オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

葦の海を渡りきる

2015-08-30 00:00:00 | 礼拝説教
2015年8月30日 主日礼拝(出エジプト記14:13~31)
岡田邦夫

 「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない」。出エジプト記14:13-14

 「まことに小さな国が開花期を迎えようとしている」は、司馬遼太郎の歴史小説『坂の上の雲』をNHKがドラマ化した、その出だしです。原文を組替え、物語の全体をよくあらわすように、組立られているナレーションです。続いて、抜粋してみましょう。「『小さな』といえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。…産業といえば農業しかなく,人材といえば三百年のあいだ読書階級であった旧士族しかなかった。明治維新によって日本人は初めて近代的な『国家』というものを持った。……この物語は,その小さな国がヨーロッパにおける最も古い大国の一つロシアと対決し、どのように振舞ったかという物語である。…」。
 どこか似ているのが、出エジプト記です。「まことに小さなイスラエルという民族が開花期を迎えようとしている。彼らは四百年のあいだエジプトに居留し、やがて、過酷な労役に苦しむ奴隷階級でしかなかった。この物語は,その小さな奴隷の民が最も古い大国の一つエジプトと対決し、どのように振舞ったかという物語である」。

◇見なさい…解放を(原形)
 エジプトの繁栄はナイル川が運んできた土により、肥沃な土地が広がっていたからです。川の氾濫も畑を肥沃にし、治水や灌漑によって、なお豊かにしていました。さらに、ゆったりと流れるナイル川、その下流から上流に向かって風が吹くのです。ですから、帆を張れば船は上流に向かえるし、帆を下ろして流れにまかせれば、下流に行けるので、流通には好都合でした。イスラエルを奴隷に使い、作っていたのがレンガ。都市の建造が盛んに行われていました。政治、経済において、実に大王国でした。
 パロ王は戦果を上げたとき、戦車を手にします。そもそも、丸いものを作る、しかも車輪を作る、そして、馬に引かせる二人乗りの戦車に作るというのは相当高い技術です。一人は御者、一人は射手が乗り、その快速戦車を操らせ、軍隊として用いるだけの圧倒的な軍事力を持っていたのです。
 まことに弱い奴隷の民が絶大な力を持つエジプトから、どう見ても脱出など不可能。しかし、唯一の武器がありました。アブラハム、イサク、ヤコブの神への祈りでした。祈りは聞かれ、モーセを通して、神の救いの言葉が臨み、その言葉どおり、神が御手をのべて、エジプトに十の災いをもたらし、パロの心を弱気にさせ、イスラエルを解放させました。

 しかし、「パロとその家臣たちは民についての考えを変えて言った。『われわれはいったい何ということをしたのだ。イスラエルを去らせてしまい、われわれに仕えさせないとは』」(14:5)。戦車隊を率いて追跡します。
 昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、イスラエルは導かれて、進んでいきます。しかし、葦の海(この海というのがかつては紅海とされていたが、今は葦の海だろうと言われている)の前まで来た時、エジプト軍は迫ってきます。真っ黒な雲がその間に立ちこめ、エジプト軍を迷わせます。モーセが手を海に差しのばすと、東風が吹き、海が割れ、底が乾いたので、イスラエルはみな渡ります。エジプト軍が追って、全軍がその海に入った時、再び、モーセが手を差し伸べると、海が元に戻り、それに飲まれて全滅してしまいます。
 これでエジプトとの縁が切れ、完全に奴隷から解放され、自由になったのです。
 「えり抜きの六百の戦車とエジプトの全戦車」(14:17)をもってなら、即、追いつき、イスラエルを打ち負かすことは簡単だったでしょう。しかし、イスラエルの神の前には全く無力でした。エジプトを豊かにしていた風が、この時は「強い東風」(14:21)となって吹き、イスラエル人を救い、エジプト軍を全滅させたのです。奇跡が起こる前の絶望状況で、民は「エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かった」(14:12)とつぶやき、訴えていました。しかし、救われてみれば、「イスラエルは主がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた」のです(14:31)。神の圧勝なのでした。
 ここで、重要な救いの言葉に注目してみましょう。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない」(14:13-14)。
 「解放」という救いの原形です。それは選ばれたイスラエルの救いの原点でした。後に、イエス・キリストは病の人を病から解放し、悪霊つきの人を悪霊から解放し、嵐の中にある人を嵐から解放し、罪の中にある人を罪から解放されました。「わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです」(ルカ福音書11:2)。全人類への解放の福音はイエス・キリストの十字架と復活において成し遂げられたのです。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれたキリストの救いを見なさい。」と私たちに告げておられるのです。

◇思いなさい…解放を(類形)
エジプトを脱出し、葦の海を渡ったという史実を、信仰者の視点から記されたのが聖書です。これを読む者は信仰者として、自らの状況に当てはめて、読むことで、励ましになり、力になり、確信になります。要するに、聖書の歴史を類比的(アナロジカル)に見るのです。信仰的にこの旧約の出来事をイエス・キリストに結びつけ、今の私たちに結びつけていくのです。
 パウロはこう言います。「私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け」(1コリント10:1-2)。私たちがイエス・キリストにつく洗礼(バプテスマ)を受けたことが類比されます。葦の海を渡った出来事はエジプトの奴隷の家からの「完全な解放」だったように、十字架による救いの出来事は罪からの「完全な解放」だったのだとパウロは述べます。
 洗礼を受けた者たちに向かって告げます(ローマ6:3-4)。「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか」。それ「によって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」。エジプトの奴隷=罪の奴隷から、葦の海において=バプテスマにおいて、完全に解放されたのだと信じましょう。それだから、再び、エジプトの奴隷=情欲の奴隷になることはない。主のしもべ=義のしもべとして生きていこうと励まされるのです。
 まずは、「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」と信仰のつぼを教えてくれるます(ローマ6:11)。「思いなさい(ロギゾマイ)」は「認めなさい」や「考えなさい」とも訳されていて、商業用語では帳尻が合わなくても合わせてしまうという意味で使われます。受洗したときはそこまで感じなかったかも知れないですし、自分が完全だったわけではないけれど、その時、神の救いの完全があった、それはイエス・キリストの真実なのです。今、そう思い、そう受け止めることを、聖霊が促しておられます(きよめの経験)。
 渡り終えた時に人々が歌いましたように、私たちも賛美しましょう。「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる」(15:1-2)。
 また、私たちが追い詰められるような困難に出くわした時、この葦の海徒渉を類比させ、このみ言葉をいただければ幸いです。
 「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない」。出エジプト記14:13-14

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