江馬直の創作奮闘記

やっとこさ無職ではなくなった創作家、
江馬直の日常を綴るブログです。

「手をとりあって」

2012-02-11 18:30:00 | 『灰色童話集』
 その日、ドラガンは、夜空を見上げていました。ドラガンの頭の上には、きれいなきれいな「天の川」が流れています。ドラガンは星空の下にいると、決まって思い出すことがあります。それは、シニシャとズボニミールのことです。
 ドラガンは、「天の川」を眺めながら、静かに静かにため息をつきます。あの頃、わんぱく坊主だったドラガンとシニシャとズボニミールは、毎晩家を抜け出しては、丘の上に寝そべって、星空を眺めていたのです。
 「天の川」を見ながら、ドラガンは思います。あのふたりは、今どこで、何をしているのだろう、と。
 年老いたドラガンは手を伸ばします。昔よくやったように。手を伸ばして、「天の川」から星をつかみとる。つかめるはずなんてないのに。あの頃は伸ばされた腕が三本あったのに、今ではたったの一本きり。
 ドラガンは、しわくちゃになった手をそっと握りしめました。握りしめたこぶしを広げても、そこには、なにもありません。ドラガンはゆっくりとまぶたを閉じました。夜風に吹かれながら、ドラガンの心は幼かったあのころへと戻っていくようでした。

   Ⅰ

 ドラガンと、シニシャと、ズボニミールは、とっても仲の良い三人組でした。なにをするにも三人一緒です。わんぱくざかりのこの三人は、大人を困らせるようなことなら、とにかくなんでもやりました。
 たとえば、気に食わない先生の水筒の中に、オタマジャクシを入れておいたことがあります。ゴクゴクと勢いよく中身を飲みほした先生の顔は、みるみる青ざめていきました。それを見て、ゲラゲラと笑い出した三人組が、職員室でこっぴどく叱られたのは、言うまでもありません。
 たとえば、とっても威張っている交番のおまわりさんの帽子の上に、カメムシを乗せてみたことがあります。その日一日、おまわりさんはカメムシの臭いに邪魔されて、仕事を満足に終わらせることができませんでした。それを見て、腹を抱えて大笑いした三人組は、交番で小一時間大目玉をくらいましたが、まあ、仕方ないですね。
 たとえば、頑固者のおじいちゃんが大事にしていた庭の花壇の下に、畑で捕まえた大量のモグラを忍び込ませたことがありました。しばらくするとモグラに根っこをかじられた花たちは、いっせいにしおれてしまいました。それを見たおじいさんもすっかりしょげてしまいました。それを見て、指をさして笑い転げた三人組に、頑固じいさんの雷が落ちたのは、当然のはなしです。

   Ⅱ

 こんなことばかりを書くと、この三人組は本当にひどい子どもたちのように聞こえますが、そんな彼らには心の優しい一面もありました。
 ・・・さっきおはなしした気に食わない先生が、もっと偉い先生にお説教をされて落ち込んでしまった時、一緒にお弁当を食べながらなぐさめてあげました。彼らの言い分はこうです。

「たしかにあの先生は、本当にどうしても気に食わない。でも元気がなくなっちゃったら、もうケンカ出来なくなっちまうからなあ」

 ・・・さっきおはなしした威張っているおまわりさんの帽子に、カメムシの臭いが染み付きすぎてしまったので、三人で一生懸命洗濯してあげました。洗いすぎてヨレヨレになってしまった帽子を、おまわりさんに差し出しながら、三人組はこう言いました。

「いくらなんでもこんなにひどい臭いが付くとは思わなかったんだ。これじゃあ、パトロールしてもみんなに嫌がられちまうよな。まだちょっ
と臭うかもしれないけど、きれいに洗ったんで、もう一回使ってあげてください。こないだはごめんなさい」

 ・・・さっきおはなしした頑固じいさんの花壇が、モグラのせいでボロボロになってしまったあと、三人組は相談して新しい花の苗や球根を持ち寄って、もっときれいな花壇に作り変えてしまいました。びっくりしている頑固じいさんに向かって、三人組はこんなことをつぶやきました。

「この花壇は、じいさんが丹精込めてつくった、お気に入りの花壇だったんだよな? オレ達もちょっといたずらが過ぎたよ。お詫びって訳じゃないんだけど、もう一回じいさんの花壇をつくり直したからさ、またきれいな花を咲かせてよ」

 この三人組は、別に誰かに言われたからこんなことをしたわけではありません。そうしなければならない、と思ったから、素直にそんなことをしたのです。
 だから、街の人たちの、この三人組に対する評判は複雑なものでした。「生意気で素直」というのが、もしかすると一番ぴったりの評判だったかもしれません。
 そしてこの三人組には、ささやかな趣味がありました。それは、深夜こっそりと丘の上に登って、星空を眺めることです。このとき三人は、ただ無言で夜空を見上げ、一言の口もきかず、星の瞬きの中で微笑むのでした。
 ・・・いずれにしても、この三人組は、街の有名人ではありました。

   Ⅲ

 さて、この三人組が生まれた国は、ちょっと変わった名前をもっていました。

「スルプスカ」

といいます。
 この「スルプスカ」には、色々な言葉をはなす、色々な人々が住んでいました。おおざっぱではありますが、だいたい三種類の人々に分けられます。

「スルプスカ人」

「クロード人」

「ボシュニャク人」

 どれも聞いたことがない名前ですよね? ちょっと遠回りになってしまいますが、この三種類の人々について、簡単な紹介をしてみたいと思います。とはいっても、「どこがどう違うの?」と聞かれたら、「よくわかりません」というのが答えになってしまうのですが。
 この三種類の人々に、大きな違いはありません。うまい例えばなしになっているか自信がありませんが、日本でいうと、「北海道人」と「四国人」と「九州人」くらい違う、ということになるでしょうか。「え~、それってみんな日本人ってことじゃん!」と思った人、正解です。
実は、スルプスカ人もクロード人もボシュニャク人も、みんな同じ種類の人間なのです。それなのに、わざわざ違う名前をなのっているのです。
 また、彼ら三種類の人々は、はなす言葉が違います。どのぐらい違うかというと、関西弁と東北弁と九州弁ぐらい違います。「え~、それって全部日本語じゃん!」と思った人、正解です。
 実は、彼らのはなす言葉には、そんなに大きな違いはないのです。ゆっくりはなしてもらえれば、ほとんどの意味が判ります。それなのに彼らは、「オレはボシュニャク人、あいつはクロード人」などと分類して生活しているのです。
 これは一体どういうことなのでしょうか?
彼ら三種類の人々が、お互いのことを決定的に「違う!」と感じている部分は、信じている神様です。
 「え~、神様かよ!」と思ってしまった人。その人たちは、幸せな人たちです。なぜなら、彼ら三種類の人々にとって、信じている神様が違うということは、とても重要なことだったからです。
 スルプスカ人とクロード人が信じている神様は、イエス・キリストです。つまり、スルプスカ人とクロード人は、キリスト教徒なのです。そして、ボシュニャク人が信じている神様は、アッラーフといいます。みんなが知っている言葉に直すと、イスラーム教徒なのです。だから、スルプスカ人・クロード人と、ボシュニャク人との間には、色々な所で違った習慣が登場します。
 例えば、スルプスカ人やクロード人は豚肉料理が大好物です。朝・昼・晩の三食には、必ずと言っていいほど豚肉料理が登場します。ですが、ボシュニャク人は絶対に豚肉を食べません。どうしてかって? 「イスラーム教徒」には、豚肉を食べてはいけないという決まりごとがあるからです。だから、スルプスカ人はボシュニャク人と一緒に食事をしないようにします。気をつかってあげているわけですね。
 「じゃあ、スルプスカ人とクロード人はどう違うの?」という質問が出てくるかもしれません。じつは、彼らもちょっとだけ習慣が違うのです。スルプスカ人が信じているキリスト教(ギリシア正教)と、クロード人が信じているキリスト教(カトリック)は少しだけその考え方に違いがあるのです。詳しく説明し出すと大変なことになってしまうので、とりあえずひとつだけ。それは十字架の形です。
       




 ひとつめの十字架は、スルプスカ人が身につけているものです。ふたつめの十字架は、クロード人が身につけているものです。ちょっとだけ形が違うことに気が付いてもらえたでしょうか?  私たち日本人は、どうしても「そんなの大した違いじゃないじゃないか」と考えがちですが、彼らにとっては大問題、という場合だってあるのです。
 ・・・というわけで、「スルプスカ」という国には、スルプスカ人、クロード人、ボシュニャク人という、一見するとあまり変わらない、でも大きく考えの違う、三種類の人々が住んでいました。
 ドラガンは、スルプスカ人です。男の子ですが、胸には、漢字の「十」の形をした十字架をぶら下げています。
 ズボニミールは、クロード人です。胸には、ドラガンとは違う形の十字架がぶら下がっています。
 そして、シニシャは、スルプスカ人とクロード人のハーフです。お父さんがスルプスカ人で、お母さんがクロード人。だから、シニシャの上着の胸ポケットには、二つの十字架が入れてあります。
 でも、ドラガンも、シニシャも、ズボニミールも、十字架の違いなんて気にしません。みんなちょっとだけ、使う言葉が違いますが、それも大して気になりません。悪ガキ三人組は、言葉や神様の違いを飛び越えて、毎日毎日、クタクタになるまで遊び回るのでした。

   Ⅳ

 そんな三人組がイヴィツァ先生と出会ったのは、彼らが中学生になったころでした。
 イヴィツァ先生は、体育の先生でした。見上げるぐらい背が高くて、運動神経は抜群です。そして、彼は数学の先生でもありました。暇があると、とっても難しい顔をしながら数学の問題を解いています。ドラガンたちは、スポーツ万能で頭の回転も速いイヴィツァ先生を大好きになってしまいました。イヴィツァ先生もそうであるらしく、「どうした、悪ガキ三人衆!」などといって、ドラガンたちをかまってくれるのでした。
 ある日のことでした。ドラガンとシニシャとズボニミールは、中学校の中庭のすみっこで、お弁当を食べようとしていました。楽しくおしゃべりしていた三人のところに、お弁当包みを抱えたイヴィツァ先生がやってきました。

「おい、悪ガキ三人衆、一緒に昼飯でも食わないか?」

 大好きなイヴィツァ先生に誘われて、三人とも大喜びです。さっそくイヴィツァ先生を囲むようにして、お弁当包みを広げました。
 すると。三人は一瞬だけ「あっ!」と思いました。育ち盛りの三人の弁当箱には、豚肉料理が山のように詰め込まれています。ところが、イヴィツァ先生の弁当箱には、おいしいおいしい豚肉が、ひとかけらも入っていないのです。三人は、お互いに目で合図を送り合いました。

――イヴィツァ先生はボシュニャク人だ――

ということに三人とも気が付いてしまったからです。ボシュニャク人は、イスラーム教徒です。当然豚肉は食べません。もしこのまま一緒に食事をし続けたら、イヴィツァ先生は怒りだしてしまうかもしれません。
 ですが。すっかりとまどってしまった三人の様子に気付いたイヴィツァ先生は、全く気にしないで食事を始めました。あっけにとられている三人に向かって、先生は勢いよくはなしかけました。

「おい、悪ガキども、今おまえら、『やべえ、イスラーム教徒の前で豚肉食べちゃったよ!』とか思っているんだろう? ああそうだよ、たしかにオレはボシュニャク人さ。でもな・・・」

 イヴィツァ先生は、いきなりフォークを伸ばして、シニシャの弁当箱から豚肉のソテーを突き刺しました。そして。
ぱくん。
 食べてしまいました。ドラガンはびっくり仰天しました。まさか、イスラーム教徒が豚肉を食べるなんて! 今まで知りあったボシュニャク人には、そんなとんでもないことをするヤツなんていなかったのに!
 眼を丸くしている三人組を見て、イヴィツァ先生は笑い出しました。

「ハハハハ。どうした、おどろいたのか? オレにとっては何でもないことなんだけどなあ。何を隠そう、オレの大好物はイスラーム教徒が大嫌いなはずの豚肉料理なのさ。
 いや、じつはオレのおふくろがクロード人でな、家の食事には、必ずと言っていいほど豚肉料理が登場してたんだ。ただ一応、オレもイスラーム教徒だからな。外で食事する時は豚肉を食べないようにしてたのさ。・・・おどろかせちまって、悪かったなあ」

 この一件があってからというもの、ドラガンたち三人は、ますますイヴィツァ先生にまとわりつくようになりました。イヴィツァ先生は、彼ら三人を分けへだてなく、全く同じように接してくれました。もしかすると、「えこひいき」という言葉を、イヴィツァ先生は知らなかったのかもしれませんね。
 ドラガン少年は、この楽しい時間が、いつまでも続くと信じ切っていました。

   Ⅴ

 五月過ぎのある暖かい日のことでした。ドラガンとシニシャとズボニミールは十五歳――中学三年生――になっていました。彼ら三人の関係はちっとも変わらなくて――少し変わったとすれば、とんでもないイタズラはしなくなった、ということぐらいだったでしょうか――、いつも 三人一緒で、イヴィツァ先生にまとわりつきながら一日一日を過ごしていました。
 「おかしなうわさ」がドラガンたちの耳に入ってきたのは、その日のことでした。

――イヴィツァ先生が六月一杯で学校を辞めさせられるらしい――

 三人は「そんなバカな!」と思いました。あんな良い先生が辞めさせられるなんてこと、あるわけがない! 三人は、何かの間違いだと思いました。

「ほら、きっと、あれだよ。イヴィツァ先生は『辞めさせられる』っていうんじゃなくって、『他の学校に転任する』って意味なんだよ。それだったらよくあるはなしじゃないか。『伝言ゲーム』ってあるだろう? 先頭のヤツがメモ書きを読んでさ、その内容を後ろのヤツに耳打ちして、どんどん後ろに回してって、気が付いたら全然違う内容になってました~、なんてゲーム。あれみたいなものでさあ、きっとどこかではなしがねじ曲がっちまったんだよ」

 三人はイヴィツァ先生の「うわさばなし」を、そうやって笑い飛ばしました。ちなみに、「六月に転任」などというと、私たち日本人は「随分変な時期に転任するんだなあ」などと思ってしまいますが、スルプスカの人々にとっては、ちっともおかしなはなしではありません。スルプスカでは、六月が卒業式で九月が入学式というのが当たり前です。だから、この時期に転任のはなしが出るのは、むしろ当たり前のことだったのです。

「・・・でもさ、イヴィツァ先生、別の学校に行っちまうんだなあ」

 シニシャが悲しそうにつぶやきました。日頃口数が少ない分、シニシャの一言には一際感情がこもっていました。

「まあ、しょうがないさ。それにオレたちだって九月から高校生になるわけだし、どっちにしろイヴィツァ先生とはお別れしなきゃいけなかったんだ」

 三人の中で一番頭の回転が速いズボニミールが答えました。

「・・・でもこれで、時々中学に遊びに寄る理由が、無くなっちまったなあ」

 ドラガンがしみじみと一連の会話をまとめてみせました。ズボニミールも「そうだなあ」とドラガンの「まとめ」にうなずきました。

   Ⅵ

 お昼になると、三人はいつものように、学校の中庭のすみっこに陣取って、イヴィツァ先生が来るのを待ちました。あの「豚肉事件」があってから、三人はここで、イヴィツァ先生とお昼ごはんを食べるようになっていました。さすがに毎日、というわけにはいきませんでしたが、四日に一回ぐらいは、イヴィツァ先生言うところの「悪ガキ三人衆」と一緒に弁当包みを広げてくれるのでした。
 しばらくすると、大変元気な足取りで、三人の前にイヴィツァ先生がやってきました。

「おい、悪ガキ三人衆、今日の昼飯にも豚肉は入ってるか?」

「たっぷり入ってますよ。先生に分けてもまだ余るぐらい」

 心からうれしそうにドラガン少年は答えました。

「ハハハハ、だったらさっそく、おすそわけしてもらおうかな」

 全くいつもと変わらない、他愛のない会話。和やかにお昼ごはんの時間が始まりました。
 ですが、三人はなんとなく落ち着きません。「先生、転任しちゃうんでしょ?」という一言が、どうしても出てこないのです。ドラガンとシニシャとズボニミールはお互いの腕を肘でつつき合いました。たまたま二人に挟まれて座っていたドラガンが、左右からつつかれ続けて、とうとう口火を切ってしまいました。

「あのう、先生。さっき妙なうわさを聞いたんだけど、・・・転任しちゃうんでしょ?」

「・・・誰から訊いた?」

 イヴィツァ先生は静かにそう答えました。ああ、やっぱりそうなんだ。三人は黙りこんでしまいました。この楽しい時間はもうすぐおしまいになる。そう思ったらどうしようもなく悲しくなってしまったのです。ところが。

「転任は、しないよ」

「え~っ!?」

 三人は目を丸くしました。シニシャとズボニミールがぼやきます。

「なんだよ~、ただのうわさだったのかあ」

「びっくりさせやがって、誰だよ、ウソ付いたのは。・・・先生、ひどいうわさだったんだよ。先生が六月一杯で辞めさせられる、なんていうとんでもないはなしにふくらんでたんだ」

 ズボニミールのひと言を聞いて、イヴィツァ先生は、今までに見せたこともないような、なんともいいようのない、辛そうな表情を浮かべました。

「・・・いや、その通りなんだ。転任なんてしないが、本当に辞めさせられるんだ」

「えっ!!!」

 三人は心の底からおどろきました。思わずドラガンは叫んでいました。

「なんで!」

   Ⅶ

 イヴィツァ先生は静かにはなし始めました。

「・・・オレは、元々は数学の先生だが、今だけは社会科の先生になるから、そのつもりで聴いてくれ。
 おまえらは、オレのおやじがボシュニャク人で、おふくろがクロード人だってことは、もう知ってるよな。・・・オレが生まれたころのスルプスカは本当にいい国だった。スルプスカ人だろうが、クロード人だろうが、ボシュニャク人だろうが、いちいちそんな区別なんてしなかった。
 スルプスカ人とクロード人とボシュニャク人では、信じる神さまや神さまへの祈りの捧げ方がみんな違う。カレンダーも違う。キリスト教では一年は三百六十五日だが、イスラーム教では三百五十四日しかない。それにスルプスカ人のカレンダーは、クロード人のカレンダーよりも一ヶ月ぐらいずれているだろう。この国は、違いがあって当たり前の国だったんだ。
 例えば、クロード人のクリスマスは年末だが、スルプスカ人のクリスマスは年が明けてから。オレ達はその違いを楽しんだものだよ。オレの家の場合、おやじがボシュニャク人だから、普通はクリスマスなんて祝わない。でもおふくろがクロード人だから、毎年クリスマスツリーは飾るんだ。おやじは、一度も文句を言ったことがなかったよ。
 『なんと、オレたちの国には新年が三回もあるんだぞ』って外国の友だちに自慢したことだってあったなあ。祝日にはいろんな家に招いたり招かれたりするのが当たり前だった。隣近所も本当に仲が良かった。
 ・・・でも、この十年くらいの間に、それがすっかり変わってしまった。今まではチェックなんてしなかったのに、父親が何人で、母親が何人かなんてことを、細かく調べるようになっちまった。なんでも、『スルプスカ』という国名なのに、クロード人やボシュニャク人が住んでいるのはおかしなことだっていうんだ。オレはスルプスカで生まれた。オレの故郷は、この『スルプスカ』だ。なのに、オレはこの国の人間じゃないなんて言うヤツが増えてきた。
 去年の暮れに、国の役人がやってきてこう言ったんだ。『これからは、学校の教師はスルプスカ人だけに限定する。クロード人とボシュニャク人の教師は今年度一杯で退職するように』ってな。オレはびっくりして文句を言ったんだが、もうどうしようもなかった。なにしろオレには、スルプスカ人の血が一滴も入っていない。クロード人のおふくろの血が半分、ボシュニャク人のおやじの血が半分ずつだ。残念だが、オレには決定をひっくり返すような力も無いからなあ。
 ・・・正直言ってオレには、スルプスカ人だの、クロード人だの、ボシュニャク人だのといった『違い』がよく判らない。違うのが当たり前で、それでもみんな、ここまでずっと仲良くやってきたじゃないか。オレのおやじとおふくろは『違い』を乗り越えて、明るく楽しい家庭をつくっていた。なのに、なんで今頃になって、『違い』ばっかりを言い立てて、今までうまくいっていたものをぶち壊そうとするんだ?
 『違う』ことはおかしなことなのか? オレがスルプスカ人じゃないからといって、なにか困ることがあるのか? オレにはまだまだ、おまえらみたいな悪ガキどもに伝えたいこと、はなしたいことが山ほどあるんだ。それなのに、なんで、オレは教師を辞めなきゃいけないんだ?
 ・・・ああ、おまえらに言っても仕方のないはなしだったな。嫌な思いをさせちまって悪かった。おまえらに聞かせちゃいけないはなしだった。本当に悪かった。
 でもな、散々こんなはなしをしておいてなんなんだが、どうか勘違いしないでほしい。オレはこの国のやってることには納得がいかないが、スルプスカ人を憎んだりはしていない。もしスルプスカ人を憎むことになったら、ドラガンやシニシャまで憎むことになっちまう。そんなひどいこと、このオレには絶対に出来ない。
 ・・・まだ一カ月ある。あと一ヶ月は、オレはこの学校の先生だ。もう残り時間が短くなっちまったが、それまでは精一杯、おまえらの先生で居続けるから、だから、そんな泣きそうな顔するんじゃない!
 ほら、次の時間はオレの体育の授業だろう? そろそろ運動着に着替えてこい!」

   Ⅷ

「・・・こんなメチャクチャなはなしってあるかよ」

 イヴィツァ先生が立ち去ってからしばらくして、ズボニミールがやっとのことで口を開きました。

「あんなに優しくて一生懸命な先生が、何でこんな辞め方しなきゃいけないんだよ!」

「・・・ズボニミール、落ち着けよ」

「落ち付いてられるかよ! おいドラガン、オレ達のイヴィツァ先生が辞めさせられるんだぞ! 絶対に止めなきゃいけない。オレは今すぐ校長室に行ってくるからな!」

「落ち付けったら!」

 ドラガンは怒り狂うズボニミールを必死で押し留めました。ズボニミールはなおも声を荒げます。

「なんで止めるんだよ、ドラガン! こんなのおかしいだろ? イヴィツァ先生はなにも悪いことなんかしてない。悪いのは勝手な決定をしたスルプスカ人たちだ!」

 ドラガンは混乱しきった頭で、必死で言い返しました。

「さっき、イヴィツァ先生はなんて言った? 先生は『スルプスカ人を憎んだりしない』って言ってたんだぞ。それなのにおまえが『スルプスカ人を許さない』なんて言い出したら、イヴィツァ先生が言ってたことを無視することになるじゃないか!」

「なんだと!」

「ふたりともやめてくれよ・・・」

 ここまでずっとおろおろしていたシニシャが間に入りました。怒りの収まらないズボニミールはシニシャにも矛先を向けました。

「じゃあ、おまえはどう思うんだよ!」

「どうって・・・ふたりの言ってることのどっちも間違ってないと思うよ」

「それじゃ答えになってないじゃないか!」

「そんなこと言われても・・・答えなんて出せないよ」

「ふざけるな、そんな答え方があるもんか!」

 ここでシニシャまで大声をあげてしまいました。

「あるよ! ぼくは半分スルプスカ人で、半分クロード人なんだよ! どっちか片方の意見を選べなんて言われてもできないよ!」

 それを聞いて、ズボニミールはようやくおとなしくなりました。ドラガンもシニシャもそれに合わせるようにおとなしくなりました。でも心の中は、ちっともおとなしくなんかなってくれませんでした。

 ・・・三人はしばらくの間、中庭のすみっこにたたずんでいました。半ベソをかいたシニシャが、やっとのことで口を開きました。

「・・・そろそろ授業が始まるよ。いったん教室に戻ろう」

 ドラガンとズボニミールは黙ってうなずきました。
 三人は肩を並べて教室へと向かいましたが、不意にズボニミールがドラガンをにらみ付けました。

「・・・おまえらスルプスカ人たちのせいで、イヴィツァ先生は学校を辞めなきゃならなくなったんだ!!」

 それだけ言い残すと、ズボニミールは駆け去っていきました。
 ズボニミールが言い放った台詞は、ドラガン少年の胸に鋭く刺さって、抜けなくなりました。
 その日から、三人は口をきかなくなりました。
 あんなに仲の良かった三人だったのに、ドラガンと、シニシャと、ズボニミールは、一緒に遊ぶことすらなくなってしまったのです。

   Ⅸ

 六月三十日。この日は、ドラガンたちの中学校の離任式です。卒業式も終業式も終わってしまっていたドラガンたちにとって、この六月最後の登校日は、なんとも言いようのない、やるせなさがつきまとうものでしかありませんでした。
 ドラガンの足取りが重くなってしまう理由はふたつあります。ひとつは、あの日以来、ズボニミールやシニシャと顔を合わせるのが辛くなってしまっていること。そしてもうひとつは、大好きだったイヴィツァ先生と会えるのも、今日が最後になってしまうということ。「まだたったの十五年しか生きてないけれど・・・」とドラガン少年は思います。

「・・・こんなにも生きていくのがしんどいなんて、思っても見なかったなあ。単純に考えて、あと六十年はこの人生が続くんだとしたら、こういう切ない思いを、あと何回しなくちゃならないんだろう・・・」

 学校に着いてからも、ドラガンは居心地の悪さを感じてしまいました。シニシャやズボニミールが自分の机から決して動こうとしないのです。ほんの一ヶ月ほど前まで、「ようっ、ドラガン!」と言って駆け寄ってきてくれたはずのあのふたりが、椅子に腰かけたまま、身じろぎひとつしないでいます。
 ドラガンは、よっぽどこのふたりに、自分から声をかけようと思いました。でも、何をどう話していいのか、見当を付けることすら出来ません。ドラガンは、たった一ヶ月前までスラスラとこなせていた、あたりまえのことが出来なくなっていることに気付きました。ズボニミールのあの一言が、鋭い槍のようにドラガンの胸に突き刺さったままであることに、改めて気付かされてしまいました。
 生徒たちは体育館に集められました。普通、全校集会なんて、退屈なだけなので、みんなおしゃべりをし合って時間つぶしをします。ですが、この日だけは違いました。生徒たちにとって、今日の離任式だけは特別の時間でした。ドラガンたち三人だけでなく、中学校のほとんどの生徒たちにとって、イヴィツァ先生の存在は特別なものだったのです。
 この日校長先生は、何かずいぶんとえらそうな口調でしゃべくりまくっていましたが、ドラガンの耳には何一つ残ることはありませんでした。要するに、「イヴィツァ先生には先生を辞めてもらう」という意味のことを遠回しに言おうとして、何分も何分も中身のないスピーチを続けているだけのことでした。
 ドラガンは、「大人の言うことなんて、もう何も信用するもんか」と心の中でつぶやきました。ああいう大人たちがイヴィツァ先生を追い出したんだとしたら、オレは大人になんかならない。そう心に決めたその時。空っぽのスピーチをまとめ終えた校長先生が、壇上から降り、代わってイヴィツァ先生に登壇を促しました。
 イヴィツァ先生は静かに、でも力強い足取りで壇上に上がりました。そして、マイクを取り上げると、穏やかな表情を浮かべながら、静かに静かに語り始めました。

   Ⅹ

「・・・校長先生、他の先生方、ひとつお願いがあります。どうか私に最後まで、はなしたいことをはなさせてください。決して皆さんにご迷惑をかけないと、お約束しますから・・・。
 ・・・今日で、この学校を去ることになりました。辛くない、と言ったらうそになりますが、でも、今、私は大変さっぱりした気持ちです。これは本当のことです。『辞めさせられる』と思ったから辛かったわけで、『自分の意思で辞めるんだ』と考えれば、それほど辛い出来事でもないのかもしれない。そう思えるようになりました。
 ・・・私は、自分の意志でこの学校を辞めます。もし自分の意志で辞めるのではなく、誰かの意志で辞めさせられるのだとしたら、私は、今この場で、あらん限りの大暴れをして見せたことでしょう。でもこれは、自分の意志です。他の誰をも恨みようがない。私は、誰かを恨みながら、この学校を去りたくない。だから、自分の意志で、この学校を去ることに決めました。それが、私が皆さんにしてあげられる、唯一のことだと思うからです。
 皆さんは、私の考えを、受け取りたいように受け取ってくれればそれでかまわない。説明はしません。
 ・・・私には、本当にささやかでしたが、あるひとつの夢がありました。それは、スルプスカ人の子どもと、クロード人の子どもと、ボシュニャク人の子どもが、同じ教室の中で同じ椅子と机に座って、その前で私が授業をする。内容はそう、どんなものでも構わない。みんなが笑い合えるものなら何だって構わない。
 ・・・そこにいる生徒は、スルプスカ人でも、クロード人でも、ボシュニャク人でも構わない。キリスト教徒だろうと、イスラーム教徒だろうと、他のどんな神様を信じている人であっても構わない。どんな肉を食べ、どんな言葉を使い、どんな考え方をし、どんなしぐさをしていても構わない。そんな生徒たちに囲まれながら、私も生徒たちも、ほんのちょっとずつでいいからひとつ先の世界へと進んで行く・・・そんな、バカみたいな、くだらないかもしれない、とてもささやかな夢です。
 私は、きっといつかそういう時代が来るものだと、信じて疑っていませんでした。でも、必ずしも、そんな時代が望まれていないものだということにも気が付いてしまいました。悲しいことです。
 ですが、今私は、誰かを恨んだりはしていない。さっき私は、どんな考え方をしていても構わない、とそう言いました。だから、私の夢が実現するのを望まない人がいたとしても、別に構わないわけです。そんな時代が来ることを望まない人がいたとしても、別に構わないわけです。
 ・・・私の夢は終わりました。でも、後悔はしていません。私は、今日まで夢を見続けることが出来ました。それは、とても幸福なことだったと思うからです。皆さんと出会えたおかげで、そんな夢を思い描くことが出来ました。本当にありがとう。楽しかったです。
 ・・・でもやはり、『それでも』と、私は思わずにはいられません。
 私は皆さんがいがみ合わずに、共に手をとりあって、穏やかに、楽しく過ごしていくことを願ってやみません。・・・私の考えはもしかするとあまりに安っぽい、むなしいひとりごとに過ぎないのかもしれません。でも、これは私の本心です。どうかほんの少しでもいいから、何かしらをくみ取ってもらえたら、私が今、こうして皆さんの前にいたことに、意味が生まれるのかもしれません。
 ・・・さよならは、言わないことにします。言ってしまったら、二度と会えなくなってしまうような、そんな気がするからです。だから・・・そのうち、また、どこかで会いましょう。そしてその時は一緒に・・・豚肉でも食べましょう」

 最後の一言を付け加えた時、イヴィツァ先生はほんの少し照れていたようでした。イヴィツァ先生は長いスピーチを終えると、静かに静かに、そして永遠に壇上から去りました。
 さっきまでイヴィツァ先生がいた壇上から、ドラガンは目を動かすことが出来ませんでした。イヴィツァ先生を、どこまでも追い掛けていきたいのに、身体中のどの筋肉を動かすことも出来ませんでした。
 ドラガンは思いました。人間は本当に悲しい時、涙が流せないんだ、と。そしてあのふたりも、きっと自分と同じことを考えているのだろう、と。
 
 その日以来、ドラガンたちがイヴィツァ先生に会うことはありませんでした。

   ⅩⅠ

 その夜、ドラガンは、二階にある自分の部屋のベッドにうつぶせになって、ただひたすらにぼんやりとしていました。何度も何度もイヴィツァ先生のスピーチを思い起こしていました。そして、なんとはなしにつぶやきました。

「・・・『豚肉でも食べましょう』かあ」

 ドラガンは、もう何をする気にもなれませんでした。これから始まる長い夏休みも、九月から始まる高校生活も、ドラガンには何一つ、興味の持てないものになってしまっていました。

 コツン。

 ・・・そんなドラガンの部屋の小窓に、小さな小石がぶつけられたのは、夜も更けて、時刻が次の日に入ったころでした。まだ寝ていなかったドラガンは、小窓の側に近付いて行きました。
 ドラガンの家の裏庭に、ズボニミールとシニシャが突っ立っていました。ズボニミールが静かに叫ぶという器用なことをやってのけました。

「・・・ドラガン、こっそり抜け出せないか?」

「・・・あ、ああ、大丈夫だよ。ちょっと待ってて」

 夜中に呼び出されたことよりも、一ヶ月振りにズボニミールと会話出来たことに、ドラガンは驚いていました。そして、何もする気になれなかったはずの自分に、まだこんなにも動き回る元気があることにも驚いていました。

 両親に気付かれないように裏口から飛び出したドラガンに、ズボニミールが囁きかけました。

「ドラガン、星を見に行こう」

「・・・星?」

 何で、と訊ね返そうとするドラガンに、ズボニミールが瞳を輝かせながら答えました。

「イヴィツァ先生を捕まえるのさ」

 ドラガンには、わけが判りませんでした。シニシャもわけが判らない、という顔つきです。でもズボニミールの顔つきは真剣そのものでした。三人は自転車をこいで、小高い丘に向かいました。三人ともほとんど会話はしませんでした。ドラガンは、向かい風に顔をなぶらせながら、「三人で夜中に遊び回るなんて昔みたいだ」と思いましたが、「でも、もう昔のようではないなあ」とも思いました。
 丘の上に着くと、ズボニミールは勢いよく、草っぱらに寝転びました。シニシャもとりあえずそれに続きました。よく判っていないドラガンの腕を、ズボニミールが強引に引っ張ります。

「いいからおまえも寝そべるんだよ」

 あおむけになったドラガンの視界一杯に、「天の川」が溢れかえりました。そういえばここ最近、夜空を眺めるなんてことをしていませんでした。

「・・・なんだか久しぶりだなあ」

 思わずドラガンがつぶやきました。それとはまったく関係ない台詞が、ズボニミールの口から飛び出しました。

「・・・こないだのことだけど、オレは絶対に謝らないからな」

「・・・あ、そう」

 星空から現実に引き戻されて、ドラガンはやっとのことでそうつぶやきました。そんなドラガンを無視してズボニミールが続けます。

「・・・オレにはやっぱりスルプスカ人が許せない。イヴィツァ先生を追い出した、イヴィツァ先生にあんなスピーチをさせたスルプスカ人が許せない。スルプスカ人のおまえも許せない。半分だけスルプスカ人なシニシャも許せない。
 でも、イヴィツァ先生は、おまえたちスルプスカ人を許すって言ってた。だから、オレも、せめておまえらふたりくらいだったら許してやるよ」

「・・・ズボニミール」

「でもな、オレはおまえらとはもう遊ばない。これからきっとこの国では面倒くさいことが起きる。オレたちが変に仲良くし続けてると、きっとイヴィツァ先生みたいにひどい目に遭っちまう。だから、おまえらとはもう遊ばない」

「ズボニミール・・・」

 シニシャが悲しそうにつぶやきました。ズボニミールが少しだけ硬かった表情をほぐしました。

「シニシャ、そんな顔するなって。その代わり、年に一回、この時間に、この場所に集まろう。もしかすると、そのうち三人一緒に集まるなんてできなくなっちまうかもしれないけど、集まれるうちは必ず集まろう」

「集まってどうするのさ?」

「イヴィツァ先生と会うんだよ」

 ドラガンはびっくりして尋ねました。

「先生と会うって、どうやって?」

 夜空の下だったのでよく判りませんでしたが、心なしかズボニミールは照れているようでした。

「・・・いいか、こっ恥ずかしいから、一回しか言わないからな。あの『天の川』の中で、一番きれいな星があるだろう。あれはイヴィツァ先生だ」

「・・・なんだよ、それ」

「いいから、そういうことにするんだよ。そして、年に一回、この場所で、イヴィツァ先生にその一年の出来事を報告するんだよ」

「・・・」

「あっ、おまえら、今、『くだらねえ』って思っただろ? だったらいいよ。止めだ、止め!」

 ふてっくされるズボニミールに、ドラガンがつぶやきます。

「・・・このいじっぱり」

「なんか言ったか?」

「いや、何にも。年に一回。良いじゃないか。オレは賛成だな。シニシャは?」

「ふたりがそういうなら」

「じゃあ、決まりだな」

 三人はもう一度草っぱらに寝そべると、静かに腕を伸ばしました。さっきズボニミールが指差した、「天の川」で一番きれいな星に向けて、ゆっくりと腕を伸ばしました。三本の腕を伸ばして、「天の川」から星をつかみとろうとする。つかめるはずなんてないのに。ドラガンは広げてあった掌をそっと握りしめました。

 そして、握りしめたこぶしを広げると、そこには、なにもありません。ドラガンはまぶたを閉じました。ズボニミールも、シニシャも同じしぐさを繰り返していました。夜風に吹かれながら、ドラガンは思いました。今まぶたの裏に映し出されているであろうものは、きっと三人とも同じであるはずだ、と。

   ⅩⅡ

 彼ら三人は、その後も、年に一度だけ、「あの丘の上」に、イヴィツァ先生の所に出かけていきました。三年経っても、五年経っても、それは変わりませんでした。三人は、その日だけは、かつての「悪ガキ三人衆」に戻るのでした。本当に馬鹿馬鹿しい、他愛のない会話。ドラガンは、その日だけは、現実の辛さを忘れることが出来ました。
 六年目のその日、「あの丘の上」にズボニミールはいませんでした。ズボニミールはスルプスカからいなくなってしまっていたのです。スルプスカの近くに、クロード人の国――「クロアチア」といいます――が誕生し、ズボニミールはその国に引っ越して行ってしまったのです。ドラガンとシニシャは何も恨みがましいことを言いませんでした。その日は、ふたりでたっぷりとおしゃべりしてから、お別れしました。帰り際、シニシャがつぶやきました。

「半分スルプスカ人で、半分クロード人のオレは、一体どうしたらいいんだろう?」

 ドラガンは、何も答えることが出来ませんでした。
 それからさらに三年間、ドラガンとシニシャは「あの丘の上」に集まり続けました。ズボニミールが姿を現すことはありませんでした。
 そして十年目のある日、とうとう「あの丘の上」にやってきたのは、ドラガンただひとりになってしまいました。シニシャもどこかに引っ越したらしい、と風の便りで聞いてはいましたが、この日だけはきっとやってくる、と、そう信じていたのに。
 この年以降、「あの丘の上」に出かけていくのは、ドラガンひとりになってしまいました。でもドラガンはそれでも、「天の川」に向かって腕を伸ばすのを忘れませんでした。

 ・・・その日、ドラガンは、「あの丘の上」で夜空を見上げていました。ドラガンの頭の上には、きれいなきれいな「天の川」が流れています。ドラガンは星空の下にいると、決まって思い出すことがあります。それは、シニシャとズボニミールのことです。
 ドラガンは、「天の川」を眺めながら、静かに静かにため息をつきます。あの頃、わんぱく坊主だったドラガンとシニシャとズボニミールは、毎晩家を抜け出しては、丘の上に寝そべって、星空を眺めていたのです。
 「天の川」を見ながら、ドラガンは思います。あのふたりは、今どこで、何をしているのだろう、と。
 年老いたドラガンは手を伸ばします。昔よくやったように。手を伸ばして、「天の川」から星をつかみとる。つかめるはずなんてないのに。あの頃は伸ばされた腕が三本あったのに、今ではたったの一本きり。
 ドラガンは、しわくちゃになった手をそっと握りしめました。握りしめたこぶしを広げると、そこには、なにもありません。ドラガンはゆっくりとまぶたを閉じました。夜風に吹かれながら、ドラガンの心は幼かったあのころへと戻っていくようでした。

 ・・・年老いたドラガンは思います。きっとあのふたりも、どこか別の国の夜空の下で、自分と同じように、星をつかもうとしているに違いない、と。

(おしまい)
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「なまえをつけて」

2012-01-23 18:55:10 | 『灰色童話集』
「なまえをつけて」

   Ⅰ

 やあ、こんにちは。
 
 いや、それとも「はじめまして」っていったほうがいいのかな?
 
 あのね、たぶん、しばらくのあいだ、ぼくとキミはいっしょにせいかつすることになるとおもうんだ。

 ・・・えっ? 「いきなりすぎて、訳が判らない」って?

 まあ、そりゃあそうだよねえ。

 でもね、こういうときは、あんまりふかくかんがえちゃいけないっておもうんだ。

 だから、まあ、とりあえず、よろしくね。


 ・・・えっ? ぼくのなまえ?

 う~ん、こまったなあ。ぼくにはまだ、なまえがないんだ。なにしろ、ぼくは、ついさっき、いきなりうまれたからねえ。

 あのね、ぼくはじぶんがいったいだれなのか、じつは、ぜんぜん、まったく、さっぱり、わからないんだ。

 ・・・あっ、そんなかお、しないでよ。ぼくだってとってもこまってるんだ。キミもすごくこまってるみたいだけど、キミがこまるとぼくもこまっちゃうんだ。

 だからおねがい、そんなかお、しないでよ。


 ・・・ねえ、ちょっとずうずうしいおねがいがあるんだけど、いいかなあ?

 あのさあ、ぼくにぴったりのなまえをつけてほしいんだ!

 そうだなあ、どんななまえがほしいかなあ。ぼくのほうから「こういうなまえがほしい!」っていうのは、とくにないかなあ。

 キミがすきなようにつけていいよ・・・あ、でも、かっこうわるいのは、なしにしてほしいなあ。


 ・・・えっ? 「名前を付けるのが面倒臭い」って?

 ねえ、おねがいだから、そんなこといわないでよ。

 ・・・えっ? 「そもそもなんで、オレが名前を付けなくちゃいけないのか」だって?

 うん、たしかにもっともなしつもんだけど・・・でも、こればっかりはしかたないさ。

 だって、ぼくをうんでくれたのは、キミじゃないか。

   Ⅱ

 ・・・オレは、「こいつ」の一言を聞いて、頭がおかしくなったんじゃないかって思った。だってそうだろう? 自分を産んだのはこのオレだ、なんていうんだから。オレは一瞬だけ、真剣に悩んでしまった。オレが「産んだ」って、いつ? どうやって?
 まったくもって訳が判らない。
 でもオレは、深くは考えないことにした。だって、「こいつ」は、そもそも人間ですらないのだから。そう、これはきっと、「こいつ」の勘違いなのだ。オレが「こいつ」の産みの親なんかであるはずがない。
 それに、オレは生まれてこの方、「こいつ」みたいなやつを見たことが無い。こんなへんてこりんなヤツが、オレから生まれたりなんてするもんか。
 だからオレは、あんまり深く考えないことにした。どうやら「こいつ」は、本当にオレと一緒に生活しよう、なんて考えてるみたいだけど、オレには関係無い。適当に放っておくことにしよう。
 何しろオレはとっても忙しいのだから。やらなきゃいけないことが山ほどあるんだ。誰かに構っていられるほど暇じゃあない。
 オレの邪魔さえしないんだったら、しばらくの間、「こいつ」と一緒にいてやってもいい。
 オレは今、とにかく、忙しいんだ。
 それどころじゃあない。

   Ⅲ

 ・・・ねえねえ、いったいいつになったら、ぼくになまえをつけてくれるのさ? 

 もうなんかいぐらいねたりおきたりしたのか、わからなくなっちゃったじゃないか。

 たいくつでたいくつでしょうがないよ。

 
 ・・・あ、いま、すこしだけぼんやりしてたでしょ?
 
 ねえねえ、そんなひまがあるんだったら、ぼくになまえをつけてくれたっていいじゃないか?
 
 むかしだれかがいってた、あんまりゆうめいじゃないセリフに、「暇は持て余すためにあるんじゃない、潰すためにある」なんてのがあることだし。


 ・・・えっ? 「どうしてそんなセリフを知ってるのか」って?
 
 だって、そもそも、このセリフをかんがえだしたのは、キミじゃあないか。

 ぼくは、キミがむかしかんがえてたことなら、なんでもしってるんだよ。
 
 あたりまえのことさ。
 
 ぼくをうんでくれたのはキミなんだから。

 
 ・・・ねえ、だからおねがい、はやくぼくになまえをつけて。
 
 あのね、キミがたいくつからぬけだしてくれたら、ぼくもたいくつじゃなくなるんだ。

 ひまつぶしでもなんでもいいから、とりあえず、ぼくにピッタリのなまえをつけて。
 
 ねえねえ、はやくつけてほしいんだよ。

 そうしてくれないと、ぼくはあっというまにきえてなくなってしまう。
 
 なまえがつくだけで、ぼくはほんのちょっぴりながいきすることができるんだ。

 ほんとうにどんななまえでもいいからさあ。

 
 ・・・えっ? 「ピッタリじゃなくても構わないのか」って?
 
 う~ん、わりとするどいしつもんだね。

 できればピッタリのなまえがほしいかなあ。
 
 でもね、ぼくの「なかまうち」ではよくあることらしいんだけど、なかなかピッタリのなまえはつけてもらえないんだって。
 
 ときどき、ほんとうに、しんじられないくらい、トンチンカンななまえがついちゃうこともあるんだって。
 
 だから、どんななまえがついたとしても、ぼくはキミをうらんだりしないよ。


 ・・・えっ? 「おまえの『仲間内』でどんな名前が付けられるのか、参考までに教えてほしい」だって?
 
 ごめんね、それはできないんだ。

 もしそれをきいたら、キミはきっとだれかのまねをして、ぼくのなまえをつけちゃうとおもうんだ。
 
 そんなことになったら、ぼくはきっと、とってもざんねんなかたちで、キミのまえからすがたをけしてしまうことになるとおもう。
 
 だから、あんまりひとのたすけをかりないで、できるかぎりキミのちからで、つけてほしいんだ。
 
 ・・・おねがいします、ぼくになまえをつけてください。

   Ⅳ

 ・・・オレには、「こいつ」の言ってることがさっぱり判らない。なんでオレが、「こいつ」に名前を付けなくちゃならないんだ。全然意味が判らない。
 でも、「こいつ」はずいぶん必死にオレに訴えかけてきた。いったいどういうことなんだろう。
 今のオレは、自分のことで手一杯だ。とてもじゃないが、「こいつ」に構っているような暇は無い。確かにさっきは、少しだけぼんやりしてたかもしれないけど、あくまでもほんのちょっとの間だ。
 こんな姿形もよく判らない、意味不明なやつに、オレはなんて名前を付けたらいいんだ? 本当に誰でもいい、どんな名前を付けたらいいか、オレに教えてほしい。
 そう思ってたら、今度は「こいつ」は、誰かの真似なんかするなって言いやがる。たくっ、なんて面倒臭いやつなんだ。
 ようし、判った。だったら、本当に、単なる思い付きで名前を付けてやる! よし、そうしよう。
 でも困ったなあ。いざ適当に付けようと思ったら、何も思い付かない。ああ、くそっ、「こいつ」め、なんて面倒な注文をつけやがったんだ! オレにはやらなきゃいけないことが山ほどあるっていうのに!

 ・・・結局オレは、「こいつ」に名前を付けてやらなかった。オレを悪者みたいに見るんじゃない! 本当に忙しかったんだから仕方ないだろう! こんなヤツの名前を考えるなんて時間の無駄だって、そう思ったんだ。

 ・・・そうやって何日も何日も過ごしていたら、ある日、驚くべきことが起こった。
 なんと、「こいつ」が小さくなってきたんだ。二、三日前までは元気にオレに話しかけてきたはずなのに。こいつ、明らかに弱ってきてやがる。一体全体どういうことなんだろう?
 ・・・まさか。
 オレが名前を付けないからか? まさかそんなことのせいで、「こいつ」は弱ってきてるっていうのか?
 オレには理解が出来なかった。
 間違いないのは、「こいつ」が日に日におとなしくなってきてるってことだけだった。

   Ⅴ

 ・・・やあ、おひさしぶり。
 
 キミがいつまでたってもなまえをつけてくれないもんだから、いつのまにか、こんなにちいさくなっちゃったじゃないかあ。
 
 おまけにへんないろまでついて、だんだんだんだんきたなくなってしまったよ。
 
 まったく、どうせきにんをとってくれるっていうんだい!

 ・・・な~んていってみたところで、なんのかいけつにもならないってことはわかってるんだけどね。

 ついつい、そういいたくなっちゃうんだ。

 ごめんよ、イライラして。


 ・・・えっ? 「おまえが何を言っているのか、聴き取り辛い」って? 
 
 うん、まあ、そうだろうねえ。だんだんだんだん、ねむたくなってきたからねえ。おおきなこえがでてこなくなっちゃったんだよ。

 ・・・あ、でも、キミが、きにすることはないからね。

 ぼくの「なかまうち」ではよくあることなんだ。


 ・・・なまえがつかないと、どうしてもこうなっちゃう。

 ふしぎなくらいちからがはいらなくなって。

 まったくやるきがおこらなくなって。

 でもちょっぴりはらだたしくなって。

 きがつくと、いつのまにかからだがしぼんでしまって。
 
 まっしろだったはずなのに、みるみるうちにきたなくなって。
 
 はっきりきこえていたはずのこえも、よくとおらなくなって、
 
 そうして、いつのまにか、キミとおしゃべりできなくなる。


 ・・・あ、いやみをいっているわけじゃないよ。べつにキミがむりをして、なまえをつけてくれなくてもかまわないんだから。
 
 でたらめななまえがつくぐらいだったら、このまま「ななしのごんべえ」だったとしても、それはそれでいいのかもしれないし。
 
 
 ・・・あれえ、なんだか、またねむたくなってきちゃったよ。
 
 すこしだけ、ひとやすみするね。
 
 じゃあ、おやすみなさい・・・

  Ⅵ

 ・・・「こいつ」が現れる回数は、日に日に少なくなっていった。そりゃあそうだろう。何しろオレは忙しい。「こいつ」なんかに構ってる場合じゃあない。何日かに一回しか現れなくなったおかげで、オレは他のなにかに時間を割くことが出来るようになった。
 それなのに。
 なぜか時々、「こいつ」の姿が頭の中に描き出される。とうとう夢にまで見るようになっちまった。ヤバい、重症だ。
 「こいつ」は、最初に出会った頃の姿で夢に現れる。
 そして、だんだん、姿形が変わっていく。
 夢を見終わる頃には、恐ろしく小さな姿で、小汚い色で、か細い声で、オレに、何かを訴えかける。
 言ってる話はむちゃくちゃだ。
 早く名前を付けてくれだの、でもやっぱり付けなくてもいいだの、辛くて苦しいだの、でも大丈夫だの・・・とにかく、つじつまの合わないことばっかり言いやがる。
 オレは、「こいつ」の相手なんかしてやるもんか、って心に決めた。誰がなんと言おうと、もう知らない。「こいつ」に振り回されるのはもう沢山だ。
 「こいつ」は、オレが自分を生み出した、なんて言ってるけど、別にオレはすき好んで「こいつ」を生み出した訳じゃあない。だったら、オレが「こいつ」をどうしようと、オレの勝手だろう? そうは思わないか? 
 ・・・オレは酷いことをしてるんだろうか? いや、そんなことは無いはずだ。だって、きっと誰もがみんな、同じことをしてるに決まってるからだ。「こいつ」は言ってた。「こいつ」の仲間は、結構でたらめな名前を付けられるって。
 ってことは、オレだって、他の連中みたいに、「こいつ」をぞんざいに、好き勝手に、でたらめに扱ってもいいってことじゃないか。
 ようし、決めたぞ。もうオレは「こいつ」とは関わらない。他の連中と同じことをするだけだ。オレだけが悪いんじゃない。そうだろう、みんな同じなんだ。

 ・・・そう考えるようになってから、オレはとてつもなく楽になった。すでに現れる回数が減っていた「こいつ」は、さらにさらに、その回数を減らしていった。もう事実上、「こいつ」はいないのと一緒になった。
 「こいつ」がいないってだけで、オレの世界はものすごい勢いで広く、大きく膨らんでいった。オレは安心した。思った通りだった。オレにとって、「こいつ」のために割く時間は、やっぱり必要無かったんだ!

 ・・・でも、何でだろう。
 ごくたまに、本当にごくたまに、オレは「こいつ」を思い出す。そんなにしょっちゅう思い出すって訳じゃあない。でもなぜか、自分でもどうしてなのかさっぱり判らないが、オレはこいつを思い出してしまうんだ。畜生、忘れたいって思ってるのに!

 ・・・そんなある日のことだ。久しぶりに、「こいつ」が姿を現したんだ。

   Ⅶ

 ・・・やあ、ずいぶんひさしぶりだねえ、げんきだったかい?

 うわあ、そんなにいやそうなかおをしないでほしいなあ。

 しょうがないじゃないか。

 まさかキミが、またぼくをおもいだしてくれるなんておもってもみなかったんだもの。

 キミがちっともぼくのことをおもいださなくなったから、ぼくはすっかりちいさくなってしまったよ。

 ちゃんとみえてるかい? ぼくはここにいるよ。


 ・・・あ、そうそう、キミにうれしい「おしらせ」があるんだ。

 まあ、でも、キミにはぜんぜんうれしくない「おしらせ」かもしれないけれど。

 あのねえ、キミがひさしぶりにぼくをおもいだしてくれたおかげで、ぼくに「おとうと」ができたんだよ!

 しかもだよ、なんといっきにさんにんも!

 ほらみてみて、むかしのぼくにそっくりでしょ!

 ・・・あ、いま、「うわあ、なんて面倒臭いことになったんだろう」っておもったでしょ? 

 そうだねえ、ぼくがなんにんもいるのといっしょだから、たしかにやっかいかもしれないねえ。

 でもさあ、むかしむかし、キミは、ぼくのことをいろいろかんがえてくれたじゃないか。

 あのときはうまくいかなかったのかもしれないけれど、こんどはどうだい?

 こんどは、ぼくたちみたいなのとも、うまくやっていけるんじゃないかなあ? 

 それとも、やっぱりうまくはいかないかなあ。

 あ、そうそう、でも、なまえはつけてあげてね。おねがいしま・・・あ、ごめん、なまえは、きがむいたらでいいよ。


 ・・・さて、そろそろぼくはおいとまするよ。

 たぶん、キミとは、もうにどとあわないんじゃないかなあ。

 あ、もちろん、きみがまたぼくをおもいだしてくれるっていうんだったら、はなしはべつだよ。

 そのときは、またまたキミのところにあそびにきてあげるよ。
 
 ぼくのかわりってわけじゃあないけど、ぼくのかわいい「おとうと」たちをおいていくから、なかよくしてやってよね。
 
 それじゃ、ほんとうにさよならだ。
 
 ・・・じゃあね、バイバイ。

   Ⅷ

 こうして、「こいつ」はオレの前から姿を消した。
 最後の最後まで自分勝手なヤツだった。まあ、仕方ないか、「こいつ」の言ってた話を真に受ければ、「こいつ」の産みの親は、このオレだったらしいからな。「蛙の子は蛙」っていうだろう? オレと「こいつ」は似た者同士だったってことだ。
 一番困ったのは、「こいつ」が置いていった、「こいつ」の弟たちだ。「こいつ」だけでも手に負えなかったのに、一気に三倍になったんだから、苦労も三倍になっちまったってわけだ。やれやれ。
 そして、オレは、ひとつ、名案を思い付いた。「こいつ」の弟たちに、「とりあえず」名前を付けておくことにした。つまり、わざとはっきり決まった名前を付けないことにしたんだ。そうすれば、無理に焦る必要も無くなるだろう。そして、新しい名前を思い付いたら、その時にちゃんとした名前を付けてやればいい。「こいつ」の弟たちはぶつくさ文句を言ってたが、まあ構うもんか。「名無しの権兵衛」よりはマシだろう。ちなみに、オレが「とりあえず」つけた名前は、上から順に、「こいつその二」、「こいつその三」、「こいつその四」だ。どうだ、酷い名前だろう。
 ・・・でも今にして思うんだ。いなくなっちまった「こいつ」に、「おまえの名前は『こいつ』だったんだぞ」って言っておいてやればよかったなって。そうすれば、あいつは消えなくても済んだのかもしれないってな。
 あ、そうそう。消えちまった「こいつ」は、一つ大事なことを言い忘れてたみたいだ。「こいつ」の弟たちは、どうやら無限に増え続けていくらしい。今、オレの周りには、「こいつ」の弟たちが、全部でなんと九人もいる。いったい「こいつ」らは、どこまで増えていくんだろう。

(おしまい)
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「ワタリガラスのレイブン」

2012-01-22 12:31:08 | 『灰色童話集』
「ワタリガラスのレイブン」

   Ⅰ

 ワタリガラスのレイブンは森の嫌われ者です。なぜなら、レイブンは自分のことを、この世にいるどんな鳥よりも醜い、と思い込んでいたからです。
 一方、カンムリヒバリのクリステッタは大変な人気者です。なぜなら、その歌声があまりにも美しかったからです。
 それから、セキセイインコのパロットも大変な人気者です。なぜなら、その羽根の色があまりにも美しかったからです。
 レイブンは、クリステッタやパロットをうらやましいと思っていました。レイブンたちワタリガラスは「昼行性」といって、お日様が出ているときにしか活動しません。だから、同じ「昼行性」のクリステッタやパロットといつも顔を合わせてしまいます。
 クリステッタが美しい声でさえずると、レイブンはそそくさとどこかへ行ってしまいます。レイブンには耳を塞ぐための手がないので、もし聞きたくない音が聞こえてきたら、そこから飛び去るしかないのです。
 時々、レイブンは自分の鳴き声で、クリステッタの鳴き声をかき消してしまうことがあります。クリステッタの歌声に聴き入っていた森中の鳥たちからは、当然白い目で見られます。そんな時、レイブンは自分の声と態度にうんざりしてしまいますが、鳴くのをやめようとは思いません。自分が声を張り上げている瞬間だけ、クリステッタの声を聴かなくとも済むからです。
 パロットが美しい羽根をはばたかせると、・・・レイブンはとっとと姿を消してしまいます。レイブンには自分の目を覆う掌がないので、もし見たくないものが見えてしまったら、そこから飛び立つしかないのです。
 時々、レイブンは自分の翼を大きく広げて、パロットの姿を覆い隠してしまうことがあります。パロットの羽根に見入っていた森中の鳥たちからは激しい嫌味を言われます。そんな時、レイブンは自分の羽根の色と行動にうんざりしてしまいますが、その黒い羽根を広げるのをやめようとはしません。夢中になって翼を広げている瞬間だけ、パロットの姿を見なくとも済むからです。
 だから、レイブンは森の嫌われ者だったのです。

   Ⅱ

 キンメフクロウのアウルも、森の嫌われ者です。なぜなら、アウルは自分のことを、この世にいるどんな鳥よりも賢い、と思い込んでいたからです。
 レイブンと違って、アウルはクリステッタやパロットをうらやましいとは思いませんでした。アウルたちキンメフクロウは「夜行性」といって、お日様が出ていないときにしか活動しません。だから、「昼行性」のクリステッタやパロットとは、まったく顔を合わさなくとも済むのです。
 それにアウルは、クリステッタやパロットのことを、少しも気にしていません。そもそも興味もありません。だから当然、うらやましいとも思っていません。夜の森の中を、静かに音も無く、我が物顔で飛び回って、それに飽きたら巣穴に戻る。そんな生活をしていました。
ところで皆さんは、アウルたちフクロウの別名を知っていますか?
 ・・・「森の賢者」といいます。フクロウは先祖代々、森で一番賢い鳥だと言われ続けてきたのです。だから、この森でただ一羽のフクロウであるアウルも、「オレはこの森で一番賢い」と思い込んでいました。そしておそらく、アウルは森で一番賢い鳥だったでしょう。多くの鳥たちが、だれかほかの鳥のことを悪く言ったり、争ったりしている中で、アウルだけが、誰とも言い合ったり、争ったりせずに済んでいたのですから。
 そんなアウルは、森中の鳥たちに嫌われました。アウルが何を考えているのか、だれにも判らなくなってしまったからです。
 でも、たった一羽だけ、そんなアウルと話をする鳥がいました。ワタリガラスのレイブンです。本当はレイブンもアウルとなんて仲良くしたくなかったのですが、他に話のできる鳥がいなかったのです。
 夕方、レイブンがアウルの巣穴へ出かけていくことがあります。それを見た多くの鳥たちは、「嫌われ者同士、コソコソと内緒話しているんだよ」などとささやき合っているのでした。

   Ⅲ

 冬のある日のことでした。
 鳥たちにとって、冬は「渡り」の季節です。ワタリガラスのレイブンも、暖かい南の島まで「渡り」に出かけます。
 「渡り」は急がなくてはなりません。早くしないと雪が降ってくるからです。クリステッタをはじめとした多くの鳥たちが、一斉に空へと舞い上がりました。
 でも、ひねくれ者のレイブンは、多くの鳥たちとは一緒に行動しません。わざと数日遅れて出発するつもりです。森からほとんどの鳥たちが姿を消したころ、ようやくレイブンは「渡り」を開始しました。
 ・・・しばらく飛んでいったところで、レイブンは失敗したことに気が付きました。今年は雪が降り始まるのが早かったのです。真っ黒なはずのレイブンの羽根は、あっという間に真っ白にお化粧されてしまいました。このままでは南の島に着く前に凍えてしまいます。
仕方なく、レイブンは近くにあった大きなモミの木の枝の間に避難することにしました。枝の間は空よりもずっと暖かだったので、レイブンは雪が止むまでここに居座ることに決めました。
 ですが、雪はいつまで経っても降り止みません。

「・・・このままここで年を越す、なんて真似だけはしたくないな」

 レイブンがそんな独り言をつぶやいた時。
 何か、色鮮やかなものがモミの木にぶつかりました。ぶつかった何かは、そのまま枝と葉の上を転がりながら、モミの木の下に落ちました。レイブンは、その色鮮やかな何かを、どこかで見たような気がしました。
 レイブンは枝の間から顔を出して、モミの木の下を見つめました。すると、そこには、あのセキセイインコのパロットが横たわっていました。
 レイブンは思わず、パロットのもとへ滑り降りていました。パロットの美しい羽根は雪のために半分以上が凍ってしまっていました。ピクリとも動きません。

「・・・パ、パロット?」

 レイブンがパロットに話しかけたのは、なんと生まれて初めてのことでした。レイブンが呼びかけると、パロットはうっすらと目を開けました。

「・・・レイブン? なにしてるのさ?」

「・・・雪宿りだよ」

 レイブンはぶっきらぼうに答えました。それを見たパロットは「ふうん」とつぶやくと、ゆっくりとまぶたを下ろしはじめました。

「寝ちゃだめだ!」

「・・・えっ?」

「いま目をつぶると二度と帰ってこられなくなる。いいか、絶対に寝るんじゃないぞ」

 パロットの大きさは、レイブンの半分の半分の半分ぐらいでした。レイブンはそうっとパロットをくちばしで挟みました。あまり強く挟むとパロットが大怪我をしてしまうかもしれません。そして、ゆっくりと、さっきまでいたモミの枝の間まで飛び上がりました。

 少し太めの枝の上にパロットを横たえると、レイブンはくちばしを器用に使って、パロットの羽根についた雪を取り払ってあげました。パロットの右側の翼にはとても大きな傷が出来ていました。さっきモミの木にぶつかった時に出来たのでしょう。最初は傷口から血が噴き出していましたが、あまりにも寒すぎるので、すぐに血が固まってしまいました。レイブンはあまり怪我をしたことがないので、詳しいことは判りませんが、パロットがすぐに空を飛べるようになるとは思えませんでした。

   Ⅳ

 レイブンは、モミの木から枯れかかった葉っぱと小枝をちぎりはじめました。いくつかの葉や枝をちぎると、パロットの上にかぶせていきました。モミの葉で布団を作ったのです。パロットはほんの少しだけ元気になりました。パロットが静かにつぶやきました。

「ねえ、レイブン。どうして僕のこと、助けてくれたの?」

「・・・知るもんか」

 言われてみて、レイブンも同じことを考えました。どうしてオレはパロットを助けたのだろう? 自分で自分に質問してみましたが、いつまで経っても答えは出ないのでした。レイブンは自分の巣を作るのと同じようにして、パロットの周りを枝でぐるりと取り囲みました。いつもだったら、地面に落ちている枯れ枝を拾い集めるところですが、雪が積もりすぎてしまって、探すこともできません。レイブンはせっせとモミの木から小枝を引きちぎって、巣を作り続けました。雪はずっと降り続けていたので、とても寒いはずでしたが、レイブンはまったく寒いとは思いませんでした。
 とりあえず巣は完成しました。しばらくの間はこれで寒さをしのげるはずです。ほっとしたレイブンでしたが、大変なことに気が付きました。なんと食べるものがないのです。
 レイブンは途方に暮れました。この雪の中、どうやって食べものを探したらいいのでしょう? 巣を作り終えてフラフラになったレイブンは、パロットの横に腰を下ろすと、はあっ、と、大きくため息をつきました。モミの葉の布団のおかげで少しだけ元気になったパロットが、レイブンにささやきました。

「レイブン。この木はモミの木だ。幹をよ~く見て。もしかすると、リスの巣があるかもしれないよ」

「・・・リスがいたらどうするっていうんだよ。お前、まさかリスを食べちまう、なんて言うんじゃないだろうな?」

「・・・僕はお肉なんて食べないよ。そうじゃなくて、きっと巣穴の中でリスが冬眠しているはずなんだ」

「そのリスをたたき起こすのか?」

「違うってば。いいかい、リスはたっぷり食い溜めしてから冬眠に入る。でも、いくら寝ているだけだとしても、お腹が減っちゃうこともある。だから念のため、巣穴の中にたくさんのモミの実を蓄えておくんだ。だから・・・」

「そいつをオレ達で頂いちまうってことか?」

「・・・泥棒になっちゃうけど、仕方ないと思うんだ」

「判った。探してみよう」

 レイブンは周りにある何本かのモミの木を飛びまわりました。・・・パロットの言った通りでした。四本目のモミの木の幹に大きな穴が空いていて、その中には、ぐっすりと冬眠するシマリスと、大量のモミの実が詰まっていたのです。レイブンはシマリスを起こさないようにしてモミの実をくちばしにくわえました。

 レイブンは巣に戻ると、モミの実を勢いよく噛み砕きました。モミの実の欠片がパロットに降りかかります。

「ありがとう、レイブン。わざわざ細かく砕いてくれてるんだね。このぐらいの大きさだったら、僕も食べられるよ」

「・・・そんなことするわけないだろう。たまたま食べかすが落ちちまっただけだ」

「まったく、素直じゃないなあ」

 この日、初めてパロットは笑うことが出来ました。
 一方、ひねくれ者のレイブンはニコリともしません。でも、ほんの少しだけ楽しそうなようにも見えるのでした。

   Ⅴ

 雪はいつまでも降り積もっていて、一向に止む気配を見せません。
 レイブンは毎日、シマリスの巣穴にくちばしを突っ込んで、モミの実を泥棒しています。モミの実のおかげで、レイブンはお腹が減って動けなくなる心配はしなくても済むようになりました。
 でも、レイブンには、別の心配事があります。それは、パロットの起きている時間が、だんだん短くなっていることです。
 レイブンは巣に戻るたびに、勢いよくモミの実を噛み砕きます。モミの実の欠片は、勢いよくパロットに降りかかります。なのに、パロットが勢いよくその欠片をついばむことはありません。時々、思い出したようにくちばしを動かすだけです。
 パロットが元気になるのは、おしゃべりをしている時です。元々セキセイインコは、とってもおしゃべり好きだからです。パロットは起きている時には、しきりにレイブンとおしゃべりをしたがりました。例えばこんな感じです。

「ねえねえレイブン、どうしてレイブンの羽根は真っ黒なの?」

「生まれつきそういう羽根の色なんだよ。でも、聞いた話だが、時々真っ白なカラスが生まれることもあるらしい」

「本当!? うわあ、見てみたいなあ」

「雪が止んだら、探しに行けばいい。ただ、絶対に口をきいてはくれないと思うがな」

「どうして?」

「白い羽根で生まれたカラスは、他のカラスに仲間だと思ってもらえないから、一生誰とも口を利かずに過ごすんだそうだ」

「・・・なんだかかわいそうだね」

「ふん、かわいそうなもんか」

 レイブンは不機嫌そうな表情でそのまま瞳を閉じてしまいます。そんなレイブンを、パロットは優しそうな表情で見つめます。
こんな風にしてパロットとレイブンは、何回も何回も語り続けました。レイブンがこんなにも誰かとおしゃべりをするのは、生まれて初めてのことでした。時々、キンメフクロウのアウルとおしゃべりすることはありましたが、こんなに毎日誰かと話したことはなかったのです。
 でも、パロットが話しかけてくる回数は、だんだん少なくなっていきました。レイブンは、毎日モミの実の欠片をパロットに振りかけるのですが、それでもパロットは元気になってはくれないのでした。

   Ⅵ

 ここ数日では、一番雪の激しい夜のことでした。
 レイブンはすっかり凍ってしまったモミの葉のベッドを、まだ凍っていない葉っぱと取り換えました。放っておいたら、パロットまで凍ってしまいそうだったからです。
 ですがパロットには、もう寒さを感じることさえもできないのでした。二、三日前までは、あまりにも寒い時にはガタガタと震えていたパロットが、ピクリとも動かなくなってしまったのです。
 もうパロットには、モミの実の欠片を飲み込む力さえ残されてはいませんでした。ただでさえ小さな身体は、より一層ほっそりとしてしまいました。傷口が痛むのか、苦しそうな表情を浮かべることもあります。
 それでも、時々うっすらと目を開けることがあって、レイブンはそれでホッとしているのでした。
 この日、パロットは、少しふわふわした気持ちになっていました。パロットは、ずっと自分のそばにいてくれる、真っ黒な友達と一緒にいられる時間が、あとほんの少しだけになってしまったことに気が付きました。
 だからパロットは、精いっぱいの力を振り絞って、小さな小さな声を出しました。

「・・・レイブン」

「どうした?」

 久しぶりに口を開いた小さな友達の声を聞いて、レイブンは思わず、身を乗り出しました。
 パロットは、もう一回ぐらいだったら声を出せるかな、と思いました。でもなかなかその声が出せません。思い切り目をつむると、今度はゆっくりとまぶたを開けて、こう言いました。

「・・・ありがとう」

 レイブンは胸がいっぱいになりました。それは、生まれて初めての「ありがとう」だったからです。
 パロットは少し、微笑んだようでした。そのあと、苦しそうな表情を浮かべると、パロットは息をしなくなりました。
 レイブンは待ちました。
 「ありがとう」の続きを待ちました。
 ですが、パロットがその続きを口にしてくれることはありませんでした。
 ・・・レイブンは、その日一日、黙ってパロットと一緒にいました。

 次の日、あれほど続いていた雪が止みました。
 レイブンは、その鋭いくちばしを使って、雪が降り積もった地面を掘りました。くちばしはボロボロになりましたが、レイブンは気にせず掘り続けました。
 掘り終わったところで、この穴は、自分の心に空いた穴と同じ形をしているに違いない、とレイブンは思いました。
 泥だらけになったくちばしを雪で洗うと、レイブンは小さな小さなパロットの身体をくわえて、そうっと地面に横たえました。
 そのあとレイブンは、パロットの身体の周りに、たくさんのモミの実を並べました。パロットのきれいな身体が、見えなくなるまでしきつめました。シマリスの巣穴に貯めこんであったモミの実はすっからかんになってしまいました。もしシマリスが目を覚ましたら、さぞかし大騒ぎになることでしょう。レイブンはその上にモミの葉を重ねて、もう一度雪をかぶせて、それでおしまいにしました。
 この日、レイブンは静かに飛び立ちました。
 暖かい南の島へと飛び立ちました。

   Ⅶ

 春になりました。
 鳥たちは再び「渡り」をして、森へ帰ってきました。
 レイブンも、森に帰ってきました。
 レイブンは、相変わらず森の嫌われ者です。
 レイブンは、パロットとのことを決して口にしようとしませんでした。一度、カンムリヒバリのクリステッタたちがパロットについて話しているのを聞いたことがあります。「渡り」の季節を過ぎてから、ずっとパロットを見ないけれど、いったいどうしたのだろう、と。
 レイブンは、その輪に入って、パロットとのことを話してしまおうか、と思いました。ですが、それは止めにしました。
 パロットとのことは一生抱えて暮らしていく。
 かたくなにそう決めてしまったからです。
 レイブンは今まで以上に誰とも関わらなくなりました。
 レイブンは森の嫌われ者のままでした。

 そんな、ある日の夕暮れのことでした。
 レイブンは自分の巣へと帰る途中で、キンメフクロウのアウルと出くわしました。アウルと会うのはずいぶん久しぶりです。アウルは他の鳥たちと違って「渡り」をしません。真冬の森の中で、たった一羽で暮らしていたので、南の島にも行っていません。だから、顔を合わせるのは、本当に久しぶりのことでした。
 レイブンは、久しぶりにアウルと話すうちに、なぜか、パロットとのことを打ち明けてしまいたい、と思いました。もしかするとアウルなら、自分の気持ちを判ってくれる、と思ったのかもしれません。
 レイブンは、この冬にあった出来事を、残らずアウルに話しました。アウルは黙って、その話を聞いてくれました。レイブンが南の島へ飛び去ったところまで話した時、アウルはようやくくちばしを開きました。

「つまり、君は・・・悲しいんだな」

「・・・ああ、そうだ。パロットを失って、とても悲しい」

「いや、違うんじゃないかなぁ」

「・・・なんだと?」

 アウルは、静かに先を続けました。

「君はパロットがいなくなったから悲しいんじゃない。嫌われ者の君を認めてくれたパロットを失った自分が悲しいんじゃないか?
 ・・・そして、あれだけ必死にパロットを助けた自分が、それでもなお、誰からも認めてもらえないから悲しいんじゃないか?」

「そんなふざけた話があるか!」

 レイブンはアウルに食ってかかりました。でも、食ってかかったのは、アウルに本当のことを言われてしまったからでした。アウルは、暴れまくるレイブンに向かって、暗く、静かに、語りかけました。

「・・・昔、私にも同じような出来事があった。そして、今の君と同じ気持ちになったことがあった。・・・ああ、詳しい話は止めておくよ。あまり思い出したい話ではないからねぇ。
 私はその時、とても悲しい気持ちになった。きっと今の君と同じ気持ちだったろう。
 ・・・だから私は一人になった。
 夜の世界で暮らすようになった。
 初めは悲しかったが、今では全く悲しくはない。すっかり、今の生活に慣れてしまったからねぇ。
 君は今、ようやく私の同類になった。仲間になったんだよ。
 ・・・どうだろう? 君も私の仲間にならないか?
 誰とも関わらず、静かに、夜の世界で暮らすんだ。
 さあ、レイブン、私の仲間入りをするんだ」

   Ⅷ

 レイブンはぐらつきました。
 アウルが言ったことは全て、レイブンの考えと一緒だったからです。頭を抱えてうなっているレイブンを見て、アウルは笑っているようでした。
 ・・・どのぐらいの時間が経ったことでしょう。レイブンは、苦しみながら、ふらつきながら、でもしっかりと、自分の言葉で、こんなことを言いました。

「・・・オレは、あんたの仲間にはならない。
 ・・・あんたになにがあったのか、オレは知らない。だから間違っているかもしれないが、あんたは自分のしたことから逃げているだけなんじゃないか?
 ・・・確かにオレは、あんたの言った通りのことを考えていたのかもしれない。でも、オレは、あんたのようにはならない。なりたくない。
 もしオレが、あんたのようになったら・・・オレは、パロットを懐かしいと思うことが出来なくなっちまう」

 レイブンの瞳は、キラキラと輝いているようでした。
 レイブンの話を聞いて、アウルはほんの少しだけ驚いたようでした。

「・・・そうか、判った。どうやら私は、余計なことを言ってしまったようだなぁ」

 アウルはくるりと、レイブンに背を向けました。そして、飛び立とうとする前に、静かにこうつぶやきました。

「また、時々、こうやって話をしに来てくれるかね?
 ・・・あいにくまだ、私は君を仲間にするのをあきらめてはいないのでね」

 そう言い残して、音も無く飛び去ったアウルは、でも、少しだけ微笑んだようにもみえたのでした。

 ・・・ワタリガラスのレイブンは、相変わらず森の嫌われ者です。
 でも、今までみたいに、誰かに嫌がらせをしようとは思いません。森の鳥たちが、レイブンが変わったことに気が付くのは、もう少し先の話になりそうです。

(おしまい)
コメント

「おりの中のキルタクル」

2012-01-21 12:19:58 | 『灰色童話集』
『飛豹』の更新が予想以上に滞ってしまってます(汗)。

書いてはいるんですが、書けそうなところから書き進めてしまったもので、なかなかまとめ切れないんです。

もう少し時間がかかりそうですね。

その代わりと言ってはなんですが、以下は、二年ぐらい前に書いた童話(らしきもの)です。

御一読下さい。


『おりの中のキルタクル』

 みなさんは「キングチーター」と呼ばれるチーターを知っていますか? 他のチーターと違って、ちょっとだけ変わった模様をしたチーターのことです。身体の大きさがとてつもなく大きいわけでもありませんし、特別狩りがうまいわけでもありません。見た目以外は特に変わったところなんてありません。とにかく、大変珍しかったので、初めて人間たちに発見された時から、ハンティングの対象になってしまいました。

 このおはなしは、人間たちがキングチーターの毛皮を争って集めていたころの、南アフリカという場所で起こった出来事です。

   Ⅰ

 キングチーターのキルタクルは、模様以外はごくごく普通のチーターです。足の速さも、爪の鋭さも、他のチーターと大して変わりません。たったひとつだけ、他のチーターと違うのは、その鮮やかな模様だけ。他のチーターが身体中に斑点をつけているのに、キルタクルの身体は黄色と黒の縞模様になっています。遠目から見ると全く別の肉食動物のようにも見えます。

 キルタクルが大草原を横切っていくと、その姿は大変目立ってしまいます。太陽の日差しを浴びると、キルタクルの背中が黒々と光ってしまうので、インパラやガゼルに見つかってしまうのです。だから、キルタクルの狩りはめったに成功しません。キルタクルはしかたがないので、ハイエナやジャッカルの食べ残しをこっそりもらって帰ります。

 キルタクルに、「ハイエナチーター」といううれしくないあだ名が付いたのはこのころです。そのあだ名を聞いたキルタクルは、「まあ、しょうがないかなあ」と思いました。キングチーターなんて勇ましい名前も持っていますが、キルタクルはとても「百獣の王」にはなれそうもありません。チーターのくせに恐ろしくおとなしいのです。チーターや他の肉食動物たちはそんなキルタクルを大笑いしましたが、キルタクルは気にしません。生まれた時から笑われ続けの時間ばかりが過ぎていくので、気にしているとキリがありません。「どうして他のチーターとちょっと変わっているからって、みんなとやかく言ってくるんだろう?」と悩んだこともありましたが、今ではほとんど気にも止めません。

 キルタクルは誰に言うわけでもなく、自分で勝手にルールをつくっていました。それは、「誰に何と言われようと、絶対に言い返さない」というちょっと不思議なルールです。キルタクルは、誰かが自分の陰口を叩いているのが痛いほどによく判るという、少々困った性格の持ち主でした。実は陰口なんか誰も言っていないのに、言われているような気がして仕方がないのです。そのせいで、キルタクルはどんどんどんどん無口になっていきました。

   Ⅱ

 皆さんは「隠者」という言葉を知っていますか? 世の中から離れて、一人静かに人生を送る人のことを「隠者」というのです。キルタクルは「目立っている隠者」でした。本人はそっとしておいてほしいのに、絶対に目立ちたくないのに、周りが放っておいてくれないのです。時々毛皮の模様について他のチーターが話しはじめると、キルタクルは耳をふさぎたくなります。「早く終わってほしい」と思ってしまうのです。

 キルタクルは他のチーター同様、走るのは大変速いのですが、その使い道が違います。他のチーターはその足の速さを狩りに使うのに、キルタクルは他のチーターを避けて逃げ出すために使うのです。別に毎回逃げ出しているわけではありません。模様の話にさえならなければ、他のチーターと仲良く話すこともできます。でも、斑点柄のチーターたちが、十頭、二十頭と集まっているところに縞模様のキルタクルが一頭だけ混じってしまったりすると、だんだん居心地が悪くなって、いつの間にやら逃げ出してしまうのです。他のチーターは、「キルタクルは変わりものだ」と言っていますが、キルタクルに言わせれば、他のチーターたちこそ変わっています。

 「いったいオレのどこが『キングチーター』なんだろう?」 時々キルタクルは考えます。何でもこの名前は、チーターの毛皮を欲しがる人間たちが付けた名前で、キングチーターの毛皮は、他のチーターのそれの十倍の値段がつくのだそうです。でも、そんな名前も毛皮の話も、キルタクルには関係ありません。

 キルタクルは無口だし、変なルールをつくっているし、変わりもの扱いはされていますが、決して気難しい性格ではありません。面倒くさい性格をしているだけの話です。おしゃべりを始めれば、結構気さくに話しはじめます。でも、話をしながら絶えずおびえています。

――もしかしてこんな話、聴きたくないんじゃないのかな?――

――熱心にうなずいてくれてるように見えるけど、本当に判ってくれてるのかな?――

――実は、「早く帰りたい」って思ってるんじゃないのかな?――

 ・・・しゃべりながら、同時進行でこんなことまで考えてしまっているのです。さぞかし疲れることでしょう。現に、キルタクルは話し終えると、ときおり心底から疲れ切った表情をしていることがあります。慎重に言葉を選んで、誰からも後ろ指さされないような会話をすることに集中しているからです。話し終えて、すっかりくたくたになって家に帰ろうとするキルタクルを見て、他のチーターたちは心の底から不思議がります。「あいつは何で、あんなにおどおどしながら話すんだろう?」って。

 キルタクルは思います。話をすればするほど、かえって遠ざかってしまうってこともあるんだなあ、と。

    Ⅲ

 さて、キルタクルの住んでいる南アフリカは、ちょっと複雑なお土地柄です。今から百五十年前の南アフリカには、大きくみっつの国がありました。

トランスヴァール共和国

オレンジ自由国

ケープ植民地

 ・・・と、いきなり名前だけ出されてもよく判りませんよね。ちょっと簡単に説明してみたいと思います。

 「トランスヴァール共和国」というのは、ヨーロッパに住んでいたオランダ人が南アフリカに移住して新しくつくった国です。正確にはオランダ人と言わない方がいいのかもしれません。南アフリカ生まれのオランダ人――「ボーア人」といいます――がつくった国、とでも言うべきでしょう。「オレンジ自由国」もそうやって出来上がった国です。このふたつの国は兄弟国のようなもので、仲良く繁栄していこうとしていました。
 
 ただ、この二つの国は少々無茶苦茶な理由から出来上がった国でもありました。元々、南アフリカには「ズールー族」という人々が住んでいました。彼らは大変穏やかな人々で、争いごとを好まず、貿易をしにやってきたオランダ人とも良い関係をつくりながら生活していました。にもかかわらず、オランダ人は南アフリカを占領して、全部自分の者にしてしまおうと考えました。オランダ人たちは、ズールー族から土地や財産をだまし取り、勢力を拡大していきました。ズールー族は「話が違う!」と思ったことでしょう。いつのまにかズールー族は先祖伝来の土地を奪い取られ、北へ北へと追いやられてしまったのです。トランスヴァール共和国やオレンジ自由国はそうやって出来上がった国だったのです。

 やがて、トランスヴァール共和国では金の、オレンジ自由国ではダイヤモンドの鉱山が、たくさんたくさん見つかりました。ボーア人たちは大喜びです。ズールー族を追い出して、広い草原を手に入れただけでなく、宝の山まで手に入れたのですから。

 こうして、南アフリカに住みついたオランダ人――ボーア人――たちは、平和で豊かな国を創り上げた、と思っていました。ところが、はなしはそれで終わらなかったのです。南アフリカの隅っこに、ヨーロッパから別の人々がやってくるようになったのです。イギリス人の登場です。

 当時のイギリスは、全世界の四分の一を支配している、と言われるほど大きな大きな国でした。ですが、それだけではまだ満足できなかったようで、南アフリカも自分のものにしたい、と考えるようになっていきました。より正確には、金とダイヤモンドが欲しかったのです。こっそりと南アフリカにイギリス人たちを移住させ、ボーア人たちの二つの国に対抗する形で、「ケープ植民地」と呼ばれる占領地をつくってしまいました。当然、ボーア人たちは激怒します。とうとうイギリス人たちとの間で深刻な対立が始まってしまいました。

 こうして、南アフリカの草原や鉱山を巡って、ボーア人とイギリス人は戦争を始めてしまいました。歴史の教科書には、「ボーア戦争」という名で記録されています。今回のおはなしは、この「ボーア戦争」を詳しく紹介する、というものではありませんので、このぐらいにしておきますが、さて、この戦いの最大の「被害者」は、いったい誰だったのでしょうか? 

 元々この地域に住んでいたズールー族は、ボーア人にもイギリス人にもいいように利用され、散々な苦労をさせられました。自分の家に泥棒が二人侵入して来て、いつの間にか泥棒が二人とも居座って、途中で大喧嘩を始めてしまった、というところだったことでしょう。

 そして、もうひとつの「被害者」がいました。それは、大草原で生活していた、多くの動物たちです。ヨーロッパ人たちにとって、南アフリカは初めて見る野生動物たちの宝庫でした。彼らは戦争をしながら、初めて見る大自然に圧倒されていきます。やがて、多くのハンターたちが、珍しい動物の毛皮や剥製を求めて狩りに精を出すようになっていきます。

 ・・・と、ここまでおはなししていけば、もうお判りですね? ボーア人やイギリス人たちは、ただでさえ珍しいチーターの中でも、飛びぬけて変わった毛皮を持ったチーターがいることに気がついてしまったのです。「キングチーター」は、ハンターたちのターゲットにされてしまったのです。
 
   Ⅳ

 ある日、キルタクルは、世にも奇妙な、不思議な「黒い物体」を見つけました。それは、とても硬い、黒くて細長い金属で出来ていて、四角い塊のような形をしていました。大変頑丈そうな作りをしているにもかかわらず、中は大変スカスカで、ライオン二頭が寝そべってもお釣りがくるぐらい広やかでした。物体のほぼ中央には、大量のヌーの肉が置いてありました。そして、「入っておいで」と言わんばかりに、一か所だけ入口が空いているのでした。

 あれは一体なんだろう? 誰もが不思議に思いました。最近増えた「白い肌をした人間たち」が何か企んでいるのは間違いありません。多くの動物たちは、何かの罠に違いないから近寄らないようにしよう、と噂し合いました。

 でも、キルタクルは違いました。何かの罠でも構わない、と思いました。キルタクルは、この大草原で変わりもの扱いされるのにうんざりしてしまっていました。だったらいっそのこと、この「黒い物体」の中に閉じ込められて、人間たちに捕まってしまうのも悪くない、などと考えてしまったのです。

 キルタクルは、ゆっくりと「黒い物体」の中へと入りこんで行きました。目の前にはヌーの右脚が落ちていましたが、キルタクルの眼には映っていません。キルタクルは、「黒い物体」の中央に座りこむと、静かに静かに眼を閉じました。もうどうなったっていいや。そんなことを考えながら。

   Ⅴ

 ズールー族のムバンデの仕事は、イギリス人たちが狩り集めた動物たちを世話することです。物心ついた時から、そういう生活が続いています。なんでも、ムバンデのご主人のセシル・ローズという人物は、とんでもない大金持ちで、山のような黄金とダイヤモンドに囲まれて生活しているのだそうですが、詳しいことはよく判りません。なにしろムバンデは、ほんの数回しかご主人と会ったことがないのですから。

 ここは「ケープ植民地」でも一番大きな街、ケープタウン。ムバンデ以外にもたくさんのズールー族が働かされています。もともとこの地域にはたくさんのズールー族が住んでいました。ですが、ボーア人とイギリス人の争いに巻き込まれたズールー族は、バラバラになってしまいました。あるものは、「ケープ植民地」よりもさらに遠くの草原へと旅立って行きました。あるものは、そのまま「ケープ植民地」に住みつきました。あるものは、一度は「ケープ植民地」の外に出たものの、生活ができなくなって、仕方なく帰ってきました。ムバンデのお父さんとお母さんも、一度は「ケープ植民地」から逃げ出して、その後、イギリス出身の大金持ち・ローズの所で働くことになったのだそうです。

 ムバンデは、ズールー語も、オランダ語も、英語もペラペラです。色々な言葉を話す人々と一緒に働いていたので、いつの間にか頭の中に入ってしまいました。おかげでムバンデは、誰にこき使われてもきちんと会話をすることができました。昨日はボーア人に追い使われ、今日はズールー族の仲間と一緒に汗を流し、そして明日はイギリス人に叱り飛ばされるのでしょう。

 ムバンデは、毎日毎日、朝から晩まで誰かの命令で働かされ続けです。ここ数年、ご褒美なんて貰えたためしがありません。でも、ムバンデは全く気にしません。だって、産まれてからずっと、今の生活に疑問を感じたことなんてなかったからです。いや、一度だけ、「生きるのって大変だなあ」と思ったことはありましたが、今では毎日が忙しすぎて、そんなことを考えている暇なんてありません。「余計なことを考えている暇があったら身体を動かす」という習慣が染み付いてしまっているのです。だからムバンデは、その日も黙って、捕まってくる動物の世話をし続けました。黙って働くムバンデの横で、他のズールー族がおしゃべりをしています。

「・・・おい、久々に『キングチーター』が捕まったらしいぜ」

「へえ、よく捕まえたもんだなあ。ローズ様が捕まえたのか?」

「いや、なんでも勝手におりの中に入っていって、そのままおとなしく捕まったって話だぜ」

「・・・なんていうか、ずいぶん間抜けなチーターだなあ」

「鳴き声一つあげやしない。えさをやっても食べもしない。このままくたばっちまうんじゃないかなあ」

「ふうん、変わったチーターだなあ」

 黙っておしゃべりを聞いていたムバンデは、ほんの少しだけ、その「キングチーター」に興味を持ちました。いつもだったら与えられた仕事を淡々とこなすだけのムバンデですが、何故かその「キングチーター」の話が気になってしまったのです。

 ムバンデは、その「キングチーター」がどこにいるのか訊き出すと、黙って出かけて行ってしまいました。ズールー族を監督しているイギリス人はびっくりしました。ムバンデが持ち場を離れるなんて初めてのことだったからです。思いっきり叱り飛ばしてやろうと思いましたが、そのイギリス人は考え直しました。いつものムバンデは、とにかくまじめに、与えられた仕事をこなしています。だから、「一日ぐらいさぼっても、構わないか」と思ったのです。

   Ⅵ

 「黒い物体」の中に入って、三日が経ちました。キルタクルは、ぐったりとした身体を横たえて、静かに眠っています。三日前、「黒い物体」の中のキルタクルを見つけた「白い肌をした人間たち」は、目を丸くしていました。捕まったというのに、大暴れ一つしないでおとなしく寝そべっているキルタクルが、たいそうもの珍しかったのでしょう。もっとも、キルタクルには「どうでもいい」ことですが。

 そんなキルタクルの所に、「黒い肌をした人間」が姿を現わしました。その人間は、キルタクルをずっと見つめていました。他の人間たちもキルタクルを見つけると、じっと見つめていることがありましたが、この人間は、他の人間とは違いました。キルタクルを見ているようで見ていないのです。いや、正確には見ているのですが、キルタクルをじっくり観察している訳ではありません。キルタクルの前に座り込むと、ただ、「黒い物体」を眺めているのです。他の人間にはどう見られても一向に気にしないキルタクルでしたが、さすがにこの「黒い肌をした人間」には気味が悪くなってしまいました。

 キルタクルは、今まで生きてきて、ほとんど使ったことのない、「唸り声」をあげてみました。いつもは甲高い声を挙げるだけのキルタクルが、ライオンやハイエナのような「唸り声」をあげたのです。普通の人間であれば、ショックを受けて、一目散に逃げ出してしまうところでしょう。ですが。

 その「黒い肌をした人間」は、身じろぎひとつせず、黙ってキルタクルの前に座ったままでした。キルタクルは訳が判らなくなりました。いったいこの人間は何だろう。ここ何日も、心の中で「どうでもいい」を繰り返してきたキルタクルにとって、なぜかこの人間だけは「どうでもいい」存在ではなくなってしまいました。

 キルタクルは、自分なんてもうどうなったって構わない、と思っていました。だから、他のチーターも、人間も、自分に関わろうとするすべてのものなんて、どうなろうが構わない、と思っていました。それなのに、この人間だけは、この「黒い肌をした人間」だけは、気になって気になってしかたがありません。別にこの人間がキルタクルに何かしてきた訳ではありません。むしろ、何もしていないと言ってもいいでしょう。それなのに、今、眼の前に座っているだけのこの人間によって、キルタクルは、心の中をかきむしられてしまいました。

 キルタクルは、もう一度だけ、力強く、「唸り声」をあげてみました。でも、それでも、「黒い肌をした人間」は、キルタクルを眺め続けるのでした。

   Ⅶ

 また唸っている。ムバンデは思いました。ムバンデは、なぜ自分がこの「キングチーター」の前にいるのか、よく判りませんでした。動物たちの世話など、毎日毎日飽きるほどしています。チーターを見るのも、決して珍しいことではありません。それなのに、どうしても、この「キングチーター」の前からは、離れることができないのです。

 さっきから何回も唸り声をあげているこの「キングチーター」が、ムバンデには全く恐ろしくありませんでした。こいつは一体なにを恐れて唸り声なんてあげているんだろうと思ってしまいます。この「キングチーター」がいくら騒いでも、ムバンデには「どうでもいい」ことです。気になって仕方ないのは、「なぜこいつは黙っておりの中に入って行ったのか」という素朴な疑問だけです。

 真っ黒な、四角いおりの中で、なぜかこの猛獣は安らいでいるように見えました。こんな狭いおりの中にいるというのに、「キングチーター」は落ち着いた表情をしているように見えました。ムバンデが今、おりの前にいるのは、その落ち着いた表情を眺めていたいからなのかもしれません。

 ムバンデには、この「キングチーター」が怖ろしくない理由が、何となく判っていました。そして、「キングチーター」が唸り声をあげている理由も、何となくですが、判るような気がしました。

 ・・・どのぐらいの間、座っていたのでしょう。ムバンデは立ち上がると、静かにこう言いました。

「おりの中が好きなのは、おまえだけじゃないよ」

 それだけ言い残すと、ムバンデはおりの前から去って行きました。「キングチーター」が、急に甘えたような声を発しました。さっきの唸り声とはまったく違う、優しい、か細い声でした。その声を聞きながら、ムバンデは、「また明日もここに来よう」と考えていました。

 自分の持ち場へと帰る途中、ムバンデはふと、小川のせせらぎをのぞき込みました。そこには、安らいだ表情をした、ムバンデの顔が映っていました。ムバンデは思いました。ああ、あれは自分だったのだ、と。

   Ⅷ

 キルタクルは、「黒い肌をした人間」が去って行ったあと、深刻に考え込んでいました。立ち上がったあの人間は、なにごとかつぶやいてから去って行きましたが、キルタクルには人間の言葉など判りません。でも、キルタクルには、とても大事な一言だったように感じられました。意味なんて判らなくても構わない。でも、あの「黒い肌をした人間」にもう一度会いたい、と思いました。

 キルタクルは、それまで一度も手を付けていなかったヌーの肉の塊にかぶりつきました。自分のことを「どうでもいい」と考えなくなったのはずいぶん久しぶりのことでした。またもう一度、あの人間と会う。その目的を叶えるため、もう少しだけ生き続けてみようと、キルタクルは思ったのでした。


 次の日、また「黒い肌をした人間」がやってきました。その人間は、なんと「黒い物体」の中に入ってきました。キルタクルは黙ってそれを受け入れました。たった二回会っただけなのに、キルタクルは、この人間を受け入れてしまいました。理由はよく判りません。

 絶対に通じるわけがないのに、キルタクルは、この人間に向かって、思わずこうつぶやいていました。

「もう、『どうでもいい』なんて考えないことにするよ」

 一瞬だけ、キルタクルの身体にブラシをかけていた「黒い肌をした人間」の手が止まったような気がしました。彼は、静かにキルタクルの眼を見つめると、人間の言葉で、何事かつぶやいたようでした。キルタクルにはさっぱり判りませんでしたが、それでもいい、と思いました。

 キルタクルは気持ちよさそうに伸びをしました。草原にいた時には、全く感じられなかった安らぎが、キルタクルを包み込んでくれているような気がしました。


 ・・・ブラシをかけながら、ムバンデはこんなことをささやいていました。

「昨日、ローズ様におはなしして、おまえの世話係をすることになったからな。おまえ、もうちょっとで毛皮の絨毯にされちまうところだったんだぞう・・・」


 ・・・西暦一九〇二年、ケープ植民地総督セシル・ローズは、四十八年の短い生涯を終えました。ローズは生涯独身であったため、彼の財産は、イギリス政府に全額寄付されることになります。その多額の遺産の中には、年老いたキングチーター一頭と、その飼育係のズールー族の男も含まれていました。

(おしまい)
コメント

「臥龍の城」

2011-11-03 20:57:17 | 『灰色童話集』
今日は調子に乗って三本連続掲載です(別に「文化の日だから」とかいった深い意味はないです。今日はちょっと手が空いたから、アップしまくってるだけです)。

「臥龍の城」は「飛豹」より前に書いた、唯一の中国もの童話です。

時間軸でいうと、「飛豹」とほぼ同時代のおはなしです。

「童話」ということもあって、若干史実を無視した描写があります(どこが史実と違うか探して頂くのも一興かもしれません)。


依拠した史料は、「飛豹」同様、『晋書』と『資治通鑑』です。

四苦八苦しながら読み始めて十数年になりますが、『晋書』は物語の宝庫です(と、少なくとも私は思ってます)。

この「童話」、うまく料理できたかは自信がありませんが、私は割と気に入ってます。

それでは御一読下さい。


臥龍の城

   Ⅰ

 ・・・おい、そこの人。ちょいと立ち止まって、わしの話を聴いていかんかな? そう、おぬしじゃ。まあまあ、そんなに急がんでもよかろうて。ほれ、そこにちょうどよい形をした岩がある。そこに腰掛けるといいじゃろう。
 何カ月も砂漠を旅してきたのじゃろう? 顔や身体が砂だらけじゃぞ。この近くは、よく砂嵐が起こるからのう。嵐が起きる前に着いてなによりじゃった。
 しかし暑いのう。砂漠の旅は日影がないから、さぞかししんどかったじゃろう。・・・おぬし、のどがかわいてはおらんかね? ほれ、そこに小さな小さな泉がある。たあんと飲むがよい。わしが茶でも淹れられればよかったのじゃがのう。まあ御覧の通りの姿じゃからなあ。
 ん? なんじゃ? わしの姿が見えんとな? おいおい、何を言うておる。ほれ、わしはおぬしの目の前におるぞ。
 ん? まだ気付かんのか? わしは、おぬしの前に「建って」おるぞ。ウソはついておらんよ。ただ、ちぃっとばかし変わった姿をしておるかもしれんがなあ。
 ・・・ああっ、逃げんでくれ、逃げんでくれ。そんなに恐ろしい姿はしておらんぞ。決しておぬしを傷つけたりはせんから、安心するのじゃ。わしはただ、話し相手がほしかっただけじゃ。なにしろ、わしは、ここから動くことが出来んのでなあ。
 なんじゃ、まだわしの正体がわからんのか? しょうの無いやつじゃのう。たいていの旅人はすぐに気が付くというのに・・・ まあよい、種明かしをしてしんぜよう。
 わしはな、「城」じゃ。今から千数百年ばかり前に建てられた、大きな大きな城だったんじゃ。まあ、今ではすっかりがれきの山じゃがね。自分で言うのもなんだが、昔はそれはそれは美しい「城」だったんじゃぞぅ。
 ・・・水を飲んで、少しは気も落ち着いたじゃろう。ちょっとの間でかまわんから、わしの昔語りを聴いてはくれんかのう。ここ百年ほど、誰もこの近くを通りかからなかったもんで、ずうっとつまらなくてのう。
 わしには、人間さまのような手足が生えとるわけではないから、自由に動き回ることが出来んのじゃ。ちと面倒かもしれんが、この気の毒な老人の話し相手になってくれるとありがたい。
 さて、それでは始めるとしようかな。わしが生まれてから、がれきの山になってしまうまでのおはなしじゃ。

   Ⅱ

 ・・・わしが生まれたのは、千数百年ほど昔のことじゃ。ところで旅の人よ、このあたりの土地の名前を知っておるかね? 

「姑臧(こぞう)」

というのじゃ。今ではだれもそんな名前など知らんじゃろうがなあ。ここは昔からよく旅人の集まる場所でのう、いろんな旅人が訪ねてきたもんじゃ。瞳の色が青い商人、馬に乗るのが大変上手な遊牧民、漢字を使って見事な文章を書き上げる大詩人。とにかく、いろんな連中がやってきた。
 わしを建てたのは、「漢字を使う国」からやってきた、ひとりの風変わりな男じゃった。

「張軌(ちょうき)」

という名前じゃった。変わった男でのう、なんでも、占いに従ってこの土地へやってきたのだそうじゃ。

 昔の人間は迷信深くてのう、自分の人生の行く末が心配になると、すぐに占いに頼りよった。張軌もそうじゃった。根はまじめでおとなしい男だったんじゃが、ある日、自分の十年後の運勢について占ってみたのじゃ。すると、こんな結果が出た。

――北へ行くと大凶。南へ下ると吉。東へ向かうと凶。西へ進むと大吉――

 張軌はこの結果にびっくりした。実はこのころ、張軌の住んでおった国では戦争が続いておってのう、彼はなんとしても戦争に巻き込まれたくない、と思うておった。じゃから、この占いの結果を見て、すぐさま西へ向かうことに決めたんじゃ。ちなみに、北へ行くと、とても寒い大草原。南へ下ると、海のような大きさの河。東へ向かうと、丸はだかの岩山。そして西へ進むと、ここのような大砂漠が待っておった。どこへ行ったとしても、苦労は絶えんかったじゃろうなあ。
 張軌が西の大砂漠に引っ越しをすると聞いて、友人たちは必死で止めさせようとした。なにしろ張軌はもともと身体が丈夫ではなかったから、もし砂漠ばかりの西へなど行ってしまったら、すぐに病で倒れてしまう、そう思ったからじゃ。じゃが、張軌はおとなしいくせに頑固者でのう、友人たちが止めるのも聞かず、家族や家来たちと一緒に、西へ西へと行ってしもうた。
 そうして着いた場所が、ここ、「姑臧」の地だったんじゃ。

   Ⅲ

 この地に着いた張軌は、張り切って街づくりを始めた。元々「姑臧」は、「青い目の国」と「漢字を使う国」の間にあった街で、いろんな人間が生活しておった。張軌は、そんな「姑臧」の街の人々と協力し合って、街の大きさをどんどん広げていった。五年ほどの間に、「姑臧」の街は、十万人以上の人間の住む、大都市になった。張軌がやってきたころには二万人もいなかったのじゃから、張軌は必死になって街づくりをしたんじゃろうなあ。
 張軌は本当に変わった男でのう、どんな人間であっても喜んで街づくりを手伝わせた。張軌と同じ「漢字を使う国」の人間も、「青い目の国」の人間も、馬に乗る「草原の民」も、喜んで受け入れた。おかげでこの街は、色々な言葉や文字の飛び交う面白い土地になった。張軌の創り上げたこの街では、どんな人間であっても自由に仕事をすることが出来た。つまり張軌は、ただまじめでおとなしいだけの男ではなかったんじゃなあ。
 やがて、「姑臧」の街に、城壁を造ろう、という話が持ち上がった。というのも、「姑臧」の街が大きくなるにつれて、住民たちの財産をねらって、よその土地から盗賊たちがやってくるようになったからじゃ。いつの間にか「姑臧」の街の長(おさ)になっておった張軌は、街の周りをぐるりと壁で取り囲んだ。張軌の生まれた「漢字を使う国」では、そうやって街の周りに壁を造る習慣があったからじゃ。
 そうやって出来たのが、このわしなんじゃ。ある日ふと気が付いたら、わしが出来ておった。辺りを見回すと、街の長である張軌が満足そうにわしを見上げておった。そして、張軌は、わしと、街の住民たちに向かってこう言った。

「美しい城が出来あがった。この城の名を『臥龍城(がりょうじょう)』と名付けよう」

 ・・・いきなりわしに名前が付いてしまった。なぜそんな名前になったのか、わしにはさっぱり判らなかったが、街の住民たちはとにかく大喜びしてくれた。わしも、何となくうれしい気分になったことは覚えておる。

   Ⅳ

 後で知った話なんじゃが、わしはたいそう変わった形をした城だったんだそうじゃ。普通、「漢字を使う国」では、城の形は正方形に造ることになっておった。それなのに、わしときたら、東西にとても長い長方形の形をしておったんじゃ。もちろんちゃんとした理由がある。それは、この街の北と南に大きな山があって、人の住める場所が限られていたからじゃ。じゃから、わしの形は東西に細長く伸びた形をしておったのじゃ。
 もしかすると、わしは「漢字を使う国」では、みっともない形の城、なのかもしれん。いや、おそらくきっとそうなんじゃろう。なのに、張軌ときたら、「まるで龍が地面に寝そべっているようだ!」などと言うて、とにかくほめちぎってくれた。街の住民も「その通りだ!」と喜んでくれた。なんでも、「龍」という生き物は、「漢字を使う国」ではとても強くて美しい生き物なのだそうじゃ。わしは、「お前も強くて美しい生き物なのだよ」と言われておるみたいで、なんだか気恥ずかしかった。
 やがて、いつの間にか、わしの身体に、龍の彫刻がほどこされるようになった。門や、城壁、柱などに、とても立派な龍の模様が描かれるようになったんじゃ。街の住民たちは、それは楽しそうに龍を描いてくれた。わしは、何やら身体中がくすぐったかったが、うれしい気持ちでいっぱいじゃった。これで名前に恥ずかしくない立派な姿になることが出来た、と思った。
 その後、張軌はこのわしを中心にして、周りにある小さな街と仲良くするようになった。全部で五十近い数の街じゃったかのう。そしていつのまにか張軌は、この五十近い街全ての長になってしまった。占いによれば、「西へ進むと大吉」という結果が出ていたのだそうじゃが、大当たりだったんじゃなあ。張軌は、この五十近い街全てをまとめて、一つの国を創った。

「涼」

という名前の国じゃ。どうじゃ、涼しそうな名前じゃろう。さて、このころ、張軌の故郷「漢字を使う国」は戦争が激しくなってしまって大変なありさまじゃった。平和だったのは、張軌の創った「涼」だけだったのじゃ。

「『涼』に引っ越せば、平和に暮らすことが出来るらしいぞ」

 そんなうわさが「漢字を使う国」のあちこちでささやかれ始めた。こうして、「涼」へと引っ越す人々がどんどん増えていった。幸い、まだ「涼」には空き地がたくさんあったから、住む場所には困らなかった。やがて、砂漠だらけだった「涼」の国に、見事な畑が出来るようになった。近くの川から水を引いてきて、砂漠を田畑に変えてしまったのじゃ。今では信じられないじゃろうが、わしの周りも緑の楽園だったんじゃぞう。
 張軌は正式に「涼」の王さまになった。まじめでおとなしいだけがとりえだと思われていた張軌じゃったが、このころには、とても立派な王さまになっておった。占いの通り、このまま幸福な一生が続くのだろうと、だれもが思っておった。
 そんな、ある日のことじゃった。
 わしの周りを馬に乗って散歩していた張軌が突然倒れた。きっと張軌は働き過ぎだったんじゃろう。かろうじて意識は取り戻したが、なんと、口がきけなくなってしもうた。家来たちはおどろいたが、口がきけなくても、さらに無理をして、必死に文字を書いて国造りの命令を出す張軌を見て、さらにびっくりしてしまった。正直、わしもおどろいた。張軌は「本物の王さま」になってしまったのだ、と思った。
 ・・・口がきけなくなってから三年後、張軌は、働きすぎの一生を終えた。街の住民たちは大声をあげて泣いた。わしも泣きたかったが、城は涙を流せんのでのう。わしの近くに建てられた、それほど大きくない墓に運ばれていくのを、わしはずうっとながめておった。わしにとっては、張軌が「お父さん」ということになるのかのう。
 張軌がいなくなってからも、わしはこの街を守るため、ずうっとここにそびえ立っておった。張軌が創った「涼」の国では、その後も七十年近く平和な時代が続いたのじゃ。じゃがのう・・・

   Ⅴ

 ・・・わしが出来上がって、ちょうど七十五年目のある日のことじゃった。このころの「涼」の国の王さまは、張軌のひ孫にあたる、

「張天錫(ちょうてんしゃく)」

という男じゃった。天錫は、ひいじいさんの張軌ほどではなかったが、一生懸命に仕事に取り組む、よい王さまじゃったなあ。天錫が生まれ育ったのはわしの中じゃったから、わしは、天錫のことを実の孫か、曾孫のように思うておった。といっても、あの頃のわしは、今みたいに自由に人と会話など出来んかったから、ただ見守ってやるだけじゃったがなあ。
 そんな天錫の元へ、「漢字を使う国」から、たいそうきらびやかな格好をしたお使いの者がやってきた。

「秦(しん)」

という名前の国からのお使いじゃった。張軌が出て行ったあと、「漢字を使う国」は長いこと戦いに明け暮れておったんじゃが、ようやく一つにまとまろうとしておったのじゃよ。その「秦」の国のお使いの者は、天錫に向かって、大変に威張りくさって、こう言うた。

「我が『秦』の国は、『漢字を使う国』をほとんど全部、その支配下に治めました。まだ降伏していないのは、あなたの治める『涼』の国と、南にある『晋』の国のたった二つだけ。はてさて、いったいいつになったら降伏してくれるんでしょうかねえ?」

 それを聞かされた天錫は、三日三晩本気になって悩んでおった。

「・・・もし降伏しなかったら、『秦』の国からたくさんの軍隊がやってくるだろう。きっと戦争が始まってしまう。『涼』の国はこの七十年間、だれともけんかをしないようにしながら平和を守ってきた。その平和を守るためにも、降伏した方がよいのではないだろうか?
 ・・・だがそれでは、ひいじいさまが必死になって創り上げた、この『涼』の国が、私の代で終わってしまうことになる。この『涼』の国を守るためにも、私は戦うべきなのだろうか?
 ・・・ひいじいさま、私はいったいどうしたらよいのでしょうか? 教えてください」

 この時の天錫は、見ていて本当に気の毒じゃった。この時代、自分のことだけを考えて、楽ばかりしようとする王さまが多かった中、本気で「涼」の国や、そこに住む人たちのことを考えてくれたのじゃ。わしは、その姿を見て、『ああ、天錫はひいじいさんの後を継いで、立派な王さまになっておったんじゃなあ』と思うたものよ。
 三日三晩悩んだ末に、天錫は「秦」の国に降伏することを決めた。「涼」の国の人々は嘆き悲しんだが、同時にホッとしておった。なにしろ一度も戦争せずに、争いが終わったのじゃからのう。
 こうして天錫は、「秦」の都があった「長安(ちょうあん)」という街に連れて行かれ、「秦」の王さまの家来になった。天錫は、長安へ出発する直前、わしのことをじぃっと見つめておった。天錫は、笑いたいような、泣きたいような、不思議な表情を浮かべておった。結局、天錫は、最後まで何にも言うてはくれんかったが、わしには何となく、天錫の気持ちがわかったような気はした。
 こうして、わしと天錫は離ればなれになってしもうた。

   Ⅵ

 幸いにして、天錫の降伏した「秦」の王さまは、とても優しい人物じゃった。名は、確か・・・

「苻堅(ふけん)」

というたはずじゃ。天錫はこの苻堅に気に入られてしまってのう、「秦」の国の将軍にとり立てられた。戦争を嫌っておったはずの天錫が、戦争を仕事にする将軍になってしまったと聞いて、わしは悲しい気分になった。じゃが、そのおかげで、「涼」の国の人々は戦争に巻き込まれずに済んだんじゃから、わしらは天錫に感謝してもしきれんかった。
 普通の話であれば、ここで、めでたしめでたし、となる所なんじゃが、・・・話はこれで終わらんかったのじゃよ。
 「涼」の国を滅ぼした「秦」の国は、今度は南の「晋」の国を滅ぼそうと考えたのじゃ。・・・どちらも似たような名前の国で判りにくいかも知れんが、大丈夫かのう?
 ある日、苻堅は、たくさんの軍隊を引き連れて南の「晋」の国へ攻め込んだ。その軍隊の数は、信じられるかのう、百十七万人もおったんだそうじゃ。「漢字を使う国」で、これほどたくさんの軍隊が集められたのは初めてのことじゃったらしいて。天錫も、この戦いに付いて行くことになった。わしは、この戦いの話を風の便りで耳にした時、大して心配せんかった。おそらく、あっという間に勝負が付いてしまう、もしかすると、戦争が終われば、また天錫がわしの所へ戻ってこられるかもしれない、とさえ思うておったのじゃ。
 ところがな、苻堅は、負けてしもうたのじゃ。百十七万人の軍隊の中に、裏切り者が混じっておったらしい。そいつらが戦いの最中にいきなり裏切ってのう、苻堅の軍隊はバラバラになってしもうたんじゃ。苻堅は命からがら長安まで逃げ出したが、気が付いた時には、周りの家来の数は、たった三万人になっていたそうじゃ。これで、苻堅の「秦」の国はボロボロになってしもうた。「秦」の国はいくつもの小さな国に分裂して、またまた長い戦争の時代になってしもうたのじゃ。王さまじゃった苻堅も、家来に裏切られて、命を落としてしもうた。
 ・・・ん? そう言えば天錫はどうなったか、じゃと?
 ・・・わしもうわさ話を聞いただけなんじゃが、南の「晋」の国に置き去りにされてしまったようなんじゃ。そして、今度は「晋」の国で貴族になって、幸せに暮らしたんだそうじゃ。わしの所へは帰って来られんかったが、まあ、めでたしめでたし、と言うてやってもよかったかのう。

   Ⅶ

 苻堅の創った「秦」の国はバラバラになってしもうた。当然、わしの立っておった、かつての「涼」の国も、バラバラにされてしもうた。信じてもらえるか判らんが、このわしをめぐって、激しい争いが起こってしまったのじゃ。北と西から、「草原の民」がやってきた。東と西からは、「山の民」がやってきた。彼らは、豊かな「涼」の国がほしくて、たくさんの軍隊を連れてきたのじゃ。当然、争い事が絶えなくなる。ひどい時期には、全部で七つの国の軍隊が同時にやってきたことだってあったんじゃよ。
 ・・・信じてもらえるかのう? わしを奪い合って、なんと三十五回も戦争が起こってしまったのじゃよ。戦争の理由は色々じゃった。例えば、わしの中に蓄えてある食料や財宝を奪い取るため。例えば、わしという城そのものを手に入れるため。例えば、わしの中に住む人々を自分の国へ連れ帰って働かせるため。それから、正直、おぬしに話したくもないような、それはそれはひどい出来事もあった。
 わしも、「涼」の国の人々もうんざりじゃったが、もうどうする事も出来んかった。わしの美しい城壁に、いくつもの刀や矢が突き刺さった。きれいな龍の彫りものがしてあった柱に、火を付けられた。わしの中に並び立っていた、静かなお寺が一晩で真っ黒焦げになった。わしの周りで青々と茂っておった田や畑も、砂漠に戻ってしもうた。あれほどたくさんの人でにぎわっていたはずの市場が、人っ子ひとりおらんようになってしもうた。・・・かつては十万人以上の人々が暮らしておったこの城で生活する者は、もはやだれもおらんようになってしもうた。
 ・・・いつの間にか、わしは一人ぼっちになってしもうた。もう、だあれも、わしのことなんか、見向きもせんようになった。かつてはだれもがほめたたえてくれたあの美しい城壁も、今ではただのがれきの山じゃ。
 ほれ、わしの近くに、きれいなお城があるじゃろう。あれはのう、わしの代わりに建てられた城じゃ。もう、わしは用済み、ということらしいて。
 ・・・わしは、時々思うんじゃ。もし、天錫が、あの張軌のひ孫が、もし「秦」の国に降伏せんかったら、わしや「涼」の国は、いったいどうなっていたんじゃろうなあ? 「秦」の国に攻め滅ぼされて、やっぱりがれきの山になっておったんじゃろうか? あの時天錫は、わしや「涼」の国の人々が戦争に巻き込まれることがないように、と考えて、降伏してくれたはずじゃった。だのに、そのあとすぐ、わしはとんでもない争いに巻き込まれて、ボロボロにされてしもうた。わしは、天錫を恨んでおるわけではないよ。ただ、時々、納得がいかなくなるんじゃ。なぜこうなったのか、とな。
 ・・・なあ、旅の人よ。わしはどちらにしても、こうなる運命だったんじゃろうかのう? 

   Ⅷ

 ・・・旅の人よ。最後に、わしの頼みを聞いてはくれんかな? いやなに、大した頼みではない。
 ・・・今日、ここで聞いた話を、家に帰ったら、誰かに話してやってほしいんじゃ。わしはもう千年以上ここで一人ぼっちじゃが、もし、旅の人が、どこかで、わしや、張軌や天錫の話をしてくれたら、何と言えばいいかな、そう・・・少しは気が楽になれると思うんじゃよ。
 ・・・なあ、旅の人よ、わしは、何のために建てられて、何のために焼かれて、何のために、今ここで、がれきの山になっておるんじゃろうかのう? わしは千年以上、ずうっとそのことを考えておるんじゃが、さっぱり、「答え」が見つけられないんじゃよ。「臥龍」などというたいそうな名前を持っておきながら、まったく知恵の回らんことじゃて。
 ・・・そういえば、「臥龍」とは、いつか起き上がって、空を駆け巡る龍のことなんだそうじゃ。じゃが、わしは、とうとう地面にねそべっておるだけで、ただの一度も空へは飛び立てんかったがなあ。残念なことじゃ。
 ・・・なあ、旅の人よ。わしは、なぜ、こんな目にあわなければならんかったんじゃろうなあ? そのことを、わし以外のだれかにも、考えてみてほしいんじゃ。もちろん、こんな難しそうなことを、年がら年じゅう考えておるわけにはいかんだろうて、時々でかまわんよ。時々でかまわんから、わしのことを思い出してもらえると、ありがたい。
 ・・・いやあ、すっかり暗くなってきてしもうたのう。砂漠の夜は冷える。さあさあ、そろそろ先へ進んだ方がよいじゃろう。この先にとてもにぎやかな街がある。そこで、旅の疲れをいやすんじゃな。
 さて、わしも、次の旅人がやってくるまで、ひと眠りするとしようか。次の旅人がやってくるのは、五十年先か、はたまた百年先か、それは、判らんがのう。
 ではな、旅の人よ。達者でなあ・・・

おしまい
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