私の居住する地域の数キロ北に円空岩と呼ばれる史跡があります。この地域の旧家には、円空仏が何点か保存されていることから円空さんは、飛騨街道を歩きこのあたりの民家でお世話になったと思われます。以下に「下呂町の文化財」という冊子などを参考に紹介します。
円空岩は、国道41号線の下呂~金山間の門原区の深谷というところから山道へ入り1.7kmほど行き、石段を上ると山中に高さ約17m、横・奥行ともに約27mの巨岩が現れます。
大岩の下は、幅約2m、高さ約1m、畳三畳敷き程の岩陰の空洞になっています。円空がこの岩陰に寝泊りし多くの仏像を彫ったといわれ「円空岩」と呼ばれています。
大正の末頃までは円空仏も祀られ、村人の信仰を集めていたそうです。写真のように石碑が祀られ正月には、しめなわを張り酒肴を供えて手厚く祀られています。
かつては「木っ端が散在していた」との古老の話も口伝されています。
円空の逸話として「ある夜狼が近づいてきてそのヒゲが眠っている円空の頬にふれたが、無心の円空に狼は何の危害も加えることなく立ち去った」 とか「猟人が来るたびに猟犬が仏像を彫っている円空の体を舐めるので、それを嫌った円空は人知れず立ち去ってしまった」などの話が伝わっています。また、この岩屋を詠んだと言われる円空の歌が「飛騨の年輪」(熊原政男著、錦正社発行)に紹介されています。
『陰(かくれ)かの飛たの中山忍ふ草法の崖(いわや)の苔のむしろ』
(中山とは、この地域のことを言います)
円空岩へ上る途中には、深谷という地域を開墾した農民が刻んだ開拓の碑が残っています。年代は文政丁亥と刻んであり、1827年になります。右の像は、青面金剛でしょうか。
江戸時代、農民が百姓員として認められたことがいかに嬉しかったか碑文を読むと伝わってきます。内容は「郡守芝与市右衛門の命を蒙り、安西惣助入谷、開発の功により、百姓員に加えられ、感激の余り石に刻み、もって不朽に伝う」とあります。碑の裏には、建立者田口藤八、村役作右衛門、二村兵吉と刻んであります。