オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

ライオンの穴でも

2011-08-07 00:00:00 | 礼拝説教
2011年8月7日 主日礼拝(ダニエル6:1-28)岡田邦夫


 「そこで王は非常に喜び、ダニエルをその穴から出せと命じた。ダニエルは穴から出されたが、彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼していたからである。」ダニエル書6:23

 先週のこと、私は説教の準備のために机に向かっていたのですが、疲れていたせいか、座ったまま眠ってしまい、夢を見ていました。あるセミナーに参加し、一人の教授の全体講義があり、そのあと、分科会で①家庭集会②教会学校③聖書研究でした。私は講師が気に入って、③聖書研究の教室に遅れて入っていきました。もう満席で、座りきれない人たちが後にも横にも立っていて、熱心に聖書解釈について、皆、熱心に聞き入っているというところで目が醒めました。何と、私は大きなスタディ版聖書を両腕にしっかり抱えて、椅子に座っていたのです。その時、私はダニエル書を読んでいたので、聖書の説き明かしの夢を見たのだと思います。
◇秘密を現す神
 ネブカデネザル王がユダ王国を攻め、エルサレムを陥落させた時、ユダヤ人をバビロンに捕虜として連れて来て、優秀な人材をみつけ、彼らを教育して国家を維持、発展するために登用しました。そのユダヤ人の中にダニエル(バビロン名ではペルテシャツァル)という「聖なる神の霊」の宿る人物がいました(4:8)。治世の第二年のある日、「ネブカデネザルは、幾つかの夢を見、そのために心が騒ぎ、眠れなかった。そこで王は、呪法師、呪文師、呪術者、カルデヤ人を呼び寄せて、王のためにその夢を解き明かすように命じた」のです(2:1-2)。しかし、王の見た夢を言いあて、それを説き明かす者はひとりもいません。王は勝手に激怒し、知者たちを殺せと命じます。それを知ったダニエルは王の前に出て、説き明かしますと申し出て、三人の同僚に知らせ、天の神に祈ると、幻の内に天の秘密の啓示を受け、王に告げます(2:17-19)。王の見た夢は正夢で「金の頭、銀の胸と両腕、青銅の腹ともも、鉄と粘土のすねと足をもつ巨大な像」が出てきて、それを人手によらない石が打ち砕くというたいへん奇妙な夢だったということです。その金の頭はバビロン(ネブカデネザル王)を指し、それに取って代わるのが銀の胸と両腕の国という風に順々に帝国が現れ、政権が代わっていき、最後に永遠に滅びない国が現れるという預言だとダニエルは説き明かします。そこでネブカデネザルはダニエルに「あなたがこの秘密をあらわすことができたからには、まことにあなたの神は、神々の神、王たちの主、また秘密をあらわす方だ」と言って、ダニエルを高い位につけます。
 (同書の8:20-21、10:20と照らし合わせると後の歴史の展開と符合します。…金の頭はバビロン…銀の胸と両腕はメディヤ…青銅の腹とももはペルシャ…鉄と粘土のすねと足はギリシャ…そして、人手によらない石は神の国)
 4章で、またダニエルは王の見た「大きな木」の夢=幻を説き明かします。5章で、ネブカデネザル王に代わって、息子のベルシャツァルが王となって、宴会を開いていた時、不思議なことが起こります。突然、人間の手の指が現われ、王の宮殿の壁に物を書いたので恐れおののきます。ここでまた、ダニエルが説き明かします。文字は『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン』。メネは神があなたの治世を数えて終わらせられたこと。テケルはあなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかったこと。パルシンはあなたの国が分割され、メディヤとペルシヤとに与えられるということだと…。そこで、王はダニエルを国の第三の位に就かせます。直ぐさま、啓示のとおり、歴史の現実となります。「その夜、カルデヤ人の王ベルシャツァルは殺され、メディヤ人ダリヨスが、およそ六十二歳でその国を受け継いだ。」とあります(5:30)。啓示の神は歴史に働く神なのです。実に厳粛なことです。
◇奇跡を現す神
 そうして、王となったメディヤ人ダリヨスは「神の霊が宿り、光と理解力と、すぐれた知恵のある」ダニエル(5:14)を政治の中枢で用いようとします。王は全国に120人の総督(太守)を任命して国を治めさ、王に損失がないように、その上に3人の大臣をおくことにしました。その大臣のひとりをダニエルとし、彼がきわだって優れていたので、王国全体を治めさせようとしました(6:3)。それが他の大臣、総督たちには面白くありません。ダニエルを陥れる策略を持ってのぞみます。彼らは「今から30日間、王以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれるという禁令」を制定することに同意したので、その文書に王が署名し、取り消しのできない法律にしてくださいと申し出ます(6:7)。王は署名しました。
 ダニエルは、その文書の署名のことを知って帰ったのですが、彼は屋上の部屋の、エルサレムに向かってあいていた窓辺で、ソロモンの祈りに従って「いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」のです(6:10、2列王記8:38-45、2歴代誌6:37-39)。ダニエルを陥れようとしていた連中がその現場を目撃し、王に訴え出ました。「このことを聞いて、王は非常に憂え、ダニエルを救おうと決心し、日暮れまで彼を助けようと努めた」のですが、もはや発布された法令を変えられません(6:14)。
 聖書はこう記しています。「そこで、王が命令を出すと、ダニエルは連れ出され、獅子の穴に投げ込まれた。王はダニエルに話しかけて言った。『あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。』一つの石が運ばれて来て、その穴の口に置かれた。王は王自身の印と貴人(貴族)たちの印でそれを封印し、ダニエルについての処置が変えられないようにした。こうして王は宮殿に帰り、一晩中断食をして、食事を持って来させなかった。また、眠けも催さなかった。王は夜明けに日が輝き出すとすぐ、獅子の穴へ急いで行った。その穴に近づくと、王は悲痛な声でダニエルに呼びかけ、ダニエルに言った。『生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。』」(6:16ー20)。
 すると、中からダニエルの声がしました。生きていたのです。奇跡です。考えられないことですが、ダニエルは王にこう答えたのです。「王さま。永遠に生きられますように。私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません」(6:21-22)。王は非常に喜び、穴からダニエルを出させます。訴えた者たちが今度は獅子の穴に投げ込まれ、かみ砕かれるという制裁が加えられます。そして、ダニエルの信じる神がたたえられます。
 ここで注目したい言葉は6:23です。「ダニエルは穴から出されたが、彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼していたからである」。新約聖書もこの信仰を評価しています。「預言者たち…は信仰によって…正しいことを行ない、約束のものを得、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ…ました」(ヘブル11:33ー34)。神への信頼がどれ程奇跡を生むのか、教えられます。普通なら、獅子の穴に投げ入れられようとした時点で、神に見捨てられたと思うのでしょうが、彼に与えられた神の知恵の霊によって、神ご自身を信頼していたのです。王の方が動揺し、嘆き、うろたえますが、獅子の穴の中のダニエルは主のあわれみによって、あるいは聖霊によって平然としていたようです。「彼が神に信頼していたからである。」ということこそ、奇跡です。
 この「信頼する」(信じる)はヘブル語ですとアーマンで、その動詞から「アーメン」(本当に、まことにそうです)が生まれました。聖書で最初にアーマンが出てくるのは創世記15:6「彼(アブラハム)は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」です。ダニエル自身こう告白していました。「私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです」。アブラハムに与えられた信仰と同質ではないでしょうか。他の大臣や総督がよってたかって、ダニエルの立場を「認めようとはせず」、その存在を抹殺しようとしましたが、ダニエルの信じる天の神はその筋書きをどんでん返しにし、神ご自身がダニエルの存在を認め、罪のない者と認め、義と認め、救われたのです。「彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼していたからである。」とは信仰の奇跡であり、神の恵みの軌跡です。
 私たちは日々祈り、イエス・キリストを主と信じていても、その存在さえ、飲み込まれ、砕け散りそうな苦しみや、悲しみや、迫害や虐待や疎外という獅子の穴に放り込まれるような時があるかも知れません。しかし、そこにこそ獅子の口をふさいでくださるお方、すなわち、黄(よ)泉(み)の穴からよみがえられたイエス・キリストがおられること忘れてはなりません。聖霊によって十字架にかけられたイエス・キリストへの信頼が与えられ、「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」という信仰の原点に行き着かせるのです。この原点に立てば、私たちにとって何も恐れるものはないのです。

 オランダにテン・ブーム時計店があり、そこに敬虔なクリスチャン家族がいました。ナチス・ドイツがオランダを占領するとユダヤ人刈りが始まります。この時計店は信仰によってユダヤ人をかくまう選択をし、地下組織と協力して、多くのユダヤ人の救出にあたります。しかし、ついに秘密警察がやってきて、一家は収容所に送られます。ベッツィーは病弱なため苦役を果たせず、残酷にも余計にむち打たれます。しかし、妹に言います。「ベッツィーは…やせ細った手で、鞭のあとを隠しました。『コーリー、ここを見てはいけないわ。イエス様だけを見てちょうだい』」。やがて衰弱し、病室にいれられ、別れの時がきます。「わたくしたちが、ここで学んだことを、人々に知らせなくっちゃ…わたくしたちは、イエス様がおられない所ほど深い穴はないということを、ぜひ知らせなくっちゃ。コーリー…」。遺体は汚物であふれかえったトイレにおかれたのですが、顔は幸福で平和そのもの、天国のベッツィーだったとコーリーは見たのです。その後、奇跡的にコーリーは釈放され、慈善活動をし、この経験を「わたしの隠れ場」という書にして、証詞を残したのです(いのちのことば社)。

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