・・と余談が過ぎた。本筋に戻ろう)。
 そしてそれに付随して、伊藤氏が指摘した、「西欧コンプレックスそのもの」、「東京裁判の図式と変わらない」という厳しい発言に対する、司馬なりの反駁としてではなかったか。その反駁を出来るだけ質の高い、精緻なものとするためには、一切のフィクションは排除されなければならなかったのではないか。
 伊藤氏との対談の翌年、伊藤氏の直弟子に当たる近代史家・加藤陽子氏の論考、「統帥権再考 ――司馬遼太郎氏の一文に寄せて――」(『外交時報』1235号 1987.02、『戦争の論理 日露戦争から太平洋戦争まで』勁草書房 2005.06所収)が発表される。どこにも銘記などされてはいないが、間違いなく司馬は、この小論に目を通したことであろう。加藤氏の論旨――その背後には伊藤隆氏の眼光が埋め込まれている――は、司馬の肺腑をまたしても痛烈に抉ることとなったであろう。この時司馬の胸中に何が去来したのか、私には想像することしか出来ない。
 司馬遼太郎は、以後十年間、『この国のかたち』の随所で、「統帥権の独立」という自ら設定した問題と格闘し続けることになる。だが、司馬が真に格闘していた相手とは誰だったのだろうか。

 『この国のかたち』の連載は順調に続いていったが、『韃靼疾風録』の完結を最後に、司馬はとうとう一篇の小説をも紡ぎ出さなくなった。多くの作家がその死によって連載小説の絶筆を強いられることになったが(池波正太郎などはその代表であろう)、司馬は中絶した小説がほぼ皆無(年譜に拠ると、数例の例外が存在する)という、まことに稀有な作家となった(その代わりに、『街道をゆく』、『この国のかたち』、『風塵抄』はいずれも中途で終わることとなったが)。
 その一方で司馬は、晩年に至るも長編小説の構想を持ち続けていたという。ある時は、「忠臣蔵」に関する史料を読み漁り、誰を主人公にしたらよいか、担当編集者に尋ねている。また、先述の通り、魏の曹操を主人公とした長編小説を書こうと考えていた時期もあったようである(これは結局、親友の陳舜臣に委ねている)。終生明言は避けていたものの、「ノモンハン事件」に関する史料も集め続けていた。
 だが、それらのエネルギーはフィクションとしては結実せず、あるいは時折随筆に書き綴られ、あるいは市民向けの講演会の中で語られ、あるいは有識者との対談時にぶちまけられる、というに留まった。特に激烈な口調で語られた対談に、故井上ひさしとの間で行なわれた『国家・宗教・日本人』(講談社 1996)がある。この対談が行なわれたのは、ちょうど「阪神大震災」、一連の「オウム事件」、「戦後五十年談話」の発表、「住専問題」等々、戦後の課題が山積し噴出していた時期であった。司馬の急逝直後、井上は、司馬の最後の対談での語り口を指して、「悲憤慷慨とまではいかないにしても、直接的な言い方をされるようになったな」と表現している。

 多分に間接的ではあろうが、司馬の小説執筆を断絶させたのは伊藤隆氏であった、ということになると、今の私は考えている(プラス、もしかすると加藤陽子氏も含まれてしまうかもしれない)。無論、だからといって別に、伊藤氏が悪い、などという話をしているのではない(し、責任があるなどというつもりも毛頭ない)。だがやはり、伊藤氏が司馬に与えたショックは、相当深刻なものだったのではないか、と思うのである。小説という、最適の「はけ口」を自ら絶ってしまうほどに傷付いてしまった司馬が、もしその後も継続して小説を書いていたとしたら・・・などと考えてしまうのは、司馬作品を長年愛読してきた一読者の、単なる迷妄でしかないだろうか。
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司馬遼太郎中短編小説精読③「アームストロング砲」を撫する「肥前の妖怪」

2013-04-14 23:16:39 | 『司馬遼太郎作品精読』
随分前に、『八重の桜』もあんまり期待できない云々と放言したことがあったんですが。

謹んで前言撤回させて頂きます(汗)。

去年とは雲泥の差(暴言)で面白いよ。

どうか、今のままで突っ走ってください。


「幕末篇」は安心して観ていられるなあと思っています(まあ、もう数話後には会津藩士の死屍累々な展開ではあろうけど)。

後は、「明治篇」でコケなきゃいいんですが・・・

斎藤一な新島襄とか、「デアルカ」な大山巌とか、離婚訴訟に勝って号泣した槇村正直とか、不安要素はいっぱいありますが。

・・・大丈夫だよね。


さて、だいぶ前の話、『八重の桜』の第三話あたりだったかと思うんですが、八重の兄・山本覚馬が軍備を洋式化せよと建言するシーンで、「薩摩と佐賀はすでに洋式化しつつある!」みたいなことを熱く語るくだりがありましたね。

それを観てて、「はて? 佐賀藩の洋式化って、当時世間に流布するほどに有名な話だったんだっけか? 確か佐賀藩は『二重鎖国』してたから、機密が藩外に洩れるってことはまず無かったはずなんじゃ・・・」とかいう、いらぬ疑念が湧いてしまいました。

こうなるとちょっと調べ直してみたくなる生き物なもので、自宅内で「積ん読」と化してた幕末関連本を参照してみましたところ・・・

案外そうでもなかったみたいですね。


当時の佐賀藩は、幕府や他藩(対馬藩とか津軽藩)に鉄製大砲を多数発注されていて、相当な荒稼ぎをしていたようです。

藩内に設置した大砲の製造所に「公儀(幕府)御用石火矢(大砲のこと)鋳立所」と看板を掲げて得意満面だった、なんて逸話もあるくらいで。

これはもう、秘密もくそもないですね(笑)。

長州や薩摩にも精製技術を割とあっさりと伝授してますし。


当時のある幕臣の漢詩に曰く、

   百物 何ぞ外国を須(もち)いて求めん(わざわざ外国より物品を買い求める必要があろうか)
   肥前の銃砲 薩摩の舟(佐賀藩の銃砲、薩摩藩の軍船のなんと充実したることよ)
   十年の勧業 君看取せよ(二藩の十年に渡る勧業をとくと観られよ)
   日本の旗号 五洲に遍(あまね)し(日本旗を立てた船舶がやがて世界に遍く行き渡ろうぞ)


ってな状況だったんだそうで(しっかし、漢詩の表現っちゃ、なんとも誇大に聞こえるもんですねえ・苦笑)。

佐賀藩が既に洋式化しているというのは、周知のことだったようです。

<毛利敏彦著『幕末維新と佐賀藩』(中公新書 2008年刊)参照>



そっか、なら覚馬が上司にあの台詞を叫んでも一応問題無いわけか・・・

・・・私が偉そうに言うことじゃないだろうけど、『八重の桜』の脚本家さん、実は相当勉強して書いてるんじゃなかろうか?

「歴史もの」のドラマで細部を疎かにしない(拘りすぎるってのとはちょっと違う)って凄く大事なことだと思うんです。

今のところ『八重の桜』は、細部を実に丁寧に描こうとしていますね。


というわけで、『風林火山』・『坂の上の雲』以来の名作(「きちんと歴史の香りのするドラマ」の意)になるんじゃないか、と勝手に期待しているんですが(今後どう転ぶかは判らないけど・・・っていうか、転ばないで下さい・笑)。

・・・さて、わざとらしく佐賀藩の話題を出したところで、今日の本題です(前振り長っ)。


************************************


 司馬遼太郎は、佐賀(肥前)藩に対してやや冷淡な態度をとっているようにみえる。
 あまりにも有名な『竜馬がゆく』や「人斬り以蔵」で土佐藩を、『世に棲む日日』・『花神』・『殉死』(それからあえて『坂の上の雲』を含めても構わないかもしれない)などで長州藩を、大河長編『翔ぶが如く』で薩摩藩を、それぞれフィーチャーしておきながら、佐賀藩に関して描いた作品は極めて寡少である。短編二作――「肥前の妖怪」・「アームストロング砲」――と長編一作――『歳月』――のみであり、しかも司馬の全作品の中でも特に有名という訳でもない。が、この三作品は司馬の幕末・明治小説中でも極めて重要かつ独特な位置を占めている(と思われる)。司馬は、佐賀藩を語ることによって、ある「可能性の未来」の存在を指摘しているように思えるからである(これと同様のことは、越後長岡藩士・河井継之助を描いた『峠』についても言えることではあるが)。
 本稿では、佐賀藩を題材にした短編二作を題材に、司馬が想定した「ある可能性」について言及してみたいと思う(『歳月』とその主人公・江藤新平に関しては、他日に論及したい)。佐幕でも攘夷でもなく、全くの別方角へと進んだのではないか、との指摘である。

 短編「肥前の妖怪」は、連作中短編集『酔って候』に収録されている四編のうちのひとつである。以下、収録作を列記すると、

「酔って候」  ・・・山内容堂(ようどう・土佐藩主)
「きつね馬」  ・・・島津久光(ひさみつ・薩摩藩父)
「伊達の黒船」・・・伊達宗城(むねなり・宇和島藩主)
「肥前の妖怪」・・・鍋島閑叟(かんそう・佐賀藩主)


となり、いずれも幕末に影響力を持った「雄藩」の藩主を中心に据えた、やや実験的な中中短編となっている。その意味では先に取り上げた『王城の護衛者』や『最後の将軍』と同様の性質を有した作品ということも出来る。個人的には、福井藩主・松平春嶽(しゅんがく)を扱った短編が無いのが惜しまれる(ちなみに『八重の桜』では、「悪役」としてかなりフィーチャーされていますね)。もっとも春嶽は、上掲の四人に比べ奇矯な人格の所有者というわけでも無く、あまり小説映えしない人物ではあるのだが。
 それから、いわゆる「薩長土肥」四藩のうち長州だけが扱われていない。時の藩主・毛利敬親(たかちか)もなかなかユニークな藩主なので、彼を題材にした短編があってもよかったかもしれない。ちなみに、一応敬親に関しては、吉田松陰と高杉晋作を主人公とした長編『世に棲む日日』の中で一章を割いて言及されてはいる。その言及のされ方が個人的に気に入っているので、以下、まったく本筋とは関係ないが引用してみたい。

 ところで、この藩(引用者注:長州藩)の殿さまは、
「そうせい侯」
 と、藩の左翼からも右翼からも蔭口をたたかれた毛利敬親(慶親)であった。敬親は歩行もつらいほどにふとっていて顔が膨れ、そのくせ顔面が神経痛でつねにゆがんでいる(引用者注:司馬はしばしば人物の容姿までも容赦なくくさすが、これはその最上級のものであろう。毛利家の末裔からクレームは付かなかったのだろうか)。死んだ吉田松陰の社中の連中が、藩内でいう過激派をなし、それが勢いをえてきてなにか上申すると、
「ああ、そうせい」
と、許可をあたえる。穏健派(佐幕派)が勢力を得てきて、それが大広間にすすみ出て政治的旋回案を上申しても、
「ああ、そうせい」
 と、大きな顔を振って、いった。(中略)
かといって、毛利敬親があほうであったかということになると、疑問である。(中略)
 かれはかれ自身独創力というものはもたなかったが、人物眼もあり、物事の理解力にも富んだ男で、それにうまれつきおそろしく寛大であった。かれは幼児、
――お大名と申すおひとは、家臣に対し、好き嫌いをなされてはなりませぬ、海のようにひろいお心をお持ちにならねばなりませぬ。
と、教えられた。この教えは、どの藩のどの大名もそう教育されるはずであったが、敬親にあってはその一点を、終生教条のようにして守りつづけたほどに純良であった。
 ある意味では、かれほど賢侯であった人物はいないかもしれない。かれは、愚人や佞人を近づけようとはせず、藩内の賢士を近づけた。賢士は左右どちらかの派閥に属している。そのどちらが藩の政権をとっても、毛利敬親は泰然とその上に乗り、
「そうせい」
と、政令に許可をあたえる。
「そうせねば、毛利敬親侯は明治までとても生きながらえることができず、過激・穏健のどちらかの派から毒殺されていたろう」
と、維新後、藩外の長州通のものがいったという記録がのこっているが、あるいはそうであったかもしれない。
(『世に棲む日日』二巻 「毛利敬親」より引用)


 ・・・この何もしない明君・「そうせい侯」毛利敬親とは対極に位置したであろう藩主が、「肥前の妖怪」と謳われた鍋島閑叟であった。

 作中・閑叟は希代の「潔癖家」として描かれる。妻妾との性行為の後、容赦無く手水をつかって平然としているという描写が何度も為されるあたり、一種異様である。挙句には、正妻相手に手水をつかうことを乳母に窘められると、正妻との関係が遠のいて、遠慮せず手水のつかえる側室とばかり関係を持ち、その結果子女五人はいずれも側室の腹の子となった、などというのはもはや滑稽噺に近い。
 この閑叟の潔癖は、史実に基づいた司馬一流の暗喩であろう。妖怪・閑叟が佐賀藩の軍装尽くを洋式化していくに至る理由の一端を、司馬は閑叟の潔癖症が発端であるかのように描いている。この閑叟独特の神経の細やかさが、大名にしておくのは惜しいと言われたほどの商才や、佐賀藩固有の武士道規範「葉隠」精神論の否定(そのくせ藩士には「葉隠」精神を強制するという理不尽さをも併せ持つ)や、西欧合理主義の積極的導入へと繋がっていくとする司馬の発想は、真実か否かは別として、物語としてはまことに説得的である。読む側は、「こういう人物なのだから、後々の洋式化は当然である」と読むようになる。見事な導入である。と同時に、度を過ぎた潔癖が、この短篇のタイトル「肥前の妖怪」とも相俟って、鍋島閑叟という人物の姿を一筋縄ではいかぬ不気味な存在に仕立て上げてもいる。
 閑叟は西欧技術を積極的に導入し、ペリー来航の前年には領内の港湾を「はりねずみのように武装せしめ」るに至る。奇矯な合理主義者・閑叟をして初めてこのような防備が完了したわけで、英主・斉彬(なりあきら)を喪い一時迷走した薩摩藩とも、「そうせい侯」敬親を神輿にして攘夷と開国の間で右往左往した長州藩とも、酔漢・容堂の弾圧で多くの死者を出した土佐藩とも異なる、幕末の動乱に微動だにもせぬ重厚整然たる佐賀藩が誕生したのである。
 閑叟が築かんとする重厚整然の一翼を担うべく、技術革新に勤しませられた一藩士の悲哀を描いたのが、もうひとつの小品、「アームストロング砲」である。
 短編「アームストロング砲」は『プロジェクトX』に似ている。順序でいったら逆であろう。『プロジェクトX』が「アームストロング砲」の物語構成に似ているのである。だが、「技術革新に賭ける男たちの熱きドラマ」などという浪漫的な作品では必ずしもない。製造に取り組んだ佐賀藩士は精神に異常を来たし、発狂して開発協力者を斬殺して幽閉され、挙句、完成したその巨砲は、一回を除いてほぼ無用の長物と化してしまう。アームストロング砲は、彰義隊攻撃時に僅か十二発の咆哮を上げたのみで、その役目を終えることとなる。真に救いの無い話である。

 司馬の描く閑叟は、技術革新にのみ血道を上げる不可思議な藩主とされるが、そのように描かれた意図は、奈辺にあったのだろうか。司馬は「幕末」を舞台とした作品を多数著すことによって、多様な選択肢が存在したはずであるこの特異な時代そのものを描こうとしている。『竜馬がゆく』では、倒幕をせずに維新が実現したかもしれない可能性を描き出した。『峠』では、北陸の一小藩が武装独立するという夢想に憑りつかれた男の生涯を活写した。後世から視れば結果的に歴史の本道となった観のある長州を舞台とした『花神』や『世に棲む日日』とは性質の異なる群像劇を、敢えて多重的・多層的に配置することによって、司馬は「幕末」という時代の様々な可能性を描くことに成功しているのである。
 閑叟の真意が奈辺にあったのか、司馬は作中で詳細には語ってくれない。が、薩長と幕府を戦わせて疲弊させたのち、独り閑叟が漁夫の利を占めようと考えていたのではないか、と予感させる描写が散見される。実際の閑叟がそのような意図を有していたかどうかは判らない。が、少なくとも司馬は、この老獪な佐賀藩主を、薩長にも幕府にも属さぬ得体のしれぬ鵺のような存在として描いているのである。
 ・・・かくして、多大なる犠牲の末完成した「アームストロング砲」を丹念に愛撫する「肥前の妖怪」の奇怪な姿が、二作品を読了した読者の眼前に立ち現われることとなる。

 この不気味な閑叟の虚像に恐怖した薩・長・土は、閑叟への接近を図り、閑叟はそれと提携することになる。ここで独自路線を貫けなかった異能の才人・閑叟に足りなかったのは、時世と自力で並走する「脚」のみであった、と司馬は言いたかったのかもしれない。「肥前の妖怪」は、以下の文章でもって締め括られている。

 閑叟は、大坂天保山に入港し、鳥羽伏見の戦い直後の京に入った。(中略)
 数日後、閑叟は嵐山の花が満開であることをきき、(中略)都の西へ向かった。(中略)閑叟はしたたかに酔い、
「わしは襲封以来、商人のごとく厘耗(りんもう)の費(つい)えも惜しみ、銃砲陣、海軍をつくりあげてきた。半生のうち、庶人がするほどの贅沢もしたことがない。今日の遊びで憂さが晴れた」
 というと、木戸(引用者注:木戸孝允。嵐山で閑叟と偶然出会い、歓談していた)がすかさず、
「その厘耗を吝(おし)んで貯められた財(軍隊)を差し出されては如何」
 といった。閑叟はうなずき、
「もはや惜しくもない」
 それ以上なにもいわなかったが、ここで薩長土三藩は薩長土肥になったといえる。
 肥は、海軍力の弱い官軍に艦隊を与え、さらにその施条銃と後装砲、アームストロング砲の威力をもって関東、江戸、東北、北陸、蝦夷地などあらゆる戦線で大なり小なりの勝因をつくっている。
 さて、閑叟。
 舟中にあること半刻ばかりで痩せた体を磧(かわら)へ移し、ふたたび馬上の人になり、
「花応(まさ)に老人の頭に上るを羞(はじら)ふべし」
 と即興の句を口吟して、鞭を鳴らして去った。もはや老人の出るべき時代ではない、という意であろう(引用者注:「アームストロング砲」にもこの情景が描かれているが、そこにはもう少し詳しく、「花とは、かれの育てた佐賀藩軍隊であろう。それを自在に手折って頭にかざせ、花も自分のような老人の頭にかざされるよりもふさわしく思うだろう、という意味らしい」とある)。
 それから三年後の花の季節には、閑叟はすでに世にいなかった。
 死ぬ間際、
「わしが戦国の世にうまれていたならば、もうすこしおもしろい世を送っていたかもしれぬ」
 と洩らしたといわれる。
(『酔って候』所収 「肥前の妖怪」より引用)


 実際の閑叟がかような末期の台詞を漏らしたか否かは判然としない。が、もし更に十年ほど彼が長命であったならば、歴史はどのように転変したであろう、と考えることはよくある。閑叟が「明治六年の政変」時まで存命であったならば、太政官にある程度のポストを得て政治活動を行なっていたのではないか。明治期、島津久光が名誉職だったとはいえ左大臣職を得ていることを思えば、それに伍する地位を得ていたであろうことは想像に難くない。そして久光よりも遥かにマキャヴェッリ的政治家の特質を備えていた閑叟は、薩長土の元勲たちを上回るイニシアティヴを発揮し得ていたかも知れない。その場合、閑叟の「配下」として活躍することになる人物は、江藤新平・大隈重信・大木喬任(たかとう)・副島種臣(たねおみ)らとなったであろう。閑叟の統制一下、薩摩や長州に充分対抗しうる勢力を、あるいは佐賀は持ち得ていたかもしれないのである。この場合、征韓論争は起こり得たのであろうか? 西南戦争が発生していたとして、それはどのような帰着を迎えたであろうか? 旧佐賀藩出身者らを率いて、木戸孝允や西郷隆盛、大久保利通らに煮え湯を飲ませる妖怪・閑叟の姿を想像してしまうのは、司馬の描いた閑叟の虚像が、私の脳裏で独り歩きしてしまった結果なのであろうか。


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司馬遼太郎長編小説精読② 『項羽と劉邦』と韓信と(前編)

2013-01-15 23:55:45 | 『司馬遼太郎作品精読』

 いつぞやの危惧が当たってしまった。
 『後漢書』から遡って、とうとう『漢書』にまで戻ってしまった。
 『漢書』所収の劉邦(りゅうほう)傘下の諸臣列伝(曹参<そうさん>とか周勃<しゅうぼつ>とか樊噲<はんかい>とか)を通読していくうちに、今度は無性に司馬遼太郎の『項羽(こうう)と劉邦』が読みたくなった。『史記』や『漢書』に基づいて、司馬がどのように小説を書き進めていったのか気になったからである。
 『項羽と劉邦』は、司馬遼太郎の数少ない「中国もの」のひとつである(もうひとつは、最後から二番目の小説でもある、『韃靼疾風録(だったんしっぷうろく)』である)。初めて読んだのは中学時代であった。すでに「中国もの」の歴史小説にはいくつか手を出していたが、別格の面白さがあった。他にこの時代を描いた作品には、芥川龍之介の『英雄の器』、海音寺潮五郎の『中国英傑伝』、陳舜臣の『小説十八史略』、宮城谷昌光の『長城のかげ』、『香乱記』(そういえば宮城谷氏は近々、劉邦を主人公とした小説を新聞連載するらしい)などがあるが、もっともまとまりの良い作品は『項羽と劉邦』であろう。
 別に、司馬遼太郎を礼賛しようというのではない。
 多少歳月を経た観点で再読してみると、存外に粗が目立つ。人並み以上に東洋史関連の知識だけは膨れているから、ついつい司馬の過誤を見付けて興が醒めたりもする。が、「歴史書」を読む訳では無いのだからと、目くじらを立てずに通読すると(歴史書と歴史小説を混同する愚だけは犯したくないものである。司馬礼賛者には、この区別が付かない人が多く混じっており、司馬を「歴史家」として称揚したりしている――殊に政治家に多いようである――が、冥界の司馬にはいい迷惑であろう。何度でも繰り返すが、司馬は歴史に題材を採ることに秀でた小説家であった。断じて歴史家などでは無い)、不思議と愉悦が湧いてくる。司馬の小説の、真に不可思議なところである。

 以下、少々気になったことを書き綴ってみたい。
 この作品は、才幹に溢れた猛将・項羽と、天稟としかいいようのない仁徳をもったごろつき・劉邦との「対比列伝」である。それだけでは無論無く、この両名に直接間接の関わりをもった数多の人々の銘々伝、といった側面も有している。特に劉邦に仕えた人々について多く紙数を割いており、酒色を好み、定職にも就かず、ただ無為にふらついていたはずの「ろくでなし」の劉邦が、何故天下を獲れたのか、という不思議さを説いている。
 作中、特筆大書される人物が四人いる。

   蕭何(しょうか)

   張良(ちょうりょう)

   陳平(ちんぺい)

   韓信(かんしん)

 である。無論、他にも居るのだが、それらは単なる劉邦礼賛者の群として描かれているから、ここでは除外する。

 上に掲げた四人は、いずれも劉邦に仕え、各分野で功績があった。蕭何は内政家として、張良は戦略家として、陳平は謀略家として、そして韓信は戦術家として、それぞれ不朽の名を後世に残している。後年、この四人の名は中華世界の人物像の一典型にまでなった。例えば「韓信の再来」と言えば、それは「名将」というのと同義語となった(ちなみに麻雀の「国士無双」の語源が韓信である)。
 司馬は、この四人の「典型」たちの視点・関係性から、劉邦という不可思議な仁徳者の、「ある側面」を描写している。『項羽と劉邦』を一読すると気が付くことだが、司馬は明らかに劉邦を好いている。劉邦の有する、いささか理解しがたいまでの蠱惑性について、余すことなく書き連ねている(特に紀信<きしん>と周苛<しゅうか>のくだり)。が、同時にそれだけではない、もうひとつの陰鬱たる側面についても書き綴っている(司馬は、好みの史上の人物をべた褒めしたりはしない。むしろ平然とくさすようなところがある。豊臣秀吉に対する褒貶の匙加減などはその好例であるだろう)。いくつか引用してみたいと思う。

 蕭何は劉邦に矢文を書くことを進言した(引用者注:野盗となった劉邦を主君とするという挙兵計画に恐れをなし、沛県の城市に籠城する秦の県令を城内の民衆に殺害させるため、矢文で使嗾しようとしている)。
 劉邦は小さな絹に、俗語でもって父老への手紙を書いた。蕭何が連署すれば父老も大いに信用するところだが、すでに劉邦の家来になっている蕭何としてはそれを控えた。連署は劉邦の威と徳を卑(ひく)くするおそれがあったし、それに、家来になった以上は劉邦の嫉妬を避けねばならなかった。蕭何としては、以後、あたらしい配慮を劉邦に対してせざるを得なかったが、人に仕えることに馴れたこの男には、別に苦痛でもなかった。
(『項羽と劉邦』上巻「挙兵」より引用)


 上掲の引用文は、劉邦が挙兵する寸前の一場面である。蕭何は劉邦の最初のブレーンとなった男である。劉邦の挙兵に際し、蕭何は劉邦に入れ知恵をするわけだが、無論と言うべきかこのくだりは司馬の創作である。劉邦が矢文を書くところは『史記』にも『漢書』にも明記されているが、蕭何が署名しなかった云々というあたりは司馬一流のレトリックである。このくだりを挿入することによって、読者は劉邦と蕭何の関係性には適度な緊張感が存在していたことを感得する、という仕掛けになっている。『項羽と劉邦』は、項羽の敗死でもって擱筆されるが、『史記』・『漢書』にはその後日談として、猜疑心の虜となった劉邦とそれを回避して天寿を全うする蕭何の逸話が続いている。司馬が加えたこの箇所は、その萌芽がすでに挙兵時から存在していたことを暗示し、劉邦が単なる仁徳家では無かったことを銘記するという役割を果たしている。司馬が劉邦好きであったことは間違いないと思われるが、各所でこのような描写が散見される。次に引用する張良のケース(劉邦の幕僚となった直後のくだり)も同様である。

「私が指揮しますと、二度三度は勝ちをおさめ、それにより士気もあがりますが、やがてはべつの要因で全軍に弛緩があらわれます。それがもとで軍そのものを自壊させることになるかもしれません」
 と、張良は自分の欠点を正直にいった。正直はこの作戦家のきわだった特徴というべきものであった。さらには、一面、正直に自分の価値の長短を劉邦に把握させておくことによって、劉邦から怖れられるということを防いだ。
(同中巻「関中に入る」より引用)


 ここにも司馬のレトリックが駆使されている。張良の台詞はこれまた『史記』・『漢書』には存在しない。が、読者はこのくだりがあるおかげで、張良という人物が如何なる才幹の所有者であるかが判るつくりとなっている。つまり、大軍を指揮統率する野戦攻城の将ではなく、帷幄の中で謀を巡らし、千里の外に勝利を決する戦略家であるということを、主君となったばかりの劉邦に理解させているのである。加えて、その種の家臣が主君にとっていかに猜疑される存在であるか、ということをも暗に述べている。これも先述した蕭何と同様の配慮ということになる。実際、張良は劉邦の天下統一後、大封を固辞して隠棲している。この一節が挿し挟まれることによって、張良は蕭何以上に劉邦の猜疑から回避することに成功している、という描写がより鮮明になるのである。

「官位があったろう」
(中略)
「官位はございました」
「官位はなんであったか」
  劉邦はなおものびやかにきいている。
「都尉(とい)でございます」
「ああそれなら今日から都尉に任じよう」
 劉邦があっさり言ったとき、陳平はよろこぶよりも、なにか大きな穴の中に吸いこまれるようなおそろしさを感じた。が、同時に劉邦のあまさをおもった。項羽は配下に官位や封土をあたえるのに老婆が小銭を出しおしみするように吝嗇であったが、一方、劉邦の放漫さも世間では定評になっていた。相手の人の善悪賢愚をろくに見さだめずに物をくれてやったり、高い身分をあたえてしまったりすると世評ではいう。このうわさが存外的を射ていることを陳平は身をもって知ってしまった。
「不満かや」
  いつのまにか劉邦は陳平の顔をのぞきこんでいた。陳平はあわてて、
「とんでもございませぬ。漢に対して何の功もない一介の逃亡人に対し、身にあまる栄誉でございます」
「でもあるまい」
 劉邦は鼻くそでもほじるように、
「おなじ都尉でも、楚の都尉は重く漢の都尉はかるいとおもっているのだろう」
 と、声をあげて笑いだした。陳平は劉邦が世評をよく聴き知っていることにおどろき、先刻の感想を胸のうちで取り消しつつ、
(どうせ馬鹿だろうが、ただ馬鹿にするとひどい目にあいそうだ)
 というふうに思いなおした。

(同中巻「陳平の毒」より引用)


 陳平が項羽陣営から寝返って、劉邦配下となる場面である。このシーンは『史記』・『漢書』にも存在するが、実にそっけなくただ都尉に任じられたことが記されているのみである。が、司馬はここでも謀略家陳平の眼を通して、劉邦の性格の複雑さを描き出している。陳平は当初、劉邦のあまりのあまさに驚いているのだが、会話を続けるうち、速やかにその感想を打ち消すこととなる。それでも陳平は明らかに劉邦の能力を軽く評価している(陳平は自信家という設定。『史記』や『漢書』が描く陳平像も同一)。が、だからといって決してあまく見ようとはしなくなる。存外油断のならぬ主君だ、と再評価しているのである。『項羽と劉邦』(『史記』・『漢書』も)には、この後陳平が劉邦の旧臣たちの誣告に遭って弁明する、という逸話が続いているのだが、陳平が劉邦の厚遇に慢心せず、緊張の糸を弛緩させていなかったことを記している。劉邦という主君が、必ずしも仕えやすい主君では無かった、ということにわざわざ言及するところに、司馬の真の意図が見え隠れしているような気がする。もしかすると司馬は、劉邦という主人公に大いに好感を持つ半面、ある種の得体の知れなさを感じていたのではないだろうか。

 韓信から使いがきた、というので通させると、仮りに斉王になりたい、という口上であった。劉邦は足もとの壺を蹴り、
「わしはこのように苦戦している。いつ韓信の援軍がくるかと待ちのぞんでおるのに、口上というのはそれか。自立して王になりたいというのか」
 と、どなった。
 卓子のむこうに張良と陳平がいる。
(まずい)
 と、この稀代の謀臣たちは、同時におもった。韓信は劉邦の一将軍にすぎないがその実力は劉邦を上廻り、その功は劉邦をしのぎ、しかも遠方にあって大軍を擁している。自立どころか、楚について劉邦を一挙にくつがえすこともできるのである。
 張良と陳平は、こもごも劉邦の足を踏み、「御立腹なさってはなりませぬ」という意味の合図をした。しかし劉邦にはその意味が通ぜず、さらに怒鳴ろうとしたとき、張良はそのしなやかな上体をのばしてきて、劉邦の耳に口をつけた。
「いま漢の形勢は不利でございます。お怒り遊ばして韓信を反発させると、大変なことになります。韓信は滎陽(けいよう)まで援けにくるに及びませぬ。ただかれには斉を守らせておくということで、陛下は満足なさるべきだと思います」
「わかった」
 と、使者に顔をねじむけたときは、劉邦はすでに大きく笑い、陽気な声をあげていた。
「韓信に伝えよ。仮王などということはけちくさい。なんといっても大丈夫たる者が強斉を屈服させたのだ。遠慮なく真王になれ」
 張良と陳平は劉邦の豹変ぶりにあきれた。
 さらに劉邦は立ちあがって使者の肩をたたき、一方、郎中(ろうちゅう)をよび、韓信のために斉王の印璽をいそぎつくることを命じた。
 次いで張良にむかい、
「子房(張良)よ、あなたが印璽をとどける使者になってくれるか」
 と、いった。ただしその顔にもとの憤りがよみがえっていた。目が暗く燃え、片頬が削げたようにひきつっている。あるいは憤りというより韓信という新勢力への恐怖というものであるかもしれず、すくなくとも張良は立ちあがって劉邦の口頭の命令に応えつつ、
(韓信はゆくすえ無事でありうるだろうか)
 と、ひそかにおもった。

(同下巻「半ば渡る」より引用)


 先に紹介した三人に比して、韓信のみが異色である。前三者がいずれも保身にも意を用いているのに対し、韓信のみがその種の配慮を一切せずに(というよりも出来ずに)立ち振る舞う。韓信は劉邦の別動隊を率い、劉邦と敵対する周辺在地勢力の尽くを併呑し、劉邦の勢力圏を著しく増大させる。そんな「国士無双(=戦争の天才)」の韓信が、幕僚の蒯通(かいとう)の策に乗り、劉邦からの「自立」を画策する(司馬が描く韓信像は、どこまでも本人には野心が無く、蒯通の策に乗せられているだけ、という政治的無能力者である)。そんな韓信から届いた書状に激昂した劉邦が、負の感情を露にしたのが上掲のシーンである。このくだりも、『史記』・『漢書』にほぼ同様の描写がある(張良と陳平が劉邦の足を踏むところも、劉邦が遠慮せず王になれと虚勢を張るところも)が、太字で示した箇所は司馬の創作である。
 この創作のおかげで、司馬が描く劉邦は「人間的魅力に溢れた中国的大人(「おとな」ではなく「たいじん」。「長者」ぐらいの意味になろうか)」というステレオタイプ的なキャラクターから大きく逸脱する複雑な存在となった。この韓信の逸話に先の三挿話をも含めて劉邦というキャラクターを顧みると、そこには一庶民から皇帝にまで成り上がった男の精神に、実は醜怪なる心魂が宿っていることに気付く。実際、項羽を滅ぼした劉邦は持ち前の猜疑心を肥大させ、建国の功臣を幾人も誅滅している。その陰惨さは後世の中華皇帝の範となっていく(無論、権力者の個人的性格のみが粛清を生んだということではないだろう。如何なる時代においても最高権力者に比肩する才幹・勢威を持つ部下の存在は、組織の存立に重大な危機をもたらすものであろうから)。司馬が劉邦の晩年を描かず、項羽の死で筆を留めた気分は非常によく判る(タイトルからしても、項羽が死ぬと作品として片手落ちになってしまう)。粛清に狂奔する主人公を魅力的に描くというのは、司馬遼太郎の才腕をもってしても至難であったのだろう。

 司馬が好んだ日本史上の人物として、豊臣秀吉がいる。『新史太閤記』を読むと、司馬の秀吉好きが大層よく判る(ちなみに、その反対に嫌悪とまでは言わぬにせよ、明らかに好まなかった人物は徳川家康であった。『覇王の家』を読むと、司馬の家康への冷淡振りがはっきりと見て取れる)。が、晩年の秀吉にはどうやら好感を抱くことが出来なかったらしく、『新史太閤記』は秀吉が天下人へ登り詰める直前までで終えられている(その代わりということなのであろうか、秀吉の晩年は『功名が辻』や『豊臣家の人々』で語られている。この二作に登場する秀吉の姿は随分と醜悪である。また、『播磨灘物語』で描かれる秀吉は『新史太閤記』とほぼ同時代を描きつつも、かなり突き放した筆致で描かれている。そして個人的には最も興味をそそられることなのだが、司馬はその作中で利休切腹の噺を一切していないのである。司馬が茶道に疎かった、最も醜悪な秀吉を描きたくなかった等々、様々に考えられるが、少々腑に落ちぬところではある)。
 司馬の描く劉邦と秀吉には類似点が多い(そして史実上の劉邦と秀吉も類似した人物であったと思う)。史上には包容力の権化のような姿で登場しておきながら、徐々に猜疑心を剥きだしにしていく様などあまりにも酷似している(そして、明の洪武帝朱元璋<しゅげんしょう>とも似通っている)。司馬が好んで描いた「英雄」は、「厄介で意地汚くて好色で、権力が大好き(井上ひさし評)」だが、秀吉と劉邦は、その極北に位置する存在であった、と言える。
 そして、『項羽と劉邦』において、その対極の存在として人物造形されたのは、項羽ではなく、韓信であった。

〈未了〉
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司馬遼太郎中短編小説精読② フーシェと幽斎、『最後の将軍』

2013-01-10 22:47:15 | 『司馬遼太郎作品精読』



 「王城の護衛者」において、ヒールとしての役回りを存分に演じた徳川慶喜を主人公とした中編小説が、『最後の将軍』である。司馬遼太郎は長大な大河小説をよく書いたが、その才筆が最も冴え渡ったのは、実は中短編小説なのではあるまいか、などと考え始めて久しい。昨年亡くなった作家・丸谷才一は生前、彼の長編を「雑」と評したが、正鵠を射ているであろう。実際、大河長編『翔ぶが如く』は、当初の主人公格・川路利良の存在感が希薄になっていき、当初の予定通りに物語が進んでいかなかったと思える節があるし、後半部分が駆け足じみて感じられる作品も他にいくつか見受けられる(率直に言えば、『坂の上の雲』がそうである。じっくりと読んでみれば判ることだが、秋山好古に関する描写がやや尻切蜻蛉であるような印象を持つ。旅順要塞戦と日本海海戦があまりにも精細に書き込まれ過ぎているため、余計にそうした印象を持ってしまうのかもしれない。もっともこの両作は、「群像劇」という側面が際立って強いので、あまり問題の無い瑕疵ともいえるが)。
 それに対して、主題が破綻せず、作者の意図通りの結末を迎える、という類の作品は、中短編小説に数多く存在する。司馬がきっちりと手綱を握って、無事予定していたであろう結末に行き付いているのである(唯一、大いに迷いながら執筆されたのが「殉死」であったかと思われる)。放置される伏線は少なく(例えば『翔ぶが如く』では、ヒロイン役として準備した人物が中途で消えてしまうなど、用意してあったはずの伏線が結局機能していない、ということがままある)、完成度の高いミステリー小説を読んだ時と同質の充実感を得ることが出来る。『最後の将軍』も、そうした完成度の高い作品のひとつであろうと思う(そういえばこの作品は、1998年に本木雅弘主演で「大河ドラマ」となっている。主人公に動きの少ない、暗い静かな作品であったが、私は割と気に入っていた)。
 
 さて、『最後の将軍』の「あとがき」において、司馬は、

 政治家を小説の主人公にして成功した例は、シュテファン・ツヴァイク(引用者注:20世紀オーストリアの作家)の「ジョゼフ・フーシェ(引用者注:フランス革命期の政治家フーシェの評伝。フーシェはナポレオン一世の警察官僚として辣腕を振るい、ナポレオン失脚後も生き延び、処世術の天才として名を馳せた)」のほか。わずかな例しかない。なぜならば政治家は政治的事象のなかでしか存在せず、当然なことながら政治的事象の変転のなかでしかとらえられない。政治的事象を数頁にわたってるるとのべ、そのあげくに、ようやく数行だけその人物を描くことが可能である。しかも過去の政治現象など、うかうかすると古新聞の政治面ほどの興味も、読者にはあたえない。

と述べている(強いて司馬の言うところの「わずかな例」を他に捜すとすれば、19世紀フランスの文豪エミール・ゾラの『ウージェーヌ・ルーゴン閣下』が挙げられるであろうか。もっとも『ジョゼフ・フーシェ』とは異なり、『ウージェーヌ・ルーゴン閣下』は架空の政治家の物語ではあるが)。
 司馬は、ツヴァイクの『ジョゼフ・フーシェ』によほど傾倒していたらしい。作中、あるいはあとがきでこのフーシェについて言及している箇所は、管見の限りみっつある(あるいは探せばもっとあるかもしれない)。最も早期のものは、『国盗り物語 後編(織田信長編)』に附せられた「あとがき―国盗り物語を書き終えて―」で、そこでは、信長・秀吉・家康の治世を巧みに生き抜いた細川幽斎のことを、狡猾な政界遊泳家であったフーシェに擬えている(ちなみに最後のひとつは、『翔ぶが如く』の作中において、先述した警察官僚・川路利良が留学先のフランスにて警察官僚の偉大なる先達としてのフーシェに傾倒し、それに依拠して日本の警察制度を整備する、というくだりである。もっとも、『翔ぶが如く』での引用は前二者と比べやや異質であるので、ここではもう触れない)。
 司馬が、『ジョゼフ・フーシェ』に論及した意図は「あとがき」の通りではあろうが、私は、もうひとつ別の意味があったのではないか、と考えている。司馬は、徳川慶喜という幕末の政治家を、幽斎同様フーシェに擬えていたのではなかろうか。フーシェと慶喜、そして幽斎の三者を並べると、いずれも乱世を生き抜き天寿を全うしたオポチュニストであった、という共通項が見出される。おそらく司馬の脳裏において、この三者はほぼ同質の存在として認識されていたのであろう。

 慶喜は作中、怜悧なる水戸家の御曹司として登場する。父である烈侯・斉昭はその才幹を見込んで英才教育(というよりも過度のスパルタ教育)を施し、御三卿・一橋家の養子とする。次期将軍候補として擁立するためである。作中慶喜は、終始受動的な人物として描かれる(実際の慶喜もそうであったかは判らない。性格として受動的であったのか、当時の時局が常に後手を打たせるように仕向けた結果受動的存在となったのか、いったいどちらであっただろうか)。
 また、慶喜は喜怒哀楽を露にすることが極めて少ない。皆無ではないのだが、感情を表わした直後にすぐさまそれを打ち消す、といった風の描写が為されている(めまぐるしく思考が転変するという描写も多くみられる)。貴公子然としたその容貌・出自とも相俟って、なかなか感情移入しにくい主人公として造形されている。この造形によって、慶喜はフーシェ的性格を付与された、と言える。ツヴァイク描くところのフーシェも、感情の置き場所の不分明な、犀利なる策謀家として造形されている(実子の死に涙するようなところもあるにはあるが、基本的には感情の方角が判り難い人物である)。
 作中ほぼ唯一、慶喜が激情を迸らせる場面がある。薩摩藩と皇族・中川宮の「独走」を取りやめさせるため、「賢侯」と呼ばれる諸大名連を前にして、日頃おとなしい慶喜が酒の勢いを借り、口を極めて面罵するのである。少々長くなるが、ここは引用した方がその意図が明瞭となろう。

「お杯が、小そうござる」
 と言い、吸い物の蓋をとって給仕の小侍に注がせた。このころの慶喜は酒好きではない。が、宮(引用者注:中川宮)も三侯(引用者注:松平春嶽・伊達宗城・島津久光)も目を見はるほどに飲み、たちまち手足まで赤くなり、一個の酔漢に化した。目が、ぎょろりとすわっている。
「あの一件、まことでござるか」
 と、沙汰書の変改の件(引用者注:朝廷よりの指示で慶喜が横浜港を閉鎖した直後に薩摩の意を含んだ中川宮の策謀で変更になろうとした件)に談じ入った。宮は当惑し、薩人に左様なことを申した覚えはない、と身をかわそうとしたが、そこに島津久光がいるため、やがて言葉がつまった。
「不都合でござる」
 慶喜が、声をあげて宮へ一喝した。「日本国を、宮は弄ばれるか」とつづけ、さらに慶喜は、おそらく天下第一であろうその得意の弁論を宮にむかって展開した。その音吐は梁の塵も動くほどによく響き、しかも微妙な抑揚があり、つねにその効果は劇的であった。この点でも、慶喜が天性の役者だったのであろう。やがて一段と声を励まし、
「薩人の奸謀は、天下の知るところ」
 といった。瞬間、一座のどの顔からも、血の気がうせた。(中略)
「その薩人奸邪の言を、宮お一人が御信用あそばしているゆえ、つい二枚舌をお使い遊ばされ、こんにち、かかるごとき大手違いが出来したわけでござる。薩摩の陪臣の言を信じられ、天下の後見職(引用者注:慶喜のこと)をないがしろにされるとあればもはや日本国は立ち申さず。かかる宮なれば日本国のために討ちとめ、拙者その場で自害せんと思い、それがための鈍刀一口の用意もつかまつって参った。しかしいま伺うに薩の高崎猪太郎なるものへの御言葉は、左様な事情なしということでござるゆえ、それ以上の穿鑿は致しませぬ。さてまた、勅旨、叡慮、宸翰などというゆゆしきものを、廷臣が私意をはさみ、軽々しく一大名の家来へ私発なさるようではもはや国は立ち申さず。幕府はいまより何事をするにおいても宸翰・御直書を願うことなく独断にて国政をとりはからいますが、それにてよろしきや」
 慶喜は間をおくべく沈黙した。宮は肩を落し、うなだれて声もない。慶喜はそれを見つめ、やがて十分に間を置いたあと、背後に控えている春嶽、宗城、久光を顧み、「この三人は、天下の愚物、天下の奸物でござる」
 と、語気するどく発した。(中略)
 慶喜は視線をあげ、中川宮を見た。この帝の寵臣といわれる宮こそ最大の障害物といわねばならなかった。慶喜は、痛烈な悪罵を用意した。が、皮肉でつつんだ。
「なにとて宮はこの三人をご信用あそばされるか。如何。いやいやなるほど、これなる隅州(島津久光)にお台所をおまかせあると聞く」
 金を薩摩からもらっているために薩摩のためにあごで使われているのであろう、というのである。
「それがために薩に御随順なさるのであろう」
「いや、それは」
「御弁疏はご無用にござる。あすからは拙者が隅州にかわりお台所の御料をさしあげまするゆえ、拙者に御随順なされよ」
 どうせ宮は金で動いているにすぎぬ、ということを、激しく諷した。
「いまより、天下の後見職を」
 と、慶喜は自分のことをいった。
「愚弄なさるな。これに控える三人の大愚物と同様同列であるとおぼしめさるな。この段、よくよくお心得あってしかるべし」
 これが慶喜の結語であった。
 その直後、慶喜は膳部の上に突っぷせに臥した。このため食器が割れ、醬油が飛び、銚子が倒れた。が、慶喜は背をひろげて動かない。大酔している。このとおり泥酔した、と見せるほか、慶喜の立場はなかった。暴言がのちに問題化したとき、酔余の失言で覚えがない、とのがれることができるであろう。


 ここで描かれる慶喜の「激怒」は、終盤で示されるようにその尽くが芝居である。この「激怒」には幾重にも意味がある。まず、朝廷側に流れつつある政局を再度幕府側に押し戻すこと。沙汰書の当事者である中川宮を、その意思に関わりなく強制的に自陣営に取り込むこと。幕府の実質的主権者として雄藩の「賢侯」たちを恫喝し、孤立をも辞さず政治的決別を宣言すること(特に薩摩に対して)。あくまでも私的な酒席での暴言であるということにして、後日言い逃れができるようにしておくこと(実際この後も「賢侯」たちとの関係性は持続する)。そして、実は慶喜は本当に激怒しているということ・・・
 ここでの慶喜は、「激怒」という感情の噴出を、高度な政治的行為に昇華している。政治家が喜怒哀楽ですら政治の道具とするのを辞さない、ということを端的に示す、『最後の将軍』でも出色の場面となっている。

 慶喜は、前回取り上げた松平容保とは異なり、「大政奉還」後も巧みに政界を遊泳し、無事隠棲することに成功する(その際、既述の通り松平容保を容赦無く見棄てた。慶喜個人の政治的判断としては最良、会津藩側からすれば大層恨みの残る行為であった。『八重の桜』では、このあたりの機微をどのように描いてくれるのであろうか)。元来の多趣味に没頭し、小粋な趣味人としての人生を全うした。一国の首長の晩年の身の処し方としては、およそ完璧な立居振舞であったといえる。が、作中、晩年の慶喜の言動には、かなりの鬱屈が込められている。結局は己の才幹が自己の保身にしか発揮されなかったことを悔いているかのようでもある。趣味に没頭するのは半ば本気、半ば韜晦として描かれている。この点も、フーシェや幽斎の人生と軌を一にする。ナポレオン失脚後のフーシェは、政治的実権を喪失しながらも、長年研磨してきた警察大臣時代の能力を自己保全のためのみに用いて、亡命先でその一生を終えた。一方の幽斎は、「本能寺の変」・「関ヶ原の戦い」といった歴史の転換点に立ち会いながら、巧みに身を処して人生を全うした。当代屈指の趣味人として晩年を過ごしたことも慶喜と共通する。
 フーシェ、幽斎と慶喜が決定的に異なったのは、かつての慶喜が最高主権者であった、という点であったろう(フーシェは一時的に臨時政府総裁となってはいるが、慶喜が歴任した将軍後見職・征夷大将軍位とは比較しようもない)。これはフーシェ・幽斎以上に隠棲後の保身に努めなければならなかった、ということを意味する。しかも慶喜の退隠生活は、権力者時代を遥かに凌駕する長大なる期間であった。不本意かつ充実した晩年を過ごしながら慶喜が如何なる感慨を育んでいたか、しかし『最後の将軍』は意図的に詳述しない。幕末期に材を採った伝記史料を渉猟し、中途で背反した薩摩への怨念を覗かせてはいるものの、その死に至るまでかつては露であった権力への欲求を遂に顕わさなかったことを淡々と記す。慶喜がそうせざるを得なかった理由を読者に委ねて――単に投げているのではなく、読者が看取できるよう配慮して――擱筆しているあたり、『最後の将軍』は、その主題である政治家を描くという目的を達成した作品だったと言えるのではなかろうか。
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司馬遼太郎中短編小説精読① 純真無垢なる「王城の護衛者」

2013-01-08 00:11:09 | 『司馬遼太郎作品精読』
少々書きなぐってみました(『八重の桜』便乗です)。

たぶん続き(らしきもの)も書くと思います。

お暇な方は御笑読下さい。






 司馬遼太郎の短編小説に、「王城の護衛者」がある。幕末の会津藩主・松平容保を主人公とした小品である。司馬は短編小説の名手でもあったが(私が特に好きなのは、「英雄児」と「鬼謀の人」である。この両作品は、後に改稿され、『峠』と『花神』になっている。完全なる余談であるが、発表した短編を膨らませる形で発展させ、長編小説に仕立て上げるという点において、司馬遼太郎と村上春樹は類似した才能を有しているように思う。両者の類似性を掲げた識者を、私は知らない――単に知らないだけで、すでに誰かが指摘しているのかもしれない――が、存外通底する部分があるように思う)、その中でも「王城の護衛者」は出色の出来であろうと思う(東北出身者の身贔屓のようなものが、幽かに入り混じっているかもしれないが)。
 「戊辰戦争」は、やらずとも済んだ戦争であった、という評価を幾度か目にしたことがある。会津藩や越後長岡藩が無意味な抵抗を成したがために、凄惨な「北越戦争」、「会津戦争」、そして「函館戦争」が発生してしまった、と。実際、そうであったろう。現に江戸の無血開城は可能であったし、会津においても同様の処置が取られた可能性はあったと思われる。
 司馬の「王城の護衛者」は、小説として(断じて歴史書では無い。昔から奇妙な誤解があるようだが、司馬遼太郎はあくまでも小説家である。歴史家ではない。松本清張とともに、その中間に位置する存在ではあるかもしれないが。いずれにせよ、司馬の言説に依拠して、歴史を語ろうとする手合いが大層多いが、きちんと弁別した上で、彼の遺した作品を理解する必要があるのではなかろうか)、それがなぜ不可能であったかを描いた作品となっている。従って、会津松平家が「戊辰戦争」へ進んでいったことへの歴史学的解答を示すものでは無い。人間・松平容保の心情を主軸に(そういう司馬作品は、実は大変珍しいのではあるが)、そこへ至るまでを淡々と書き綴ったものとなっている。
 この小説が有するのは、極めて純度の高い説得力である。何故容保が京都守護職となり、孝明天皇の信任を得、京都の治安を一手に担い、長州と敵対し、薩摩に裏切られ、主君たる徳川慶喜にまで棄てられたのかを、余すことなく描ききっている。
 会津藩が特殊な成り立ち・家訓を有していたがために元来尊王・佐幕の家系であったこと。政治的能力の欠落者であった(という風に敢えて司馬は描いている。実際の容保はもう少ししたたかであったかもしれない)容保が、その保有する軍事力(実際、東国屈指であったことは間違いない)故に、幕府・薩摩らによって大いに利用されていったこと(「蛤御門の変」のくだりにおいてそれは顕著である)。京都の治安を維持するがために新撰組の結成に少なからぬ寄与をしていったこと。孝明天皇との邂逅が、容保の心情をいたく刺激し、強烈な尊王家になっていったこと。主君・慶喜の怜悧さに終始辟易していたこと・・・
 そうした描写を丹念に積み重ねることによって、司馬の描く松平容保は、純真無垢な雄藩の若当主という、司馬作品には珍しい主人公となった(司馬の描く幕末小説の主人公の多くが、欲深く、機を見るに敏でありすぎ、絶えず策謀を巡らせているのとは際立って対照的である)。語弊を怖れずに言えば、主人公が清らかなのである。権力という泥に塗れていない性格の所有者なのである(結果的に塗れてはいくのだが、容保個人が変質することは終生無い)。その点こそが、「王城の護衛者」を他の短編小説とは異なる、清冽な印象を与える作品に仕立て上げてくれている。
 司馬の描く容保は、単純に論評のみで切り捨てるのであれば、時代の落伍者というに過ぎない。時勢という化け物の羈縻に附すことの出来なかった若人の苦悩を描ききっている。司馬は敢えてというべきだろうか、意図的に「会津戦争」そのものの描写には深入りしていない(短編であるという紙幅の関係もあっただろうが、徹底して本作からは戦闘描写を排除している。これもこの小説の主題があくまでも容保個人にあったことの証左となろう)。

 実際の「会津戦争」は相当に凄惨なものであったらしく、若松城(鶴ヶ城)落城後、戦死者の遺体は半年近く野晒しにされたままであったという。私は会津人ではないので、そうした仕打ちに対する怨念のようなものは今一つ理解出来ないでいるのだが(ちなみにこの「野晒し事件」に関しては、実に数多くの異説が存在しており、現在の私はその諸説のいずれにも与することが出来ない。実際はどのようであったのだろう)。
 やや唐突に話題を変えるが、私の両親は新婚旅行の目的地のひとつに萩市を選んだ。理由は今ひとつよく判らない。その点に関しては黙して語ってもくれないので想像するしかないのだが、大方父親が吉田松陰にかぶれでもしたのだろう(ちなみに私は、吉田松陰という思想的劇薬が今ひとつ好きになれない。戦前の思想家・北一輝に通ずる狂気のようなものを松陰にも感ずるからであろうか。松陰を理想的教育家とする人が多いが、益少なく害多い発想であろうと思っている。松陰礼賛の背景には、維新以降の日本の為政者が松陰の思想的後継者で構成されていったという事情があるのだろう。その件については、いずれ別に稿を改めて書くかもしれない)。
 それはともかく、萩市内の旅館で記帳した両親に向かって、人の良さそうな旅館の女将はこう言ったのだという。
「ああ、『敵の国』から来なさったんですか」
 その山口人の女将からすると、草の根を狩るかのように維新志士を殺傷しつづけた会津人(実際には福島人だったわけだが、西国人にその種の地理感覚を求めても仕方がない)には好意を抱けない、ということであったのだろう(より敷衍していけば、「逆賊の子孫」ということにまでなるのかもしれない)。父親は絶句し、母親は曖昧な笑みを浮かべて特に反論しなかったのだという。今から三十年以上前(1980年)の噺であるが、なかなか怨念の籠った一言である。以来母は、山口人だけは好きになれない、と今でも言う(だからという訳では必ずしも無いだろうが、我が家の母親は、現在と先々代の内閣総理大臣がどうしても好きになれないらしい。両人ともどこか「胡散臭い」のだそうで)。
 その逆の話もある。年代は忘れたが、萩市が会津若松市と姉妹都市の提携を結ぼうとしたが、言外に謝絶されたという。この特殊な「怨念」の根は随分深いようで、数年前にある劇団が「戊辰戦争」を題材にした劇をあえて福島・山口両県で上演し、和解を促したことがあったくらいである。この種の「怨念」は消滅することが無いのであろうか(これの極端なものが「南京大虐殺」問題なのだろうと思う。国内と国家単位という差異はありつつも、基本的にこの両者は同種の問題であるような気がする)。

 司馬という人は案外に長州人が嫌いである。「明治以後、日本人は陸軍を通じて長州の血を流しこまれた。だから自分をもふくめて、日本人批判のつもりで長州人を批判しているんです」などといった談話が遺されてもいる(古川薫「蟷螂の斧を落とす」より引用)。その反動では必ずしも無かろうが、「王城の護衛者」における会津藩に対する筆致は柔らかく、暖かい。それに対し、容保を窮地に追い込んだ長州に対する筆致は辛辣なほどである(さらについでに言えば、司馬は山県有朋への評価が大層低い。「王城の護衛者」の末尾にその山県が登場するのだが、陰険姑息な小人物であるかのような印象を受ける。このあたり、長州への低評価とも通底しているように思う。ちなみに薩摩に対する会津人の感情は比較的落ち着いているようである。「西南戦争」で恨みを晴らした、とする意識があるからであろうか)。
 なお司馬にとって、この「王城の護衛者」は格別の作品であったらしい。以下、その「あとがき」を引用する。

 この作品に書いたふしぎさはいまでも余熱として現実のこの世の中に生きのこっているらしく、「王城の護衛者」を書いた直後、会津のひとびとから多くの手紙をいただいた。とりわけ、会津松平家の御当主(引用者注:容保の孫・松平保定)から御礼の電話を頂いたことが私にとってたれに読んでもらったよりもうれしかった。うれしいというより、玄妙な思いがした。右の御当主は、おなじくこの作品の主人公からいえば孫にあたる秩父宮妃殿下から「すぐお礼のお電話をするように」と、そういわれたということを電話のなかで申しのべられた。本来、小説はそういう機能をはたすべく書かれるものではないが、結果として歴史のなかに生きさせられたひとの鎮魂のことばたりうることも、稀有な例としてあるのかもしれない。その稀有な経験をもったことを、私はなまの人間として深く感じ入っている。
 会津はやはり怨念の地なのであろう。昨年(引用者注:1967年)、会津に旅行した。そのとき会津のひとびとは自治体の予算をもってこの短篇を書物にしたいといわれたが、そういう例はないし、そういうことは小説の書き手として望ましく思っていないし、うれしくはあったが拝辞した。この作品は他の作品にはない、そういう作品外の経験を、すでに書きおわってなまの人間にもどっている私にさせつづけた。
(『王城の護衛者』著者あとがきより引用)


 今現在に至るまで「怨念」が生息しているとは、正直あまり思いたくない(が、おそらくは多少なりとも存在するであろう。そして今福島は、もうひとつの新たな「怨念」に憑りつかれてしまっている。まったく難儀なものである)。大河ドラマ『八重の桜』が、このややデリケートな問題にどこまで踏み込むのかは未知数であるが、会津への過度な礼賛、薩長への極端な悪罵にだけはならぬよう描いた方がよろしかろう、とは思う。



※最後の最後に、『八重の桜』に関してひとつだけ。

山本覚馬(1828~1892)演者:西島秀俊

西郷頼母(1830~1903)演者:西田敏行(!)

NHKさん、これはミスキャストだよ・・・
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