オーソレ、何それ?

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中国地方の戦国武将8:時代の仕掛け人か、毛利家を籠絡した怪僧か?

2004-11-05 00:01:19 | 戦国時代
毛利家に外交僧として活躍した人物がいた、その名を安国寺恵瓊という。

安国寺恵瓊は安芸の守護武田氏の出身である。武田氏は信玄で有名な甲斐武田氏と同じ流れを汲む清和源氏の名族である。しかし、室町時代になると周防の大内氏と対立し、その後次第に衰退していった。そして1540年に本拠地の銀山城が落城し、安芸武田氏は滅亡した。

安国寺恵瓊は安芸武田氏最後の当主である信実の従兄弟信重の子供であるといわれ、安芸武田氏滅亡の際、一族の竹若丸、後の安国寺恵瓊は幼少であったため安芸の安国寺に逃れることができ、その後僧侶としての道を進んだ。恵瓊の師恵心が毛利氏の外交僧であったため、恵瓊はその後を受け継ぎ毛利家の外交僧となった。恵瓊が外交僧を務める毛利家は、安芸武田氏と大内氏が対立したとき、大内家の先兵として安芸武田氏と戦闘を繰り返した因縁の一族である。

毛利家が勢力を拡大するにつれて、恵瓊の活躍の場はどんどん広がった。そして東に新興勢力である織田氏が台頭し、京を支配するようになった。将来毛利と織田は対決するであろう。このとき安国寺恵瓊は僧侶の地位を利用して京都で情報収集を行い、毛利家に報告を行った。

「信長之代五年三年者可被持候。明年あたりは公家なとに可被成候かと見及申候。左候而後、高ころびにあをのけにころはれ候ずると見へ申候。藤吉郎さりとてはの者にて候。」

信長の支配は3年から5年は続き、来年あたりには公家になるのではないか。しかしその後失脚し、藤吉郎がその後を継ぐだろう。

この報告は本能寺の変の10年前にされたと言われており、これが本当であれば、恵瓊の情報収集力、解析力には驚くべきものがあると言わざるを得ない。

そしてその10年後まさに本能寺の変が起きたとき恵瓊は備中高松で羽柴秀吉との和平交渉にあたり、備中高松城の主将の清水宗治を説得し、その切腹を引き換えに、講和を成し遂げた。このことは毛利家の存続だけでなく秀吉の中国大返しを助け、天下統一に貢献した。そのため恵瓊は秀吉の信頼も勝ち取り、伊予国において2万3千石を受け、僧籍にありながら大名としての地位も獲得した。

秀吉の死後、徳川家康対五奉行の対立に際し、恵瓊は五奉行方につき毛利家の当主輝元の名で家康西軍諸将を集めることに成功した。しかし、その後の水面下での両軍による多数派工作に破れ、毛利家は動かず、天下分け目の合戦の西軍の総大将は石田三成となってしまった。そして西軍は敗退、恵瓊は西軍の「首謀者」毛利家から唯一の戦犯として京都六条河原で刑場の露と消えた。

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