日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

見よ、神の小羊

2022-05-29 16:02:05 | 礼拝説教
【イザヤ書11章1~5節】
【ヨハネによる福音書1章35~51節】


 私達キリスト者にとって願うところの一つは、疑り深いトマスではありませんが、一生に一度、いつかの時に、本当に神様と出会えたなら、と思うところがあるのではないでしょうか。
皆さんの中には、自分は本当に出会ったという経験をお持ちの方がいるかもしれません。神様の声を聞いたという方がおられるかもしれません。神との出会いの経験を通して信仰生活が始まったという方、私は案外多いかもしれないと思います。でも、神様と出会ったという経験は流石に無いけれど、あの日、あの時信仰を持つ人との出会いが、それが一つのきっかけであったという方はものすごく多いと思います。

 前におりました町田の教会の私の前任の牧師は、本が大好きで、とにかく本を読まれる先生でした。朝起きてから晩に寝るまで、本を読み続けるような方で、私と同い年の位の息子も、今関西で牧師をしておられますが、その息子が小学生の時に、学校で聞かれた、お父さんはどんな仕事をしていますか、息子は考えて「本を読んで印をつける仕事です」と答えたそうです。それほどに本好きであったという逸話が残っています。

 本を読んでキリスト教を知り、キリスト教に親しむ、私自身の経験からしても、誰かからキリスト教を教わったというより、書店で聖書を購入して一人でずっと読み続けていた若い時期がありました。キリスト教作家で知られる三浦綾子さんの本をひたすら読み続けた頃もありました。その頃、まだ教会にも通うこともしていませんでしたが、なんとなく頭だけで、自分は分かったつもりとなっていたようにも思います。日本社会にあっては、教会には行かないけれど、自分は知識として、分かっていると思っている方は多いかもしれません。

 勿論、それが悪いわけでもありません。本を読み、知識を深め、自分で思考し、自分自身を高めようとする。学校の勉強をする、受験の備えをする、何かの資格を取ろうとするそのような場合は特にそういった努力も必要でしょう。
でも、キリスト教の信仰を生きるといいますか、信仰生活を送る場合、それだけでは足りないところがあります。何が足りないかというと、出会いです。神との出会い、キリストとの出会い、そして多くの場合、それらの出会いは、主なる神を信じている人との出会い、それらの出会いを通して、真の神と出会うのであろうと思います。
本を読み、勉強をして知識を高め、内省を深める、求められることです。でも、それはいわばモノローグです。独白です。そこから抜け出て神と出会い、神を信じる人と出会う、そのような経験は人の人生を変えることさえします。

 カトリックの司祭で、来住英俊という司祭がいます。兵庫県の灘高を出て東大に入り、日立製作所に入社する。エリート中のエリートであったと思います。28歳の時に、思い立って一人でイタリア旅行に出かけます。暫く旅行して、観光地を巡り歩き、そういう時の時間はあっという間に立つもので帰国が迫ってきた頃に、大きな教会に入ったところ、教会にとって大切なミサをしていたというのです。自分のような観光客も多くいる中で、全く気にする様子もなく、皆が真剣に礼拝に臨んでいる、「ヤラセではなく、本物の姿」に心打たれたそうです。その気持ちのまま帰国し、生身の信仰者と話しをしたくて会社の近くの教会に通うようになり、修道院の集まりに参加するようになり、二年後には洗礼を受けていたそうです。
 神との出会い、それは信仰を持つ者との出会い、信仰を持つ者の言葉との出会い、そのような出会いの経験、モノローグからダイアローグへ、神と対話し、会話する者へと変えられていく時、自分の知識を遥かに超えて、主なる神が自分の人生という旅の伴侶としておられることを知り、礼拝する者となり、真の神の民となっていくのではないでしょうか。

 今日読まれました聖書箇所では、バブテスマのヨハネが、歩いておられる主イエスの姿を見つめて、「見よ、神の小羊」と告げた場面から始まります。二人の弟子はその言葉を聞いてイエスに従いました。二人の弟子の人はアンデレであり、もう一人の名前は聖書に記されていません。前回の礼拝で、ヨハネによる福音書でヨハネとあったら、それはバブテスマのヨハネで、名前が記されていない弟子が登場したら、ほぼ間違いなく福音書を記したヨハネですと申しましたが、この場面の名前が出ていない弟子ですから福音書を描いたヨハネとなります。
この二人がバブテスマのヨハネに促されて、主イエスに従って歩きだした。主イエスは気が付いて二人に声をかけました。「何を求めているのか」、二人は「ラビ」『先生』という意味とありますが、先生はちょっとおかしいかもしれません。「師匠」とか、「師よ」、というニュアンスでしょう。
「どこに泊まっておられるのですか?」と尋ねると「来なさい、そうすれば分かる」この会話になんの意味があるのかと不思議に思う方もいますけれど、二人の弟子は、主イエスに対話を求めたのです。神の福音の御言葉を願ったのです。神とのヤラセではない、本物の時間を過ごしたかったのだと思われます。

「そしてその日は、イエスのもとに泊まった」と記されています。主イエスとの対話をした二人、多くの事を話したと思います。
その場面は想像するしかありませんが、話せば話すほどに、心が解放され、解きほぐされ、これまで味わった事の無い安らぎと喜びを心の中に感じたでしょう。それは、自分達の存在が神によって、丸ごと受け止められるという経験です。
私たちは、それぞれに自分の長所もありますが、それ以上に短所もあり、自分で自分が嫌だなと思うところもあり、自分は正しい、正義だと思いながらも、しかし、その思いと全く一致しない行動をするものです。使徒パウロはローマの信徒への手紙(7章15節)こう言っています。「わたしは自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」この告白は、そのまま私たちの思いではないですか。あるいは、私たちは自分の内に様々な葛藤や不安を持ち続けているものです。
でも、対話をする中で、主イエスは自分を丸ごと受け止めて下さり、私という人格、自分でさえ手に負えない自分の性格、その全てを包み込んでくだる方であり、自分は主イエスの大きな懐によって包み込まれていると感じたのではないでしょうか。

 自分の「存在」が受け止められ、こんな自分でもそのまま慈しんで下さった。私は神に愛されている。命が与えられ、ここにおいて生きる意味があると知る時、人は本当の意味において神と出会う経験をすると言ってもいいでありましょう。
真の神と出会った、その喜びを知った者はもはや黙ってはおられません。喜びの内に、この方を伝えたくなり立ち上がり、アンデレは兄弟ペトロにそして又、43節からの後半では、フィリポがナタナエルに主イエスを伝えることになるわけです。

 フィリポを通してナタナエルが主とであった場面も大変興味深い箇所です。フィリポもまた、主イエスとの対話を通して、この方こそ救い主メシアであると確信したのでしょう。喜んでナタナエルに主イエスについて話します。「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
その言葉に、ナタナエルは当初拒みますが、主のもとに連れて行かれ、主イエスとの出会いとなります。

 主はナタナエルを既に知っておられました。ナタナエルに対して「見なさい、まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と話しかけられました。ナタナエルは驚いて「どうしてわたしを知っているのか」と聞いたら、「わたしはあなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と話されました。
イチジクの木の下、大きな葉を茂らす木の下では、木陰となり、律法の学者が座り、弟子たちがその回りに座り、律法について、神のみ言葉について真剣に学ぶ場所であったと言われます。
あるいはイチジクの木の下とは、平安とか安息を意味するとも言われます。神の言葉に生きる者という意味もあったと言われます。
 
 主イエスは木の下で、熱心に御言葉を学ぶナタナエルの姿をすでに見ていたのです。ナタナエルのまっすぐな、神を求める正直な思い、真実な姿をすでに主は知っていたのです。フィリポに紹介され、主が語った御言葉は「この人はまことのイスラエル人だ。この人に偽りがない」でありました。
 この言葉によって、ナタナエルは主イエスに捕らえられました。ナタナエルが何を語っているのか、どう思っているのか、ではなくナタナエルという人の全存在を受け止めた、見事な言葉であったからなのです。
 ナタナエルは完全に主に捕らえら、出てくる言葉は「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」という信仰の告白でありました。
 
 神の小羊としての主イエスは、いつも私たちを見ておられます。主は天の右の座において、私たち一人の全存在を見ておられます。そして、その目はいつも慈しみの目であります。そのような方に守られているから、私たちは平安を得て過ごしていけるのです。

 社会情勢が不安定な中、怒りと不安と暴力が渦巻く中にあって、私たちのこの教会から平安を発信していければと願っています。主に感謝し、与えられ、生かされている命を、全存在を生きて参りましょう。
                           
 お祈り致します。

近づかれる方

2022-05-15 14:46:02 | 礼拝説教
【イザヤ書50章4~9節】
【ヨハネによる福音書1章29~34節】


 毎週の木曜日、綾瀬ホームで礼拝を守っております。8時30分から職員礼拝を行い、9時からは利用者の皆さんと礼拝を守ります。

 先週の木曜日、9時からの礼拝ではルカによる福音書から木に登ったザアカイさんの話をしました。利用者の皆さんは、こちらが気を抜くと、すぐにその空気が流れまして、礼拝がざわめきますので、原稿は見ないで一人ひとりの目を見てお話しを致します。一生懸命に話していましたら、シーンとして来まして、今日は良く聞いてくださっているなと思いながら礼拝が終わったら、ある方が大きな声で「ずっと寝ていた」と言われてしまいました。

 あら寝てたの、どうりで静かだったと笑ったのですが、寝ているようにして、でも実は起きているのが綾瀬ホームの礼拝かもしれません。他所の教会の礼拝では、起きているようにして、実は寝ている人が多いと聞いていますけれど、それも平和なことかもしれません。
 それに先立って、8時30分からの職員の礼拝では、マタイによる福音書からイエス様が漁師であった弟子たちを招いて「わたしについて来なさい、人間を取る漁師にしよう」と言われた聖書箇所を読みました。その箇所を読んで、人は自分が与えられた仕事はこれだと心から思えるなら、どんなにそこに幸いがあるだろうかという話をしました。
 
 私自身のことを考えても、子どもの頃には、大きくなったら何になりたいかと考えるわけですけれど、岩手の田舎で育つ中で、私はあんなふうになりたい、こんな風になりたいと考える中で牧師になりたいと考えたことは一ミリもありませんでした。
 聖書を初めて読んだのは二十歳を遥かに超えてのことですが、それまで紆余曲折を繰り返しながら生きていました。自分の人生をどう生きるのか、どう生きていこうとしているのか、苦しい時を過ごしていました。でも、聖書を読む機会が与えられ、イエス様が漁師たちに「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう」と語り掛ける。

 もしかしたら、私にも語り掛けておられるのではないかと思い、自分も神の福音を宣べ伝える者として生きていきたいと願った時、心のざわめきが止まり、生きる目的が定まったようにも思います。自分の人生をこの方にかけてみようと決心して、神学校に進む決断をしたわけですが、何が幸いかというと、一度本当に人生の目的を持てたということです。目的を持つと、もはやそれ以外の全てが心から消えるわけです。だから、迷いが無くなる。迷いが無い人生は実に幸いだと思います。
 漁師であったペトロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブの四人も主イエスに声をかけられ、主イエスと会話をする中にあって、人生の大きな決断をしたのではないか、その決断はまた自分の人生をかけるに値すると確信を持ったからではないかと思うのです。自分の人生において、そんな思いに至ることが出来るとしたらどれほど幸いなことでありましょうか。

 今日読まれました聖書箇所は、バブテスマのヨハネが登場している場面です。ヨハネによる福音書の中でバブテスマのヨハネが登場しますので、私たちは聖書を読みながら、このヨハネは誰かと時々混乱をすることがあるのですが、ヨハネによる福音書でヨハネという名前がありますと、95%はバブテスマのヨハネです。残りの5%はペトロの父親がヨハネというのですが、この福音書では二回登場します。福音書を記したヨハネが、自分で自分をヨハネと記した箇所はありません。ですから、この福音書でヨハネとあればバブテスマのヨハネのことだと理解すると分かりやすいようです。

 バブテスマのヨハネは、主イエスの福音宣教に先だって、イスラエルの人々に対して神の前に悔い改めを求める運動を行い、ヨルダン川で「悔い改めの洗礼」を施していました。その働きは割合に大きな成功を収めていました。多くの弟子たちも集まり、新しい宗教運動のようになっていたと言われます。

 通説ではヨハネはユダヤ教でも厳格に律法を守ろうとする「エッセネ派」と呼ばれるグループ属し、俗世間から離れて、荒野に住み、質素な衣服と食事、また共同生活を行っていたと言われます。福音書では預言者としての側面も強調されます。

 バプテスマのヨハネは他の福音書にも登場しておりますが、この福音書におけるヨハネの働き、ヨハネの生き方、その目的は一つです。それは来るべき救い主、メシアである主イエス・キリストを示し続けることでありました。ヨハネは自分自身の全生涯をかけて、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と語り「この方こそ神の子である」と告げる、それがヨハネの人生であり、そう語り続けて人生を終える人でもあります。生涯を通じてキリストを証し続ける、素晴らしい生涯だと思います。

 ヨハネはなぜ主をメシアであると確信できたのか、主イエスがヨハネのもとに現れて、ヨルダン川で洗礼を受けた。その時に、霊が鳩のように天から降ってきて、主イエスの上に留まったのを見たからです。ヨハネはそのような人が、あなたの所へやってくると既に主の使いから教えられていました。以来、救い主の到来を待ち望み、その願いは主イエスによって叶えられたのです。ヨハネは嬉しかったと思います。自分はまさにこの方をこそ待っていた。そして、これからはこの方を宣べ伝えることを、我が働きと確信しながら生きたでありましょう。

 ヨハネの厳格な生き方、粗末な衣服、質素な食事、荒野での生活から、私たちはイメージとして真面目で、厳つい人という思いがあります。
でも、主イエスと出会ったヨハネはどんなに喜びに満ちたことであろうか。自分の人生の目的、自分がこの世に生まれてきた、その理由さえも明らかにされた思いを持って、喜びを持って主イエスを宣べ伝えたことでありましょう。
 皆さん、伝道とはするとは喜びを生きることです。私たちは一言で「神の恵みによって」と話したりしますが、「恵み」の意味は、それを受けるに値しない者が、それを受けられるところに「恵み」があって、神様は、こんな自分をも忘れることなく、顧みてくださったという実感があればあるほど、恵みを感じ、それが喜びに変えられるのです。
 
 29節に「ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った」とあります。神の恵みとは、自分の方から神様に向かっていくのではなく、神様が自分の方に向かって来られていると知らされる時にこそ、感じるものであろうと思います。

 私たちは信仰者として、神のみ言葉を宣べ伝えて生きていきたいと願います。イエス様の信仰を伝えながら生きていきたいと願います。けれど、そこで大切な事は、その実体というか、その喜びがその人の中にあることが大切なのは言うまでもありません。

 笑顔の無い人に対して「その苦虫を噛み潰したような顔はなんだ、少しは笑ったらどうだ」と自分の方が苦虫のような顔で忠告しても、相手の顔に笑顔は出てこないでしょう。自分自身の内に笑顔が無い人が、人に対して「はいスマイル」と言ってもそこには実体はありません。
 証しするとは、実体があるかどうか、喜びがあるのかどうか、そこが勝負かもしれませんね。皆さんのご家庭で奥様に、ご主人に、子ども達に、おじいちゃん、おばあちゃんにこうなって欲しいなぁと思う事がおありかもしれません。実は割合に簡単なのです。相手がそうなって欲しいなぁと思うように自らが生きる事です。

 ですから、教会が成長するかどうか、それは牧師にかかっている、とも言えるかもしれませんが、もっと言えば、相手にそうなって欲しいなぁと思うように、自分がそのように生きることですからね。どんな状況にあっても、大丈夫、主が共にいて下さる。喜びを持って生きている人が大勢いる教会は、何かをしている、していないにかかわらず、きっと成長し続けるのではないでしょうか。

 昔、読んだ本に書かれてあったのですが、人が納得するという事は、論理的にいかに正しく正確に伝えたとしても、それで人が納得するかというと、そんな事はなくて、こう人間の頭の中にある論理的に考える部分と更にその奥にある、なるほどと納得する感情を司る部分があるそうですが、その奥の感情の部分が納得しなければ、なるほどとは思わない、論理的には理解しても、よしやろうとは思わないそうです。

 言葉だけでは足りないのです。何が必要かといと、言葉だけではなく、その言葉のように、そのように生きているかという事です。そのように生きる。その実体が問われているのだと思います。
 
 ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と主イエスを指さし、その先に、主イエスのうちに真の救い主を見いだしました。ヨハネの弟子達はその言葉と指に注目したことでしょう。なぜその言葉に力があったのか、その言葉のうちに喜びがあったからです。
 ヨハネは荒野でらくだの毛衣を来て、イナゴと野蜜を食べながら、孤独な時を随分過ごしたでしょう。時には誤解され、嫌な思いをしたでありましょう。けれども、彼は証しする事を止めませんでした。
 なぜなら、主イエスが洗礼を受けた時、聖霊が降るその姿をみながら、自分の孤独な働きは決して孤独ではなく、神が自分と共にずっとおられ、ずっと見守ってくださっていたと信じられたからです。そう思える喜びを体験したからです。

 私たちの社会は未だ不安定な状況が続いています。第二世界大戦後、もっとも不安的でもっとも多くのリスクを含んでいる状態と言えるでありましょう。けれど、そのような状況の中にあっても、私たちは主にある喜びを忘れることなく、神の恵みに希望を持って生きて参りましょう。世界平和の始まりは、私たちの平和からスタートすることだろうとも思います。神に希望を持ち続けて、新しい一週間を過ごして参りましょう。

 お祈りします。

わたしたちの間に宿られた方

2022-05-08 14:29:54 | 礼拝説教
【出エジプト記25章1~9節】
【ヨハネによる福音書1章14~18節】

 本日は、ヨハネによる福音書から1章14~18節を読んで頂きました。14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と記されています。

 ヨハネによる福音書は、マタイ、ルカといった福音書とは違い、御子イエスの誕生の物語が具体的に記されているわけではありません。
処女マリアも、羊飼いも、博士達も登場しません。けれど、むしろそれらの御子の誕生にまつわる物語以上に、私たちの信仰生活にとって大切な言葉を慎重に選ぶようにして、「言は肉となって」というわずかな表現の仕方で、神の子イエスがこの世に誕生されたと示しています。

 ガラテヤの信徒への手紙4章4節に「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれたものとしてお遣わしになりました。」と記されています。ガラテヤ書は使徒パウロが紀元50年代の初期に記した手紙と考えられていますが、既にその頃には、神の独り子としての御子イエスがこの世に誕生されたという教え、「受肉」という言葉を用いますが、受肉された神という教理が確立されていたと思われます。
ヨハネによる福音書の特徴は、パウロが記したガラテヤ書から更に50年近く過ぎて記されましたが「言葉は肉となって」、つまり「言が人となった」と言い換えた所に大きな特徴がある、とある神学者は説明いたしました。

 ある時、祈祷会に集われた方が祈りの中で「神様、人が神様となるのでなく、神様が人となられた事に感謝します」という祈りを捧げられた事を覚えております。人が神となるという考え方は、私たちの国の歴史観や宗教観からすれば、受け入れやすいかもしれません。人が亡くなればその人は仏となって、更に、いつの日か、仏が守り神のようになって存在する、このような風習は、多くの人々に受け入れられ、又、受け継がれているとも言えるでありましょう。
 けれど、キリスト教の教えは人が神となるという教えはありません。(人が神のようになる所に恐ろしさがある。)

 私たちには神ではなく、私たちを造られ、私たちに命を与えてくださった方がおられるのです。この方の側にいて、この方の栄光、輝きを受け続けてる必要があるのです。けれど、神から離れ、神と分断しようとする悪の力も働きます。そこに人の罪が明らかにされていくのでありましょう。そのような罪に生きてしまっていた私たち人間の歴史に、ロゴス、言が、つまり神様自らが人の形をとられイエス・キリストという方が誕生された。それはなぜか、徹底的に人を愛されたからです。私たち人間は、「肉体」を持っているという点において、実に様々な、又、具体的な誘惑と限界とを合わせ持っています。

 誘惑というとマイナスイメージですが、プラスイメージで言えば、肉体を持っているということは自分の人生に多くの可能性や希望とが与えられていると言えるでしょう。けれど肉体は同時に、「病気」、「障害」、「死」というような限界をも合わせ持っています。そのような肉体的な限界の中に、神は同じ状況を体験され、同じ苦しみを味わう為に、完全に私たちの思いに寄り添って下さろうとして、神が神のままでいることを良しとされず、人の形を取り、謙り、謙遜になって神の愛を示して下さった。それが「言が肉となった」ということでしょう。

 更に、「言が肉となった」ばかりではなく、大切な事はその言が「私たちの間に宿られた。」という事です。

 「宿られた」という言葉の語源は、天幕を張って住むという意味を持っているそうです。天幕とは主なる神がおられる場所です。出エジプト記において、指導者モーセがシナイ山で主なる神から律法を教えられ、イスラエルの民は律法を守りつつ荒野の旅をしました。旅から旅ですから神殿ではなく、主なる神がおられる天幕を張り、天幕の中に聖所を造り、聖所の奥には至聖所を作り、神を崇め、犠牲の献げ物を献げて旅をしました。その後時代は移って、ダビデ、ソロモンの時代に神殿が建てられ、更にバビロン捕囚が終わり、帰還した民によって二度目の神殿が建てられ、更に御子イエスが誕生した時には、三度目の神殿が建てられていました。しかし、その神殿もまた、紀元70年に起こった戦争によって、ローマ軍に破壊され、ヨハネによる福音書が世に出された時代には信仰の拠り所としての神殿は存在していませんでした。けれど、だからこそヨハネはここで深い思いを込めて語ったのではないでしょうか、

「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。言は人の姿を取られて、そして私たち一人一人の間に、私たち一人一人の心の中に、天幕を張り、そこに住んで下さった。その言は人となられた神、主イエス・キリストです。主なる神が、その独り子をお与えになった。それほどに世を愛され、その証しとしての御子イエスが誕生されました。その誕生の出来事は、私たちを決して忘れない、決して見捨てるような事をされないという印なのです。

 人の愛を遥かに越える神の愛、私たちも日常生活の中で、多くの人を愛します。家族を愛し、友を愛し、隣人を愛し、子どもを愛し、夫を、妻を愛し、愛の中で暮らしているのです。素晴らしいことです。けれど、人が示すところの愛は、どこかで条件が付くもので、又、これほど愛したのだからと、見かえりを求めてしまうと所がありますけれど、神の愛は見かえりを求めない、徹底的な、又、無条件で、更に「私たちの間に宿られた」ということは、私たちの間に天幕を張ってお住まいになっておられるということは、私たちの隅から隅まで、私たちが自分自身でさえも、自分の事がわからないと思ってしまう、その気持ちまでも知っておられるという事なのです。

 神の愛は私たち一人一人を知っておられ、決して忘れません。今から15年程前45歳頃の時、教会の集会があって、殆ど毎日のようにお会いしているような方が近くにおられましたのですが、突然、名前がどうしても出て来なくなったことがありました。どうしてこの方の名前が出て来ないのか、自分でも驚きまして、何かの病気が始まったのかと思いました。思い出そうと思っても、全然出て来ない、でもそのことを悟られないようにと顔は笑顔で対応していましたが、もう内心、どうして名前が出て来ない。名前は出ないで、冷や汗が出てくる。もう私の経験の中でも始めての出来事で、そのことは決して忘れないのです。今となっては、そういうことは何度もありますから、あまり驚かないようにしようと考えていますが、

 名前が出て来ないというのは、本当に恐ろしいものだという経験を致しましたが、年を取りますと、話しがですね、「ほらあれよ、あれ」「ああそうそう、あれのことね」というような会話が増えて、「あれがあれして、こうなった」で話が通じる事もあるわけですが、それが又、限りある人の姿を現していると言えるかもしれません。
けれど、神様の愛はあなたを決して忘れないというのです。神が私たちの間に宿られたということは、私たちを愛するということは、私たちを完全に知っているということなのです。
先日、2022年度、これから暫くは結婚式ブームになるかもしれないという話を聞きました。アメリカでは実際にこれまで二年間コロナ禍によって式を挙げていなかった方々も多く、これからそういった方々も含めて式場も取れないし、料金も上がっているそうです。
もし、あなたが結婚されるとする。いや~、おめでとうございます。それでお相手のお名前は、「どんな名前かな?」「お仕事は何をされて?」「何の仕事かな?」「そうですか、どちらの出身の方ですか?」「どこで生まれたのかな?」「男ですか、女ですか」「いや~どっちだろう」ねえ、滅茶苦茶な話しですけれど、こんなことは無いわけで、要するに、愛しているということは、その人の名前も、仕事も、性格も、その人の事をよ~く、知っているということなのです。
野球の好きな方もおられるでしょうが、ひいきの球団もあると思いますけれども、そういう方はねその球団に所属している選手については良く知っているものです。愛するということは知っているという事なのです。

 神様は、誰が誰を知らないとしても、全ての方々、皆さんの隅から隅までご存知です。神はこの自分と共に喜ぶために、共に悲しむ為に、共に苦しむために私たちをよくご存知なのです。
言葉が肉となり、私たちの間に宿られた方は、私たちを主なる神にしっかりと執り成して下さるために誕生されました。私たち一人一人の思いをしっかりと受け止めくださり、愛して止まない方として、言が肉となり、そして私たちの間に宿られました。

 人と話をする時に、しっかりと受けとめるという事について、新たにされた思いがしています。それは、しっかり聞き取るということは、途中で話をさえぎらない、むしろこちら側は殆ど話さなくて良いのだということでありました。
頭では分かっていても、中々難しいのですが、でもそれが感覚的に少しだけ理解出来たような気がしております。ただずっと聞き続ける、それだけで十分かもしれないと思っております。
心の隅々まで人となられた神が、私たちの間に宿られた方がしっかりと聞いてくださっている。そう思えることは私たちにとって真に幸いなことであろうと思います。主我と共におられる信仰を持って新しい一週間も過ごして参りましょう。

 お祈りいたします。


「神の子となる資格」

2022-05-01 15:01:40 | クリスマス
【創世記15章1~6節】  
【ヨハネによる福音書1章6~13節】

 今日はヨハネによる福音書1章6節から13節までを読んでいただきました。12節にこうあります。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」そこから「神の子となる資格」とタイトルを付けました。
 資格(エクソーシア)という言葉は、ギリシャ語から日本語に訳するのが難しい言葉のようで、新改訳聖書では「神の子となる特権」と訳されていますし、口語訳聖書では「神の子となる力」と訳されています。どの訳が良いのかよく分かりません。と言うより、ある説明には、神の子となる資格であり、特権であり、力である、と考えれば良いとありました。
 
 中川健一という牧師がおられます。中川先生は私が以前に奉仕していた町田の教会から100mほどしか離れていない「町田クリスチャンセンター」という名称の教会の牧師をしておられた先生で、1980年代からテレビ伝道に力を入れていた先生のようです。日本のテレビ伝道の先駆者と言えるかもしれません。ここ数年はネットのユーチューブを中心に聖書の話をしておられるようです。

 最近時々見て、学んでいるのですが、この聖書箇所で中川先生は、神の子となる「力」が良いのではないかと話していました。
 どうしてかというと、言語的な問題から考えたのではなくて、ヨハネによる福音書を記したヨハネはもともと漁師であった。ガリラヤ湖で網を打って生計を建てていた。そこに主イエスがやって来られて、私について来なさいと言われて従ったヨハネでしたが、魚を獲る時のことを考えてみたというのです。
 
 世の中には釣りを趣味としている人は大勢います。なぜ釣りが人気かというと、「手ごたえ」のようです。釣り針に魚がかかった手ごたえ、これは経験したことが無い人には分からないかもしれません。と言っても私も釣りは趣味でもなく、そういう経験は僅かしかありません。でも魚がかかったとなると、釣り竿が急に重くなって、グイグイと引っ張られます。思った以上の強い力です。釣り竿がしなり、割と小さい魚でも十分な手ごたえがあって、釣り上げるまでは魚との勝負になるわけです。
 
 ヨハネは釣りというより網だったと思いますが、魚が入っている網を船にあげるまでにはどれほどの力が必要であったかと言うのです。そこには命と命の戦いがあったであろう、人が主イエスをメシアと受け入れ、主イエスを信じるに至るまでには、主なる神と自分との、あたかも命と命がグイグイ引っ張り合うような、そのような神の力が働いたのではないかというのです。私はその説明を聞いてその通りだと思いました。

 私たちの国では、日曜日のこの時間、教会の礼拝に向かう人々の数は多くありません。全体から見たら僅かしかおられません。なぜ僅かなのかと問うよりも、なぜ、僅かでも教会に向かう方がいるのかと考えると、教会に向かう一人一人の人生のいつかの時に、主なる神と自分の命がグイグイと引っ張り合うような経験があって、そしてグイっと神様の方向に引き上げられた。引き上げられてみると、なんとそこに自分が願っていた、求めていた以上の「まことの光」、神の栄光を見る、感じることが出来た、そのような経験を味わった者こそが、教会へ、この礼拝へと導かれているのだと思います。
 
 今、「まことの光」と申しましたが、9節に「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」とあります。日本人は宗教というものに距離を置いたり、関わりを持たなかったり、関心が無いという方々が多いと言われます。様々な理由によってそうなのだと思いますが、世の中には、まことの光でない、光もどきといいますか、偽物の光があまりにも多いからではないでしょうか。時として私たちは本物より偽物に安心するところがあります。
 
 私の好きな映画に「プロヴァンスの贈り物」(2007年)という映画があります。ビデオで10回も20回も見ているかもしれません。主人公の男性はイギリス、ロンドンの大きな会社で株のトレーダーをしているのですが、あるきっかけがあって、自分が生まれ育ったフランスのプロヴァンスの田舎町で幼馴染の女性が彼女となって付き合うことになるのです。時々休暇を取り、結婚は望むけれどイギリスにはいかないという彼女と過ごしているうちに、会社の社長がしびれを切らして、イギリスに呼び戻され、社長室で相談を持ち掛けられます。それは会社の共同経営者となって一緒にやるか、会社を辞めるかどちらかを選んでくれというのです。
 主人公は悩みます。会社の共同経営者となれば、社会的なステータス、多くの資産、人生の成功者という立場を得ることが出来ます。悩みながら社長室を見渡すと、ゴッホの絵が飾ってあるのに気が付くのです。「社長、このゴッホの絵は高いのではないですか。」「そうだ、何億もした。私の宝物だ。」「宝物ですか」「そうだ、だけど本物は金庫にしまってあって、これは偽物だよ」と社長は笑って答えたのです。
 その答えを聞いた主人公は決心したようにこう語りかけました。「社長、偽物を見ているのですか、なら本物はいつ見るのはいつですか、なぜ本物を見ようとしないのですか」そして会社を辞めて、全てを捨てて偽物ではなく、フランスの田舎で待つ彼女への愛を選んだという映画です。観終わるとつくづく本物は良いと思います。
「まことの光」としてこの世に来られた主イエスです。それはすべての人を照らすまことの光です。真実の光です。ここで「まこと」と訳されている言葉の元々の意味は、信用出来る、信頼できる、生涯をかけても悔いはないという意味だと言われます。だから「まことの光」なのです。その光はすべての人を照らす光です。子どもも、大人も、女も男も、人種、民族を越えて、国や地域を越えて、思想、信条を越えて、全ての人を照らすまことの光がこの世に来られた。一人ひとりの心をグイグイと引っ張り上げ、命をその人生を神の光で照らし、導こうとされる主なる神の御計画によって、主イエス・キリストはこの世に誕生されました。

 けれど、聖書は「世は言を認めず」「民は受け入れなかった」とも記します。皆様がご存知の通り、主イエスは捕らえられ、裁判にかけられ、十字架刑となり、そして死なれました。自分の心が持っていかれる、本物の力によって持っていかれそうになることが困ると思う人々が大勢いました。自分が自分ではなくなると困るのです。偽物に慣れてしまっているような人であろうと思います。だから、主は十字架につけられ、死に葬られました。人々はこれですべてが終わったと思ったことでしょう。

 けれど、主なる神は、そこから更にまことの光、主イエスを三日の後の日曜日の朝早くに復活させてくださいました。復活された主イエスは弟子たちのところへ現れ、弟子のトマスのところへ現れました。主イエスを見たトマスは主を見つめつつ、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白した場面を私たちは先週の礼拝で読んだわけでありました。トマスもまた主の名を信じる者の一人となり、神の子となる資格が与えられた一人となった場面でありました。

 私たちが生きている世、この世界は「まことの光」に照らされる時、様々な罪が明らかにされるようです。13節には、その罪が三つ記されます。一つは「血によって」とあります。血によるとは自分の先祖、両親の血によってということです。ユダヤ人は特に特に血筋、家柄を大切にしていたと言われます。自分がどこの出であるのか、どの家系であるのかが重要であったようです。日本人の私たちも、現代であってもそういう考え方があるのではないでしょうか。

 二つ目に「肉の欲によって」とあります。肉の欲、それは目に見える世界ということでしょう。私たちは無いよりもあった方が良い、不便よりも便利な方が良いと考え、目に見える物を求めて生きているようなものです。テレビ、マスコミ、雑誌は購買意欲を掻き立て、人を限りない欲望の世界へ、貪欲の罠へと誘い込もうとしているかのようでもあります。
 三つ目は「人の欲によって」とあります。人の欲とは、様々な社会的ステータスを意味しているかもしれません。
「血」も「肉の欲」も「人の欲」もその特徴は、人が人の手によって、手に入れられると思うものかもしれません。「まことの光」の輝きは、は人の罪を浮き彫りにする力があるのです。

 しかし、「まことの光」はその光を受け入れた者にとって、その名を信じる者にとって神の子となる資格を与えてくださいました。

 先ほど創世記の15章を読んでいただきました。まだ子どもを授からず、途方に暮れるような思いで過ごしていたアブラハムに主なる神が声をかけられた場面であります。
「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」アブラハムはこの時既に多くの財産を得ていたと思われますが、でも、子どもを授かってはいませんでした。命の誕生は神の領域だからです。しかし、既に年老いていたアブラハムを外に連れ出し「天を仰いで、星を数えることが出来るなら、数えてみるがよい」そして言われました。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認めた。と記されています。アブラハムの信仰は肉の欲によってではなく、ただ神によって与えられた信仰でありました。

 信仰とは、まだ見えないけれど、神のまこと光に照らされて、見えない将来を既に見る、希望を持ち続けて生きていこうとする思いです。暗闇であり、悲惨な状況だと思うこの世にあって、しかし、まことの光が輝くとき、そこにまだ希望があり、命が躍動する世界があると信じて生きることです。そのような物こそが、神の子となる資格が与えられるのでありましょう。そのまことの光の中に、教会の歩みもあるのだと私は信じています。

 お祈りいたしましょう。