日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

平和の福音を告げていく

2022-03-21 15:20:05 | 礼拝説教
【詩編149編1~5節】
【エフェソの信徒への手紙6章10~20節】

 私たちは今、2022年3月を過ごしています。私たちの国ではこの時期は年度末で慌ただしい時期でもありますが、しかしまた春の頼りである桜の季節となり、新しく希望をもって歩もうとする時でもあります。先週の金曜日にはドレーパー記念幼稚園の卒業式が行われました。今日の礼拝堂の花はその時の花で飾られました。子どもたちが明るい未来を目指して卒業していく、その姿を見守った花は、今、私たちと共に、主なる神を賛美するために、この場に飾られています。豊かな用いられ方だと思います。
 毎週の事ですけれど、講壇に飾られる花はいつでも、私たちに平安と安らぎ癒しを与えてくれています。

 けれどまた、この年度末、私たちが生きる社会は実に不安定な状況を過ごしております。日本においてはコロナ禍の蔓延防止法も明日には解除となり、明るい見通しとなりましたが、感染者の数はそれほど減っているとも思われません。世界的にはまだまだ感染の脅威は衰えていません。
また、先週水曜日の夜は宮城、福島沖にて大きな地震がありました。この地域も案外強く揺れて不安を感じましたが、福島あたりは多くの被害が出ていると報道されています。金曜日の深夜も岩手県沖で大きな地震がありました。
 
 更には、何より2月末から、ロシアによるウクライナ侵攻、既に一か月程になりますけれど、状況は依然として余談を赦さない状況です。ウクライナのゼレンスキー大統領のもと、ウクライナの人々が一歩も引かずに、ロシアに対抗しています。今の時代は、そのような詳しい情報がSNS(social networking service) を通じて時間的な差異が無く入ってくるようになりました。一部では、ゼレンスキー大統領が引かないから戦争が長引き、被害者も多く出ている、だから早くに引いた方が良いといった意見も見られます。
けれど、もし引いたら、今よりもっと過酷で悲しい状況が待っていることをウクライナの人々は肌感覚として感じているのだろうと思います。私はこの戦争について、解説者のような話は出来ませんけれど、今、考えていることの一つは、日本人はウクライナの人々程に国を愛する心、愛国心を持っているのだろうか、日本の首相は、日本が侵略された時に、一歩も引かないと言うのだろうか、私たちにとって愛国心とはどういう意味を持つのだろうか、今、改めて考えさせられています。

 愛国心についてはこれ以上申し上げませんが、私たちが生きる社会において、コロナ感染が続き、地震が頻繁に発生し、考えてもいなかった戦争が始まる中で、私たちは実に様々な情報にさらされて過ごしています。そして、その情報により、私たちの心は乱され、不安が掻き立てられ、ストレスフルな社会を生きている現実があると思います。
ロシア国内は情報統制が敷かれ、ロシアは戦争をしていない、ウクライナで虐げられている親ロシア派の人々を助けるための軍事作戦を行っているだけで、民間人を攻撃などしていないと伝えているようです。けれど、ウクライナの現場から提供される情報は、病院や学校に爆弾が落ち、原子力発電所が攻撃され、子どもや病人が死んでいく悲惨さです。なぜ戦争が始まったのか、その理由も良く分からず、更になぜ、平気でウソをつけるのか、怒りと悲しみが心を覆います。

 ここ数年、コロナ感染についても様々な情報が飛び交いました。コロナはただの風邪程度のものと言う人から、コロナ感染が恐ろしくて一歩も外に出られない人もいます。きっとどれか一つが完全に正しく、他は全部間違っているわけではないでしょう。でも、コロナに限るわけでもなく、今私たちは、何がウソで何が本当なのか良くわからないまま、多くの情報によって影響を受け、混乱する社会に生きているのだろうと思います。

 そのような社会にあって、主なる神を信じる私たちはどのように生きていくのか、どのように生きていこうとするのか、問われているのではないでしょうか。
 今日は、エフェソの信徒への手紙6章から読んでいただきました。「悪と戦え」というタイトルが付けられています。
 10節から読みますとこうあります。「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりまさい。悪魔の策略に対抗して立つことが出来るように、神の武具を身に着けなさい」
 
 悪魔の策略に対抗せよ、とあります。キリストを信じる私たちの敵は悪魔であり、この世は悪魔の策略だらけだと言うのです。悪魔の特徴は平気でウソをつくこと。ウソをついて人をダメにする情報を流すことです。
 
 主なる神がこの世界を創造され、想像の六日目に人を造られました。アダムとエバが人類最初の人間です。二人はエデンの園において主なる神と共に平和に過ごしていました。
 けれど、そこに蛇の姿をした悪魔が現れました。蛇は野の生き物の中でもっとも賢く造られていました。エバを唆し、園の中央にある、食べてはいけないと言われていた木の実を食べるようにとエバに話しかけました。食べたほうが良いと話しました。なぜなら食べても死ぬことは無いし、それどころか神様のようになれると告げたのです。
 見た目にも美味しそうで、エバとアダムは木の実を食べました。その結果、人は死ぬ運命となりました。蛇のウソを信じて神を裏切り、神の前に出られなくなりました。つまり、霊的な死はすぐに訪れ、そして人は肉体的な死を逃れることは出来なくなりました。そこに人の根源的な罪があるのだと言われます。言い訳をするとすれば悪魔の策略にはめられてしまった。悪いのは悪魔だという事も出来るでしょう。でも、ウソを信じて、神を信じなかった人間の罪が軽くなることはありません。
 

 エフェソの信徒への手紙は、悪魔の策略に対抗せよと記しました。それは、聖書の時代においても、現代を生きる私たちのこの世界においても同じであろうと思います。
ここで、悪魔とは誰か、何者であるのかを定義することは出来ません。悪魔は、私たちの心の中で芽生える邪悪な心であると考えることも出来るでしょう。けれど、それだけではないとも思います。目に見えない幽霊がいると言う人のように、悪魔はいると考えることも出来るでしょう。けれど、それだけでもないと思います。今言えることは、悪魔は人をダメにする力があり、主なる神から人を引き離そうとする力を持っているということです。

 その為にどうするのか、エフェソ書は「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」と記しました。神の武具とは何か、14節にあります。「立って、真理を帯として腰に閉め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。」16節には「なお、その上に、信仰を盾として取りなさい」と記されています。神の武具とは、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音、そして信仰を盾とすることです。
 
 主イエス・キリストは、ヨハネによる福音書14章でこう話しました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」主イエスは自ら、自分は真理だと告げておられます。
 
 真理とは誰にとっても確かなものであり、何者にも束縛されない、本当の自由を与えるものでしょう。様々な情報の中で、何が本物か分からず、翻弄される私たちです。 
嵐の中、舟は波をかぶり、水浸しとなって慌てふためいた弟子たちが思わず「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えたその姿は私たちの姿でもあります。悪魔は私たちの世にあって、様々な方法、戦略をもって私たちに迫って来ます。

 神など信じても何も変わりはしない。生きるにはなによりも富が大切だよ、負けるのではなく、勝たなければいけないよ。悪魔の様々な戦略は、私たちの日常生活に、まるでボディブローのように効いてくるのです。この時期、そのようなボディブローを受け続けた方々から教会に電話があります。3月、4月、5月、この時期は一年の中でもとても多いのです。聞く言葉はそれぞれの状況の如何にかかわらず、「希望が無い」という言葉です。

 人から見放されたと感じ、人を信用出来ず、心の底に落ち込んで行って、もはや希望が無いと感じる、神を信じる者であるとしても、そう感じる方々が少なくありません。
なぜか、「神などいない」といつのまにか思い込まされていくからです。それこそが悪魔が最も喜ぶ瞬間ではないでしょうか。そのような策略に陥らないようにしなければなりません。

 どんな状況にあろうとも、主が我らと共に、我と共におられる。誰が見捨てるとしても、主イエスは私の人生を司り、この方によって平和が与えられ、命に輝きを与え、明日への希望を見いだし、暗闇から光へ、絶望から希望へ、その道筋が整えられることを忘れないように、真理の帯をきりりと締めて私たちは過ごしてまいりましょう。

 お祈りします。

命の根源である方

2022-03-13 13:02:59 | 礼拝説教
【詩編148編1~14節】
【ローマの信徒への手紙8章38~39節】


 詩編148編を読んでいただきました。詩編は全部で150編記されていますが、146編から150編までの五つの詩編は「ハレルヤ詩編」と呼ばれる詩編、主を賛美する詩編です。ハレルヤで始まり、ハレルヤで終わります。特に148編は、その全てが「主を賛美せよ。」と主なる神を讃え続ける詩編であります。

 ハレルヤ、天において、主を賛美せよ、御使いらよ、こぞって主を賛美せよ。主の万軍よ、こぞって主を賛美せよ。日よ、月よ、輝く星よ、主を賛美せよ。7節からも、地において、海において、火よ、雹よ、雪よ、霧よ、嵐よ、11節は「地上の王よ、諸国の民よ 君主よ、地上の支配者よ。」と記されています。12節は「若者よ、おとめよ 老人よ、幼子よ」と記され、つまりは全ての神に造られたものよ、主を賛美せよということでしょう。この姿は神に造られ、神に命を与えられたものの正しい姿なのだということでしょう。

 なぜ、主を賛美しなければならないのか。主は私たちの「命の根源である方」だからです。私たちの命の根源がどこにあるのか、今日は、その事に思いを馳せられたらと思っています。

 皆様もご承知のように、先月の2月24日に突然ロシアがウクライナに侵攻し、私たちが考えてもいなかった戦争が始まりました。ウクライナの人々も考えてもいなかったでしょうし、それはロシアの人々も同じことかもしれません。
 実際のところ、なぜ戦争が始まったのか、色々と取り沙汰されていますが、本当のところは良く分かりません。一日でも早く、事態が収束し、平和が与えられますようにと願うばかりです。

 この戦争で、ロシアが核を使用するのではないかとさえ言われます。そのような脅威が現実に迫っているようにも思います。しかし、そうなれば世界中に被害が広がり、大混乱となるでしょう。それは明らかですから、流石に核の使用はないだろうと思われますけれど、それも確実ではありません。

 分かっていることは、ドイツはロシアのウクライナ侵攻を見て、これまでの考え方を変えて、日本円で凡そ13兆円を投じて軍事力強化する方針を打ち出しましたし、欧州各国が軍事力増強の方向に向かうようです。日本でも、安倍元首相が、日本もアメリカの核をシェアしたほうが良い、そういう議論をすべきだろうと堂々と話しをしたとニュースに流れました。政府はすぐにこの考えを否定しましたが、もし、アメリカの核をシェアするとなったら、今でも殆どそんな感じですが、益々日本はアメリカの属国となる覚悟が必要になるかもしれません。
 それぞれの国が自分達の国を守るために、それぞれに軍備拡張して、軍事力を強化して、互いがにらみ合いながらやっと均衡が保たれたとしても、それが平和な社会と言えるのでしょうか。いざとなった時に頼るべき大切なのは、やはり武器や軍事力だと思うとしたら、私たちは私たちの「命の根源」を見失ってしまうのではないでしょうか。

 ロシアがウクライナに侵攻したのは、社会主義社会と民主主義社会の戦いが背景にあるとも言われます。民主主義社会は自由が保障されています。言論の自由、教育の自由、職業選択の自由、信教の自由、けれど、民主主義も弱点はあります。その一つは、選挙制度からもわかりますように基本的には過半数、あるいは多数決で決められていきます。自由がある代わりに勝者と敗者、富む者と貧しい者が現れる。特にアメリカなどでは少数の人々が富を独占し圧倒的に富んでいることを私たちは知っています。多くの人々は貧しい生活を強いられ、人種差別問題もそのような社会構造に根ざしていると私は思います。

 だから、皆が平等に生きたほうが幸せではないかと考えた人々が、社会主義の国を作りました。皆が同じ労働、同じ給料、同じ生活、同じ思想、自由はないけれど、国が全てを管理して、それで皆が幸せに生きられるはずだと考えたのです。けれど、ソ連が崩壊したことからも分かるように、次第に社会に大きな歪が出来て来ます。働いても働かなくても同じ給料ですから、人々は次第に頑張らなくなり、競争する気も、発展させる気も起こらない社会となっていった。昔、ロシアに旅行に行った友人から聞いた話ですけれど、店に入って物を買うのに凄く苦労したそうです。売るかどうかは店側が決めるからだそうです。売れても売れなくて良いからです。そういう社会が出来上がり、国の指導者は人々を働かすために強い権力を持ち、独裁的になっていく、そんな指導者に脅かされながらの社会の下では、益々国が栄えなくなり、国が崩壊していく、今は完全な社会主義の国家は世界で数える程しかありません。

 だからやはり民主主義国家が良いのではないか、自由が保障され、自分達が生きていきたいように生きていける。けれど、自分が生きたいように生きていける社会が考える幸せは「自分の幸せ」であり「自分が願う幸せ」ではないですか。自分の願いが適うことこそ、と思うところで、自分の「命の根源」がどこにあるのかを見失っているとしたら、そこに人としての真の幸いが与えられるのでしょうか。

 私たちは、主なる神を信じる信仰者として、私たちの真の「命の根源」を知る者としての生き方があると思います。今日は新約聖書からローマの信徒への手紙を読んでいただきました。ローマ書8章38節、39節を読んでいただきましたが、(286頁)全体としては31節から39節が一つの区切りとなっています。この箇所は、ローマ書の中にあってこの手紙を記したパウロの信仰確信と神への賛美が記されている箇所です。説明というより自らの信仰告白だと言っても良い箇所です。

 その記し方に特徴があって、疑問文のような文体が続くのですけれど、問いかけているわけではなく、修辞的疑問文と言って強い確信を現わすように記されていることがわかります。
31節「もし、神がわたしたちの味方であるならば、誰がわたしたちに敵対出来ますか」33節「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。」34節「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。」35節「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」

 質問しているのではなく、いいや、違う、誰とも敵対せず、誰も訴えず、誰も罪に定めない。誰もキリストの愛からわたしたちを引き離すことが出来ない。それがパウロが伝えようとする確信です。そしてその確信が頂点に達する思いで記したのが38節です。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことは出来ないのです。」

 ここにパウロの確信が示されます。それはイエスの愛に集中しようとする確信です。
では、主イエス・キリストが示された愛とは何か。もう一度読むことはしませんけれど、31節以下でパウロが記した言葉に、「味方」とか「敵対」とか、「訴え」とか、「罪に定める」という言葉が続きます。これらの言葉は特に裁判所で使われる言葉でもあるようです。

 パウロが頭の中で思い巡らしている場面は、恐らく裁判です。裁判長は主なる神で、被告はパウロであり、また、私たちでもあります。誰かが神の前に私を訴えたのです。訴えられた私たちは神の前でどうやって弁明するのでしょうか。神様、私はこんな親切をしました。こんな人助けをしました。社会正義を訴え続けました。私は毎週礼拝を守り、主の前に祈り続けて生きています。と弁明するのでしょうか。それはあたかも、神殿の前で、自らを誇りながら、神様、私はあの徴税人のようなものでないことを感謝します。と祈ったファリサイ派のような弁明のありかたでしょう。義とされて帰ったのは、「神様、罪人のわたしをお許しください」と祈った徴税人であったと、主イエスは教えられましたが、更に大切な点は、ではファリサイ派の祈りは、ファリサイ派の人自身は義とされないのでしょうか。

 神を前にした裁判において、自分が自分で義とすることは出来ないでしょう。

 けれど、たった一つ義とされる術があるのです。それは、弁護人が主イエス・キリストだということです。
 主イエスは、徹底的に神の御前で私たちを義として下る、なぜか「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座って、わたしたちのために執り成してくださるのです。」とパウロは記しました。主イエスの執り成しは、主の十字架と復活が証ししているのだと告げています。御子イエスの命をかけた十字架の執り成し、それが神の愛の姿です。
そして、その「愛」の正体は「赦し」です。御子は徹底的に私たちを「赦してくださっている」私たちの全てをです。私たちが何かをしたからではなく、神の愛によって、無条件、 
 
 無尽蔵に赦してくださっているのです。
 この赦しを知らなければ、人は救われません。救いを得られず、人を裁き、人を傷付け、自分を裁き、自分を傷付け、他人も自分も不幸にするのです。

 パウロ自身も回心する前はクリスチャンを捕らえるために奮闘していた時がありました。けれど、その全てが赦されたと知った時に、パウロは変わりました。主イエスの十字架は、全てのものを赦す力であり、全てのものの命を生かす力なのです。なぜか、この方こそが私たちの「命の根源」だからです。
この方の愛に包まれ、救いの確信を得て、私たちは今日も、明日も、どんな状況にあっても希望を持って過ごしてまいりましょう。
 
 お祈りします。



主を畏れる人として

2022-03-06 12:25:28 | 礼拝説教
【詩編147編1~11節】
【ルカによる福音書7章1~10節】

 イタリアのミラノに長くヨーロッパの日本人キリスト者のために宣教師として派遣され働かれている内村伸之牧師がおります。内村先生は車に乗って、電車に乗って、ヨーロッパ中を駆け巡りながら宣教活動をされておられる、私がとても尊敬している方です。
 先日、内村先生がネットで説教をされたビデオを見る機会が与えられました。主の祈りについて話しておられました。

 私たちの教会では、開会讃美の後に主の祈りを献げます。「天にまします我らの父よ、願わくは御名が崇められますように、御国が来ますように」と祈ります。この祈りは特別な祈りで、弟子の一人が主イエスに祈り方を教えて下さいと願った時このように祈りなさいと教えてくださった祈りだからです。主イエスの心の思いに添った祈りであるからです。大切な祈りです。
 
 けれど、どこかで主の祈りを理解しきれないというか、自分の思う祈り、自分が願う祈りと合致してこないように感じているのではないかと話された。
 なぜそうなのか、内村先生はこう話されました。「主の祈りは、自由が大好きで、自己中心的な私たちからは決して自然に出てこない祈りで、私の願いから出る祈りではなく、イエス・キリストの心から出ている祈りだからです。」私はこの言葉に心動かされました。主の祈りは、イエス・キリストの心から出ている祈り、「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」と祈り続けることだと主が教えられている。その意味は深く、計り知れないと思います。

 今日の9時から行われたファミリー礼拝で読まれた聖書箇所はマルコによる福音書1章14節です。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えられて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」この箇所が読まれました。
主イエスが福音宣教するにあたり、その初めから一貫しているのは、「神の国」の訪れです。「御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく 地にもなさせたまえ。」それは、天の国の栄光、天の国の平和が、この地上にも与えられますように」という祈り、願いでもあります。
 
 私たちは既に2年以上に亘り、コロナ禍、世界中でパンデミックと呼ばれる時を過ごしています。世界が大混乱に陥り、感染によって多くの人々が命を奪われましたし、今もそれが続いています。少し極端かもしれませんが人類存亡の危機に瀕しているとも言えるでしょう。こんなことが起こるとはと信じられない状況を過ごしています。けれど、あえて良かったと思える点があるとすれば、このコロナ禍にあって、私たちは私たちの政治的、経済的、思想的主張を越えて、民族や国家を越えてコロナに立ち向かわなければならないということを学んだと思います。コロナ禍が終息するには、まだ暫くの間、時間が必要でしょう。けれど必ずどの国の人々も、手と手を取り合って良かったねと、大変だったねと、笑顔で笑い合える、そういう日がやってくると希望をもって医療も、政治も、社会経済もそのような出口に向かって進んでいたはずです。
このことを通しても「神の国は近づいた」と言われる主イエスの御言葉に近づくことが出来るのではないかと希望がありましたし、今もそうであると私は信じます。

 けれど、皆さんがご存知のように、世界は一変しました。「御国を来たらさせたまえ」という祈りは主イエスが教えて下さった祈りであると同時に、神を神とし、救い主として受け入れ、神を崇める者の祈りです。自らを神のように振舞い、人の命の生殺与奪(せいさつよだつ)の権利があるとさえ思っているであろう、人を殺し自分の好む国、神を神としない国を作り上げようとする支配者によってこの世界は変えられました。
詩編147編10節、11節にはこうあります。「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人 主の慈しみを待ち望む人」

 馬の勇ましさとは、人が造り上げた人を殺す為、社会を破壊する為の武器や兵器であり、人の足の速さとは、自らを誇り、自らを王とするための謀を巡らす様子と考えても良いでしょう。けれど、主が望まれるのはそのような姿ではありません。
主が望まれるのは主を畏れる人 主の慈しみを待ち望む人、御国の訪れを待ち望み、神を神として生きていく人々の姿です。

 数年前に私は横浜にある「横浜ハリストス正教会」を訪ねたことがありました。一般にはロシア正教と呼ばれる教会です。そこでロシア正教について少し話を伺いました。1800年代半ば、江戸から明治となり、アメリカを中心した欧米の宣教師が日本にやって来て、キリスト教、特にプロテスタント教会の歴史がスタートするわけですが、ロシア正教も1800年代後半には日本に宣教師を送り宣教活動を開始します。特にニコライ宣教師の名前は私たちもよく知るところです。お茶の水のニコライ堂も有名です。
けれど、欧米の宣教師の働きと違って、ロシアからの宣教活動は1900年代となって暫くして殆ど止まることになります。その理由は1900年代初頭のロシア革命にあったと伺いました。
 ロシア革命によりロシアというより、ソビエトの教会は弾圧され、人々は神への信仰を捨てるように、共産主義を受け入れるようにと迫られました。先ほどの内村先生は、その当時特にウクライナの信仰者に対する迫害は強かったと告げていました。ウクライナ人は、自分達の信仰を大切にして、強い抵抗を示したからでしょう。それ故にソビエト崩壊により、一いち早く独立したのはウクライナであったとも告げていました。

 主イエスが宣べ伝えた「神の国」とこの世の支配者が作ろうとする国の間には常に戦いがあります。この世の支配者は、時には弾圧でもって、時には迫害をもって、時には武器を持って支配者の思いに従わない者の命を取りにやって来ることがあるからです。私たちは、今、それはいつでも本当に起り得るのだと改めて思わされています。だから教会もこの世に対して立ち上がらなければならない時があるかもしれません。
 しかし、私たちは「主を畏れる人」として、主の慈しみを待ち望む人」として生きること、それが私たちの立ち上がり方であろうと思います。

 先ほど、ルカによる福音書7章からを読んでいただきました。「百人隊長の僕をいやす」という箇所です。百人隊長はイスラエルが敵対するローマの兵隊です。百人の兵隊の長、責任を持つ者です。その彼が主イエスのもとにやって来て、病気で死にそうになっている部下を助けてくださるようにと願った話です。この人はローマの兵隊でありながらも、ユダヤ人を助け、ユダヤ人を愛し、ユダヤの礼拝堂建設にも深く関わった人であることも紹介されています。主イエスは彼の願いを受け入れ、部下のもとへ向かったところ、百人隊長は私のような者のところに来るまでには及びません。ひと言おっしゃってくださるだけで僕は治るでしょうと使いを出しました。
主はその言葉に驚きイスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と話し、使いが帰ってみると部下は元気になっていました。
百人隊長は特にユダヤ人に対して親切であったから、主は部下を癒された訳ではないでしょう。百人隊長は主イエスに願ったのです。主イエスならこの困難を乗り越えさせてくださると信じたのです。主イエスならこの悲しみから解放してくださると信じたのです。

 これから、この戦争がどうなっていくのか、実際のところ「御国が来ますように」と祈るしかありません。けれど、今回の戦争でよりはっきり理解したことは、命を取り合う戦争は全ての人が悲しみ、涙するしかないということです。ウクライナは勿論、ロシアの兵隊も、ロシアの国民も、ヨーロッパも、アメリカも、私たちの国も、全ての国が悲しみ、大人も、子どもも涙しています。

 神の御国は、自らを神とする支配者の力によっては絶対に完成しないし、人の造り上げる武器や、人の力や、人の計画によっても完成はしません。神の御国は、この方ならと願い、この方ならと信じることが出来る御子イエスの働きによってこそ完成させられるものでありましょう。
私たちはこの方に希望をつないでいきたいと願います。主を畏れつつ、あなたの御国が来ますようにと祈り、求めながら全ての人々が平和に包まれるように祈り続けて参りましょう。 お祈りします。