南飛騨からこんにちは

田舎で農業しながら、日々気になること、ふるさとのこと、おもしろかったこと、趣味のことなど気軽に書きます。

秦鼎(はたかなえ)の孝子伝説書

2013-06-15 | ふるさと調査

地元のふるさと研究会の応援を依頼されて、旧家に保存されていた「孝子伝説」掛け軸を調査させていただきました。

 所有されていた方がすでに知人に解読を依頼されていましたのでそれを活用する方向で動いていましが「尾張泰胤(おわりやすたね)」書となっていて、どうしても該当する人物が明らかに出来ませんでした。このためネットで関係するサイトを通して岐阜女子大学中嶋康博氏に書の解読をしていただきました。

その結果、書は江戸時代末期、尾張藩校の教授も勤めた儒学者「尾張秦鼎」書が正しく、孝子伝説の内容も精査していただき正しく解読していただきました。

秦鼎掛軸の解読結果を引用させていただきます。

君不聞        君、聞かずや
昔日飛騨深山裡  昔日、飛騨深山の裡
門原之村有孝子  門原の村に孝子あるを
其名田作善事親  その名、田※となし、親によく事(つか)ふる  ※門原に「田口左近光員」

                             なる人物を先祖とする家あり、この一統か。 
親病嘗欲琶湖水  親病みてかつて(琵)琶湖の水を欲するに
孝子走從其所求  孝子その求むるところに従って走る
自飛至江三百里  飛(州)より江(州)へ至る五百里
汲水帰至瀬戸山  水を汲み瀬戸山に至り帰れば
聞父己終悲欲死  父※のすでに終るを聞き、悲しみ死せんと欲す   ※伝承では母。
覆其水處忽成渕  その水を覆す処、たちまち渕となり
千歳湛々湧無己  千歳、湛々と湧きてやまず
湧而不己深百尋  湧きてやまざる、深きこと百尋
水色與他諸渓異  水色は他の諸渓と異る
此人為上天所存  此の人、上天の存(と※)ふところとなり  ※とふ:訪。見舞ふ。
遂昇仙階去門原  遂に仙階を昇り門原を去る
乃謝村人吾雖去  すなはち村人に謝す、吾れ去るといへども
時遊山頭顧此村  時に山頭に遊びて此の村を顧る
遊時必有大石隕  遊ぶ時は必ず大石のおちるあり
以此為信莫相�浙  此をもって信となし、あい�浙(わす※) ることなかれ  ※わする:忘。
大石雖隕不傷物  大石のおちるといえども物は傷つけず
至今毎年如其言  今に至るも毎年その言のごとし
孝池水兮孝池水  孝池水、孝池水
玉醴金漿何足論  玉醴、金漿※、何ぞ論ずるに足りん  ※不老長寿の仙薬。
今人如欲寿千年  今人もし寿を千年欲するならば
先當至性感上天  まずまさに至性※を上天に感ぜしむべし  ※非常に善良な生れつき。
如何不孝求延寿  如何でか不孝にして延寿を求めん
故無一人能得仙  もとより一人としてよく仙を得るは無し

 又一首        また一首
孝仙[喬]跡碧潭深 孝仙[橋]の跡 碧潭深し
潭底之深孝子心  潭底の深きは孝子の心
天下誰家無父母  天下、誰が家か父母なからん
山中此處有霊潯  山中、此の処、霊潯※あり           ※潯:ふち。
[阜郷片�幗]徒衛古 阜郷、片潟、徒(いたづ)らに古へを衛る
石室瑤函不在今  石室の瑤函※、今在らず            ※ひとからの手紙。     
長使行人有感泣  長(とこし)へに行人をして感泣あらしむ
更添其涙水千尋  更にそれ涙水千尋を添へん
   孝伝湖水池  丙子仲冬望  文化十三年十一月十五日 尾張 泰鼎

孝池水 (所在 :下呂市下呂市瀬戸1-2 JR高山線焼石駅)
画像提供 :o.kumazaki 氏
参考文献 :国会図書館デジタルライブラリー
 『眞木佐久斐太乃山踏』 8/57,9/57 富田豊彦編,田島壮二郎校 (高山町:平瀬邦之助,明33.5 101p;19cm 和装)
 『飛騨山川』 81/294  岡村利平編 (高山町:住伊書店,明44.11 544p;23cm)
参考文献 :
『近世藩校に於ける学統学派の研究 上』笠井助治著 ; 吉川弘文館, 1969.3 655-656p
『東海の先賢群像』岩田隆著 ; 桜楓社, 1986.4 108-109p
『吉川幸次郎全集27』岩田隆著 ; 筑摩書房, 1986.4 「鈴舎私淑言」89-91p
『円陵随筆』天保12(1841)年、宮田敏(円陵)(1809-1870)著「秦鼎ハ行儀ノ人ニテ尊貴ノ人二対シテ失礼傲慢多カリシ、其ノ実ハ傲慢ヲ以テ諂諛セシ也・・・ 」


参考までに孝子ヶ池伝説のあらましを示します。

(この伝説になっている孝子ヶ池は、下呂市瀬戸地区の瀬戸水力発電所の隣、国道41号線沿いにあります)

・・・昔、南北朝時代の話でしょうか、これより上流の門原の里に、左近という身分賎しからざる人が母を大切に、孝養を尽していましたがその母がいつの日か病の床に臥して日頃の介抱も薬石の効もなく思いあまった左近が母に、いまわに臨んで欲しいものはないかと尋ねたところ「せめては生まれ故郷の琵琶湖の水が飲みたい」と答えました。左近はすぐさま近江の国へと急ぎ、湖水を竹筒に入れて、再び飛ぶようにもどってここまできたところ、既に母はこの世の人でなくなったことを聞き、前後も知らずその場に泣き伏し、歎き哀しみました。その時携えてきた竹筒が倒れて流れ出した水でできたのがこの孝子ヶ池となって残ったといわれます。そしてこの池の水は琵琶湖といつも同じ水色を保ち、いかなる旱(ひでり)にも涸れることなく、また傍らの益田川が大洪水になっても全く濁ることがないと伝えられています。

門原の神明神社には門原左近守が合祀され、背後に吃立する屏風岩山腹に左近が晩年こもったという岩窟があります。また、門原の鎌倉家には、尾張藩の藩校教授の経歴をもつ尾張秦鼎の筆による、文化13年(1816)の孝子ヶ池伝説書が保存されています。(参考資料:「飛騨・下呂通史・民俗」)

追記:病に伏すのは、母親とする話と父親とする話が伝わっているようです。