日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

見ずに信じる人の幸い

2022-04-24 14:46:55 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書20章19~29節】


 昔、教員の免許取得の為に、高校に教育実習に行きました。フランス語の教員の資格ですから実際は何の役にも立たないのですが、それでも高校でフランス語の授業がある学校に行きまして無事に免許だけは取りました。
 
 一応、担当のクラスもありまして、学校の終わりの時間、ホームルームの時間に、急に担任の先生から菊池さん何か話をしてくださいと言われまして、びっくりしました。その時に話しをしたのが人間の感情についての話をしました。
クラスの皆さん、もし皆さんに彼氏、彼女がいるとして、その相手に振られてしまったらどう思いますか。と聞いたのです。すると当然のように「悲しい」とか「腹が立つ」とか「学校に来たくない」とった返事がありました。
 そうですよね。でも出来事には感情がありません、と話しました。出来事に感情があるのではなくて出来事をどう受け止めるのかによって感情が代わり、全く違った世界が見えることになるという話をしたわけです。なぜなら、あの相手は見る目が無い、ろくでもない人だと思うと、悲しいだけではなくなりますし、早速新し相手を見つけようと思えば、むしろ元気も出て来ます。といった話をしたのです。
 そんな時間はフランス語の授業の何倍も盛り上がったことを覚えています。(笑)
 
 私たちの目に見える世界は何で出来ているのかというと、私は人間の感情という目に見えない心の動きで出来ていると考えています。「喜怒哀楽」という言葉もありますが、私たちは生きていると様々な出来事に遭遇します。その出来事や状況を、自分の感情でもって受け止め、その受け止め方によって、どう受け止めるかによってそれからの方向もかなり違うのです。
 あまり良い例ではありませんが、アメリカで弁護士になろうとした人が一回目の試験に落ちて、二回目の試験にも落ちたようです。それは出来事です。でも、その出来事をどう捉え、どう考えるのかによって、これからの生き方や方向が変わって来るでしょう。弁護士試験は大分難しいですから、三回、四回と落ちる人も多くいます。中には八回目、九回目に合格した人もいるでしょうから、なにまだまだと考えるか、もうおしまいだと考えるのか、その違いは人生をも変えるほどの違いです。
 
 私たちは目に見える世界に大きく左右され揺さぶられます。3月に神学校を卒業して横須賀の教会に赴任されたSさんが、ある時、話しに来ました。牧師のガウンはどのようにして購入したのかというのです。ちょっとびっくりしました。私の前任の鈴木伸治先生は、礼拝にはガウンを着ていたという話も聞きまして、私は初めて知りました。確かにそういった目に見える所の世界もあって、案外大切なところであろうとは思います。
 警察官は警察官の服装をしていますし、消防士は消防士の服装をしていますし、医者は患者を診る時は大抵白衣を着ています。服装がその人の仕事や、その人自身を現わすことも世の中には案外ありますから、服装を気にしなくて良いということはありません。

 イエス・キリストを信じる私たちはどのような服装をするのでしょうか。西欧の所謂古き良き時代には、日曜日となり、教会に行くとなると、それぞれにきちんとした身なりをして教会の礼拝に出席したと言われます。整った服装は整った心へと人を導きますから、礼拝には礼拝に相応しいと考える服装が良いでしょう。
 でも、服装がその人の信仰を現わすわけではありません。信仰は目に見える世界で見る事が出来る、測ることが出来る、数えることが出来るのかと問われたら、そうではないと答えられるでしょう。私の母教会で牧会されていた熊野義孝先生は、信仰はあるのか、ないのかが大切ですと教えておられたそうです。
 
 今日は、ヨハネによる福音書から、復活された主イエスが弟子たちの前に現れる場面を読んでいただきました。主イエスは週の初めの日の朝、まだ暗い時間に復活されました。その場面を先週のイースター礼拝で読んでいただきました。復活の主イエスはマグダラのマリアのところへ現れてくださった。今日の聖書箇所は、同じ日の夕方の場面となります。弟子たちはユダヤ人を恐れて、家に鍵をかけて隠れるようにしていました。不安でいっぱいの弟子たちの、その場に復活の主イエスが現れて「あなたがたに平和があるように」と告げられました。さらに御自分の手とわき腹とをお見せになりました。そこには十字架の釘の跡、また刺し傷があったのでしょう。弟子たちは驚いたと思いますけれど、驚き以上に喜びに満たされた様子が聖書に記されています。弟子達は、人には出来ないけれど、神にはできる神の業を見る思いに至ったのでしょう。

 けれどその時、弟子のトマスが、その場にいませんでした。ですから、その喜びを共にすることが出来ませんでした。他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と告げてもトマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指に釘跡を入れてみなければ、手をわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と答えました。
 トマスの感情としては、自分だけが差別されたと感じたか、あるいは弟子たちが揃って悪い冗談で自分をだまそうとしているかもしれないと思ったかもしれません。
いずれにしても、トマスは復活の主と出会うという出来事を経験していませんから、信じるもなにも、復活されたという根拠が何もないと思っていたと思います。それから一週間、主と出会った弟子たちは喜びに満たされ、力与えられ、トマスだけがその喜びに加わることが出来なかったわけです。

 けれど、それから八日後、八日後とは、一週間後という意味です。弟子たちは、同じ家で祈りを共にしていました。今回はトマスも一緒でした。

 そこに復活された主イエスが現れました。「あなたがたに平和があるように」そして更にトマスに話しかけました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」更に続けて「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。

 トマスは驚いたと思います。仲間の言葉は本当であった、自分もまた復活の主イエスと出会うことが出来た。トマスは他の弟子たちと同じように神の業を前にして心が燃えたでありましょう。「わたしの主、わたしの神よ」というトマスの言葉は、私たちに感動を与える言葉です。なぜ感動するのか、ヨハネによる福音書を記したヨハネが、福音書を読む読者に対して、時代を越えて私たちに対して、主イエス・キリストこそが私たちの主であり、私たちの神である、そのことを伝えたいという思いで記し、その思いがこの「わたしの主、わたしの神よ」に集約されているように感じるからです。この場面のために福音書が記されたと言っても良いと言える程だと思います。

 けれど皆さん、実はトマスも他の弟子たちも少しも変わりません。一週間前に復活の主と出会ったのか、一週間後に出会ったのかの違いがあるだけで、弟子たちは皆、復活された主イエスの姿をその目で見て、確認して信じたのです。

 人は目に見える世界、見える状況を見て判断します。でも見える世界、見える状況をどう判断しますか。私たちはどのように判断しますか。コロナ禍となって2年以上経過しました。最近はコロナウィルスの感染も停滞か幾らか減少傾向となり、少し希望が見えて来た感じがしております。けれど、一方においては、ロシアがウクライナに侵攻し、考えてもいなかった戦争となり、世界中は混乱に陥りました。世界全体が不安と怒りと悲しみを抱えています。私たちが目に見える世界はそのような世界です。

 この2年間の教会も本当に厳しい状況を過ごしてきました。時には礼拝すら守ることすら出来ませんでした。十分な伝道活動を出来ずに過ごしてきました。それが私たちの目に見える世界です。

 でも、目に見える世界を私たちはどう見て行くのか、そこに私たちの信仰が問われるのだと思います。主イエスは「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と話されました。
 主イエスは、私たちに見ないけれど、見る信仰を求めておられます。ヘブライ人への手紙には、信仰の父、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、モーセも、多くの預言者も、神の国の実現をその目で見ることなく、しかし、遥かにそれを望み見て、生きた人々の名前が記されています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と記されています。
 
 私たちは、復活された主イエスの姿をこの目で見ることは出来ないかもしれません。けれど、信仰によって遥かに仰ぎ見る時、今与えられている世界のその先に、神は、神の栄光を現わしてくださるに違いない。そう信じる信仰こそ、今求められているのではないでしょうか。厳しい世界を生きていくためにも、主にある希望を失うことなく過ごして参りましょう。

 お祈りします。

 

神の栄光が現わされる時

2022-04-17 15:25:59 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書20章1~18節】

 皆様、イースターおめでとうございます。今日の礼拝はヨハネによる福音書20章、少し長い箇所を読んでいただきましたが、主イエスが復活された場面、この箇所には復活された主イエスの他に、メインとして登場するメンバーは、マグダラのマリア、弟子のペトロ、それからヨハネ、この三人が主イエスの復活に際して、どう動いたのかが記されているわけです。
 
 その中で、今日はマグダラのマリアに目を向けて、特にマリアの心がどう動いていったのかを見て行きたいと考えています。
 
 話は少し変わりますが、私が神学生であった頃に、春になる前の寒い頃であったと思います。私自身北国の生まれですけれど、寒がりで体温も上がりません、そういう体質なのだと思いますけれど、アルバイト先で一緒に仕事をしていた女性がいて、その人が漢方のお茶のようなものを飲んでいたわけです。それで話しましたら漢方は良いよと言うのです。それを聞いて、漢方に興味を持ちまして、漢方高いですけども、何か安くて良いものが無いかなと思って、バイトが終わって漢方の薬局に行ってみた、
 そしたら安いといっても安くもないのですが、それでも何とか購入出来るものを紹介してもらって、買って神学校の寮に帰って早速、お湯を注いで飲んだのです。
 すると、ほんとに体がポカポカし始めて、凄く調子が良かったのです。嬉しくなりました。人は嬉しいことがあると黙っていられません。人に話したくなるものです。ですから、寮の仲間にこの漢方は良く聞いたと宣伝して回りました。
 そしたらね、三日後位には、寮の何人もがその漢方を飲んでいました。びっくりしました。でもね、喜びを伝えると、伝わるんだな、伝道するとはこういう事だなと改めて思わされた出来事でありました。

 今日の聖書箇所は、マリアも主イエスの復活を通して伝道する者へと変えられていく様子が記されている、そういう聖書箇所であると思っています。
 週の初めの日、朝早く、まだ日が上がり切らないうちに、マグダラのマリアは主イエスの墓に向かっていました。他の福音書にも、女性たちが主イエスのご遺体が納められた墓に向かう場面がありますが、マグダラのマリアは、誰よりも早く、しかも一人で行動したと思います。マグダラとは地名です。ヘブライ語ではミグダルと言うそうですが、ガリラヤ湖の北西に位置する場所の町のようです。主イエスの母もマリアで、他にもマリアが登場しますから、マグダラのマリアと呼ばれたのでしょう。
 
 彼女の性格を想像してみますと、決断力があり、思うことはしっかり話す人であったように感じます。安息日が終わり、まだ暗いうちに、とにかく主イエスのご遺体がある墓に行ってみよう、そう決心したのでしょう。手にはご遺体に塗る香料を携えていたと思われます。問題は墓をふさいでいる石をどうやって取り除けるのか、そういう課題があったのですが、到着してみるとその石が取り除けてあるのを見ることになります。
 
 石が取り除けてあるのを見て、すぐにマリアの脳裏に浮かんだことは、誰かが主イエスの墓に入って、ご遺体を持ち去ったのだろうということでした。ローマ兵の仕業かもしれないし、墓荒らしかもしれないし、いずれにしても大変だと思い、弟子のペトロとヨハネのもとへ急いで向かい「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」と告げるのです。
 
 主イエスは、福音伝道の旅をする中で、弟子たちに問いかけたことがありました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているのか」弟子たちは互いに「洗礼者ヨハネ」という人もいれば旧約聖書の預言者である「エリや」だとか、「エレミヤ」だと言う人もいますと答えます。それでは、あなたがたわたしを何者だと言うのか」と再び問われた時に、弟子のペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です。」と素晴らしい答えを口にしました。主イエスはペトロに対して「ペトロよ、あなたは幸いだ。私もあなたに言っておくあなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と二人の心が通った場面がありました。
 けれど、そのすぐ後で、主イエスは御自分がこれからエルサレムに向かい、長老、祭司長、律法学者から多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると弟子たちに打ち明けるのです。その時、ペトロは主をわきに連れ出して、いさめ始めたわけでありました。主はペトロに「サタン、引き下がれ」と強く叱った場面が記されています。恐らく、主イエスの旅は12弟子の他に、数人の婦人たちも一緒だったろうと考えられていますが、その場面にマグダラのマリアも伴っていたかもしれません。
 
 そうだとすると、ペトロも、ヨハネも、マリアも主が三度、三度という言葉は何度もという意味があると言われますから、三度以上に何度も、主イエスの死と三日後の復活について話を聞いていたかもしれません。でも、彼らは理解していませんでした。
 
 主イエスの十字架の死から三日目の週の初めの日の朝早く、マグダラのマリアも、その後マリアから話を聞いたペトロも、ヨハネも慌てて主の墓に向かうのですが、主イエスは復活された、聞いていた通りであったと理解した人はいませんでした。

 「人は信じたいと思うことを信じる」という言葉を聞いたことがあります。「人は教えられたことを信じるのではなく、自分が信じたいと思うことを信じる」のです。
 ロシアでは、プーチン大統領の支持率が80%を超えていると報道されています。ロシア国内では報道が規制され、ロシアにとって都合の良い報道がなされ、ロシア軍は民間人を殺すようことはしていない、そういった報道はフェイクニュースだと言われると、そう言われているし、報道内容も理に適っていると、客観性を持って信じる、そういう人もいるでしょうが、それ以上にロシア国民も報道の通りであって欲しいと信じたいのです。信じたいことを言われているのでそう信じているのだと思います。
 それが正しいかどうかではなく、自分が信じたいと思うことを信じるのです。

 真実は主イエス御自身が死から三日の後、復活されたのですが、マリアは墓の外に立って泣いていました。なぜ泣いていたのか、主イエスのご遺体が無くなっていて、誰かが持ち去ってしまった。と信じていたからです。それ以外に自分が納得できることはありません。主イエスが話されたこと、教えられていたことをこの状況にあっても、思い出さなかったというよりも、信じてはいなかったのです。
 
 身をかがめて墓の中を見ると、主イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えました。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていました。マリアは天使さえも天使だという理解はありません。天使が声をかけ「婦人よ、なぜ泣いているのか」と尋ねても「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と答えます。
 更に、振り向いてみると、主イエスがそこに立っているのが見えました。しかし、それも主だとは分かりません。目が涙で霞んでいたかもしれません。神様が一時的に見えなくされたのかもしれません。色々と言われますが、でもマリアは自分が信じたいと思っていることを信じているのです。

 主イエスは三日前に十字架で死なれ、この墓に葬られた。そのことを自分はすべて確認している。しかも今、その墓の石が取り除けられて、主イエスのご遺体が無い、これ以上確かなことは無いのです。主は「婦人よ、なぜ泣いているのか、だれを捜しているのか」と尋ねましたが、マリアは園丁だと思って、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。と答えました。
マリアはただ泣いていただけでもありません。マリアはこの状況に出来る冷静に対応しようともしました。思っていることをしっかり伝える能力を持ち合わせていました。「ご遺体の場所を教えて欲しい、わたしが引き取ります」強い決意でもって、応答しようとしています。精一杯の姿であったと思います。

 そのようなマリアに対して、主は突然に「マリア」と話しかけられました。マリアは突然に自分の名前が呼ばれたのです。自分を知っている者の声がしたのです。そしてその声は自分を愛し、自分を助け、自分を救ってくださった者の声でありました。

 その時、初めてマリアは自分が信じていたことではない状況であったと気が付いたのでありましょう。「ラボニ」、「先生」、その応答はマリアが主イエスにそのように話しかけていた言葉であったと思います。
自分が信じていたこと以上の事が起こる。それがイースターの喜びです。聖書は、ここでマリアは躍り上がって喜んだとか、泣き顔が笑顔になったとは記していません。
でも笑顔が戻り、喜びのあまり主イエスを抱きしめたい思いに駆られたことは間違いありません。今、マリアは神を信じるとは、自分が信じていること以上のことが起こり、そしてそれは喜びをもたらす知らせであると信じるに至ったと思います。

 復活の主は、マリアに話しかけます。あなたはわたしの兄弟たちのところへ行って、このことを宣べ伝えなさい。マリアの足取りはどんなに軽くなったでありましょう。
イザヤ書52章(7節)に「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」とあります。マリアは良い知らせを携えて弟子たちのもとへ行き、「私は主を見ました」と告げたのです。
復活の主イエスを信じる者は、自分の思いを越える所で神様は働かれ、自分が思う以上に祝福が与えられると信じる者たちであります。今、私たちの不安定で、不確実な社会状況にあって、そこで打ちひしがれずに、尚、頭を高くあげて主の復活を宣べ伝える者として過ごして参りましょう。

 お祈りします。

御心に適うことが行われますように

2022-04-10 15:59:00 | 礼拝説教
【イザヤ書50章4~7節】
【マルコによる福音書14章32~41節】

 本日は受難週の礼拝です。先ほど9時からの子どもの教会では、伝統的に受難週の礼拝で読まれるマルコによる福音書11章から、主イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入城された場面を読んで礼拝を守りました。今日は、私が説教当番ではありませんでしたが、先日その箇所を改めて読み直しました。読み直す中で、分かっていたようで分かっていなかったなぁと改めて思わされたことがありました。
 
 単純なことですが、主イエスは、なぜ子ロバに乗ってエルサレムに入られたのかということです。馬ではなくロバであった、しかもロバの子であった。それは真の「平和の主」という姿を人々に見せるためであった。そのように思っておりましたが、それだけでは足りない、もともと、なぜ、主イエスがエルサレムに入られようとした時に、エルサレムの人々は棕梠の葉を敷いて、自分達の着物まで敷いて大歓迎して迎えたのか。
 
 棕梠の葉を敷く、自分達の着る物を敷く、その様子は現代に照らし合わせるとすれば、例えばレッドカーペットを敷いたような様子ではないでしょうか。
 先日アメリカで行われたアカデミー賞で、日本の「ドライブ・マイカー」が栄誉ある賞を受賞したことで話題となっていましたが、女優さん、俳優さんが会場に入る際に、通路にレッドカーペットが敷かれていて、その上を歩いては入ることが栄誉だと言われます。
多くの女優さん、俳優さんがいつかは自分もその上をと願っているでしょう。あるいは国が国賓として招いた国の元首、要人が飛行機を降りた際に敷かれるのもレッドカーペットです。調べましたら、このような習慣は紀元前5世紀までにも遡れるようです。
 
 主イエスがエルサレムに入城する、棕梠の葉を敷いて、着物まで敷いて、人々は大歓迎して出迎えた。なぜ、そうしたのか、主イエスが特別な業をなされ、神の国を宣べ伝えておられる、そのような噂がエルサレムにも流れてきていたのでしょう。この方は、これから私たちの国の王となられる方ではないか、ローマ帝国にも打ち勝つ、我らのヒーローとなる方ではないか。そのような大きな期待を膨らませて迎えた、最高、最大の迎え方をしたのだと思います。

 けれど、主はそのような人の思いを知っていて、だから、馬でもなく、ロバに乗って、しかもロバの子に乗って入られた。まだ誰も乗せたことのない子ロバです。ロバはフラフラ、ヨロヨロと歩いていたと思われます。その姿はあるいは笑いを誘うような様子であったかもしれません。
 それは、主イエスが伝えようとする神の国と、人間の思う神の国の姿との大きな違いが、エルサレム入城の場面に記されたのではないか、改めてそのように思いながら読んだわけでありました。
 
 先ほど、読んでいただいた場面、主イエスがゲッセマネで祈っている場面もまた、神の思いと人の思い、その違いがはっきりと読み取れる箇所であると思います。
 何によってその違いが明らかになるのかと言えば、祈りの姿によってです。
 
 主イエスがエルサレムに入られて行われた最初の出来事は、エルサレムの神殿で、両替人の台や鳩売りの腰かけをひっくり返されて「わたしの家は、すべての国の人の 祈りの家と呼ばれるべきである。」と言われた場面です。人々はその姿に驚いたと思います。この方こそ、我らのヒーローと思っていたけれど、一体これはどうしたことか、少し様子が違うと感じたでありましょう。
 けれど、主イエスは人からどう思われようとも、この神殿は祈りの家である、そこから外れてはならないのだと教えようとされたのでしょう。大切なのは、神殿が祈りの家である、それは建物というより、そこで祈る者の姿勢が問われているということでしょう。

 エルサレム入城から数日経ち、過越しの祭りとなり、主は弟子たちと共に過越しの食事をされました。食事は酵母を入れないパン、苦菜と呼ばれる野菜、火で焼いた羊です。規定ではそれらは必ず食べきらなければなりません。ワインを飲み、弟子達のお腹は膨らみ、気分良く過ごしていたでしょう。ユダが出て行ったことも弟子たちは大きな関心を払いませんでした。

 食事の後、主イエスは弟子たちと共にゲッセマネと呼ばれる場所に移り、特にペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて更に奥に進み、自らが祈りの家となったかのように、地面にひれ伏すほどの祈りを捧げられました。これからすぐに起るであろう、ユダの裏切り、逮捕、裁判、そして十字架、そのことを既にご存知であった主は、悶える程の祈りを献げました。「悶える」の元々の意味は「人々から捨てられている」という意味のようです。
 
 けれど、弟子の三人は寝ていたというのです。鎌倉雪ノ下教会で牧師をしておられた加藤常昭先生の説教集がありますが、その説教を読みましたら、こんな言葉がありました。「主イエスは、目を覚まして祈っているようにと言われた。弟子たちは、目を覚ましていられなかった。眠ってしまった。ある神学者が、そのことについてこう書いた。『なぜ弟子たちは眠れたのだろうか。自分を信じていたからである』」そう記されてありました。
 
 弟子たちは過越しの食事、羊の肉で満腹の上に、少しの酔いも手伝っていたでしょう。とても眠かったろうと思います。眠いだけでなく実際に眠ってしまった。なぜ眠ってしまったのか、『自分を信じていたからである』私はこの言葉は人の思いを良く言い当てているように思います。
 コロナ禍となって、どの教会も大変な状況を歩んで来ましたが、今、どことは言えませんけれど、ある割合に大きな教会の主任牧師と副牧師と二人がユーチューブに撮って、教会員向けに、信仰についての話をすることにしたそうです。その一回目を見ていましたら、一回目なのに既に質問が来ていて、その質問は「牧師は家でも祈っているのですか」という質問でした。主任の牧師が読み上げたのです。ですから若い副牧師が答えなければならないのですが、明らかに驚いたようになって言葉が出なくなった。見ていてちょっと笑いました。どこの教会かは言えませんが、主任の先生が上手にフォローしていて、その掛け合いが愉快でありました。私は人が、どこかで自分に自信があると思っているとしたら、神よりも、自分を信じている者は、いつの間にか自分で祈らなくなるのではないかと改めて思いました。

 自分でどのように祈らなくなるのかというと、主イエスが祈ったように「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈ったような、自分自身の全てを傾けて祈る姿勢が無くなってくるということでしょう。
主は三度祈られましたが、弟子たちは三度とも眠ってしまいました。一度の失敗を悔いて、二度目からは主と共に祈ったのではなく、二度目も三度目も弟子たちは眠さに負けたのです。その姿は人の罪がどれほど重いのか、それ故に主イエスは、益々真剣に、益々悶える程の祈りを献げなければならなかったことが分かります。

 人は神の前にあって、十分に祈ることも出来ず、目を覚ますことも出来ず、神の御心に従うことも出来ず、その姿は、人には少しの足りないところがある、どころではない。どんなに大きな罪を負っているのか、人の思いと、神の思いの違いがこれほどに明らかにされた場面も無い程であるとさえ感じます。
その為に、いよいよ主イエスはその人の罪を負うために、十字架への歩みを、主の御心のままに受け入れ、捕らえられ、裁判にかけられ、十字架にかけられ、血を流し、死んでいかれました。その死は私たちの罪故なのです。
私たちは主イエスの死が、私たちの罪故であることを忘れてはならないと思います。

 今、私たちの社会は現実に起こった、起こっている戦争に心が翻弄されています。武器を持ち、ミサイル、爆弾によって、何百、何千、何万人というウクライナの人々も、ロシアの兵士も死んでいる現実を知らされています。知らされる報道を見ていますと、まさに言葉が出て来ません。私自身、戦争についても情報をこれまで何度も聞かされ、伝えられて、教えられて来ましたが、心で思っていた何倍もの凄惨さ、次々と起る悲惨な状況を知らされます。神様はおられないのかと呻きたくなるほどです。何より人はこれほどまでに残酷になれるのかと思う。そして人の罪の深さ、主さを思わざるを得ません。
殆ど絶望に近い感覚にさえ陥りますけれど、今、このような状態であるからこそ、私たちは共々に神に祈ることを忘れてはならないと思う。

 自分に自信がある者は祈らなくなると申しましたが、また、一方では、絶望している者も祈らなくなるのです。だから、祈りは諦めていないという証しでもあります。どのような状況においても、暗闇の中でも、主なる神が光を指し示し、私たちが歩む道を、歩む人生を指し示してくださる、だから絶望せず、十字架の死から復活の命を示された方に希望を繋ぎ、生きる中にあって、祈らなくなる罠に陥ることなく、この方を見つめて私たちは生きていくしかその道はありません。

 来たる次週のイースターに向けて、主の復活に臨みをつないで、私たちは共々にこの週も過ごして参りましょう。
お祈りします。


光を見つめて生きていく

2022-04-03 13:10:34 | 礼拝説教
【イザヤ書9章1~6節】 
【ヨハネによる福音書1章1~5節】


 先週、長男を車の助手席に乗せて、私が運転していたのですが、突然聞いて来ました。「お父さん、人が死ぬ時でどんな時か分かる」そう聞かれたものですから、ビックリしました。私はびっくりして言葉を失ってしまい。どう答えたら良いのか考えてしまいました。そしたら息子が続けて言いました。「人が死ぬ時は、その人が完全に忘れられた時だよ」その言葉を聞いてちょっと感動しました。でも、お前一体どうした。何かあったのか?と聞きましたら、どうも今読んでいる漫画の中に出て来るセリフのようでした。この場面が気に入っていたようです。どんな漫画なのかは一切わかりません。でもそんな言葉を使っているのかと思うと、漫画も捨てたものではないなと思います。
 
 人が完全に忘れられてしまう時、その時人は死ぬ。色々な事を思います。私の認知症で入院している母親のことを思うと、既に病院に入院して一年以上になりますが、先日、医者から電話が来まして、食事をすることが分からなくなって来ていますと言われました。私たちはお腹が空けばというよりも、健康のためにも規則正しく食事をと願うわけですが、母親は食事をするという認識を忘れてしまっているようです。次第に、あるいは既に自分は自分であるという認識も忘れているかもしれません。母親的には既に死んでいるようなものかもしれません。でも、息子的には母親は生きていますから、これからも大切にしていきたいと願っていますけれど、人が忘れられていく、どのような場面においても大変悲しい状況ではないでしょうか。

 今日は新しい年度となって最初の礼拝でありますが、ヨハネによる福音書の1章の、最初を読んでいただきました。この福音書は伝統的には弟子のヨハネが記したと言われています。 
 ヨハネは、12人の弟子の中で一番若い弟子であったと言われていますし、ペトロやヤコブのように殉教したのではなく、長寿で長生きしたとも言われます。長寿であったヨハネの願いは、同じ時代に地上を生きた主イエスとの出来事、ガリラヤの地域で、ナザレの村で、ガリラヤ湖のほとりで、またエルサレムにおいて、福音を宣べ伝え、人々に愛を告げ知らせた主イエスの姿を忘れてはならない、何よりも十字架の死と復活の出来事を直接に体験した弟子の一人としても、その記憶している一つ一つの出来事を忘れないためであったと思います。
勿論、後の世代の信仰を受け継いでいく人々のためにも、この福音書は記されたでありましょう。

 この福音書を記すにあたり、福音書の目的、あるいはテーマの一つとして、主なる神は私たちを決して忘れない方であるということを記したかったのであろうと思います。

「初めに言があった」という書き出しで始まります。この書き出しは旧約聖書の創世記の最初を連想させる記し方です。意図してそのように記したのでしょう。創世記では「初めに神は天地を創造された。」と記されていまます。
 この天と地を造られた方こそ、私たちが信じるところの主なる神であり、その神と初めから言が共におられて、しかも言は神であったと続きます。天地創造なる神と共に、初めからおられた言、その言は、主イエス・キリストであるとヨハネは告げたかったのだろうと思います。非常に文学的なセンスのある書き出しです。
全てのものの造り無しなる神と共におられた言、その言の役割はなにかというと、4節からの御言葉になります。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
 
 言は命であり、命は光であり、光は暗闇の中で輝いているのです。暗闇とはなんでしょうか。暗闇とは聖書的な意味で申し上げますと私たちが生きている「この世」であると言えるでしょう。
 
 ロシアがウクライナに侵攻して既に一月以上になりました。ニュースで取り上げられる地図を見ますと、ウクライナの東の地域と南の地域は真っ赤になっていてロシアが占領した地域であることがわかります。そもそもなぜ戦争が起こったのか良く分からない、良く分からないにもかかわらず、町は爆撃され、破壊し尽くされているように見えます。今、一言で「町」と申し上げましたが、その町には何万人、何十万人という人々の命と生活と日常があったはずです。明日には戦争が起こるかもなどと、人々の誰もが考えていなかったでしょう。
 
 けれど、状況は悲惨を究め、人の命が取られ、血が流され、涙が流され、町は破壊されています。なぜ、そうなってしまったのか、私はテレビや報道の解説者のようには話は出来ません。でも、ハッキリしているのは、この世はあたかも闇の世だということです。戦争がはびこり、質の悪い感染症が世界を覆い、自然災害が頻繁に起こる時代が今の私たちの時代です。
 闇の力は、人と人との絆を分かち、怒りは対立を産みだし、対立は争いを生みだすのです。そのような力が闇の力です。しかし闇の世にあって、主なる神は命を照らす光として、また、暗闇を照らす光として御子イエス・キリストを誕生させられました。
 なぜ、誕生させてくださったのか、神は私たちを忘れないからです。誰が誰を忘れようとも、主なる神は私たちを決して忘れないし、誰も見捨てもこともしない、その印として神の光、主イエスはこの闇の世に誕生されました。ヨハネによる福音書1章14節にこう記されています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

 言が肉となられた方、それが主イエス・キリストです。成長された主イエスは、ナザレを中心として、ガリラヤ地方を巡り、町や村を巡り、12弟子と共に神の福音を宣べ伝えられました。目の見えない人の目を開き、ベトザタの池の病人を癒し、神の恵みを人々に示しました。福音書に記されている通り、神の光としての多くの働きをなさいました。けれど、闇は光を理解しませんでした。
 
 ヨハネによる福音書5章18節を開いてみましょう。(172頁)ベトザタの池の病人を癒された後の出来事です。その日が安息日であったために人々に争いが起こり、そして18節の御言葉です。「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自分を神と等しい者とされたからである。」
 
もう一個所、19章7節(206頁)主イエスが死刑の判決を受ける場面です。「ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
 主イエスを死刑にするために、ピラトのもとに連れて来た人々は、この男は死罪に当たると言うのです。神の子と自称したからだと告げています。暗闇は光を理解しなかったのです。
 暗闇の一つの頂点は、ユダの裏切りの場面ではないでしょうか。裏切ろうとするユダに対して主はこう話されました。「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」、「すると、ユダはパン切れを受け取ると、直ぐ出て行った。夜であった。」と記されています。夜であった。それはこの世の暗闇を示す言葉です。
 
 私たちは今日、年度の最初の礼拝でありますけれども、受難節の時期を過ごしています。来週は「棕梠の主日」、受難週となります。御子イエスがこの世の暗闇の力によって捕らえられ、裁判にかけられ、そして十字架刑とされる。それは人の命が奪われ、血が流され、涙が流される時、暗闇の勝利であり、悪魔の勝利であるかのようです。
 
 けれど、「光は暗闇の中で輝き続けました」三日の後に、暗闇から光へと変わる、週の初めの日の朝早く、主イエスは復活されました。弟子たちの間に現れ、多くの人々の前に現れ、光は暗闇に勝利した姿を示されました。それは「初めに言があって、神と共におられて、神そのものであった」方が、どんな時も私たちをけっして忘れないよ、忘れていないよと告げてくださる神の復活の祝福と勝利の印でありました。

 人が闇に飲み込まれる時、それは神から離れる時です。神から離れると、人からも離れ、そして、自分の感情のまま、人の命を押しつぶそうとさえするのかもしれません。そのような暗闇があるのだろうと思います。
 けれど、だから忘れてならないのは、今、光と暗闇の厳しい対決がある、ということではありません。「光は暗闇の中で輝き、暗闇は光を理解しなかった」のです。それは対決ではありません。圧倒的に「光」が勝利されるのです。それが復活の主イエスの姿でもあります。
 この方にこそ、願い、この方にこそ、祈り、命の主なるイエス、光の源なるイエスを見つめて、この方を信じて私たちは歩んで参りましょう。この方から離れずに光の中を進んで参りましょう。

お祈りします。