日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

人々に囲まれてしまう主

2022-10-30 13:27:15 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書6章34~40節】

 ヨハネによる福音書20章には、十字架の死から三日後に復活された主イエスと、弟子のトマスが話をしている場面が記されています。
弟子達が祈っているところに、復活の主が現れて「あなたがたに平和があるように」と告げられた。弟子たちは大喜びでしたが、その場面にトマスはいませんでした。ですから、私は信じないと言ったのです。この手で主の傷口を確認しなければ信じないと言ったのです。

 けれど、一週間後、再び弟子達のもとに、主イエスが現れてくださった。その時、トマスもおりました。主はトマスに話しかけました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
復活の主に出会ったトマスは、自分の思いが言葉にならずに「わたしの主、わたしの神よ」とやっとの思いで告げた場面は感動的でさえあります。
それから主はトマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 トマスは、まことに幸いだと思います。復活された主イエスと直接出会うことが出来ました。その喜びを胸に、また聖霊の力に満たされて、インドにまでも福音伝道に行ったと伝えらえています。
私たちにも、トマスが体験したように、復活された主イエスとの出会う体験があるのかどうか、きっと、それぞれにおありだと思います。ただ直接的に、復活の主に出会った方はおられないでしょう。それだけに主イエスが語られた「見ないのに信じる人は幸いである。」という御言葉は心に沁みるものがあると思います。

 けれど聖書は、見ないあるいは見えないので、信仰が揺らぐ人々が大勢いたとは記しません。むしろ、主イエスをその目で見ながら、信じ得ない人々が大勢いたことを記している、それが真実です。
今日の説教箇所、またこの礼拝を思いながら説教題を「人々に囲まれてしまう主」としました。主イエスは今多くの人々に囲まれています。なぜ、囲まれているかと言えば、話は6章の最初「五つのパンと二匹の魚」の話から始まります。主イエスは、僅かなパンと魚を用いて、男性だけで五千人、女性、子ども、年寄りを合わせれば、倍の一万人とも、それ以上とも言われる程の人々の空腹を満たし、人々は満腹しました。

 満腹した人々は、満腹と満足感の中で、このようなしるしを見せてくださる方なら「まさにこの方こそ、世に来られる預言者である。」と話し合い、主イエスを自分達の王としようと計画を立て、主を連れていこうという計画を立てたのでしょう。
 その動きを察知した主は、一人山の中に退かれ、弟子たちは夕方となっていましたが船に乗ってカファルナウムと呼ばれる町に向かったわけでありました。湖は夜、暗くなって荒れ始め、弟子達は苦労しましたが、その様子を御覧になった主イエスが水の上を歩いて弟子達の舟に近づき、彼らが主を舟に迎え入れましたら、船は目指す地、カファルナウムに到着しました。

 翌日となり、主イエスを王としようと計画していた人々を中心に、主イエスが山か下りてくるのを待っていたのでしょう。けれど、待っても主は現れません。見ると湖の岸辺にあったはずの舟も無くなっている状況から、既に湖の向こう岸に向かわれたかもしれないと、彼らも舟に乗り主イエスを追いかけて、そしてついにカファルナウムの会堂で主イエスを見つけたわけでありました。
そこで、主イエスは追いかけて来た人々に囲まれてしまうのです。囲まれて会話がなされる、会話を繰り返しはしませんが、主イエスは彼らに向かって語るりかけました。「朽ちる食べ物ではなく、永遠の命に至る食べ物の為に働きなさい。」、「神がお遣わしになった者を信じる事だ」、「神のパンは天から降る」そして「わたしが命のパンである」と繰り返し彼らに話されました。その意味はどれも同じ意味があって、あなたがたはこのわたしを信じなさい、命のパンである私を信じることだと繰り返し伝えたのです。何度も、繰り返し伝えているのです。

 なぜ何度も繰り返すのか、人々が主イエスを見ても信じていないからです。36節に「しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。」と主は言われました。彼らは昨日のパンと魚の出来事が忘れられない。あの満腹した喜びを再びと願いながらやって来て、主イエスを取り囲んでいる人々の目に、主イエスがおられるのに、誰も主を信じていないのです。なぜなのでしょうか。
人々の願いと、神の思いとが重なっていないからです。人々はどこまでもパンと魚を求め、主イエスは、あなたがたが本当に求めるべきものは、この私であり、私が命のパンだと伝えている、でも伝わらないのです。

 彼らが、舟に乗ってまで主の後を追いかけたのは、僅かなパンと魚から、皆が満たされ、満足して、この方をこそ自分達の王としたいと願ったからでした。この方をこの世の王とすれば、自分達は毎日満腹して満足するだろうと考えたからでした。それは主イエスを自分達が思い描いたように用いて、神を利用して自分達の要求を満たしたいという思いがどうしても先に立っているのです。
 
 けれど、主はそのような思いに決して乗ることなく、語り続けるのは、何度も申し上げますが、一つだけです。命のパンとしての主イエスを信じること、それこそがどんなに大切かと伝えているのです。人の欲望と神の願いとがぶつかっているとさえ言えるかもしれません。

 少し話は変わりますが、先週の木曜日、綾瀬ホームで、10月の中旬に天に召された方を覚えて記念の礼拝を執り行いました。2020年初頭から世界中にコロナ、パンデミックとなり世界が混乱しました。綾瀬ホームでも当然のことながら、大変神経を使って、外部から来る方の制限や、手指消毒、ワクチン、マスク、換気等、丁寧に行っておられた。その影響があったのか、あったと思いますが一年以上に亘ってどなたも召される方はおられませんでした。
 ですから、今回召された方は、ホームとしてもコロナ感染が始まって以来、初めてであったかもしれません。Aさんという男性の方が召されたのですが、Aさんを偲んでの礼拝でありました。頂いた資料を読みまして、元気で活発な方であって、皆から慕われた方であったとありました。私も写真を見まして、礼拝に参加されていた良く知っている方でありました。81年の御生涯でした。
 その紹介の最後に「老衰により召されました。」とありました。私はこの言葉を読んでですね、老衰という言葉は良いなというか、少し羨ましいなと思いました。
 
 記念の礼拝で少しその事について話をいたしました。私の父親は、「誤嚥性肺炎」と言われたけれど、実際は喉に食べ物を詰まらせてそのまま天に召されたこと。私の家内の父親は、90歳でしたが、お風呂で意識を失ってそのまま天に召されてしまったこと。ですから、家族や身内の側に何の準備も用意もないままに、天に召されてしまうことは良くある。入院しておられたAさんがどのような召され方であったのかよく分かりませんが、でも、老衰によりと記されています。きっと自然に、いつの間にか、そして時が満たされて静かに召されていかれたように思います。と話しました。

 そして、私たちはいつ、どのように召されるのか正直なところ全く分かりません。でも、そのことを恐れながら生きるのではなく、詩編23編に「主は羊飼い、わたしには何も欠けることはない。主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」とあるように、羊飼いである神様を信じて、過ごしていきましょう。と話を致しました。
 綾瀬ホームの皆さんが、静かに良く聞いてくださっていました。本当に良く聞いてくださっていました。きっとこの礼拝が、今はAさんのことを偲ぶ礼拝であるとしても、人を偲ぶ礼拝であるとしても、いつかは自分もまた偲ばれる礼拝が執り行われる。そういったことを私たちは想像することは中々出来ませんが、でも、何か特別な礼拝であると、それぞれの、気持ちの中で受け止めておられたのではないかと思いました。綾瀬ホームに限る訳でもなく、私たちの教会では、来週の礼拝が召天者記念礼拝となりますが、そのような特別な礼拝を執り行いつつ、私たちの命の主が誰であるのかを感じるのではないでしょうか。

 綾瀬ホーム、さがみ野ホームは皆さんがご存知のように、知的障害を持った方の、特に中、高齢の方々が共に生活されておられます。ですから説教するにも、幼稚園の子どもたちに対するように、やれば出来るとか、諦めないで励んでいきましょうといった内容の話はしないことはないですが、これまでの経験からしても、あまり受けが良くないように思います。受けが良くないと集中が切れてしまうことが良くあって、そこから気持ちを取り戻すのは中々大変だったりするのです。

 でも、どんな話をするにしても、静かになる魔法の言葉があって、それは、皆さんよ、神様はあなた方をどんなに大切に思っているか、どんなに必要としておられるか、どんなに大事な一人一人だと思っているか、あなたがたは神様の愛する大切な子どもだよと話しますと、シーンとなるのです。きっとそういう言葉を待っているのからだと思います。いつも待っているからだと思います。そして、何度聞いても嬉しいのです。
 もし、主イエスが、取り囲んでいる人々に対して、この私が、この私こそがあなたがたの命のパンだと告げた時に、彼らがしっかり受け止めて、静まり返り、主を信じる信仰が得られたとしたら、主イエスはどんなに喜んだことかとも思う。けれど、彼らは静まるどころではありませんでした。上手く理解できないのです。

 主イエスは「私が命のパンである」と話されました。サマリアの女に対しては「わたしが命の水である」といった風に話しかけました。私はこれまで、命のパン、命の水、という御言葉をどう理解すればよいのか、どう受け止めるのが良いのか、幾度も迷っていたように思います。
 けれど今回、改めて感じたのは命のパンとか、命の水という言葉よりも主イエスは「命」そのものなのだということです。

 この方は私たちの「命」そのものですよ。この方が私たちに命を与えてくださり、命を生かしてくださる方なのです。私たちは老衰で亡くなるかもしれません。突然に召されるかもしれません。分からないのです。でも、そこが問題ではなく、それまでの命をあなたはどう生きようとしているのかと問われ続けているのだと思うのです。

 そしてそれはそのまま私たちの信仰への問いとなり、私たちの教会の信仰への問いかけとなっていくのではないでしょうか。
 
 先日、ある牧師が奉仕している教会のパンフレットをいただきました。そのほとんど最初に、「私たちの教会は、エホバの証人、モルモン教、旧統一教会といった団体とは違い、正統的なプロテスタント教会です。」とありました。少しびっくりしました。
 確かにその通りだと思いますけれど、私は違和感がありました。昨今は、テレビ報道等でも、旧統一教会に対して厳しい対応をせよと総攻撃がされています。これまでの経緯から、当然のことだと思います。けれど、それでも違和感があります。
 それは、正統を自称する教会の働きが、この世に対して十分な働きをなすことが出来ないままであったから、正統でない組織がそこに付け込み、人々を誘惑し、騙し、人生を狂わせてしまっていたとしたら、私たち自身もまた神に対して大きな罪を負っているのではないかと思うことです。なぜ、正統な教会は、そのような罪を公に言い表さないのでしょうか。

 言い表さないとしても、だからこそ、私たちは主イエスこそ「命のパン」であり、私たちの「命」そのものであり、この方を見つめなければならないと宣べ伝えていかねばなりません。社会はこの世のパンを求め、この世の魚を求めます。この世の価値観で動き、この世の評価を求め、「鳩のようにさとく」生きて行くことが奨励されます。

 でも、教会はこの世に対して、主イエスこそ、この方こそ、私たちの命の根源であり、ここに平和の主がおられ、この方を通して神の思いが実現していくことを、私たちは私たちの信仰を言い表し、与えられた命を生きていきたいと思うものであります。                  

 お祈りします。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

命を与えるパン

2022-10-23 14:47:25 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書6章22~35節 】


 ヨハネによる福音書6章22節からの箇所を読んでいただきました。22節に「その翌日」とあります。
 
何の翌日かというと、6章1節から記されている、主イエスが五つのパンと二匹の魚によって5千人の人々のお腹を満たしたという奇跡を起こされた日の翌日となります。
 僅かなパンと魚から、食べて満腹となった人々はどう思ったかというと、6章14節、15節に「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て「まさにこの人こそ、世にこられる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」とありますように、満たされた人々は、主を王にしようとして集まって来たのでしょう。
 その様子を察知した主は、一人で山に向かいました。山に向かった様子を人々は見ていたかもしれません。
 一方、弟子たちは舟に乗って湖の向こう岸のカファルナウムという町に向かいます。その舟が荒れた湖の中を、一晩揺らされて過ごしていたところに、主が湖の上を歩いて来られ、舟に乗られて舟は目指す地に到着いたしました。

 それで、今日読まれました箇所となるのですが、パンと魚の奇跡を多くの人々が体験した「その翌日」、湖の向こう岸に残っていた群集が大勢いました。 

 何をしていたかというと主イエスが山から降りて来るのを待っていたと思われます。どのような算段で自分達の王とするか相談していたかもしれません。
 ところが、一晩待って朝になっても主が山から降りて来ないのです。もしかしたら見失ったかもしれないとなり、湖の岸に行ってみたら、そこに一そうしかなかった舟が無いのです。舟に乗ったのは主の弟子達であろうと推測出来たでしょう。となると、まだ主は山にいるかもしれない。でも、やって来ない。
 見失ったかと思っていたところに、小舟が数そうやって来た。既に主は山にいないかもしれないと思った人々は、その舟に乗り、カファルナウムまでやって来たわけでありました。
 彼らは前の日に起った出来事が忘れられません。でも、何が忘れられないかと言うと、僅かなパンと魚から主イエスが感謝の祈りを献げ、パンを裂き、魚を分け与えられたあの姿が忘れられない、ではなく自分達がパンと魚を食べて満腹したという出来事が忘れられないのです。
 
 私たちの人生を振り返っても、あの時は「満腹」だったという思い出をお持ちの方多いのではないでしょうか。私が子どもの頃、小学生だったと思いますが、ある方が何の用事なのか全くわかりませんが、家にやって来た、お土産が沢山の肉だったのです。その肉をその方が焼いてくださって、腹いっぱい食べたことを思い出します。
 私が高校生の時、既に社会に出ていた兄の所に行ったら、お寿司を取ってくれて、もう食べられないと思う程満腹したことを覚えています。腹いっぱいになった、満たされたという思いは忘れられないものです。
 
 主イエスによって、自分は腹いっぱい食べることが出来た。しかも自分達が汗水流して働いて得たパンでもなく、言ってみればこういう表現が適切かどうかわかりませんが、主イエスの「おごり」ですよ。全部主イエス持ちで、自分達はただ満腹になった。満たされたと思ったに違いない。出来ればもう一回、出来ればこれから度々こんなことが起こるとしたら、どんなに幸いであろうか。だから主を王としたい、と思ったのではないでしょうか。

 主イエスを追って、彼らはカファルナウムに到着して、その町の会堂で主イエスを見つけたわけでありました。「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」彼らは本当に不思議に思ったでしょう。舟は一そうしかなかった、主イエスは確かに山に向かわれた、弟子たちは舟に乗りすでに舟はなかったのです。
ならどうやって来たのか。主は「水の上を歩いて来た」とは答えませんでした。と言うより既に主は、彼らの思い、自分をこの世の王としようとする思い、あるいは再び満腹になりたいという思いをご存知でした。ですから「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」更に、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」と告げました。
 
 主イエスが話された言葉は、分かりづらい表現ですが、「朽ちる食べ物」は人々が求めているパンのことです。それに対比するようにして言われた「永遠の命に至る食べ物」は何かというと、色々言わずに答えを言えば、主イエス御自身です。
 つまり、主は、自分を信じることだ、そうすれば永遠の命に至る道筋に至るであろうと告げているのです。けれど聞いていた彼らは理解出来ません。
 
 「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われた、「働き」という言葉に反応して、彼らは「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と聞くわけです。ユダヤ人は律法を守る、それが信仰の基本ですから、どう行えば良いのか、どの行いが神の業を行うことになるのと聞いたのでしょう。

 主イエスは更に答えました。「神がお遣わしになった者を信じること。それが神の業である。」ここでも、主は神がお遣わしになった自分を信じること、何を行うのかではなく、わたしを信じなさいと教えました。

 すると、彼らは「わたしたちが見てあなたを信じることが出来るように、どんなしるしを行ってくださいますか。」と聞き返します。既に彼らはパンと魚というしるしを見ているのですが、それでもまだ足りないというのです。
 「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
 
 彼らは何を言っているかというと、旧約聖書、出エジプト記のマナの出来事です。モーセに導かれて、エジプトを脱出し、しかし40年の荒野の旅が強いられたイスラエルの民、その民の命を守ったのがマナという食べ物でした。出エジプト記16章に記されています。旅をするイスラエルの為に、夕方になると、うずらが飛んできて宿営を覆い、朝になると露が降りて、降りた露が蒸発すると、薄くて壊れやすいものが霜のように地表を覆っていました。モーセは「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである」と人々に話しました。
 イスラエルの民は、荒野の40年間、マナを食べて、命をつないだのです。そのようにしてモーセは40年間、しかも毎日マナを天から降らせてくださった。それによってイスラエルの男だけで60万人の人々が生きたのです。
主よ、あなたはまだ一回だけで、しかも、男だけで5千人、くらべものにならないでしょう。だからもっとしるしを見せて欲しい、そうなったら私たちは信じましょう。と話した訳です。この要求がどれだけわがままで、自分達が思うように主イエスを誘導しようと誘いかけていることが分かります。
 
 この誘いに乗って、主が「よしきた、それなら私はモーセに勝るしるしを示そう」などと言ってくれたら、彼らの思うつぼになるわけです。この箇所は人間がどこまでも欲深く、わがままで、自分勝手に生きていきたいと思うのか、が見えて来る箇所ではないでしょうか。
 
 主は誘いに乗ることなく、「はっきり言っておく。モーセが天からのパンを与えたのではなく、わたしの父が天からのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」と話されました。
 「はっきりいっておく」と言う言葉は26節にも記されていますが、新しい翻訳の聖書では「よくよく言っておく」と訳されていました。もともとの言葉は「アーメン、アーメン」です。
 アーメンは、その通りですという意味がありますと話しますけれど、ここでは、これから言うことは真理の言葉を話すとこうだ、と言った意味でありましょう。
 その真理の言葉は「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。」です。まことのパンとは何か、「神のパンは、天から降って来て、世に命を与える。」神のパンとは何か、ここで言われている、天の父が与えられるパン、天から降る神のパン、それは主イエス御自身の事です。
主は一貫して、私が永遠の命に至る食べ物であり、私を信じる事、それが神の業であり、私が天から降ってきた神のパンであると、告げているのです。
 
 彼らの求めは、どこまでも昨日食べたあのパンと魚なのです。そこから離れられないで会話しているものですから、どこまでいっても会話が成り立ちません。34節で「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」この言葉も、昨日食べたパンを思いながら、パンを求めているのでしょう。主は「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことない。」と話されました。この御言葉は主イエス御自身がご自身を現わしている御言葉です。私が天から来た、救い主であると伝えています。

 でも、人々は理解出来ないままです。けれど、そのような人々の姿を見て、私たちとは違うとどれだけ胸を張れるのでしょうか。どれだけ私たちは分かっていると言えるのでしょうか。
 
 私たちは生きていくために食べ物としてのパンを求めます。何よりも大切だと思います。生きていくためにそのパンを購入するお金が欲しいと思う。当然のことです。だから私たちは働かなければならないと考えます。主イエスはそのことを否定しているのではありません。だから空腹の五千人、一万人の人々に食べ物としてパンを与え、魚を分けてくださいました。人々は大いに喜びました。けれど、喜んでどうしようと考えたかと言えば、主イエスを自分達の王としようとした。そうなれば自分達が困ることは無いだろうと考えたからでしょう。
 けれど、主イエスは「あなたがたよ、あなたがたの罪はまさにそこにある」と告げたかったのではないでしょうか。人は飢え渇き、空腹の時は、パンを求めます。お腹が満たされたとすればどれだけの満足感が与えられるでしょうか。生涯忘れられない出来事となるかもしれない。
 
 けれど、お腹が満たされたら、次の欲求が出て来て、その欲求が満たされたら、更に次の欲求が出て来て、その繰り返しとなり、そこで忘れられることは、誰が自分達の主であり、自分達の神であるのかという真理です。
 ヨハネによる福音書において、主イエスは、御自身について明らかにされる時が度々あります。4章では、サマリアの女性との会話がありました。「わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。」言ってみれば「わたしが命の水である」ということでしょう。今日与えられた箇所は「わたしが命のパンである」と話されました。
 更に「わたしは世の光である」と話され、「わたしは良い羊飼いである」とも話されます。「わたしはまことのぶどうの木」とも話されました。
 神の真理は実に単純です。主イエスは単純な言葉でご自身を明らかにされました。子どもに分かるようにさえ話しておられます。けれど、人はこの単純な真理から離れ、この方を見失う時に、罪を犯すのかもしれません。
 私たちが洗礼を受ける時、私たちはキリストと共に死に、キリストと共に新しく生きる者となると教わります。その御言葉を信じてキリストと共に生きていこうと信じて洗礼を受けるのです。でも、いつの間にか、この世のパンに惑わされて、この世のパンのみを求めて、この世のパンを追い求めてしまう、そういう罪を生きているかもしれません。だからこそ、私たちは何度も何度も立ち返って、この方こそ、真のパンであり、この方によって命生かされ、今を生きていることを確認しながら生きていきましょう。

 お祈りします。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目指す地に着いた

2022-10-16 11:57:24 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書6章16~21節】


 ヨハネによる福音書を読んでいますが、先週から6章に入りまして、先週の礼拝では主イエスが「五千人に食べ物を与えられた」出来事を読みました。
 
 主イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、感謝の祈りを唱え、座っている人たちに分け与えられました。座っていた人たちはその数で男だけで五千人とあります。女性、子ども、年寄り、年寄りと言っても当時は40過ぎぐらいからは皆年寄りですから、私も完全に年寄りの部類に入るわけですが、そういった人たちを合わせて倍の一万人もの人々に分け与えてくださいました。
 でも、主イエスお一人が、一万人もの人たちを相手にするには大変です。ですから、登場するのが12人の弟子達となるわけで、彼らが主からパンを受け取り、人々に分け与え、そっちだ、こっちもだと忙しく働いたことでしょう。汗をかき、疲れ、でも弟子達にとって充実した良い働きであったと思います。
 
 パンと魚を受け取った人たちの笑顔を見ながら、弟子達も笑顔で、受け取った人たちも満腹した。残ったパンの屑を集めたら12の籠一杯でした。
 でも、それは残ったわけではなく、主イエスと共に働いた弟子達のお腹を満たすためにあえて取り残されたというよりは、取り分けられていた籠でありました。
 彼らは、主の奇跡に伴って働いた心の充実、更にしっかり食事を取って体も元気となり、忘れられない時間を共に過ごしたであろうと思われます。
 
 その後、満腹した人々は、この出来事を目の当たりにして、「まさにこの方こそ、世に来られる預言者である」と言い始めました。人々はちょっとした興奮状態となったのではないでしょうか。これまでこんな出来事は経験したことが無い。僅かなパンと魚で、これだけの人々が満腹した。これほどの体験はしたことがない。この方こそ、預言者か、あるいはそれ以上の方か、メシアが登場されたのか。高揚した思いで、主イエスを自分達の王とする話が持ち上がったのでしょう。
 人びとがざわめき始め、大勢が主のもとに向かって来たのかもしれません。
 
 主イエスの福音宣教は、この世の王となるための働きではありませんから、主はそのような動きを察知して、身を隠そうとされました。あるいは弟子達
と打ち合わせたかもしれない。主イエスは山に退かれ、弟子たちは湖に向かい、舟に乗り、後に向こう岸のカファルナウムで落ち合うという打ち合わせをしたのかもしれません。二手に分かれて、行動することになった訳でありました。

 パンと魚の給食の奇跡は昼の遅い時間でしたから、時は既に夕方となっていました。けれど弟子達は舟に乗りました。弟子の中にはペトロ、アンデレといった漁師を生業としていた人もいるわけで、決して素人ではありません。漁の為に夜に舟を出してもいたでしょう。ですから、それほど不安は無かっただろうと思います。
 しかし、いざ舟を出して漕ぎ進めていきますと、急に強い風が吹いてきて、湖が荒れ始めたわけでありました。「二十五ないし三十スタディオン」とありますが、凡そ岸から5キロ程離れた沖のようです。それは、行くにも行けない、戻るにも戻れない距離ということではないでしょうか。

 湖の舟の上での出来事は聖書にはもう一個所ありまして、舟に乗った、沖に漕ぎ出した、激しい嵐が起こった。舟が波に飲み込まれそうになった。主イエスは寝ていた。弟子たちは主を起こして「私たちはおぼれそうです」と訴えた。主は起き上がって、風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。弟子たちは驚いて、この方はどなたなのかと言い合った。この場面も、私たちは良く知っている訳ですが、でも、この場面と今日の場面の決定的な違いは、舟に主イエスがおられるのか、おられないのかという点でありましょう。
 
 主イエスはこの世においては、弟子達と共に働かれました。でも、今日読まれた場面では主はおられない。ただ今日の箇所は、溺れそうとか沈みそうといった緊急性は無かったようです。しかし、主が伴っておられない。しかも、長い時間行くにもいけない、戻るにも戻れないでいました。
 
 今日の聖書箇所の並行個所がマタイ14章22節に記されています。そこを読みますと「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子達のところに行かれた」とあります。夜が明ける頃です。英語の聖書には独特な書き方がされていまして、「forth watch」とありました。Forthですから四番目の時間という意味のようです。夜の午後6時から9時がfirst watch、9時から12時がsecond
Watch、12時から3時がthird watch 明け方の3時から6時がforth watchとなるそうです。ですから夜が明ける頃ですから、朝の3時から6時の時間にという意味になります。
 弟子たちは舟に乗って、湖に漕ぎ出したのが夜の6時だとすれば、すくなくとも舟の上に9時間はいたことになります。9時間の内、6,7時間は行くにいけない、戻るに戻れない。風は止むことなく、波は高く身動き出来ないのです。舟の上ですからね、そこから逃げ出すことも出来ないのです。
 更にそこに頼りの主イエスがおられない、それが今日の場面です。

 昨日、朝、シルバさんとチャマニさんご夫妻が故郷のスリランカに帰って行かれました。二人のお子さんが日本で安心して過ごすために、二人が帰ることによって滞在許可が降りて、日本で正式に働くことも出来るし、自分たちが生きていきたいように生きていける。その為にご両親は決心されました。これまで私たちの教会は、鈴木伸治先生を長として、シルバ家族支援委員会が中心となって、シルバさん家族を支援し、見守って来ました。私はその横で見ていただけのような者です。支援委員会の皆さんは、本当に親身になって関わっておられました。
 支援委員会の思いとしては、もっとずっと早くにこの事は解決するだろうと思っていました。日本政府が家族に対して日本の滞在許可を出してくれるだろうと考えていました。けれど、中々それが思うようにいかないのです。こちらが願うような方向が見られないのです。ですから、シルバさんご家族はどれ程苦労されたかと思います。思いますけれど、支援委員会の方々の辛抱もどれほどであったかと思います。今、一つの節目を迎えて、更に良い方向に、誰もが笑顔で喜びあえるようにと願いますし、これからも祈り続ける訳ですが、時として神様、なんとかなりませんかと願い、祈ったことであろうかと思います。傍で見ていた私でさえそう思う事しばしばでしたから、深く関わってくださった方々は、どれほどに神様に祈り、願ったことであろうかと思います。
 
 まさに行くにも行けない、戻るにも戻れない年月であったと言えるかもしれません。神様、あなたはこのことをどうお考えで、どう解決しようとされているのか、神様、あなたはこの場におられるのかと祈る思いさえあったかもしれません。でも、この事もまた主なる神のお考えがあったのだと受け止め直すことも大切でしょう。

 私たちの人生の中においても、行くにも行けない、戻るにも戻れない状況となる、そういったことはありませんという人はそんなにいないと思います。私たちは幾度か、あるいは幾度も、そういう経験をしているのではないでしょうか。そしてそれが長く続く、となると主よ、あなたはどこにおられるのかと、つい愚痴を言いたくなることもあるし、疲れも出て来るし、もはや諦めに近い思いで時間を過ごすこともあるかもしれない。
 
長い時間を舟で過ごさなければならなかった弟子達も、もはや諦めに近い思いであったかもしれません。でもね、主なる神はその様子をも確かに見ておられました。
 マルコによる福音書にも同じ平行箇所が記されていますが、そこには「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て」とあります。主イエスは山におられたわけですが、けれど、弟子達の様子をご存知でありました。
 主イエスはご存知であった。ご存知であったけれど、その様子をじっと見守っておられたのです。神は私たちを見捨てたり、見失ったりすることはありません。私たちがその状況において、神を見失いそうになるのです。けれど、あなたがたは待つことにおいて揺らぎがあってはならない、それが主なる神の思いではないでしょうか。
夜が明ける事、主イエスは湖の上を歩いて舟に近づいて来られました。なぜ、主は湖の上を歩けるのか。湖の上を歩けるのは日本の忍者とイエス様だけだとどこかの牧師が記していましたが、なぜ、歩けるのかに注目しても意味がありません。主は天地創造の神、全知全能の方ですから、歩くことも可能でしょう。
けれど、弟子たちは恐れました。勿論、そうでしょう。マルコでは幽霊だと思ったとも記されています。当時、舟の上で幽霊を見ると舟が沈むとも言われたそうですから、本当に恐ろしかったと思います。
でも、主なる神がどのようにして人と関わりを持って下さるのか、どのような方法を用いてくださるのか、それは人の思いを遥かに超えるものではないでしょうか。私たちにはどこまでも分からないかもしれません。
 主は「わたしだ、恐れることはない。」と言葉をかけられました。弟子たちはこの言葉を聞いて安心したでありましょう。主は私たちを見捨てられたわけではない。それどころか、私たちのところを目指して、水の上を歩いて来てくださった。主イエスの声を聞き、安心してイエスを舟に迎え入れようとした。すると、間もなく舟は目指す地に着いたわけでありました。

 五千人の人々にパンと魚を分け与えられた奇跡、この出来事は主イエスを中心として、弟子たちが共に働き、五千人、倍の一万人もの人々が体験した出来事でありました。今日読まれた、湖の舟の上で起こった奇跡、それは弟子達、しかも12人の弟子達だけが体験した出来事でありました。行くにも行けない、戻るにも戻れない、荒れる舟の上で揺れ続け、如何ともしがたい状況が、しかし、主イエスによって目指す地へと到着させてくださったのは主なる神であった。この出来後は弟子達にとって忘れがたい出来事であったと思います。

 これからの礼拝では、6章を読み進めて参りますが、主は暫くの間、人々に話をされる展開となっていきます。そこで「私が命のパンである」と告げられるわけですが、更に進みますと、「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」と話されたり、「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」と話されたりします。私たちは主の十字架と復活、又聖餐の業についての話をされていると分かりますが、聞いていた弟子達は驚いたことでしょう。6章66節には、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」と記されています。主の言葉に躓いて、主から離れた弟子達が多くいたのです。

 でも、その次に、主は十二人の弟子達に聞きました。「あなたがたも離れて行きたいか」十二弟子にね、あなたがたも離れて行くのかと聞いた訳です。その問いに、ペトロが代表して「主よ、わたしたちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と答えました。
 いいえ、主よ私たちはいつもあなたと共におりますと答えたわけでした。なぜ、そう答えることが出来たのか、パンと魚の奇跡だけでなく、今日のこの舟の奇跡、十二人の弟子達だけが経験した神との出会いがあったからであろうと思います。舟の奇跡を体験した故に信じ、知っているのです。
 
 彼らは、頭で信仰を考えたのではなく、理論で信仰を得たのではなく、体験によって信仰を得た一人一人でありました。理論で信仰を得た人は、もっと大きな理論が与えられるとそこに持って行かれます。ただ、体験によって信仰に導かれた人は、理論を軽んじるところがあります。だから、頭の中で沢山汗をかかなければならないと言われます。
 いずれにしてもその人、その人に神との出会いが備えられ、神との出会いによって、そのような体験が、揺るがない信仰へと導かれていくのでありましょう。
 神は、私たちの一人ひとり、それぞれの人生の中で出会ってくださり、「わたしだ、恐れることはない」と告げてくださいます。この御言葉を糧にして、私たちは私たちの目指す地をしっかりと確認して生きて参りましょう。

 お祈りします。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何倍もの祝福が与えられる

2022-10-09 14:08:23 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書6章1~15節】

 ヨハネによる福音書6章1節からの箇所を読んでいただきました。これまでヨハネによる福音書を読み続けてまいりましたが6章4節に「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた」とあります。これまで5章まで読んでまいりましたが、2章に記されていた、所謂主イエスの宮清めの出来事、エルサレムの神殿で、羊や牛を境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、台を倒して「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と告げられた場面、この場面も過越しの祭りの場面でした。
 
 その2章の場面から5章まで進み、今日の6章となって二度目の過越祭となります。三度目の過越祭で、主イエスは最後の晩餐、その後捕らえられ、裁判にかけられ、十字架に処せられます。そう思いますと主イエスの地上での宣教、その働きは真に短い働きでありました。しかし、主イエスと共に歩んだ弟子たちにとっては神の奇跡を目の当たりにし、メシアと共に過ごしたかけがえのない時間であったことをも思います。
 
 特に今日読まれました「五千人に食べ物を与える」というタイトルが付けられている出来事、そのタイトルの下には他の福音書との並行個所が記されている訳ですが、マタイにも、マルコにも、ルカにも同じ出来事が記されていることが分かります。
 
 先週の礼拝まで5章を読んで来ました。ベトザタの池の出来事が記されていましたが、そこには38年も歩けないでいた男が主イエスの「床を担いで歩きなさい」という言葉によって歩き出した、神の奇跡の出来事が記されていました。しかし、この奇跡の業はヨハネによる福音書のみで読むことが出来る箇所です。
 勿論、どの福音書にもそれぞれ特徴がありまして、その福音書でしか読めない特別な出来事や、あるいは主イエスの御言葉が記されていますけれど、逆に十字架と復活の場箇所を除くとして、四つの福音書が揃って、同じ出来事を記している場面はそれほど多くはありません。けれど主イエスが五千人の人々に魚とパンを分け与えた出来事は、四つの福音書全てに記されている、それにはきっと理由があっただろうと思います。
 どのような理由かというと、主イエスの業が行われ、その業を通して主の弟子たちが深く関わった出来事であったからではないかと思うのです。
 
 この聖書箇所を読み、また説教を考えるにあたって私は思い起こす出来事がありました。それは私たちの教会の出身教職であり、神学校を卒業してこの4月から横須賀上町教会で伝道、牧会されている杉野信一郎先生の教師の任職式が7月最後の31日に執り行われました。暑い日でありました。私は家内と共に出席いたしました。就任式の礼拝司式、説教者は神奈川教区議長でもある、横浜の蒔田教会牧師の古谷正仁先生でした。古谷先生は、その任職式で、ヨハネによる福音書6章1節からの箇所、すなわち今日読まれた聖書箇所を選ばれて話をされました。
そこで語られたことは、主イエスが祈り、五つのパンと二匹の魚を分け与え、人々が満腹した時に、主イエスが「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われ、集めてみるとパンの残りは12の籠が一杯になったという場面です。なぜ、12の籠一杯となったのか。主イエスは祈りながら、様子を御覧になりながら、思わず調子にのってパンと魚を出し過ぎたとか、残ったパンはどうしたとかも記されていません。私も、聖書を読み始めた頃にどうして12もの籠に残る程多くパンを裂いたのであろうかと思ったことがありました。

 けれど、古谷先生は、この12の籠は12人の弟子たちの為のパンが取り分けられていたのだと話されたわけでありました。そう話されながら、これから伝道牧会をされる杉野先生に対して、主イエスの働きに寄り添う弟子のような者となるようにと励ましの思いを込めてこの箇所を選ばれたのであろうと思いながら聞いていました。
ベトザタの池で38年もの間、歩けずに辛い生活をしていた男を癒された場面だけでもなく、読み進めていきますとヨハネによる福音書の11章では、主イエスの友であった三人の兄弟、姉妹のラザロの死の場面があります。ラザロが死んでしまった、けれど主イエスは、ベタニヤの彼らの家にやって来てラザロを生き返らす奇跡を成されます。これはヨハネによる福音書のみに記されている出来事です。
ルカによる福音書7章では、主イエスがナインという町に寄られた時、町の門に近づかれると、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところでありました。母親はやもめで町の人々が大勢そばに付き添っていました。主はこの母親を見て、憐れに思い「もう泣かなくともよい」と声をかけられて、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人が起き上がってものを言い始めた。人々は大預言者が現れたと大喜びしたという出来事が記されています。この話はルカによる福音書にのみ記されています。

 福音書には幾つか、主イエスの働きは、神様の働きですから、死人をよみがえらせたという出来事が記されています。病人が癒されたとか、目が見えない人が見えるようになった以上の死人の甦りの出来事、人々は驚き、たじろぎ、この方は一体何者なのであろうと震えるような思いで主イエスを見つめたであろう出来事でさえ、四つの福音書全てに記されているわけではありません。

 でも、五千人にパンと魚を分け与えた、この出来事を、弟子達が福音書を記すにあたって、どうしても書き記したかった、忘れられない出来事なのです。
何が忘れられないのか、主イエスは弟子たちと共に、山に登りました。しかし、大勢の群衆が後を追いました。主イエスの奇跡の業を見た人々でありました。主は大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、弟子のフィリポに言われました。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」すると、フィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう。」と答えたわけでした。
二百デナリオンですよ。一デナリオンが一日の労働の対価と言われます。仮に一日一万円すると二百デナリオンは二百万円となります。それだけあってもそこに集った人々が少しずつ分け合うほどだとフィリポは言ったわけです。更に弟子のアンデレは、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と主に告げたわけでした。
弟子たちはもはや如何ともしがたい、無理な相談、諦めの思いを抱いていました。

 けれど、主はそこから人々を座らせて、パンを取り、感謝の祈りを唱えてから座っている人々に分け与えられました。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられました。でも、その時座っているのは男だけで五千人ほどです。女、子ども、年寄り、合わせれば倍の一万人もいたかもしれません。その一人ひとりにパンと魚を渡すために12人の弟子たちはどれだけ頑張ったことでしょうか。渡しても、渡しても、まだ足りない。汗が出て、疲れが出て、足腰が痛くなったかもしれません。でも、その時、その疲れ以上に笑顔であったに違いないと私は思います。

 一人ひとりが食べ物を受け取り笑顔になる、食べて満腹して幸せになる。良かったなぁと思って弟子たちも笑顔になる。でも、それ以上の喜びです。それは主イエスがなされた奇跡の業が、主イエス一人によって完結するものではなく、いつもなら、主の奇跡は弟子をも含めた人々を驚かせ、そこに幸いをもたらすものであったとしても、主イエスの奇跡が完全であったのに、この五千人に食べ物を与える奇跡は、弟子達の活躍無しには成り立たなかっただろう、そういう出来事だったのだと思うのです。

 勿論、主イエスは弟子たち無しでも、人々を満腹にと思えば、そう出来たでしょう。けれど、この時、弟子たちは主イエスの働きに参加させていただき、喜びを分かち合い、笑顔を交わしながら神の福音の働きをその身をもって体験出来たと思います。だから、この出来事は、どの福音書にも記されているのだと思います。

 神の働きに自分もまた参加させていただいている。自分もまたその働きを担わせていただいている。そして人々が満腹したとき、主イエスは12の籠に一杯になるほどのパンと魚を弟子達の為に残しておられて、弟子たちは笑顔でパンと魚を食べたことでありましょう。
 
 今を生きる、現代の教会の働きもこのような働きでありたいと願います。

 2年以上に亘り世界中がコロナ禍となり、世界中では650万人以上の方が亡くなったと言われます。そのような最中に、ロシアがウクライナに侵攻し、既に半年以上に亘って戦闘状態が続き、その見通しは決して明るいものではありません。先週、北朝鮮はミサイルを何発も発射し、韓国、日本を威嚇し続けています。
 6章の1節を読みますと「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。」とあります。何気ない文ですが、ガリラヤ湖と記して、改めて、ティベリアス湖と書き直しました。ガリラヤは地域の名前ですが、ティベリアスとは、二代目のローマ皇帝の名前です。ガリラヤ湖のほとりに町が作られ、皇帝の名前を取って町の名前がティベリアスと名付けられました。それによりガリラヤ湖もティベリアス湖と呼ばれるようになったので、わざわざ書き直していると言われます。
 
 いつの世も、支配する側はその力でもって支配する地域を牛耳り、自分の思い通りにしたいと思う、それが人の思いではないでしょうか。それは今も、昔も変わらないのかもしれません。
 けれど、強大な力をもって世を支配していたローマ帝国も、ティベリアスの支配も、今となれば既にありません。
しかし、五つのパンと二匹の魚でもって、五千人の人々を満腹にし、笑顔と喜びをもたらした方の業は、昔も、今も、そしてこれからも読み継がれていくでありましょう。昔も、今も世界中の信仰を持つ者が、この世にあってこの方に希望をつないでいるのではないでしょうか。

 そのような力がこの方にある。この方を教会は示し続けて歩んでいます。この方の業に参加した弟子たちのように、そこに真の喜びを見いだした彼らのように、そして主の十字架の死と復活、聖霊降臨を体験して、この世のどのような権力によっても、消えることのなかった神の御力を信じて、この僅かな働きが信じられない程に大きくされて、多くの人々を満腹にして、笑顔をもたらした方を信じて、この新しい週も過ごして参りましょう。

お祈りします。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イエスを信じるためには

2022-10-02 12:27:30 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書5章41~47節】

 ヨハネによる福音書5章の最後の箇所を読んでいただきました。場面は主イエスを取り囲んで、ユダヤ人、ファリサイ派の人々が問い詰めている場面です。何を問い詰めているかというと、労働してはならない安息日に、あなたは労働した、なぜ安息日違反をしたのか、と問い詰めているわけです。
 
 安息日違反をするとどうなるのか、旧約聖書民数記15章には、一人の男が安息日に薪を拾い集めているところを見られて、見つけられた人はモーセとアロンの所に連れて来られるのです。この時モーセとアロンはどう対応すれば良いのか戸惑ったのですが、主なる神は「その男は必ず死刑に処せられる。石で打ち殺さなければならない」と伝え、石打の刑となったという話があります。
 この話は昔の話しだからと言うわけではありません。イエス様の時代も安息日の決まり事を破るとしたら命にかかわるといった事態も起こり得たでしょう。
 
 現代のイスラエルにおいても安息日は厳格に守られているようです。流石に命に関わるような場合は命を救うことが最優先となっているようですが、命に関わらない医療行為は制限付きで認められるとか、安息日は病人に薬を出すことも出来ないようです。それは医療行為であり、労働だからと言われます。非常に厳格です。
 今年の3月、イスラエルのベネット首相が、ロシアがウクライナを攻撃し始めてから数週間経った時に、ジェット機を飛ばしてプーチン氏に会いに行ったという出来事がありました。ロシアとウクライナの仲介の為の行動であったそうですけれど、何よりも人々が驚いた理由は、その日が安息日だったというのです。この行動は命を救うための行動であるという認識があったのだろうと言われているそうです。現代でも非常に厳格に守られていることが分かります。

 改めて元々主イエスがどのような安息日違反をされたのか振り返りますと、場面はエルサレムから少し離れたベトザタの池と呼ばれる場所があり、池の周りには多くの病人が集まっていました。池の水が動いた時に、最初に水の中に入った人は癒されるとい言われていたからです。そのようにして本当に癒されたかどうかは定かではありません。
 けれど、言い伝えでも、望みを置くしかない、辛い病を抱える人々が集まっていたのでしょう。そこに38年の間、病を抱え自由に動くことも出来ない男がいて、主イエスはその人に目を留められて「起き上がりなさい。床を担いで歩きない」と言われたわけでありました。
 すると、男は床を担いで歩き出しました。この時、38年間歩けないでいたわけですから、どれほどの喜びであったかと思います。
 
 床を担いで歩いている人を見た、ユダヤ人、ファリサイ派の人々が男に話しました。「今日は安息日だ、だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」男は、そうしろと言った人がいるからと言い訳をして、そう言った人は誰だという展開から、主イエスの周りをユダヤ人たちが取り囲むことになるのですが、ここで良く見てみると、主イエスはベトザタの池で、男に言葉を発しただけです。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」男はこの言葉を信じて起き上がろうとしました。すると起き上がれたのです。喜びに満ちて、これまで寝ていた床を担いで歩き出したのです。
 主イエスは、言葉で語り掛けただけですから、少なくとも違反となる医療行為をしていません。違反したのは男であって、けれど歩くことは問題ありません。
 
 問題は床なのです。床を担いだのです。床を担がなければ違反にはなりません。でも、担いで、そして歩いたのです。物を移動している労働と見なされて、注意を受けたわけでありました。
 主イエスが安息日違反をしたとすれば、「床を担いで歩きなさい」と言った言葉だけになります。そう言ったのが良くないとユダヤ人たちが主イエスのところへやって来て、「なぜ、そう言ったのか」と詰め寄ったのでしょう。

 主は「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と話されました。また、この言葉が火に油のように、ユダヤ人の人々の心をいら立たせたわけですが、主イエスは彼らに対して話し続け、御自分がなぜ主なる神を「わたしの父」と呼ぶことが出来るのか、なぜそのような権威があるのか、御自分について誰が証ししておられるのかを割合に長く話をされた場面へと続くことになります。

 その最後の箇所が先ほど読まれたわけですが、ここで主は何を話されているのかというと、42節「あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。」とあります。主イエスを取り囲んだ彼らは、ユダヤ人です。ですから自分達は生まれながらに神様に愛されている民族であるという自負心はあったでしょう。更に、恐らく主イエスを取り込んでいるのはファリサイと呼ばれる人々です。

 ルカによる福音書18章9節からの箇所で、主イエスは「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえを話されました。その時にファリサイ派の祈りはこうでした。
 「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」
ファリサイ派の祈りは、自分が神様に対して、いかに真剣に祈り、いかに律法を守り、いかに清貧な生活を続け、十分の一献金も捧げられる。そのような自分であることに感謝する祈りですから、一見見事な祈りだと思われますけれど、主イエスはファリサイ派の後ろで、祈った徴税人の祈りの方が、神様から義とされたと教えられました。徴税人の祈りは「神様、罪人のわたしを憐れんでください」という祈りでした。

 何がどう違うのか、主イエスは御自分を取り囲んだ人々に言いました。「あなたたちの内には神のへの愛がない。」神への愛が無いとは「あなたがたには信仰がない」と告げているようなものですよ。あなたがたに欠けているものがあると主は伝えているのです。何が欠けているのか。

 信仰を持つ者にとって大切な事、それは「私は罪人の一人です」という思いではないでしょうか。私たちは信仰を持ってこの教会に集っています。主なる神を信じてこの場に集まり礼拝を献げています。神の愛を知っている者としての歩みを生きていると言っても良いでしょう。
 それならあなたの信仰とはどういうものかと問われるとしたらどうでしょうか。中々明確に答えることが出来ないかもしれません。でも、私はこう思います。信仰者とは「神の愛を受けるに値しない者が、受けていると知っている」人である。私たちは神の愛を受けるに値しない者です。神様を相手にして私たちは何を誇りますか。私は奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではありません。と誇りますか。
週に二度断食していますと誇りますか、全収入の十分の一を献金していますと誇りますか。誰も誇れませんよ。

 今日は10月最初の礼拝ですが、10月の末は宗教改革記念日となります。宗教改革の中心的な人物はドイツのルターという人です。ルターは当時の教会の教えに疑問を持ち、悩み、悩んだ末に「ただ信仰のみ」という信仰へと導かれました。
自分に何が出来るとか、何が出来ないとかではなく、圧倒的な神の恵み、この受けるに値しない自分でさえも神の愛が与えられている、だから「ただ信仰のみ」だと唱え、多くの人々の心が揺さぶられ、教会が大きく変化する契機となりました。

 私たちは神の前にあって罪人の一人でしかありません。でも、今主イエスを取り囲んでいるユダヤ人、ファリサイ派の人々よ、「あなたがたに神への愛がないことを私は知っている」と主イエスは話しました。「わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。」と告げました。

 なぜ受け入れないのか。自分達こそ神様について良く知っていると思っていたからです。自分達は生まれながらのユダヤ人であり、神の民としての割礼を受け、神の律法を学び、律法を教え人々を導いている、律法を守り、不正を犯さず、徴税人のようでもなく、断食している。自分達こそが神様に近い場所にいると思い、誇りとしていたのではないでしょうか。そして、その自分達の目に叶わない者こそが罪人であり、罰するに値すると思っていたことでしょう。

 彼らの価値観からすれば、イエスという男は、罰するに値するとなるのです。それはあたかも自分達が神のようになっているかのような姿でしょう。

 ロシアのプーチン氏は、先日、暴力によって略奪した土地、地域を住民投票によってロシアの領土とすると宣言しました。私はロシア語がわかりませんが、テロップに流れていたのは、「領土とすることを認める」と話したようです。「認める」とは、最終的には認めるのか、認めないのかの判断は自分にあるということでしょう。恐ろしい人だと思います。時代が移り変わるとしても、どの時代にあっても、自らを神のように振舞う人間が現れる時、この世に大きな罪と悲しみをもたらすのではないでしょうか。

 「罪とは神と人との間に立ちはだかる断熱材のようなもの」と教えて下さった方がいました。断熱材は外と内との間にあって、私たちが快適に過ごせるようにと考えらえた素材でしょう。でも、神様と私たちの間に立ちはだかるものがあってはなりません。私たちの誇りや、プライドが立ちはだかってはなりません。私たちが神のようになってはなりません。私たちと神様との間に立ちはだかる様々な物、一言でいえば罪を取り除くために、主イエスはこの地上に誕生されました。そして十字架の死によって私たちの罪を赦し、神の民としてくださいました。そのようにして値無しの私たちを価値ありとしてくださいました。この方を見失わないように私たちはこの10月も一緒に生きてまいりましょう。

 今日は、これから転入会式を執り行います。一人の姉妹が私たちの信仰の群れに加わってくださる。大きな喜びです。大塚平安教会が主の御旨に叶う教会として益々祝福されますように願い、また主の前に謙遜に、また感謝して過ごしていきましょう。 
 お祈りします。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする