日本キリスト教団 大塚平安教会 

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霊と真理を持っておこなう

2022-08-14 11:49:46 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書4章16~26節】

 先週は大塚平安教会の創立記念礼拝、鈴木伸治先生をお招きし、鈴木羊子さんが奏楽を担ってくださいました。多くの方々もお出でいただき、私自身も思い出深い礼拝となりました。コロナ感染拡大が伝えられる中での礼拝、多くの方々が来られるだろう、幾らか混乱があるのではと、心配しておりましたが無事に執り行われまして感謝な一時でした。
 それから一週間、今日は8月14日の主日礼拝となりました。私たちの国は、この時期はお盆の時期となります。私たちの国はクリスマスには皆がクリスチャンのようになりますが、お正月とお盆は皆が仏教徒のようになるのかもしれません。日本の文化、伝統でもありますから、教会は少々肩身が狭い思いをする時期でもあります。

 とはいえ、私も子供の頃、親と共に住んでいた時にはお盆という季節を楽しみにしておりました。その時期は家族でお墓参りに行き、家には大きな祭壇が作られました。父親は祭壇の前で経を読んでいる、そのような習慣を頭でといより、体で、毎年の慣わしとして、今でも心に沁みついていると感じます。お盆といいますと、先祖との交わりを思わされます。

 お盆と関わりは無いと思いますが、5年程前に「リメンバーミー」というアニメの映画がありました。アメリカの映画です。年に一度先祖が帰って来る「死者の日」というのがあるのです。死者の国では、先祖が自分の家に戻っていくことが出来る、生きている者も、死んだ者も皆、この日を楽しみにしているのです。
けれど自分の家に戻るためには空港の税関のような場所を通らなければなりません。そこで許可された者だけが家に帰ることが出来るのです。
 許可の条件は、家族が先祖の写真を家に飾っているかどうか、飾っているなら帰宅でき、飾っていないと許可が降りないのです。なぜか、家族がその人を忘れているからです。忘れられている家に帰ることは出来ません。家族から次第に忘れられ、帰られない人たちは、更に死者の国のその先に、ある本当の死者の国へと移動していくことになる、そのような場面がありました。作品としては非常に優れた良い映画でした。見終わった後に、家族の交わりについて深く考えさせられる思いがしました。アメリカ映画ですから、お盆ではなく、むしろ「聖徒の日」、「召天者記念礼拝」と関わりがあるかもしれません。

 私たちは、夏のこの時期だからでもなく、「召天者記念礼拝」だからでもなく、いつのどの時期においても、生きていても、召された後も、人と人との深い交わりを求めます。なぜそう願うのか、人は一人では生きていけないからです。一人では「渇き」を覚えるからです。喉が渇くように、心が渇くのです。
今日はヨハネによる福音書4章16節からを読んでいただきましたが、この箇所に登場するサマリアの女性、この女性も心の深い渇きを感じながら生きていた一人であったと思います。

 主イエスと弟子たちが、エルサレムからガリラヤに戻る途中、あえてサマリア地方を通り、シカルという町に来られた時、主イエスは、旅の疲れを取るためにヤコブの井戸と呼ばれる井戸の側で休んでおられました。正午頃のことです。
そこにサマリアの一人の女性が水を汲みにやって来ました。主はその女性に「水を飲ませてください」と声をかけた場面です。そこからサマリアの女性と主イエスの会話がはじまります。
主イエスは会話の中で「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と話しました。女は「主よ、渇くことがないように、その水をください。」と応えます。

 今日は、その場面の次4章16節からを読んでいただきましたが、主イエスは既に、この女の渇きの原因を見抜いていました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」 女は「わたしには夫はいません」と答え、主は「まさにその通りだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」と話しかけます。
この女性の人生の渇きの原因は、まさにこのことであったと思います。これまで夫が何人もいたことです。人は人生の渇きを感じるとどうするのか、人生の渇きを覚える時、一時を忘れるためには、例えばアルコールを飲みます。飲んでいる一時だけは渇きが潤されたかのように感じたりします。例えば、お盆の時期のように家に帰省する、旅行する。そのような日常から離れ、場所を変え、家族と会い、久しぶりの友と再会する。人と人との愛情を確かめ合う時でもあります。渇きが潤され、疲れた心を取り戻されて、随分と元気になります。さあ、前向きに生きていこうと張り切ることにもなるでしょう。
 
 でも、アルコールの力は数時間ですし、旅行や帰省も一月は持たないかもしれません。必ず限界がやって来て、必ずまた渇くのです。
でも、夫婦の愛情はどうでしょうか。妻と夫が深い信頼関係を持って、愛情を確かめ合いながら、困難な状況でも二人なら乗り越えていける、この人とならと結婚したかもしれません。
けれど、その結婚が上手くいかず離婚となる、しかし、又愛情を求めて結婚、しかし、離婚を繰り返してしまっていたこの女性、人生の渇きをどれほど感じていたかと思います。

 人としての、人生の渇きが癒されるためには、人にそれを求めても、無理なのだと思います。そうではなく、霊的な癒し、私たちの作り主なる神を知り、主イエスキリストの「渇くことのない、こんこんと心の中に、湧き上がってくる命の水」があることを知ることです。主イエスの愛を知り、その愛に包まれることが求められます。

 神の力に包まれて、具体的な「渇き」であるところの、この女の人生に、主イエスは見事に切り込んでいきました。けれど、女性はこう返しました。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
 主が言われた具体的で、どう解決し、どう受け入れていくべきかの問題については、女は一切触れませんでした。なぜ触れなかったのか、これまでの五人の夫と今連れ添っている男について、この女にとって最大の解決するべき課題でありながら、この解決のためには、同時に自らの「罪」について向き合わなければなりません。女はその問題を話したいとは思わなかったのでしょう。
 
 教会には時々、色々な方が訪ねて来られます。相談があって教会に来ましたという方がいます。例えば経済的な問題で困っている。仕事が無くて悩んでいる。住む家がなくて捜している。例えばですが、そういった相談が年に数回はあります。
 そのような時に、相談を受けた者が、具体的な解決策を考えたほうが良いのか、そうでない方が良いのか迷う時があります。家が無いと言われたら、一緒に不動産屋に行きましょうとか、仕事が無いと言われたら、一緒にハローワーク行きましょう。と言うことも時として必要でしょう。でも、教会に相談に来た人たちは、そんなことは言われなくても最初から分かっている場合がほとんどです。
なぜなら、そのように同じように家族から言われ、友達からも言われ、知り合いからも言われているからです。つまり、その人の「罪」を指摘され、「罪」を指摘され続けているのです。
 旧約聖書のヨブ記があります。家族を失い、財産を失い、自らが病気となって嘆き悲しんでいる所に、三人の友達が慰めにやって来ました。最初は慰めていたのに、いつのまにか、ヨブよ、あなたに「罪」があるから悔い改めよと、何度も言うようになります。ヨブはそんなことは聞きたくないのです。人から言われたくないのです。そのようにして、人は「罪」を指摘されたいのではありません。

それなら、相談に来た人は、分かっているのになぜ教会に来たのか、それは解決策を求めに来たのではなく、人生の渇きをいやすその人の内で泉となる水を求めに来たのです。そのことに気が付かなければなりません。先輩の牧師によく言われたことでもあります。
 
 そう考えますと、主イエスの対応は真に見事な対応でした。この女は具体的な解決を主に求めたわけではありません。主の言葉を聞き、「イエス様、イエス様の言う通りです。なんだかんだあったけど、私がバカでしたとか、私が軽率でした。」と答えたとしたら、話は大きく違っていたでしょう。けれど、この女にも、まだ意地があったと思いますし、必死の、しかし、僅かばかりの抵抗だったかもしれません。

 主の言葉に一切応えず「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。私どもの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」と応えました。サマリア人の信仰では、旧約聖書の預言者と言えばモーセ1人です。そして、その後に預言者が登場するとしたら、それは「救い主」、「メシア」であるという教えでありました。女は必至の抵抗を示しつつも、主イエスをこの方こそ、預言者、すなわち救い主ではないかという思いも湧き上がっていたことが分かります。
 渇くことのない水、永遠の命に至る水を与えられる方がいるとしたら、その方がまさにそうではないだろうかと考えたのでしょう。それ故にそのような方を礼拝する場所はどこですかと尋ねたわけでありました。
主は「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」と告げつつ23節で「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」と話されました。

 「霊と真理を持って礼拝」する時、それはサマリアの人々が礼拝していたゲリジム山と呼ばれる山でもなく、ユダヤ人が礼拝するエルサレムの神殿でもない、つまり場所の問題でもなく、どのような順番でどのような仕方でといった事でもなく、
全く新しい教えとして、「霊と真理をもって礼拝」する時がやってくるのだと言うのです。
 形や儀式が美しく整えられている礼拝、讃美歌や素敵な音楽が流れている礼拝、そのような礼拝も極めて大切です。でも、今ここで主は見える形の礼拝について告げているわけではありません。

「霊と真理を持って」それは、主イエスこそ私たちの救い主、この方こそ、私たちのメシアであり、この方によって、私の渇きは癒され、どんな状況においても尚希望がある、と信じられる者が集う礼拝を意味するのでしょう。
更に自らの「罪」を知り、神の御前に恐れ戦く者が集う礼拝であり、尚、神の赦しに招かれていることに喜びをもって受け入れている者が集う礼拝です。すなわち、今、この礼拝も、またそうであると私は信じます。
 
女は「キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。」と告げ、主は「それは、あなたと話をしているこのわたしである」と応えました。
 主イエスこそ、キリストと呼ばれるメシアである。それが私たちの信仰の姿です。
 この方に、命与えられ、命生かされ、永遠の命に至る水を受けて、私たちは今日もこの礼拝に集いました。
 詩編51編19節に「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。」とあります。私たちは主の前に、打ち砕かれつつ、しかし、尚立ち上がれる勇気をいただきながら、8月のこの週も神の力を得て、歩んで参りましょう。

お祈りします。
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