日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

渇かない生き方を求めて

2022-07-31 11:55:41 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書4章1~15節】

 礼拝においてヨハネによる福音書を読み続けています。今日の礼拝から4章となりました。「イエスとサマリアの女」というタイトルが付けられた箇所です。
 
 3章では、エルサレムを離れた主イエスが弟子たちと共にヨルダン川で「新しく生まれるため」の洗礼を授けていました。一方においては、バブテスマのヨハネも人々に「悔い改め」の洗礼を授けていました。

 主イエスは、バプテスマのヨハネから洗礼を受けていますから、いわば師匠と弟子といった関係です。ですからそれぞれに洗礼を授けていたとしても、その意味においては大きな違いは無かったかもしれません。けれど、人々は次第に主イエスの洗礼の場所に集まるようになっていきました。なぜか都言えば、違いは一つです。3章31節にありますようにバブテスマのヨハネは「地に属する者」であり、主イエスは「天から来られた方」だからです。
 ヨハネはそのことを知っていました。しかし、そのことさえ喜んでいました。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」3章30節に記されています。

 けれど、4章に入り、そのような主イエスのもとに多くの人々が集まって来ているという状況であると、ファリサイ派の人々の耳に入ったとあります。
 バプテスマのヨハネの「悔い改め」の洗礼も、主イエスの「新しく生まれる」ための洗礼も、もともとユダヤ人にとって必要としない洗礼でありました。
 ユダヤ人は神の民であり、自分達には神の律法が与えられ、男性は割礼を受けている。それは神の民としての誇りであり、プライドとなっていました。
 ですから、ヨハネの働きも、主イエスの福音宣教も既存のユダヤ教に対する、宗教改革といった色彩が強いものであったと思います。
 
 主イエスの働きが、注目され盛んになるにつれて、ファリサイ派の人々が妨害して、止めさせようとしたのかもしれません。この時に、実はバブテスマのヨハネは、ヘロデのほうは兵隊によって逮捕され牢に入れられたのだと考えることも出来ます。
 
 主イエスも自らの危険を察知したかもしれません。一旦ユダヤを去り、御自分の故郷であるガリラヤに戻ろうとしたのだろうと思われます。
 
 ユダヤからガリラヤに向かう、その途中にサマリアと呼ばれる地域がありました。地図を見ることはしませんが、北にガリラヤ地方があってそこにガリラヤ湖があります。その下の地域がサマリア地方です。その下にエルサレムがあるユダヤ地方となります。ガリラヤの人々は、エルサレムに向かうには通常サマリア地方を通らないで迂回してエルサレムに向かいました。サマリアの人々もエルサレムに向かうガリラヤの人々を通さなかったと言われます。なぜかといえば、ユダヤ人とサマリア人は互いに仲が悪く、特にユダヤ人からみれば、サマリア人は軽蔑の対象でもありました。
 
 その歴史は古く、ソロモン王の後継者争いの時代にまで遡ることが出来ます。ソロモン王の後継者の争いが激しくなり、結果的に国が二つに分かれて、北イスラエルと南ユダに分かれてしまいます。紀元前930年後の話です。分かれてからは、南ユダはエルサレムの神殿で礼拝し、北イスラエルはエルサレムに行かせないために、新しくダンとベテルに神殿を作り、金の子牛を置いてそこで偶像礼拝のようにして神を崇める礼拝をしていました。
 それだけでも、南ユダからすれば軽蔑の対象となるのですが、その後も度重なる戦争によって北イスラエルの土地に色々な民族、人種が住むようになり、いわばユダヤ人としての純粋性が失われていくことになります。
 
 同じ歴史を辿り、同じ神を信じていたはずなのに、様々な出来事によって少しずつ違う状況、環境が与えられていく、それは良いとか悪いということよりも、近しいだけにその違いが非常に気になり、気になることとは気に入らないことなのです。

 いつの間にか差別、軽蔑、憎しみの対象となっていく、ロシアがウクライナに侵攻した経緯も、互いが極めて近しい関係であった故であったと言われていますが、韓国と北朝鮮の関係もまた近しさ故の問題があるのかもしれません。

 ガリラヤの人々が神殿のあるエルサレムに向かうには、サマリアを通るのが一番の近道ですが、わざわざ迂回したようです。サマリアも自分達の土地を通過させなかった、けれど、通過させる場合もありました。それは逆のルート、エルサレムからガリラヤに戻るのであれば、サマリアを通ってもよろしいとなっていたそうです。
 ですから、主イエスと、弟子たちがサマリアを通れたのは、エルサレムからガリラヤに帰ろうとしていたからです。状況的には急ぎの旅でした。けれど、また主イエスは意図してサマリアを通ったと考えることも出来るでしょう。
 どのような意図があったのか、それが今日読まれた「サマリアの女」との出会いと会話に現れてくるわけです。
 
 主イエスは旅に疲れてそのまま井戸のそばに座っておられました。正午ごろのこととあります。今、私たちの国は真夏の暑さを経験しています。イスラエルは基本的には私たちの国より暑い国です。正午ごろ、最も日の光が高い、大分暑い時間帯です。
 そこに一人のサマリアの女が井戸に水を汲みにやって来ました。水汲みの仕事は朝一番の、涼しい時間に行う仕事でした。そうでなければその日一日が始まりません。ですから正午頃に水を汲みに来る、それにはこの女性なりの理由がありました。

 その理由については、次回の礼拝に回しますけれど、人と接したくなかったのだろうと思います。主イエスは水を汲みにきた女性をじっと見つめていたのでしょう。そして何をどう思ったか、突然声をかけました。「水を飲ませてください」この言葉はいわば驚きの言葉です。
 人と接することを嫌がっていた女性が、人と接しなければならない状況となった、女性にとって、それだけでも十分な驚きだと思います。けれど、それ以上の意味を持つ驚きの言葉です。
 一つは、当時の習慣として公の場で、男性から女性に声をかけることはありえないことでした。二つ目に、聖書に記されているように、ユダヤ人はサマリア人と交際しませんでした。一説では、互いに目を合わせることさえしないようにしたと言われます。
 交際と言う言葉は、同調する、共有するという意味にも取れます。女性は「主よ、あなたはくむ物をお持ちではないし、井戸は深いのです」と話しています。ユダヤ人とサマリア人が同じ器を用いて水を飲む、これもまたあり得ないことでした。
 
 三つ目に、主イエスがサマリアの女性に対して、「水を飲ませてください」と願いました。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていました。この場合、大切なのは「買う」ことです。つまり、買うことによってサマリア人から負い目を受けないようにしていたのです。けれど、主イエスはサマリアの女性に願いました。謙り、自ら負い目を受ける立場となったと言えるでしょう。

 「水を飲ませてください」という言葉は、当時のイスラエルの人種的、宗教的、社会的に立ちはだかって壁を乗り越える言葉でもありました。女性からすれば、何重にも亘って信じられない言葉、大きな驚きであったと思います。
 
 なぜ、主イエスが「水を飲ませてください」と願ったのか、主イエスは喉が渇いていた、これは勿論その通りでしょう。けれど、主イエスの眼差しが私たちに伝えていることは、サマリアの女性が生きて来た中で、何度も人生の渇きを感じ、生きる希望を失い、そしてとうとう人目を避けて昼に水を汲みに来るようになった、そのような生き方に、潤いを与え、生きた水を与えたいと願ったからでありましょう。
 生きた水とは、停滞していないという意味です。いつも動いている水です。泉のように湧き出て流れていく、そのような動き続ける水を意味しています。
 
 女性は、主イエスとの会話を通して、当初、この男は一体だれだろうと思っていたでしょう。けれど話せば話すほどに、自分自身の心の内にあった渇き、これまで誰も癒してくれることが無かった渇き、潤うことのなかった思いが満たされて行く感覚を感じていたのではないでしょうか。
 今日は15節までで区切りましたが、次の礼拝では16節以降を読む予定です。そこにはこの女性がこれまで5人の夫がいて、今、連れ添っているのは夫ではないと記されています。なぜ、そうなったのか、誰が悪いのか、誰に責任があるのか、何も分かりません。けれど、女性の人生が乾ききっていたことは間違いありません。

 その渇きに神の潤いを与えようと、主「水を飲ませてください」と願ったのでしょう。そして、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と女性に語り掛けるのです。
 永遠の命に至る水、それは主イエスをメシア、救い主と知ることです。人間は、人生の渇きを感じる時に、自分がいかに小さい者であるかを感じます。夜空を見上げて、星を見つめながら、人はどんなに小さな者であるかを感ぜずにはおられません。人はなぜ生れ、どこに向かって生きていこうとしているのか、そのように思う時、案外、人生の空しさを感じているような時ではないでしょうか。
 しかし、神を知り、主イエス・キリストを知ると、渇きが癒され、生きた水が心に流れてくるのです。
 
 今、教会では、毎週火曜日に英会話教室を開いています。教会員のTさんが英語の先生ですから英会話を教えてくださいます。小さい教室です。中学生レベルの英会話ですから予習もいりませんし、楽しいだけの時間です。
 
 Tさんは現在の学校制度の中で、どれほどの学生が英語の授業で落ちこぼれてしまっているかいつも嘆いておられます。本当に分かっていない学生が多いと話してくださいます。なるほどと聞いていますけれど、実際、私自身、中学、高校と全くの落ちこぼれの学生でした。特に英語は酷かった。だからTさんが話される意味を私は良く分かります。
 
 私が英語を勉強し始めたのは、聖書を読んでからのことでした。聖書を読み、私も神様から愛されていることを知り、恐れるなという言葉に励まされて、一人で英語の勉強を始めました。塾に行くお金もなく、でもなんとかしたいと考えてバイト先でもそのような勉強が出来る仕事に就きました。そのようにして2年、3年と殆ど毎日必死に勉強し続けました。NHKのラジオが先生でした。既にその頃、出来れば牧師なる学校に入りたいという目標を持っていましたから、必死でした。必死でしたけれど今から思えば、あの頃は本当に楽しかったとも思います。
 
 なぜ楽しかったのか、心が潤っていたからです。渇いた心に主イエス・キリストが渇く事の無い水を与えてくださり、貧しくても、食べるものが無くても、何も無くても楽しいなぁと感じていました。そして、その楽しさは、今も少しも衰えることはありませんし、生涯衰えることは無いであろうと思っています。
 
 主イエスは「私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と教えておられます。私たちは、主イエスが与えてくださる水をしっかりといただきましょう。人生の歩みを潤す神の水をしっかりと受け止めて、私たちは生きていきましょう。

お祈りします。
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委ねる勇気

2022-07-24 14:00:17 | 礼拝説教
【サムエル記上1章21~28節】
【ヨハネによる福音書3章31~36】

 2022年度になりまして、4月から礼拝ではヨハネによる福音書を読み始めました。あまり急がないように読み進めていきたいと考えていますが、今日与えられた聖書箇所は、これまで読んで来ましたヨハネによる福音書3章までの一つのまとめとして記されたであろうと思われる箇所です。
 
 主イエスはバブテスマのヨハネからヨルダン川で洗礼を受け、その後弟子たちを招き、最初のしるしを起こされたカナでの婚礼に出席されます。その婚礼の席で、ワインが足りなくなり、水がめの水をワインに変えてくださいました。
 
 その後、ユダヤ人の過越しの祭りが近づいてきたので、祭りを守るために弟子達と共にエルサレムに向かわれます。エルサレムに到着して、神殿に入られると境内で牛や羊や鳩を売っている者あり、座って両替している者の姿あり、その様子を御覧になると、縄で鞭を作って、牛、羊を追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒しました。「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と告げられました。主イエスが怒りを持って事に当たられる数少ない箇所の一つです。
 
 更に、主は、過越しの祭りの間、エルサレムにおられましたが、その間に、主のなさったしるしを見て、多くの人々がイエスの名を信じたとあります。
 その名を信じた一人でありましょう。ある夜、ファリサイ派であり、議員でもあり人々から信頼を受けていたと思われるニコデモが主のもとにやって来ました。主イエスはニコデモに「あなたは、新たに生まれなければ」と告げるのですが、ニコデモは最後までその意味を捉えきれないで帰ったかもしれません。
 
 祭が終わり、エルサレムから離れた主イエスは、ヨルダン川のほとりにおいて、弟子達と共に人々に対して洗礼を授け、時を同じくして、バブテスマのヨハネもまた、ヨルダン川で洗礼を授けていました。
この場面は先週の礼拝で話を致しましたが、バブテスマのヨハネのもとにやって来たあるユダヤ人たちと、バブテスマのヨハネの弟子たちとの間で論争が起こり、それがきっかけとなって、ヨハネは弟子たちに話し始めます。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」その意味は主イエスこそ、天から与えられた方であり、私ではない。ということです。続けてヨハネは、天から与えられた方を知る私は、喜びで満たされている。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」と告げるのです。
あの方とは主イエスであり、主イエスが栄え、そして私は衰えねばならない。バプテスマのヨハネは、ここで私はこれまで人々から好まれ人気があったが、これからは主イエスのもとへ人々がいくだろう、そういう意味において「私は、フェードアウトするように、消えていくように衰えていく」と言ったようにも取れますが、大切なところは、今日読んでいただきました、3章31節の御言葉となるわけです。

 「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。」

 聖書を読みますと30節と31節の間に「天から来られる方」というタイトルが付けられていますけれど、もともと聖書にはタイトルはありません。口語訳聖書に親しんでいる方はわかることですが、新共同訳聖書になりまして、タイトルが入れられるようになりました。良い点もあり、そうでない点もありますが、今日の箇所は、あまり良い方には向いていないかもしれません。
 今日、読んでいただきました聖書箇所は、バブテスマのヨハネが弟子たちに対して語り掛けている、それが続いていると考えた方がより分かりやすいと思います。

 なぜ「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」のか、それは主イエスが、「上から来られた方であり、すべてのものの上におられる方であって」バプテスマのヨハネは「地に属する地から出る者」だからです。ここで言われているのは、天に属する者と、地に属する者との違いです。主イエスは天に属し、自分は地に属している。だから衰えていくのであると告げているのです。

 ニコデモがある夜に主イエスのもとにやって来ました。やってきて「主よ、神があなたと共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことは出来ません。」と告げるのですが、そう告げながらも、主イエスが語る「新たに生まれなければ」という言葉を理解することは出来ませんでした。なぜ理解出来ないのか、地に属する、地上の考えから抜け出ることが出来なかったからです。
 私たちは生まれながらの神の民であり、神から与えられた律法があるにも関わらず、なぜまた新たに生まれなければならないのか、と思ったのではないでしょうか。

 「主イエスのしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。」ともあります。なぜ信用されなかったのか、地上に属する人々はしるしをこそ信じるからです。
 
 私の古い友人がこんな話をしたことがありました。ある良く知られた牧師が牧会している教会に行ってみたというのです。そこで牧師の説教を聞いた。素晴らしい説教だったそうです。それで感動して、礼拝後に牧師に話しかけました。「先生、これまで色々な教会で、色々な牧師の説教を聞いて来ました。でも、先生の説教が一番良かった。だから、これからはこの教会の礼拝に来ます。」
 そしたら、その先生が悲しい顔をして話しかけてきたというのです。「これまでで一番ですか。それなら、私より良い説教する牧師の説教を聞いたら、その教会にいかれるのでしょうね」その言葉を聞いて、何か目が覚めた、と言うのです。だから、菊池先生の説教で我慢するから、とは言いませんでしたが、まあそういう事かもしれません。今でも、なんでも話せる良い友人の一人です。でも、人はしるしを求めるものです。
 
 地上に属する者は、地に属する者として考える。どこまで行っても地上に属す者です。バブテスマのヨハネも自らが、自分は地上に属する者だと弟子たちに語り掛けました。
32節では「この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、誰もその証しを受け入れない。」とあります。見たこと、聞いたこととは、天の国において、主イエスが見て来たこと、聞いて来たことです。出来るだけ人にわかるように、言葉を選び、神の国のたとえを語り、優しく話しかけてくださった。でも、いつの間にか誰も受け入れないのです。地上に属する者だからです。ある牧師は、この状態を「お先真っ暗」な状態と説明しました。暗闇です。希望が無いばかりか、怒りとか悲しみに覆われてしまうかのようです。

 お先真っ暗だと思う人は、神の証しを受け入れないばかりか、主イエスを捕らえ、裁判にかけ、十字架に付けようとさえします。実際、主イエスはそのようにして、十字架に付けられ、血を流して死んでいかれました。「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」とマタイにありますが、まさに真っ暗ですよ。

 でも、主は三日後に復活されて、神の永遠の命を人々に示され、弟子たちは聖霊の力を受けて、神の福音、祝福を語り続けるようになります。つまり、地上に属する者の群れから抜け出し、真っ暗のその先に光を見いだし、光を信じたのです。
 33節に「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。」とあります。

地上に属する者が受け入れない神の証しを信じ、受け入れ、主イエスこそわが神、我が砦、わが救いという信仰、クリスチャンとして生きていく信仰者へと導かれた人々、その中に私たちも含まれるのです。

 旧約聖書からサムエル記1章、ハンナ、サムエルをささげるという箇所を読みました。夫との間に、長く子どもを授からなかったハンナは、神殿において長く、長く主に祈りました。祈らずにはおられませんでした。夫にはハンナの他にもうひとり妻がいて、その妻は子どもを授かっていました。さらにハンナに対して敵対心を抱き、ハンナを思い悩ませ、苦しめたと記されています。ハンナの人生はまさに暗闇でした。
 そこに祭司エリが現れるのですが、余りに長く祈っているので、酒に酔って寝ているのだと思ったほどでした。しかし、ハンナは事の次第を話し、子どもを授かるようにと祈り、願っていましたとエリに語り、エリと共に祈りを献げます。
 
 そのことによって、ハンナの心は暗闇から光を見いだしたようです。元気を取り戻し、それからほどなくして、ついに息子サムエルを授かることになります。
 ハンナは神に感謝して祈りました。「わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」
 その後、サムエルはイスラエルの偉大な指導者として成長していくことを私たちは知っていますけれど、ハンナの祈りは、私たちの心を揺さぶる祈りです。
 私たちが生きている社会、地に属する者の社会は、戦争があり、コロナ感染拡大となり、あるいは怒りと憎しみにより、多くの人々の命が奪われています。安倍元総理が命を狙われた事件もどれほどの衝撃であったかと思います。その背景には、統一教会の問題が深くありました。お先真っ暗と思う人々が多く生きている社会です。

 けれど、主なる神は、御子イエスにすべてを委ね、御子イエスを信じる者が神の救いへと導かれるようにと計画されました。
御子イエスは神に委ねられた方です。私たちはこの方に救いを得て、この方の導きによって生きて参りましょう。暗闇の中に確かに輝く光を見つめて過ごして参りましょう。
 
 お祈りします。
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喜びで満たされて生きるために

2022-07-17 14:41:01 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書3章22~30節】


 聖書には主イエスのお働きと、十字架と復活の出来事が記される「福音書」が四つあります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書です。その中で、マルコによる福音書が最初に記されて、次いでマタイ、ルカと続き、最後にヨハネによる福音書が記されたと考えられています。学者の間でもこの順番には異論はありません。

 ですから、ヨハネによる福音書を記したヨハネは、マルコ、マタイ、ルカによる福音書を読んでいたと思われます。読みながら、ヨハネは主イエスを思い起こしつつ、未だ他の福音書には記されていない大切な出来事を記したいと思ったであろうと推察します。例えば、今日、読まれました箇所などは、ヨハネによる福音書のみが記している事柄です。

 何が記されているかというと、バブテスマのヨハネと主イエスとが、ヨルダン川のそう遠くない場所で、互いに人々に対して洗礼を授けていたという内容です。

 この後にバプテスマのヨハネはヘロデ王が自分の兄弟の妻を自分の妻にした、それは神の御心に適っていないと非難しました。それに怒ったヘロデに捕らえられ、その後、剣によって処刑されてしまいます。マタイによる福音書や、マルコによる福音書ではバブテスマのヨハネが捕らえられたことがきっかけとなり、そこから主イエスが世に出られて、福音宣教を始められたように記されていますし、聖書を良く読んでいる方でも、そのように思っているところがあると思います。私も、普段からそのように考えておりました。
 
 けれど、今日の聖書箇所は、確かにそれはその通りであるとしても、ヨハネが投獄される前に、バブテスマのヨハネと主イエスが互いにヨルダン川で人々に対して洗礼を授けていた時期があったことが記されているわけです。ヨハネによる福音書はそのことを丁寧に記しています。

 改めてこれまでの福音書の流れがどうなっていたかというと、もととバブテスマのヨハネが悔い改めの洗礼を授けていた、そこに主イエスがやって来られて、ヨハネから洗礼を受けます。 
その後、主イエスは五人の弟子たちを招き、カナの結婚式での奇跡の後、弟子達と共に過越しの祭りに合わせて、エルサレムに向かい、神殿に入られて、宮清めの業を行われました。具体的には、神殿で売られていた牛や羊を追い出し、両替人の金をまき散らし、台を倒して、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と宣言された出来事がありました。

 その後も主イエスはエルサレムに滞在されて、人々に対して多くのしるしをされました。しるしとは、病人を癒し、困っている人を助け、神の国の福音を宣べ伝えました。その主の働きによって「多くの人々がイエスの名を信じた」とあります。
 今まで、これだけの働き、これだけの奇跡と思われる業を見たことがない、この方は神様から遣わされた特別な方に違いないと信じたのでしょう。
 その業を聞き、あるいはその目で見たと思われる、ファリサイ派であり、議員であり、ニコデモがある夜に主イエスを訪ねて、永遠の命について、神の国の到来について尋ね、あなたは新たに生まれることが必要だと話された場面となります。

 今日読まれた聖書箇所はその後の出来事です。その後主イエスは弟子たちと共にユダヤ地方に行って、人々に洗礼を授けておられました。ユダヤ地方と言っても、エルサレムもユダヤ地方の町ですから、エルサレムからさほど遠くないヨルダン川沿いでであったと思われます。ニコデモに話したように「水と霊とによって新たに生まれ変わる」しるしとしての洗礼の業であったと思われます。
一方でバブテスマのヨハネもまたヨルダン川において「悔い改めの洗礼」を授けていました。そこはサリムの近くのアイノンという場所であったと聖書は記します、アイノンとは「泉」という意味です。サリムはシャロームと関係があるかもしれません。水が豊かであったとありますから、緑も多く、作物も良く育つ、良い土地だったのでしょう。もともと、ヨハネの方がより早くに悔い改めの洗礼の業を初め、主イエスもヨハネから受洗したわけですから、その点からすれば、師匠と弟子という関係ということも出来るでしょう。けれど、二人は、協力し合ってというよりは、それぞれの場所でそれぞれの人々に洗礼を授けていたようです。

 25節を見ますと「ヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった」とあります。あるユダヤ人が誰なのか、どんな立場であったのか分かりません。しかし、数人のユダヤ人とヨハネの弟子たちの間で「清め」のことで、論争が起こった。

 論争の中身も記されていませんので、想像するしかありませんが、例えば、ユダヤ人は歴史的にも主なる神によって選ばれた民であり、神の法である律法が授けられた民であること、またユダヤ人の男性は生まれて七日目に割礼を受け、神の子としてしるしが与えられます。それは神の御前に自らの清さを示すしるしでもありました。そのような私たちがなぜ、改めて洗礼を受けなければならないのか、といったふうな押し問答が繰り返されたのではないでしょうか。
そして、論争する中で、ユダヤ人たちは、主イエスの洗礼の働きに触れて、あなたがたよりも、イエスの方に、多くの人々が洗礼を受けに行っているぞ、と言った話となったのではないでしょうか。

 つまり、ヨハネの弟子たちに対して、「あなたがたの師匠よりも、イエスの方が優れているのではないか」といった言葉を言ったのではないでしょうか。

 弟子とすれば、そう言われたらそれは悔しいものです。私たちでも、自分が尊敬している人、師匠と仰いでいる人がけなされたり、批判されたりすると、それは悔しい思いするのではないでしょうか。「お宅はあの人の弟子か、あの人は大したことないな」などと言われたとしたら、自分が批判されるより腹が立つのではないかと思います。

 弟子たちは悔しかったに違いありません。師匠のヨハネのところに来て言いました。

 「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんがあの人の方へ行っています。」「みんながあの人の方へ行っている」と言うあたり、「みんなが」と「あの人」ですからね。弟子たちの悔しさがにじみ出ていると思うのです。

 その言葉を聞いたヨハネは弟子たちに話しかけました。「天から与えられなければ、人は何も受けることはできない。」この御言葉は大切な御言葉です。
 
 先週も申し上げましたが、水曜日の祈祷会ではヘブライ人への手紙を読んでいます。先週の祈祷会で読みましたのはヘブライ書の11章後半です。そこにはユダヤ人を導いた人々の名前が記されていました。ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエルといった人々の名前が挙げられていました。これらの人々は一時期、イスラエルの民を導いた偉大な指導者です。けれど偉大な指導者でありつつも、それぞれが完全な人ではありませんでした。

 ギデオンはミディアン人との戦いの将軍となり戦い勝利しました。人々はイスラエルを治めてくれるように願いましたが、断りました。ただ主なる神だけが我々を治める。見事な答えです。けれど、その後ギデオンは、平和なイスラエルを取り戻した途端に姦淫にふけるようになり、イスラエルが神から離れる原因を作ってしまいます。
 アモン人との戦いに勝利したエフタは、遊女の子として生まれ、そのことが最後まで尾を引き、家を追い出されることになります。
 サムソンの弱点は髪の毛であったことは良く知られています。ダビデは優れた王でしたけれど、ウリヤの妻バトシェバと関係を持ったことによって罪を犯しました。
 最後の士師であり、最初の預言者と高い評価を受けたサムエルの弱点は子育てに失敗したことでした。
 
 それぞれが優れた賜物を持つと同時に、それぞれが弱点を持ち、欠けのある人生を歩んだとも言えます。そのように、人はそれぞれに、天から与えられる賜物があり、同時に与えられなければ、受け取ることは出来ないのです。それは、現代を生きる私たちも同じことです。
 ヨハネは、そのことを弟子達に伝えたのです。自分には自分の役割があって、「自分はメシアではない」と言い、「自分はあの方の前に遣わされた者なのだ」と言ったはずではないか。
 
 ヨハネ福音書1章23節の言葉を用いれば、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。「主に道をまっすぐにせよ」と叫ぶその声としての役割が与えられている。それがが、天から与えられた私の人生である」と伝えたのです。
 29節では「花嫁と花婿」の話が記されていますが、花婿は主イエスを意味して、花嫁は、主イエスを宣べ伝える教会と言っても良いでしょう。ヨハネ自身は、花婿の介添人、仲人のような存在、それが私なのだと伝えます。
 そして、その役割を「大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。」と伝えているのです。
 
 ヨハネは自分の役割を、喜びを持って生きていた人でありました。

 牧師という働きの中心は、主イエス・キリストの福音、十字架と復活の主を宣べ伝え続けることに尽きます。けれど、一年のうちに何人を導くことが出来ているのか、と自分を振り返るとまさに能力の無さを感じます。
多くの著作を記す牧師もいれば、何十、何百という人々を導く牧師もいます。つい比べてしまうと、なんと情けない、そう思う所に自分がいるのです。でも、それでも自分に対しても天が与えてくださった賜物があり、その賜物によってあなたは生きていきなさい。」ときっと伝えてくださっているだろう、と信じて歩み続けるしかありません。
 「しかありません」ではなく、バブテスマのヨハネのように「わたしは喜びで満たされている」という思いをもって歩むべきでありましょう。
 
 皆さん、それは牧師にかぎることでもありません。皆さんもまた、天から与えられている確かな、また、豊かな、あなたにだけ与えられている賜物があり、そしてそれを豊かに生かすことを主は願っていいます。
 自分に与えられた人生を大いに喜び、喜びで満たされる人生を歩んで参りましょう。

 お祈りします。
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この世を愛し尽くされた方

2022-07-10 15:03:03 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書3章16~21節】

 毎週水曜日の午前と午後と祈祷会を行っておりますが、午前の祈祷会では、新約聖書のヘブライ人への手紙という箇所を読んでいます。ヘブライ人とはヘブライ語を話す人々という意味ですが、それはそのまま元々ユダヤ教徒であった人々という意味ともなります。

 主イエス・キリストの十字架と復活、40日後の昇天、更に10日後のペンテコステの出来事により、勇気と力を得た弟子たちが主イエス・キリストこそ真の救い主と福音宣教を開始し、その働きによって、もともとユダヤ教を信じ、ユダヤ教徒として生きていた、特にローマに住んでいたと思われるヘブライ人にも福音宣教活動が行われ、主イエスを神と信じる信仰者が誕生した。ヨハネによる福音書の3章の流れ、イエスとニコデモとの会話から考えれば、主イエスの福音によって新たに生まれた人々が多くいたと思われます。けれど、特にローマにおいては、信仰生活を守り続けるには厳しい環境であったと思われます。

 ローマからの迫害は常にありました。また、まだキリスト教の先駆けの時代ですから、主イエスの福音について教えが定まっておらず、いわば間違った教えも多く伝えられていたようです。迫害があり、間違った教えに翻弄され、時にはユダヤ教に戻ってしまう人々もいたり、新しく生まれたはずなのに、なぜこんなにも辛く生きていかなければならないのかと嘆いていたりする人々も多くいたようです。

 そのような状況を知るにつれ、ヘブライ人の著者は、真の救い主である、私たちの主イエスへの信仰を守り続けていくことの大切さを、心を込めて記し、励まし、力付けている、それがヘブライ人への手紙となります。
今、その手紙の頂点とも言ってもよい11章という箇所を読み続けていますが、聖書に親しんでおられる方であればよく知られている箇所でもあります。
11章1節には「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たち、この信仰のゆえに神に認められました。」とあります。

 信仰とは、望んでいる事柄を確信すること。未だ見えない事実を確認すること。
でも、大切なポイントは、「なるほどそういうことか、よし、私は信仰によって確信しよう。とか、まだ見えていないけれど自分は信仰をもって見えない将来を見えるように励もう」ということではないということです。

 信仰とは望んでいる事柄を確信する。でも、大切なところは、誰が望んでいるのかという点にあります。信仰とは、自分ではなく、主なる神が自分に望んでおられる事柄を確信して、神様があなたの将来はこうなるという未だ見えない事実を伝えてくださった言葉を信じる、神様の御言葉、神様の約束、神の啓示が先にあり、それに答え、応答していくことが信仰だと教えています。
そのようにして昔の人々が、その信仰ゆえに神に認められましたと続くのです。3節。4節からは、その信仰によって、神に義とされて生きた旧約聖書の信仰の先達の名前が綴られています。アベルの名前があり、エノクの名前があり、ノアの名前があり、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセと続きます。一人ひとりがどうであったとか、こんな出来事がありましたといった内容には触れていません。読む人々がヘブライ人だからです。ユダヤ人であり、読む人々は、その人の名前を読むだけで、聖書に記されている事柄を頭に想像出来たでありましょう。

 これらの名前が挙げられている一人一人に共通していることは、神が望んでいる事柄、約束してくださった事柄を地上の生涯においてはその目に見ることが出来ないままで、しかし、それを信じ、確信しながら生き、そして召されて行った一人一人であったということです。しかし、確かに神に応答して生きた一人一人でありました。

 11章の最後の箇所39節と、40節を読みますが、こう記しました。「ところで、この人たちはすべて、その信仰ゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。」
この箇所は、今週の祈祷会で共に読む個所となりますから、是非おいで下さればと思っておりますが、「神様の更に勝った計画」とは主イエス・キリストです。神の独り子である主イエス・キリストを私たちの世に誕生させてくださいました。
だから、私たちを除いては、完全な状態にはならなかった。つまり、主イエスを知る私たちは、完全にされたということでしょう。今、主イエス・キリストがこの世に現れ、私たちは救い主を知り、完全とされた。
だから、ローマに住む主イエスをメシアと信じるヘブライ人の皆さんよ、迫害に屈せず、間違った教えに翻弄されず、神様の愛にしっかりと応答していきましょう。と一生懸命に文章を記している様子が分かります。
 
もう一度申し上げますが、神様の更に勝った御計画、それは主イエス・キリストです。先ほど、ヨハネによる福音書3章16節からを読んでいただきましたが、3章16節には「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とあります。

 宗教改革者のルターという人は、この御言葉を「小さな聖書」また「小型福音書」と記しました。もしこの世に聖書が無くなったとしても、このヨハネ3章16節さえあるなら、福音宣教は続けていけるとも告げたと言われています。この御言葉に神の福音が凝縮されている。神は、神の約束の完全な形として神の独り子イエスをこの世に誕生させてくださいました。「この世」とは「人の世」という意味です。

 人の世とは、罪に満ち溢れる世界です。先週金曜日、既に皆様ご存知の通り、安倍元総理が選挙応援の演説中に銃撃されました。銃撃した犯人はすぐに取り押さえられ逮捕されましたが、その後安倍元総理の死が告げられ、私たちは衝撃を受けました。
人の目からすれば死ぬはずの無い人が、突然の死を迎える。犯人は犯罪という罪ゆえにそれ相応の罪に対する償いとしての厳しい判決が下されることになるでしょう。

 この件については、今はこれ以上のことは申し上げませんが、先週は私たちの教会においても大きな悲しみに包まれました。私たちと共に信仰生活を送ったK兄が天に召され、葬儀が執り行われました。K兄は5月末に診察を受けた時に、胆管がんと診断され、その治療のための12時間の手術に耐えて過ごしておられただけに、まことに残念で悲しみの中での葬儀となりました。
 
 更に、週報に記しましたが、先週の火曜日の朝に、教会員のTご夫妻のご息女が天に召されていかれました。夜に少し調子が悪いからと早くに横になって寝たそうですが、朝には既に召されていたそうです。静かに自分でも気が付かない内に召されたのではないかと伺いました。55歳の若さでありました。今、お母さんは大変な悲しみにあります。
ご自身の体や気持ちの整理もつかず、訪問されても対応しきれない様子です。お嬢さんは、私が町田の教会で牧師であった時の、2006年に転入会されて、それ以来ずっと親しくしていただいていました。いつも明るく朗らかで、笑っている顔しか思い浮かべられません。

 一週間のうちに、これほど人の死を思わされる、人の死を考えさせられた週はこれまでなかったのではないかと思う程の一週間を過ごしました。金曜日の夕食の時に、思わず、私は「人は死んでしまったら終わりだなぁ」とつぶやきました。すると子どもたちから「牧師がそんなことを言ってもいいのか」と叱られました。その通りだとも思います。

 ヘブライ人への手紙に記されている旧約聖書の信仰の先達は、神様が望んでおられる望み、約束を信じて地上の生活を送り、まだ見えてない事実を見ながら生き、そして召されていきました。時代は代わり、現代を生きる私たちは聖書の時代や、100年前、200年前とは違い、人の死は良い意味でも、悪い意味においても、昔ほど身近なものではなくなっています。けれど、だから人は死なないわけではありません。
 私たちは、誰もが一人も残らず、どのようにしてか、何もわかりませんが、死を迎えることになります。その死は時代が変わっても、旧約聖書の人々の死と何も変わらない死であるのでしょう。

 けれど、一つ、全く違うことがあります。それは主なる神が私たちを愛するがゆえに、独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るために、主イエスを遣わしてくださったということです。

 私たちは、そのままでは滅びるのです。神の御前にあって、私たちは人に銃を向けることは無いでしょう。人を殺めることも無いでしょう。でも、主イエスは、兄弟に対して「バカ」という者は最高法院に引き渡され、「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。と教えられ、姦淫に関しては、心に思っただけで既に罪を犯していると話されました。世の中の男性は既に全員が罪人ですよ。私たちは主イエスがおられなかったら、死はそのまま滅びなのです。

 その滅びから救いをもたらし、永遠の命へと導かれるために、主イエスは神の独り子として、世に誕生され、私たちの罪を罪無しとするために、私たちの罪の償いとして十字架に付けられました。私たちはそのために、生きていても、死ぬとしても、滅びの恐れから解放され、主にあって、神の子として、力強く生きていける者とされているのです。

 私たちは独り子を信じる者です。神の約束にしっかり応答し、この世にあって神を愛し、隣人を愛していける者として生きて参りましょう。この世の旅路を力強く過ごして参りましょう。

 お祈りいたします。
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